第45話 因果
巨大な熊は、工場の壁を破壊した姿勢のまま動かなかった。
崩れ落ちた鉄板。
折れ曲がった鉄骨。
砕けたコンクリート。
舞い上がった粉塵が、朝の光を白く濁らせている。
その中に立つ黒い巨体は、まるで建物の一部がそのまま生き物へ変わったように見えた。
四足で立っているだけで、人間を遥かに見下ろす高さがある。
首から肩へ続く筋肉は異様に盛り上がり、前脚は工場の支柱よりも太い。
毛皮の隙間には古い傷跡が走っていた。
銃弾を受けた痕なのか。
魔獣同士で争った痕なのか。
悠真には分からない。
分かるのは、あれが自分たちの理解できる範囲を超えた存在だということだけだった。
以前、帰路で目にした巨大な背中。
鑑定が解析を拒絶し、戦闘禁止を告げた個体。
間違いない。
あの熊だ。
「何だよ……あれ。」
黒牙の誰かが呟いた。
誰も答えられない。
鉄パイプを握っていた男も。
木刀を構えていた男も。
先ほどまで蓮司と恒一の戦いに歓声を上げていた者たちも。
全員が同じように、巨大な熊を見上げていた。
熊は人間たちを見回さなかった。
周囲に何人いようと興味を示さない。
ただ一人。
神崎蓮司だけを見つめている。
「……何だよ。」
蓮司の声が掠れた。
昨日までの彼なら、どんな相手を前にしても笑っていた。
魔犬を素手で殺した時も。
仲間を殴り飛ばした時も。
恒一と拳を交えた時も。
力を確かめられることが嬉しくて仕方がないという顔をしていた。
だが今。
その顔から笑みが消えていた。
唇が僅かに震えている。
呼吸が浅い。
身体が、一歩も動かない。
本能が理解している。
勝てない。
蓮司の中に残っていた、人間としての本能。
力を手に入れる前から存在した、生き物としての感覚。
それが全力で逃げろと叫んでいた。
「何で……。」
熊の赤い目が、蓮司を捉え続ける。
「何で俺を見てやがる。」
◇
「動くな。」
直人が小さな声で言った。
悠真たちは、中央作業区画へ続く通路の陰に身を隠していた。
先頭に直人。
その後ろに悠真。
美咲と彩乃が続く。
裏口までは、もう遠くない。
だが、巨大な熊が外壁を突き破ったことで、予定していた通路の一部が瓦礫に塞がれていた。
「別の出口は?」
悠真が聞く。
「ある。」
直人は熊から目を離さないまま答えた。
「奥の搬入口。」
「でも中央の横を通る。」
「他は?」
「二階から飛び降りるか、壁の穴を通るしかねぇ。」
「壁の穴は?」
「あの熊の近くだ。」
使えない。
悠真は無線機を握った。
「英樹さん。」
小声で呼び掛ける。
激しい雑音。
返事はすぐには来ない。
「英樹さん、聞こえますか。」
『……聞こえる。』
ようやく声が返る。
『無事か?』
「三人とも無事です。」
「直人も一緒にいます。」
『相沢君が?』
「説明は後で。」
「裏口が塞がれました。」
「別の道を探します。」
『正門側は熊に塞がれてる。』
『南側の搬入口なら、今のところ空いてる。』
直人が頷く。
「俺が言った場所だ。」
『ただし、黒牙の連中が何人かそっちへ逃げ始めてる。』
「分かりました。」
『急げ。』
『あれは、こっちを見てすらいない。』
『蓮司だけを狙ってるみたいだ。』
悠真は無線機から手を離した。
熊は蓮司だけを見ている。
英樹から見ても、そう見える。
偶然ではない。
(《鑑定》)
悠真は、巨大な熊へ意識を向けた。
以前は解析不能だった。
だが、今は距離が近い。
そして、熊自身も一つの目的へ意識を集中させている。
⸻
【熊型魔獣】
【危険度:B】
【状態:激昂】
【身体変異:極大】
【魔素濃度:極高】
【特定魔素反応を追跡中】
【標的:神崎 蓮司】
【警告:直ちに離脱してください】
⸻
「やっぱり。」
悠真の呟きに、彩乃が振り返る。
「何が分かったの?」
「あの熊は蓮司を狙ってる。」
「何で?」
