第46話 制圧
最初の銃声は、これまで高橋健吾が聞いてきた小銃の音とは明らかに違っていた。
腹の底まで響く、重い破裂音。
廃工場の割れた窓ガラスが震え、周囲に積もっていた埃が一斉に舞い上がる。
対魔獣班が展開した大口径ライフル。
その銃口から放たれた弾丸が、工場中央に立つ熊型魔獣の肩へ突き刺さった。
黒い毛皮が弾ける。
肉片と血が飛んだ。
初めて。
巨大な熊の身体が、目に見えて揺れた。
「命中!」
観測手の声。
「右肩部に損傷!」
「効いてるぞ!」
誰かが叫ぶ。
だが、高橋は銃口を下げなかった。
巨大猪との戦闘で、嫌というほど思い知っている。
傷を与えたことと。
動きを止めたことは。
まったく別の話だった。
「撃ち続けろ!」
「目標を工場内から出すな!」
指揮官の命令が飛ぶ。
再び、重い銃声。
一発。
二発。
三発。
熊型魔獣の胸部と肩へ大口径弾が撃ち込まれる。
そのたびに黒い毛が舞い、血が飛び散る。
通常の野生動物なら、一発目で致命傷になっている。
急所を外していたとしても、立っていることなどできない。
だが。
熊型魔獣は倒れなかった。
むしろ。
ゆっくりと頭を上げた。
赤い目が、自衛隊員たちを捉える。
「グォォォォォォッ!」
空気そのものが震えた。
耳を塞いでも意味がないほどの咆哮。
高橋の胸部に、目に見えない衝撃が叩きつけられる。
工場内に残っていた黒牙の男たちが、頭を抱えて床へ伏せた。
一人は完全に腰を抜かし、立ち上がることすらできていない。
熊型魔獣が前脚を踏み出す。
コンクリートの床が砕けた。
「目標、前進!」
「正面へ来るぞ!」
「普通科、後退!」
高橋たちは、事前に定められていた位置まで下がった。
逃げるためではない。
熊を、火力を集中できる射線へ誘導するためだ。
工場内部。
左右には厚い壁と大型機械。
正面には自衛隊の部隊。
民間人が避難した南側とは反対方向。
このまま真っ直ぐ来れば、背後を気にせず撃てる。
それでも。
もし熊が途中で進路を変えれば。
南側へ逃げた民間人へ向かえば。
作戦は崩れる。
「高橋三曹。」
隣で村上義明一等陸曹が小銃を構えていた。
以前、巨大猪を目の前にしても冷静だった男。
猟友会に所属し、野生動物の習性を知る男。
その村上の声にも、僅かな緊張が混じっている。
「何ですか。」
「あいつ、怒ってる。」
「撃たれたからですか。」
「それもある。」
村上は熊から視線を外さない。
「だが、それだけじゃない。」
「子を奪われた親の動きに似てる。」
高橋は村上を見そうになった。
「子供?」
「断定はできん。」
「ただ、腹を空かせた熊でも、縄張りを守る熊でもない。」
「あいつは何かを探してここまで来た。」
「そして、目的を果たした。」
蓮司という男。
自衛隊が到着する直前、巨大熊に食われたと生存者が証言している。
魔獣の肉を食べた。
身体能力が異常に向上した。
熊型魔獣が、その男だけを追っていた。
理解できない話ばかりだ。
だが、魔獣そのものが既存の常識から外れた存在なのだ。
今さら、あり得ないと切り捨てることはできない。
「来るぞ!」
熊型魔獣が走り出した。
◇
その巨体からは想像できない加速だった。
一歩。
床が砕ける。
二歩。
放置されていた大型機械が弾き飛ばされる。
三歩目には、巨大な黒い塊が工場の出口へ迫っていた。
「重機関銃、射撃開始!」
連続する轟音。
車載された十二・七ミリ重機関銃が火を噴く。
銃身の先から伸びる火炎。
排出される薬莢。
大口径弾が熊型魔獣の正面へ撃ち込まれる。
