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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

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第48話 塩おにぎり



 少し離れた場所で、その光景を見ていた悠真は、小さく息を吐いた。


 助かった。


 本当に助かったんだ。


 黒牙の廃工場へ向かう前は、生きて帰れる保証などどこにもなかった。


 蓮司との戦い。


 親熊の襲来。


 自衛隊との遭遇。


 その全てを乗り越え、今こうして家へ帰ってきた。


 それでも、どこか現実味がない。


「悠真。」


 名前を呼ばれ、顔を上げる。


 真由美だった。


 美咲と彩乃を抱き締めた後、今度はゆっくりと息子の前へ歩いてくる。


 何も言わず、その顔を見つめた。


 服には乾いた血。


 袖は破れ、泥で汚れている。


 頬には小さな擦り傷。


 そして、いつもと違う目。


 何かを背負って帰ってきた目だった。


「その血……。」


 真由美が静かに尋ねる。


 悠真は自分の服を見下ろした。


「俺のじゃない。」


 短く答える。


 それ以上は言えなかった。


 人を殴った。


 金属バットで。


 助けるためだったとはいえ、その感触はまだ両手に残っている。


 真由美は、それ以上聞かなかった。


 代わりに、一歩近付き、息子を抱き締める。


「あなたも帰ってきてくれてよかった。」


 悠真の身体から、ゆっくりと力が抜けていく。


 どれだけ気を張っていたのか、自分でも分からなかった。


 胸の奥が熱くなる。


「……ただいま。」


 その一言を口にした瞬間。


 ようやく、本当に帰ってきたのだと実感した。


「おかえり。」


 真由美は笑いながら涙を流していた。



 恒一も由紀の前へ歩いていく。


 由紀は息子の姿を見るなり顔色を変えた。


「恒一!」


 左腕は包帯で固定され、歩く姿にも痛々しさが残る。


「大丈夫だから。」


 恒一は苦笑した。


「大丈夫じゃないでしょう!」


 由紀が思わず声を荒げる。


「そんな身体で、また無茶して!」


「……ごめん。」


 普段なら反論する恒一も、この時ばかりは素直だった。


 由紀は大きく息を吐き、息子の胸へ額を預ける。


「生きててくれて、本当によかった。」


「心配かけた。」


「本当に。」


 そのやり取りを見て、美咲は涙を拭いながら笑った。


 いつもの朝倉家だった。



「みんな、お腹空いてるでしょう?」


 由紀が少し照れくさそうに声を掛けた。


 玄関先へ置かれていた風呂敷を持ち上げる。


「朝から作ってたの。」


 ゆっくりと包みを開く。


 中には塩おにぎりが並んでいた。


 形は少し不揃い。


 丸いものもあれば、少し崩れているものもある。


 時間が経ち、少し固くなっている。


 それでも、一つひとつ丁寧に握られていることが伝わってきた。


「みんなが帰ってきたら食べてもらおうと思って。」


 その一言に、誰もすぐには手を伸ばせなかった。


 由紀は、帰ってくると信じていたのだ。


 朝からずっと。


 美咲も。


 彩乃も。


 悠真たちも。


 帰ってくると。


「冷めちゃったけどね。」


 由紀が笑う。


 その笑顔に、美咲が堪えていた涙を零した。


「お母さん……。」


「さ、食べよう。」


 由紀が一つ、美咲へ渡す。


 美咲は両手で受け取り、小さく頷いた。


 一口。


 塩だけの味。


 具は入っていない。


 それでも。


「……おいしい。」


 涙が止まらなかった。


 由紀は優しく笑う。


「塩しか入ってないわよ。」


「ううん。」


 美咲は首を振る。


「こんなに美味しいおにぎり、初めて。」


 隣で彩乃も一口かじる。


 口いっぱいに広がる米の甘さ。


 昨日まで口にしていた乾パンとは比べものにならない。


「昨日食べた乾パンより百倍おいしい。」


 その一言で、その場に小さな笑いが広がった。


「比べる相手が乾パンなの?」


 悠真が苦笑する。


「だって本当だもん。」


 彩乃も笑う。


 張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ和らいだ。



 翔太が、おずおずと悠真へ近付く。


「悠真兄ちゃん。」


「ん?」


 翔太の視線は、悠真が持ち帰った金属バットへ向いていた。


 血が付いている。


 傷も増えている。


「あれ……使った?」


「……うん。」


「美咲ちゃんと彩乃ちゃんを助ける時に。」


 翔太は静かに頷いた。


「じゃあ、それ。」


「悠真兄ちゃんが持ってて。」


「え?」


「僕より、悠真兄ちゃんの方が必要だから。」


 悠真は少しだけ困ったように笑った。


「ありがとう。」


「でも。」


 バットを見つめる。


「できれば、もう使いたくないな。」


 翔太も頷いた。


「僕も。」


 二人はそれ以上何も言わなかった。


 その沈黙だけで十分だった。



 夕日が町を赤く染め始める。


 壊れた塀。


 止まったままの信号。


 遠くでは自衛隊の車両が走る音が聞こえる。


 世界は何も元に戻っていない。


 停電も続いている。


 水も止まったまま。


 食料も決して多くない。


 それでも。


 玄関先では家族全員が塩おにぎりを食べながら笑っていた。


 その光景を見つめながら、悠真は静かに思う。


 守れた。


 美咲も。


 彩乃も。


 みんな、生きて帰ってきた。


 人を殴ったこと。


 蓮司が熊に喰われた光景。


 忘れることはできないだろう。


 きっと一生。


 それでも。


 あの時、自分は迷わず廃工場へ向かった。


 後悔だけはしていない。


 夜風が静かに吹き抜ける。


 どこからか、美咲と彩乃の笑い声が聞こえた。


 悠真はその声に耳を澄ませ、小さく微笑む。


 世界は、まだ壊れ続けている。


 明日になれば、新しい困難が待っているだろう。


 それでも今夜だけは。


 藤堂家には、誰一人欠けることなく全員が帰ってきた。


 それだけで十分だった。

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