「分からない。」
さらに見る。
蓮司。
熊。
二つの魔素反応。
比較するように意識する。
左腕が熱を持つ。
視界が歪む。
頭の奥が痛む。
それでもやめない。
⸻
【神崎 蓮司】
【体内魔素構成:複数】
【熊型魔獣由来因子を確認】
【対象因子と熊型魔獣の魔素反応が部分一致】
【血縁個体由来の可能性:高】
⸻
悠真の呼吸が止まる。
熊型魔獣由来の因子。
血縁個体。
蓮司が食べた熊の腕。
黒牙が仲間を大勢失い、重機まで使って切り落とした戦利品。
あの熊は、悠真たちが見た個体より小さかったと聞いている。
「子供……。」
悠真が呟く。
「え?」
美咲が聞き返す。
「蓮司が食べた熊。」
「あれは、この熊の子供だったんだ。」
直人が振り返る。
「何で分かる。」
「蓮司の中に、あの熊と近い魔素が残ってる。」
「親熊は、それを追ってきた。」
「総長を?」
「ああ。」
悠真は巨大な熊を見た。
それまで不自然に思えていたことが、一つにつながる。
親熊は街を徘徊していた。
無差別に人間を狩っていたわけではない。
子供を傷つけた者。
子供の肉を食べ、その魔素を体内へ取り込んだ者。
蓮司を探していた。
蓮司は魔獣を狩るたびに強くなった。
魔素を吸収し、体内の熊由来の因子も濃くなった。
強くなるほど。
親熊にとって、見つけやすい存在になっていった。
「自分で呼んだんだ。」
悠真は言った。
力を求めた結果。
蓮司は、自分を喰らう存在へ居場所を知らせ続けていた。
◇
「総長。」
黒田が、熊から距離を取りながら声を掛けた。
その声には、いつもの余裕が残っていなかった。
「下がってください。」
「全員、散開!」
「進路を空けろ!」
黒田の指示で、何人かが我に返る。
蓮司と熊の間から離れる。
壁際へ走る。
バイクの陰へ隠れる。
だが、全員ではない。
恐怖で動けない者。
何が起きているか理解できない者。
総長なら何とかしてくれると信じている者。
「総長ならやれる!」
一人の男が叫んだ。
恐怖を打ち消すための声だった。
「前にも熊を倒したんだろ!」
「腕を持って帰ったじゃねぇか!」
「こいつも殺せる!」
その言葉で、蓮司の表情が僅かに変わった。
部下が見ている。
恒一も見ている。
黒田も。
彩乃も、この工場のどこかにいる。
自分は黒牙の総長。
力を持つ者。
選ばれた人間。
恐怖を見せることなど許されない。
「そうだ。」
蓮司が呟く。
声は震えていた。
「俺が倒した。」
正確には倒していない。
仲間を十人以上失い。
重機を使い。
片腕を切り落としただけ。
それでも蓮司の中では、自分たちが勝ったことになっていた。
「あの時より、俺は強ぇ。」
拳を握る。
腕の筋肉が膨らむ。
皮膚の下に、黒い血管のような筋が浮き上がる。
「魔犬も。」
「猪も。」
「全部俺が殺した。」
熊の唸り声が低く響く。
蓮司の足が、一瞬だけ後ろへ動いた。
逃げようとした。
本人が考えるより先に、身体が退こうとした。
だが、蓮司はその動きを止めた。
「俺が。」
自分へ言い聞かせる。
「俺が一番強ぇんだ。」
その瞬間。
蓮司の耳元で、聞き慣れた声が響いた。
⸻
《精神汚染が進行しました》
《現在侵食率:13%》
《欲望増強:進行》
《身体能力向上・大:出力上昇》
⸻
身体の奥が熱くなる。
恐怖が怒りへ変わる。
逃げろと訴えていた本能が、欲望に塗り潰されていく。
力が欲しい。
この熊を倒したい。
喰いたい。
もっと強くなりたい。
「こいつを喰えば。」
蓮司の口元に、笑みが戻る。
「俺は、もっと強くなる。」
「総長、駄目です!」
黒田が叫ぶ。
「あれとは戦えません!」
「うるせぇ!」
蓮司が怒鳴り返す。
「俺に命令すんな!」
黒田の顔が強張る。
蓮司はもう、誰の言葉も聞いていない。
熊しか見ていない。
いや。
熊を倒した後の自分しか見ていない。