胸。
前脚。
首。
着弾のたび、血と毛皮が飛ぶ。
熊の速度が落ちた。
だが、止まらない。
「命中継続!」
「まだ来るぞ!」
「射撃を止めるな!」
高橋も小銃の引き金を引いた。
自分の弾丸が決定打にならないことは分かっている。
それでも撃つ。
眼。
鼻。
口腔。
少しでも脆い場所。
少しでも熊の意識を正面へ固定するために。
隣の隊員たちも同じだった。
無数の銃声。
硝煙。
怒号。
巨大な熊が、そのすべてを押し退けて迫ってくる。
「化け物め……!」
誰かが呟いた。
高橋も同じことを思っていた。
だが、口にはしなかった。
自衛隊員が恐怖を口にすれば。
近くで避難を待つ民間人たちは、もっと恐怖を感じる。
今は。
自分たちが止めなければならない。
「重機関銃、弾倉交換!」
「対魔獣ライフル、撃て!」
重い単発音。
弾丸が熊型魔獣の左前脚へ命中する。
関節付近。
巨大な身体が傾いた。
「効いた!」
「左前脚を損傷!」
熊の足が一瞬だけ止まる。
前脚を地面へつこうとするが、支えきれない。
巨体が床へ沈む。
廃工場が揺れた。
「今だ!」
「頭部へ集中!」
重機関銃が再び火を噴く。
大口径ライフル。
小銃。
あらゆる火力が、熊の頭部へ集中する。
赤い目の片方が弾けた。
熊が首を振る。
怒り狂った前脚が、近くの壁を薙いだ。
コンクリートと鉄骨が砕け、破片が自衛隊員たちへ飛んでくる。
「伏せろ!」
高橋は地面へ身体を投げ出した。
頭上を鉄片が飛ぶ。
背後の車両へぶつかり、金属音を響かせた。
隣にいた隊員が肩を押さえる。
「負傷!」
「衛生員!」
「まだ射線内だ! 引っ張れ!」
高橋と村上が負傷した隊員の装具を掴む。
熊から目を離せない。
地面を這うように後方へ移動する。
衛生員が引き継ぐ。
「破片創です!」
「意識あり!」
「後送しろ!」
その時。
重機関銃の音が止まった。
「どうした!」
「給弾不良!」
「復旧急げ!」
最悪の瞬間だった。
左前脚を負傷した熊型魔獣が、残った三本の脚で身体を起こす。
片目は潰れている。
身体中から血を流している。
それでも、生きている。
赤い目。
口から垂れる唾液。
剥き出しの牙。
完全に自衛隊を敵として認識していた。
「グルルルルル……。」
低い唸り。
熊型魔獣が身体を沈める。
「突進するぞ!」
村上が叫んだ。
「散開!」
熊が地面を蹴った。
◇
廃工場から離れた南東の交差点。
悠真たちは、自衛隊員の誘導を受けながらさらに南へ移動していた。
背後から、これまで聞いたことのない銃声が連続して響く。
乾いた小銃の音。
腹へ響く重い音。
空気を震わせる連射。
美咲が耳を塞ぐ。
「まだ戦ってるの?」
「ああ。」
悠真は廃工場の方角を見た。
建物に遮られ、熊の姿は見えない。
だが、銃声が止まっていない。
自衛隊が来れば、もう大丈夫。
そんな単純な相手ではない。
以前、《鑑定》に表示された言葉。
戦闘禁止。
接触は生存確率を著しく低下させる。
あれは誇張ではなかった。
「もっと離れてください!」
自衛隊員が叫ぶ。
「ここも安全とは限りません!」
「負傷者を先に車両へ!」
恒一は美咲から離れようとしなかった。
左腕は腫れ、歩くたびに脇腹へ痛みが走っている。
それでも、妹の隣を歩いている。
「恒一君。」
真由美はいない。
今ここで恒一の身体を診られる者はいない。
悠真が見る。
(《鑑定》)
⸻
【朝倉 恒一】
【状態:負傷/疲労大】
【左前腕:重度打撲】
【肋部:損傷】
【魔素侵食:停滞】
【侵食率:14%】
【身体変質による修復進行中】
⸻
「恒一さん。」
「何だ。」
「座ってください。」
「まだ歩ける。」
「修復はしてますけど、疲労が大きい。」
「今倒れたら、美咲が心配します。」
美咲が兄を見る。
「お兄ちゃん。」
「……分かった。」
恒一は近くの縁石へ腰を下ろした。
美咲もその隣へ座る。
誠は彩乃の肩へ手を置いたまま、廃工場を見ていた。
英樹も娘の無事を確認してからは、双眼鏡で戦闘の様子を追っている。
「見えるんですか。」
悠真が聞く。
「少しだけな。」
英樹の声は硬い。
「熊が工場から出ようとしてる。」
「自衛隊が正面で止めてる。」
「止められそうですか。」
英樹はすぐには答えなかった。
「分からない。」
その言葉だけで十分だった。
◇
熊型魔獣の突進を、全員が避けられたわけではなかった。
「退避!」
「右へ!」
高橋は横へ飛んだ。
直後。
巨大な熊が、それまで高橋が立っていた場所を通過する。
風圧だけで身体が転がった。
熊の肩が、車両の側面へ接触する。
数トンある車体が浮いた。
横転。
金属がひしゃげる音。
中に人はいなかった。
それでも、その光景だけで熊の力が理解できる。
「止めろ!」
熊はそのまま道路へ出ようとしている。
その先には、避難中の民間人。
黒牙の生存者。
負傷者。
「進路を変えさせろ!」
「左側から撃て!」
左翼に展開していた隊員たちが一斉に射撃する。
熊の顔がそちらへ向く。
進路が僅かに変わった。
民間人がいる南側ではなく、工業地帯の空き地へ向かう。
「誘導成功!」
「空き地へ追い込め!」
作戦が変わる。
工場内へ固定するのではない。
周囲に人のいない空き地へ誘導し、そこで重火器を使う。
熊型魔獣は、片脚を引きずりながらも速い。
高橋たちは車両を盾にしながら移動する。
「対魔獣班、第二射点へ!」
「無反動砲、射撃準備!」
「後方確認!」
「射線上の人員、退避!」
無反動砲。
通常の野生動物へ向けるような武器ではない。
だが、目の前にいるのは通常の生物ではなかった。
銃弾を何十発受けても動く。
大口径弾で脚を破壊されても突進する。
これ以上、火力を惜しむ理由はない。
「目標、空き地中央!」
「距離――」
観測手が数字を叫ぶ。
熊が振り返る。
片目を失った顔。
血に染まった毛皮。
口を開き、咆哮する。
その正面に。
無反動砲を構えた対魔獣班。
「射撃準備完了!」
高橋は地面へ伏せた。
周囲の隊員も頭を下げる。
「撃て!」
発射音。
銃声とは違う。
空気が押し潰されるような衝撃。
弾頭が熊型魔獣の胸部へ命中した。
爆発。
黒い巨体が炎と煙に包まれる。
衝撃波が周囲へ広がった。
高橋の身体が地面へ押し付けられる。
耳鳴り。
視界を覆う土煙。
「命中!」
「目標は!」
「見えない!」
「警戒を継続!」
誰も立ち上がらない。
誰も武器を下ろさない。
煙の向こう。
何かが動く。
「まだ生きてるぞ!」
熊の影が立ち上がろうとしていた。
胸部の毛皮は焼け落ち、肉が大きく抉れている。
前脚の一本は完全に動いていない。
それでも。
残った脚で、身体を起こそうとしている。
「……冗談だろ。」
高橋の口から声が漏れた。
村上が隣で歯を食いしばる。
「あれでも生きてるのか。」
「第二射、準備!」
「大口径ライフルは頭部を狙え!」
「重機関銃、復旧完了!」
熊が咆哮しようとする。
だが、口から出たのは血の混じった息だけだった。
それでも、自衛隊へ向かおうとする。
怒りか。
本能か。