「見てろ。」
蓮司は恒一へ視線を向ける。
「どっちが上か。」
「今から見せてやる。」
恒一は答えなかった。
蓮司を止めるつもりもない。
自分たちが逃げるためには、熊の注意が蓮司へ向いている方がいい。
残酷な判断。
だが、美咲たちを守るためには必要だった。
「誠さん。」
恒一が小声で言う。
「下がりましょう。」
「ああ。」
誠は作業車を見た。
物資。
水。
工具。
全て置いていく。
迷いはなかった。
「英樹さんへ連絡を。」
無線機へ手を伸ばす。
「俺たちも離脱する。」
◇
「行くぞ!」
直人が先頭へ立った。
熊の登場で、見張りも配置も意味を失っている。
中央へ向かう者。
出口へ殺到する者。
誰かを押し退ける者。
黒牙の構成員たちは、自分の命を守ることしか考えていなかった。
悠真たちは、その流れに逆らわず進む。
中央から離れる。
壁際。
放置された機械の陰。
南側の搬入口。
「もう少しだ。」
直人が言う。
その時。
「待て!」
背後から声が飛んだ。
黒牙の男が一人、悠真たちに気付いた。
美咲と彩乃を見て目を見開く。
「人質が逃げてる!」
男の声が響く。
だが、以前のように周囲が一斉に反応することはなかった。
熊の咆哮。
崩れる建物。
逃げ惑う人間。
その全てに声が呑まれる。
男だけが、鉄パイプを持って追ってきた。
「止まれ!」
直人が振り返る。
「来るな!」
「直人、お前!」
「裏切ったのか!」
男が鉄パイプを振り上げる。
直人は避けようとした。
だが足元の瓦礫に引っ掛かる。
体勢を崩す。
鉄パイプが頭へ振り下ろされる。
その前に。
金属バットが横から男の腕を打った。
「ぐあっ!」
鉄パイプが落ちる。
悠真だった。
手のひらに衝撃が返る。
魔犬を殴った時とは違う。
柔らかい肉。
中の硬い骨。
男の悲鳴。
相手は人間だ。
それでも止まらない。
男は痛めた腕を押さえながら、腰へ手を伸ばした。
折り畳みナイフ。
(《鑑定》)
⸻
【攻撃意思:継続】
【標的:藤堂 悠真】
⸻
悠真は踏み込んだ。
二撃目。
今度は男の脇腹。
鈍い音。
男が息を吐き、膝をつく。
悠真は頭を狙わなかった。
殺すためではない。
逃げるため。
動きを止めるため。
「行け!」
直人が叫ぶ。
悠真は倒れた男から目を離し、走った。
手が震えている。
人を殴った。
だが、立ち止まらない。
今は考える時間ではない。
「お兄ちゃん。」
彩乃が走りながら呼ぶ。
「大丈夫。」
悠真は答えた。
誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。
◇
蓮司が床を蹴った。
コンクリートが砕ける。
身体が弾丸のように前へ飛ぶ。
昨日、恒一との間合いを一瞬で詰めた速度。
普通の人間なら、反応することすらできない。
拳を引く。
全身の力を一点へ集める。
「死ねぇぇぇ!」
蓮司の拳が、熊の顔面へ突き刺さった。
轟音。
空気が震える。
黒牙の男たちが息を呑む。
蓮司の拳は確かに当たった。
魔犬なら頭蓋を砕く一撃。
人間なら身体ごと吹き飛ばす威力。
だが。
熊の頭は、僅かに横へ動いただけだった。
「……は?」
蓮司の笑みが止まる。
拳が毛皮へ沈んでいる。
硬い。
筋肉。
脂肪。
魔素によって変質した皮膚。
何層もの壁。
拳が届いていない。
熊がゆっくり顔を戻す。
赤い目が、至近距離から蓮司を見下ろす。
その瞬間。
蓮司は理解した。
通じない。
全力だった。
これ以上ない一撃。
それが、何の意味もなかった。
「ま、待て。」
声が漏れる。
熊の前脚が動いた。
速い。
あれほど巨大な身体からは想像できない速度。
蓮司は腕を交差させた。
防ごうとした。
前脚が触れる。
それだけで。
蓮司の身体が消えた。
数十メートル先の壁へ叩きつけられる。
ドンッ!