それとも、魔素に侵された身体が死ぬことを拒んでいるのか。
高橋には分からない。
「撃ち方始め!」
重機関銃。
大口径ライフル。
小銃。
再び火力が集中する。
傷ついた胸部。
頭部。
残っている前脚。
熊型魔獣の身体が、無数の着弾で揺れる。
一歩。
前へ出る。
もう一歩。
脚が崩れる。
それでも顔を上げる。
「対魔獣ライフル!」
「眼窩を狙え!」
一発。
残っていた右目の周囲へ命中する。
熊の頭が大きく跳ねた。
二発目。
同じ場所。
頭部が揺れる。
三発目。
熊型魔獣の巨体が、横へ傾いた。
地面へ倒れる。
地響き。
土煙。
それでも、誰も歓声を上げなかった。
「射撃停止!」
銃声が止まる。
耳鳴りが残る。
硝煙と血の臭い。
熊は倒れている。
胸部は動いていない。
「目標の生死を確認。」
「慎重に接近しろ。」
「小銃班は援護。」
対魔獣班の数名が前へ進む。
高橋と村上も、少し離れて続く。
熊型魔獣の頭部。
潰れた両目。
大きく開いた口。
牙。
血。
呼吸はない。
だが、近付けば近付くほど、その大きさに圧倒される。
倒れていても、人間の背丈を優に超えている。
「まだだ。」
村上が言った。
「何がです?」
「死んだふりをする動物もいる。」
「こんな状態でも?」
「普通なら死んでる。」
村上は熊を見た。
「だが、あれは普通じゃない。」
対魔獣班の隊員が長い棒で反応を確認する。
動かない。
熱源。
心拍。
ドローンと携行機器で確認を重ねる。
数十秒。
誰も声を出さない。
やがて、無線から報告が入った。
『目標、生命反応なし。』
『繰り返す。』
『B級指定個体の死亡を確認。』
その瞬間。
高橋は、自分が息を止めていたことに気付いた。
ゆっくり息を吐く。
周囲でも、隊員たちの肩から僅かに力が抜けた。
誰も喜ばない。
負傷者が出た。
車両も失った。
弾薬も大量に使った。
目の前には、あり得ない大きさの死体。
勝ったという実感より。
ようやく止まった。
それだけだった。
◇
「B級指定個体の排除を確認!」
「周辺警戒を継続!」
「廃工場内を制圧する!」
指揮官の命令で、部隊はすぐに次の行動へ移った。
熊を倒して終わりではない。
工場内には、生存者が残っている。
負傷者。
黒牙の構成員。
武器。
魔獣の肉。
そして、能力者に関する情報。
高橋たちは廃工場へ戻った。
入口付近。
横転したバイク。
捨てられた鉄パイプ。
血痕。
人間の遺体。
熊に踏み潰された者。
機械へ叩きつけられた者。
直視し続けるのが難しい光景だった。
「生存者を確認!」
「武器を持っている者は捨てろ!」
「両手を見せろ!」
黒牙の男たちは、ほとんど抵抗しなかった。
総長は死んだ。
熊に襲われた。
自衛隊の重火器を目の前で見た。
戦意など残っていない。
泣いている者。
呆然としている者。
負傷した仲間へ縋る者。
壁際に座り込み、何も聞こえていないような顔をする者。
全員が順番に身体検査を受け、武器を取り上げられた。
「この工場の責任者は誰だ。」
隊員が尋ねる。
誰も答えない。
「神崎蓮司という男は。」
「……食われた。」
一人が震える声で言った。
「熊に。」
「黒田拓海は?」
男たちは顔を見合わせる。
「分からない。」
「逃げた。」
「さっきまでいた。」
黒田の姿は見つからなかった。
混乱に紛れて工場を脱出した可能性が高い。
「逃走者あり。」
「周辺部隊へ通達。」
「黒田拓海と思われる男を捜索。」
「ただし、B級指定個体排除直後だ。深追いはするな。」