コンクリートの壁が陥没する。
ひび割れが蜘蛛の巣のように広がった。
蓮司の身体が床へ落ちる。
「総長!」
誰かが叫ぶ。
蓮司は動かない。
右腕が不自然な方向へ曲がっている。
肋骨も折れている。
口から大量の血が流れる。
それでも。
「……まだだ。」
蓮司は左手を床へついた。
立とうとする。
「俺は。」
膝が崩れる。
「俺は選ばれた。」
立てない。
身体が命令を聞かない。
それでも、精神汚染と欲望が敗北を認めさせない。
「俺が。」
熊が歩いてくる。
一歩ごとに床が沈む。
「一番。」
蓮司の声が震える。
恐怖を隠せない。
目から涙が流れていた。
「強ぇんだ。」
熊が蓮司の前で止まる。
巨大な鼻先を近付ける。
匂いを嗅ぐ。
蓮司の身体。
血。
汗。
そして、その内側に残るもの。
子供の魔素。
熊の喉から、低い唸り声が漏れた。
怒り。
人間にも理解できるほど明確な怒りだった。
「何で。」
蓮司が後退しようとする。
折れた腕。
動かない脚。
「俺が。」
親熊の口が開く。
人間一人を容易に挟める巨大な顎。
並んだ牙。
血と腐肉の匂い。
「助けてくれ、」
初めて。
蓮司は心の底から助けを求めた。
「直人。」
その名が、掠れた声で漏れる。
◇
搬入口まで、あと僅か。
直人の足が止まった。
「相沢?」
彩乃が呼ぶ。
直人は振り返っていた。
中央作業区画。
瓦礫と人影の間。
蓮司が熊の前にいる。
巨大な顎が開いている。
「総長……。」
幼い頃。
公園のベンチ。
冬の夜。
空腹。
身体中の痣。
凍えた直人へ、蓮司が聞いた。
腹減ってるか。
牛丼屋。
湯気。
人生で一番美味かった飯。
父親の家へ乗り込み、直人を庇ってくれた背中。
ガキに手ぇ出すなら俺に来い。
あの背中を追い続けた。
兄だった。
父親だった。
家族だった。
間違っていると分かっても、捨てられなかった。
元に戻るかもしれないと思っていた。
いつか。
前の総長に。
「直人。」
蓮司の声が聞こえた気がした。
距離がある。
騒音。
悲鳴。
本当に呼ばれたかは分からない。
それでも直人には聞こえた。
一歩、戻ろうとする。
「相沢!」
彩乃が直人の腕を掴んだ。
「駄目!」
「離せ!」
「今行って何ができるの!」
「総長が!」
「相沢まで死ぬ!」
「でも!」
直人は振りほどこうとした。
その瞬間。
親熊の顎が閉じた。
蓮司の上半身を挟む。
「総長!」
直人の叫び。
熊が頭を上げる。
蓮司の脚が空中で暴れる。
左拳が熊の鼻先を殴る。
一度。
二度。
弱い。
先ほどまで人間を圧倒していた拳が、今は子供の抵抗にしか見えない。
熊が顎へ力を込める。
鈍い音。
蓮司の身体から力が抜けた。
血が熊の口元から流れる。
次の瞬間。
親熊は蓮司を持ち上げ、そのまま喉の奥へ押し込んだ。
魔獣を喰らって力を得た男は。
最後には。
その魔獣の親に喰われて消えた。
「……総長。」
直人の膝から力が抜ける。
その場へ崩れそうになる。
彩乃が腕を支えた。
「行こう。」
直人は動かない。
「相沢。」
「もう。」
直人の声が震える。
「終わった。」
黒牙。
居場所。
恩人。
家族。
全てが。
目の前で、呆気なく消えた。
「行こう。」
彩乃はもう一度言った。
「今は生きて。」
「後で、ちゃんと考えればいい。」
「今は。」
直人は彩乃を見る。
目の前にいる。
自分が守りたかった相手。
助けようとして、助けきれなかった相手。
それでも彩乃は自分の腕を掴んでいる。
「……ああ。」