高橋は工場の奥へ進んだ。
強い血の臭い。
獣の臭い。
開いた部屋。
解体台。
魔犬の肉。
保管された臓器。
食べかけのような肉片。
「……何だ、これは。」
隣の隊員が顔を顰める。
「触るな。」
高橋は止めた。
「魔獣由来の可能性がある。」
「封鎖して、専門班を呼べ。」
「了解。」
さらに奥。
黒く変色した肉。
痙攣したまま死亡している男。
異常に膨れ、壊死した腕。
人間とは思えない変化を起こした遺体。
「魔獣肉を食べた連中か。」
直人の証言と一致する。
高橋の胸に、嫌な重さが溜まる。
魔獣を倒せば終わりではない。
肉を食べて力を得ようとする人間がいる。
成功する者。
失敗する者。
理性を失う者。
この災害は、人間の身体だけでなく。
欲望まで利用して広がっている。
「高橋三曹。」
無線。
『工場内に拘束部屋を確認。』
『人質は脱出済みと思われます。』
「了解。」
『それと、特殊事案に関係する可能性のある人物を確認しています。』
高橋の眉が動く。
「誰です。」
『朝倉恒一。』
『民間人。二十八歳。』
『複数の目撃者が、神崎蓮司と人間離れした格闘を行ったと証言。』
『身体能力異常の可能性あり。』
「本人は?」
『南側救護地点。』
『負傷していますが、意識あり。』
「拘束しますか。」
無線の向こうで、短い沈黙。
『現時点では保護対象として扱え。』
『周囲の民間人を刺激するな。』
『ただし、行動を確認。』
『必要なら特殊事案対象者として確保する。』
「了解。」
高橋は工場の出口を見る。
まただ。
特殊事案対象者。
噂ではない。
実在する。
そして今回は、黒牙の総長だけではない。
家族を守るために力を使った人間もいる。
同じ能力者でも。
力の使い方は違う。
それを、軍や政府はどう扱うのか。
高橋に決める権限はない。
だが。
何でも敵として拘束すればいいとは思えなかった。
◇
南側の救護地点。
悠真たちは、自衛隊が用意した簡易テントの近くに集まっていた。
恒一は腕と脇腹を固定されている。
美咲の首筋も消毒され、新しいガーゼが当てられていた。
彩乃に大きな怪我はない。
誠と英樹も軽い擦り傷程度。
全員、生きている。
悠真は金属バットを地面へ置き、簡易椅子へ座っていた。
手が震えている。
今になって。
身体が震え始めていた。
「寒い?」
美咲が聞く。
「違う。」
「……そっか。」
美咲は悠真の隣へ座った。
人を殴った。
直人を守るため。
美咲と彩乃を逃がすため。
頭は狙わなかった。
相手も生きているはずだ。
それでも。
人間の身体へバットを打ち込んだ感触が残っている。
「手。」
美咲が言った。
「え?」
「握っていい?」
悠真は少し迷い、右手を差し出した。
美咲が両手で包む。
震えは止まらない。
それでも、少しだけ温かかった。
「ありがとう。」
美咲がもう一度言う。
「もう言っただろ。」
「何回でも言う。」
「……。」
「来てくれて、ありがとう。」
「助けてくれて、ありがとう。」
悠真は俯いた。
「怖かった。」
「うん。」
「見つかったらどうしようって。」
「人を殴った時も。」
「うん。」
「でも。」
美咲の手を握り返す。
「二人を連れて帰れてよかった。」
「私も。」
少し離れた場所では、彩乃が誠と話していた。
「勝手なことをして、ごめんなさい。」
「美咲ちゃんを一人にしなかったことか。」
「うん。」
「父親としては、二度としてほしくない。」
「……うん。」
「でも。」
誠は娘を見る。
「あの状況で、何もしないことが正しかったとも言えない。」