直人は小さく答えた。
◇
親熊が咆哮した。
廃工場全体が震える。
総長が喰われた。
黒牙の統制は、その瞬間に完全に消えた。
「逃げろ!」
「総長が死んだ!」
「車を出せ!」
「邪魔だ!」
出口へ人が殺到する。
仲間を押し倒す。
踏みつける。
物資を持ち出そうとする者。
バイクへ跨がる者。
鍵が見つからず叫ぶ者。
黒田は声を張った。
「落ち着いてください!」
「一か所へ集まるな!」
「出口を分けろ!」
「車は捨てても構いません!」
だが、誰も聞いていない。
蓮司の力によってまとめられていた集団。
恐怖で従っていただけの者たち。
力の中心が消えた瞬間、組織はただの群衆へ戻った。
親熊が歩き出す。
蓮司を喰らったことで目的を果たしたのか。
それとも、まだ怒りが収まっていないのか。
進路にいた男が動けずに立ち尽くしている。
「避けろ!」
黒田が叫ぶ。
男は反応できなかった。
熊の前脚が落ちる。
人間の身体が床と脚の間に消える。
骨が砕ける音。
悲鳴すら上がらない。
熊は気にしない。
人間を殺したという認識すらないように、そのまま歩き続ける。
別の男が恐怖で鉄パイプを投げた。
「来るなぁ!」
鉄パイプが熊の肩へ当たる。
熊が顔を向ける。
男の表情が凍る。
「違う。」
一歩下がる。
「俺じゃない。」
熊の前脚が横へ薙がれる。
男の身体が機械へ叩きつけられ、動かなくなる。
種として違う。
人間同士の強い弱いではない。
熊にとっては全て、小さな障害物でしかなかった。
◇
「今だ!」
悠真が叫ぶ。
搬入口の扉を直人が開ける。
錆びた金属が軋む。
外の空気。
朝の光。
英樹が待機している倉庫まで、まだ距離がある。
「走れ!」
直人。
美咲。
彩乃。
悠真。
四人が外へ飛び出す。
背後から黒牙の男たちも押し寄せる。
誰が敵で誰が味方か。
もう関係ない。
全員が熊から逃げている。
『悠真!』
無線から英樹の声。
『南側へ出たな!』
「はい!」
『そのまま真っ直ぐ!』
『右の空き地に乗用車がある!』
『俺も向かう!』
「父さんたちは?」
『正門側から離脱中だ!』
『合流地点を変える!』
『工場南東の交差点!』
「分かりました!」
美咲の足がもつれる。
悠真が腕を支える。
「大丈夫?」
「うん。」
息が上がっている。
軽い脱水。
恐怖。
走り続けられる状態ではない。
「彩乃。」
「分かってる。」
彩乃が美咲の反対側へ回る。
二人で支えながら走る。
直人が先頭で道を確認する。
背後から、再び破壊音。
熊が工場内部の機械を薙ぎ倒している。
「相沢。」
悠真が呼ぶ。
「お前も一緒に来い。」
「……。」
「今さら黒牙へ戻れないだろ。」
直人は答えない。
走り続ける。
「自衛隊か警察に事情を話すことになる。」
「分かってる。」
直人は前を向いたまま言った。
「逃げるつもりはねぇよ。」
「やったことは消えない。」
「……ああ。」
「でも。」
直人が彩乃を一瞬だけ見る。
「こいつらを逃がしたことも、消えねぇよな。」
「消えない。」
彩乃が答えた。
「絶対に。」
直人は少しだけ目を閉じた。
それから、もう一度前を向いた。
◇
誠と恒一は、正門側の作業車を捨てて移動していた。
黒牙の人間が出口へ殺到し、車を動かせる状態ではない。
物資も置いたまま。
それでいい。
「恒一君、走れるか。」
「大丈夫です。」
強がりだった。
脇腹。
左腕。
蓮司との戦闘で傷が増えている。
それでも歩ける。
美咲が救出された。
三回の合図は届いた。