「お父さん。」
「ただし次は、一人で決めるな。」
「家族を頼れ。」
「お兄ちゃんたちは来たでしょ。」
「そういう意味じゃない。」
誠は苦く笑った。
その横へ、英樹が近付く。
「彩乃ちゃん。」
「はい。」
「美咲を一人にしないでくれて、ありがとう。」
彩乃は少しだけ俯いた。
「私も怖かったです。」
「そうだろうな。」
「美咲がいたから、耐えられました。」
「美咲も同じだ。」
英樹は娘を見る。
美咲は悠真の隣にいる。
「二人とも無事でよかった。」
◇
「藤堂悠真さん。」
名前を呼ばれた。
悠真が顔を上げる。
迷彩服を着た男。
高橋健吾三等陸曹。
以前に会ったことはない。
だが、疲労と緊張の残る顔から、先ほどまで熊と戦っていた隊員だと分かる。
「はい。」
「少し話を聞かせてください。」
悠真の身体が強張る。
「今ですか。」
「簡単な確認だけです。」
「あなた方が人質を救出し、廃工場から脱出したと聞いています。」
「はい。」
「工場へ入ったのは、あなた一人ですか。」
「……はい。」
高橋の視線が、地面に置かれた金属バットへ向く。
「黒牙の構成員と交戦しましたか。」
「一人だけ。」
「殺しましたか。」
「殺してません。」
「腕と脇腹を殴りました。」
「逃げるためです。」
高橋は悠真の顔を見る。
嘘をついているようには見えない。
「工場内で、熊型魔獣が黒牙のリーダー神崎蓮司だけを狙っていた理由について、何か知っていますか。」
悠真は一瞬、答えを迷った。
《鑑定》。
自分の能力。
ここで話すべきか。
政府は能力者をどう扱うのかまだ分からない。
だが、能力を知られることが安全とは限らないことくらいは自分でも分かる。
「蓮司は、熊型魔獣の肉を食べたそうです。」
悠真は、分かっている事実だけを話した。
「直人から聞きました。」
「食べた熊は、今日の熊より小さかった。」
「だから、親子だったんじゃないかと。」
「推測ですか。」
「はい。」
完全な嘘ではない。
高橋は少し考え、メモを取った。
「あなたは、神崎蓮司の身体能力が異常だと知っていましたか。」
「噂では。」
「実際に見て、どう思いました。」
「普通じゃないと思いました。」
「朝倉恒一さんについては?」
悠真の身体が僅かに固まる。
高橋はその反応を見逃さなかった。
「無理に答えなくても構いません。」
「ただし、複数の目撃者が、朝倉さんにも通常では考えにくい身体能力があったと証言しています。」
恒一がこちらを見る。
誠も。
英樹も。
全員が会話を聞いている。
「恒一さんは。」
悠真は慎重に言葉を選ぶ。
「魔犬に襲われてから、身体が変わりました。」
「怪我の治りが早くなった。」
「力も強くなった。」
「本人も怖がってます。」
「怖がっている?」
「自分が自分じゃなくなることを。」
高橋は恒一を見る。
蓮司とは違う。
自分の力へ酔っている顔ではない。
負傷し。
妹を守れなかったことを悔やみ。
それでも家族の近くにいる男。
「朝倉さん。」
高橋が呼ぶ。
「はい。」
「後ほど、詳しい事情を聞かせてもらうことになります。」
「分かりました。」
「現時点では、あなたを犯罪者として拘束する指示は出ていません。」
美咲が僅かに息を吐く。
「ただし。」
高橋は続ける。
「身体の変化が魔獣や今回の災害に関係している以上、確認は必要です。」
「絶対に逃げないでください。」
「逃げません。」
恒一は答えた。
「その代わり。」
「何です?」
「家族に危害を加えないでください。」
高橋は少しだけ眉を動かした。
「こちらから危害を加えるつもりは我々はありません。」
「今は。」
今は。
その言葉を、高橋自身も強く意識していた。
上層部が今後どんな判断を下すか。
自分には分からない。
◇
直人は別のテントで事情を聞かれていた。
手錠は掛けられていない。
だが、両側には隊員がいる。
「黒牙へ加わった時期は。」
「二年くらい前です。」
「神崎蓮司が魔獣肉を食べたのはいつだ。」
「正確な日は分かりません。」
「通信が止まって、何日かしてから。」
「熊型魔獣の肉だった?」
「はい。」
「どこから手に入れた。」
「黒牙の連中が、仲間を何人も失って。」
「重機を使って、腕を切り落としたって。」
「熊は死んだのか。」
「分かりません。」
「逃げたって言ってた奴もいました。」
事情聴取をしていた隊員がペンを止める。
「熊は一頭ではなかった可能性がある。」
「今日の個体は、腕を切り落とした個体とは別か。」
「たぶん。」
「今日のは、もっとデカかった。」
「神崎蓮司は、魔獣肉を食べた後どうなった?」
「強くなりました。」
「人間じゃないくらい。」
「それから?」
直人は言葉を止める。
「どうした。」
「性格が変わった。」
「前は違ったんです。」
「人を助けることもあった。」
「仲間を殴るような人じゃなかった。」
「でも、食ってから。」
「腹が減るって言って。」
「何でも欲しがって。」
「自分に逆らう奴を殴って。」
「女も、物資も、全部自分のものにしようとした。」
「ほかにも魔獣肉を食べた者は?」
「います。」
「ほとんど死にました。」
「暴れた奴も。」
「腕が変になった奴も。」
「遺体は工場に?」
「はい。」
隊員は記録を続ける。
「人質を逃がしたのは君か?」
直人は俯いた。
「彩乃の兄に場所を教えました。」
「鍵も渡した。」
「見張りも一人どかした。」
「黒牙を裏切った理由は。」
彩乃の顔が浮かぶ。
美咲。
悠真。
そして、熊に食われた蓮司。
「これ以上。」
直人は拳を握った。
「総長が壊れていくのを見たくなかった。」
「それに。」
「彩乃を助けたかった。」
「藤堂彩乃と、どういう関係だ。」
「中学の同級生です。」
「それだけか。」
「……それだけです。」
隊員は深く追及しなかった。
「君については、保護後に警察と関係機関へ引き継ぐ。」
「黒牙の活動に関わった事実は調べられる。」
「はい。」
「ただし、人質救出に協力したことも記録する。」
直人の目が僅かに動く。
「やったことは消えない。」
「分かってます。」
「だが、やったことは一つではない。」
隊員は記録用紙を閉じた。
「すべて話せ。」
「それが、今の君にできることだ。」
「……はい。」
◇
昼前。
廃工場一帯は、自衛隊と警察によって完全に封鎖された。
熊型魔獣の死体。
人間の遺体。
魔獣肉。
異常変化した黒牙構成員の遺体。
保管されていた武器。
物資。
すべてが記録されていく。
親熊の巨体には、大きな防水シートが掛けられた。
だが、全身を覆いきれていない。
黒い前脚が、シートの外へはみ出している。
高橋は、その前に立っていた。
倒すために。
どれだけの弾薬を使った。
どれだけの火力が必要だった。
巨大猪とは比べものにならない。
そして。
これは一頭だけなのか。
熊より危険な魔獣がいるのか。
考えたくない。
それでも、考えなければならない。
無線が鳴る。
「高橋三曹。」
「はい。」
『現場の検体について、上級司令部から指示。』