その事実だけで、身体が動いた。
「以前の熊だ。」
誠が言う。
「ああ。」
恒一も振り返る。
崩れた工場。
巨大な黒い背中。
「帰路で見た。」
「何でここに。」
「蓮司を追ってきたらしい。」
誠は無線で聞いた悠真の説明を伝えた。
「蓮司が食べた肉が、あの個体の子供だった可能性が高い。」
「……そういうことか。」
恒一は工場を見る。
「力を得るために食ったものに、最後は食われた。」
同情はない。
美咲を人質にした。
彩乃を連れ去った。
多くの人間を傷つけた。
それでも。
あまりにも呆気ない最期だった。
人間がどれだけ強くなったと思っても。
上には、比較すらできない存在がいる。
「急ごう。」
誠が言う。
「ここも安全じゃない。」
二人は南東の交差点を目指した。
◇
遠くから。
規則正しいエンジン音が響いた。
一台ではない。
複数。
重い車両。
一般の車とは違う音。
英樹が最初に気付いた。
空き地へ停めた乗用車の近くで、双眼鏡を道路へ向ける。
「自衛隊。」
装甲車両。
大型トラック。
迷彩服。
道路の向こうから、部隊が接近している。
上空には小型ドローン。
廃工場の位置を確認するように旋回していた。
拡声器から声が響く。
『周辺の民間人は、直ちに建物から離れてください!』
『南側道路へ避難!』
『武器を持っている者は、その場へ置け!』
『両手を見える位置へ!』
黒牙の生存者たちが道路へ飛び出してくる。
鉄パイプを捨てる。
木刀を投げる。
地面へ伏せる。
逃げようとする者には、自衛隊員が銃を向けた。
「止まれ!」
「武器を捨てろ!」
「抵抗するな!」
英樹は無線へ叫ぶ。
「悠真!」
「自衛隊が来た!」
『見えました!』
「南東の交差点へ向かえ!」
「誘導に従え!」
『はい!』
悠真たちが空き地の向こうに見える。
美咲。
彩乃。
悠真。
そして直人。
「美咲!」
英樹が走り出す。
「彩乃ちゃん!」
美咲が父親の姿に気付く。
「お父さん!」
英樹は娘を抱き締めた。
強く。
確かめるように。
「無事か。」
「ごめんなさい、、」
「謝るな。」
「でも。」
「生きてる。」
英樹の声が震えた。
「それでいい。」
少し遅れて、誠と恒一も交差点へ到着した。
「美咲!」
恒一が妹へ近付く。
美咲は父から離れ、そのまま兄へ抱きついた。
「お兄ちゃん。」
「ああ。」
「ごめん。」
「何も悪くない。」
「でも、お兄ちゃん怪我して。」
「お前が無事ならいい。」
誠は彩乃の前へ立った。
何か言おうとした。
言葉が出ない。
彩乃も同じだった。
最後には、父親の胸へ飛び込んだ。
「お父さん。」
「……ああ。」
「ごめんなさい。」
「無事でよかった。」
誠は娘の頭を抱く。
それだけだった。
悠真は少し離れた場所で、その光景を見ていた。
力が抜ける。
終わった。
まだ熊はいる。
自衛隊も動いている。
危険は終わっていない。
それでも。
二人を連れて帰れた。
約束を守れた。
「悠真。」
美咲が兄から離れ、こちらへ歩いてくる。
悠真は何か言おうとした。
その前に、美咲が抱きついた。
「ありがとう。」
小さな声。
「来てくれて。」
悠真の手が宙で止まる。
やがて、そっと美咲の背中へ回す。
「遅くなってごめん。」
「遅くない。」
「怖かった?」
「怖かった。」
「うん。」
「でも、彩乃ちゃんがいた。」
美咲は顔を上げる。
「悠真が来るって言ってくれた。」
「……そっか。」
「本当に来た。」
「ああ。」
悠真は笑おうとした。
上手く笑えたかは分からなかった。
◇
「そこの少年!」
自衛隊員の声が飛ぶ。
直人が振り返る。
数人の隊員が小銃を構え、こちらへ近付いてくる。
「両手を上げろ!」
直人は抵抗しなかった。
ゆっくり両手を上げる。
「武器は?」
「持ってません。」
「黒牙の構成員か?」
「……はい。」
「地面へ膝をつけ。」
直人は従う。
彩乃が一歩前へ出ようとした。
「待って。」
悠真が止める。
「でも相沢は。」
「分かってる。」
直人は地面へ膝をつき、後頭部へ手を回した。
隊員が身体を確認する。
武器なし。
抵抗なし。
「氏名。」
「相沢直人。」
「年齢。」
「十七。」
「工場内の状況を説明できるか。」
「できます。」
直人は廃工場を見た。
崩れる黒牙。
熊。
蓮司が消えた場所。
「全部話します。」
「総長のことも。」
「人質のことも。」
「魔獣の肉のことも。」
隊員は直人の腕を取る。
「保護する。」
「事情は後で聞く。」
直人は連れていかれる前に、彩乃を見た。
「相沢。」
彩乃が呼ぶ。
直人の足が止まる。
「ありがとう。」
「……。」
「助けてくれて。」
直人は何も言わなかった。
顔を背ける。
それでも、その目には涙が浮かんでいた。
◇
廃工場の上空を、ドローンが旋回する。
自衛隊車両が道路を封鎖する。
隊員たちが民間人と黒牙の生存者を退避させる。
熊は、工場中央にいた。
蓮司を喰らい。
周囲を破壊し。
なおも興奮状態を続けている。
無線が飛び交う。
『目標を確認。』
『B級指定個体と一致。』
『民間人の退避を優先。』
『普通科部隊は射線を確保。』
『対魔獣班、配置へ。』
『交戦許可を確認中。』
先頭車両から、高橋健吾三等陸曹が降りた。
小銃を構え、崩れた廃工場を見据える。
あの熊は街を徘徊し。
接触禁止を命じられていた個体。
今は建物の中。
周囲には民間人。
黒牙の残党。
負傷者。
最悪の現場だった。
「高橋三曹。」
無線から上官の声。
『B級指定個体、工場内に留まっています。』
『民間人の退避状況は。』
「南側へ誘導中。」
「工場内に逃げ遅れがいる可能性あり。」
『確認を急げ。』
『対魔獣班到着まで接触を避けろ。』
「了解。」
高橋は双眼鏡を上げた。
崩れた壁。
巨大な黒い身体。
その向こうに動く人影。
逃げ遅れた黒牙の構成員。
熊がゆっくり顔を向ける。
外へ。
自衛隊車両へ。
赤い目が、高橋たちを捉えた。
低い唸り声。
地面が震える。
「……こっちを見た。」
高橋の背中に冷たい汗が流れる。
無線へ手を伸ばす。
「目標、こちらを認識。」
「工場外へ移動する可能性あり。」
『対魔獣班、配置完了。』
後方で、大口径火器が展開される。
重機関銃。
対魔獣用に準備された大口径ライフル。
無反動砲。
隊員たちが射線を確認する。
一般の小銃だけでは止められない。
それは、以前の巨大猪で嫌というほど理解していた。
熊が一歩踏み出す。
工場の床が砕ける。
高橋は小銃を構えたまま、無線を待つ。
数秒。
永遠のように長い数秒。
そして。
『B級指定個体への交戦を許可する。』
『繰り返す。』
『交戦を許可する。』
高橋は大きく息を吸った。
「全員、射線から退避!」
「対魔獣班!」
「目標を工場内へ固定!」
巨大な熊が咆哮する。
銃口が一斉に向けられた。
「撃て!」
廃工場に、重い銃声が響き渡った。
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