『熊型魔獣の死体は、厳重な警戒下で指定施設へ搬送する。』
「指定施設?」
『官民合同特殊研究機関だ。』
以前にも聞いた名。
魔獣。
魔素。
能力者。
すべてを研究するために設置された機関。
『解体・検査は現場で行わない。』
『体液、毛、肉片についても可能な限り回収。』
『黒牙が保管していた魔獣肉、変異した人間の遺体も同様だ。』
「了解。」
『それから。』
無線の声が少し低くなる。
『神崎蓮司の生体組織が残っている可能性がある。』
『熊型魔獣の消化器官を含め、搬送後に調査する。』
高橋はシートに覆われた熊を見る。
人間を食べた魔獣。
魔獣を食べた人間。
その両方が、一つの死体の中にある。
「了解しました。」
『特殊事案対象者については。』
「朝倉恒一を確認。」
「本人に逃走意思なし。」
「家族と共に救護地点で待機しています。」
『現時点では任意同行を求める。』
『拒否した場合は報告。』
『強制的な確保は、追加指示を待て。』
「了解。」
拘束ではない。
少なくとも、今のところは。
高橋は無線を切った。
視線を上げる。
少し離れた場所。
藤堂家と朝倉家の人々が、自衛隊員から説明を受けている。
傷ついた能力者。
金属バットを持った大学生。
人質だった二人の少女。
家族を守ろうとした父親たち。
この事件の中心にいた人間。
そして。
これから政府や研究機関が関わろうとしている人間たち。
「高橋。」
村上が隣へ来た。
「何ですか。」
「終わった顔してないな。」
「終わってませんから。」
高橋は熊の死体を見る。
「一頭倒しただけです。」
「そうだな。」
「街にはまだ魔犬も、変異猪もいる。」
「まだ知られて無い能力者も。」
「魔獣肉を食べれば力が手に入るって噂も広がるかもしれない。」
村上はシートからはみ出した前脚を見る。
「普通の熊なら。」
静かに言う。
「親が子を探すことはある。」
「匂いを追うこともある。」
「だが、あれは街を越えて、人間の身体に入った何かまで追った。」
「魔素ですか?」
「さぁな、俺にはそんなもんは分からん。」
「ただ。」
村上は高橋を見る。
「あれが動物の本能を少しでも残してるなら。」
「魔獣になっても、元の生き物の性質は消えてないのかもしれん。」
「なら。」
高橋は呟く。
「利用できる習性もある。」
「弱点も。」
「あるかもしれん。」
だが。
逆もある。
元の動物が持つ執念。
警戒心。
縄張り意識。
子を守る本能。
それらが、魔素によって何十倍にも増幅される可能性。
魔獣はただの怪物ではない。
動物だったものが。
元の性質を残したまま、常識外の力を得た存在。
それは、単純な兵器よりも厄介かもしれない。
「行くぞ。」
村上が言った。
「まだ現場整理が残ってる。」
「はい。」
高橋は熊の死体へ背を向けた。
廃工場。
黒牙。
能力者。
B級指定個体。
一つの事件が終わった。
だが。
世界が元へ戻る兆しはない。
むしろ。
これまで別々に起きていた異常が、互いに繋がり始めている。
魔獣を食べる人間。
力を得る能力者。
人間の中に残る魔素。
それを追う別の魔獣。
そして、そのすべてを集めようとする国。
高橋は、官民合同特殊研究機関へ運ばれていく検体を見つめた。
これは災害ではない。
以前、そう思った。
今も、その考えは変わらない。
だが。
災害でないのなら。
これは何なのか。
その答えを知る者は。
まだ、誰もいなかった。
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