第42話 奪還作戦
夜明け前。
藤堂家の庭には、再び作業車が停められていた。
荷台には、黒牙から要求された物資が積まれている。
水の入ったポリタンク。
米。
缶詰。
乾麺。
調味料。
工具。
木材。
ただし、すべてではない。
藤堂家に残された備蓄の一部。
持っている物資を本当に差し出すつもりはなかった。
それでも、黒田に交渉する意思があると思わせるには、空の荷台では駄目だった。
ブルーシートの下には、本物の食料と水が積まれている。
同時に、すぐ外せるよう荷物の配置も工夫されていた。
必要なら荷台を空け、美咲と彩乃を乗せて逃げるためだ。
「固定はこれでいい。」
英樹が最後のロープを締めた。
何度引いても緩まないことを確認する。
普段なら、作業車へ荷物を積む英樹の手に迷いはない。
だが今朝は、何度も同じ場所を確認していた。
工具。
ロープ。
荷物の位置。
燃料。
タイヤ。
すべて問題ない。
それでも確認を止められない。
何か一つ見落としていれば。
その一つが原因で、娘を助けられないかもしれない。
そう考えているのだろう。
「英樹さん。」
誠が声を掛けた。
「十分です。」
「……ああ。」
英樹はロープから手を離した。
その手は、冷たい朝の空気の中でも汗ばんでいた。
◇
家の中では、真由美が恒一の身体へ包帯を巻いていた。
左腕。
脇腹。
額。
昨日の戦いで受けた傷は、一晩休んだからといって消えるものではない。
腫れは残っている。
身体を動かせば、痛みも走る。
だが、恒一の回復は普通の人間より早かった。
真由美もそれを感じていた。
「昨日より腫れが引いてる。」
真由美は恒一の左腕を慎重に確認する。
「普通なら、もっと酷くなっていてもおかしくないのに。」
「動けますか。」
悠真が聞いた。
「ああ。」
恒一が答える。
椅子に座ったまま拳を握る。
左腕には痛みがある。
それでも動く。
指先の感覚も失われていない。
「見てくれ。」
恒一が言った。
悠真は頷き、左腕へ意識を集中した。
(《鑑定》)
⸻
【朝倉 恒一】
【状態:負傷】
【左前腕:打撲】
【肋部:軽度損傷】
【疲労:中】
【魔素侵食:停滞】
【侵食率:14%】
【身体変質:安定】
【適応進行中】
【精神状態:正常】
⸻
「侵食率は変わってません。」
「十四パーセントのままです。」
「傷も、思っていたより軽い。」
真由美が悠真を見る。
「肋骨は?」
「骨折とは出てません。」
「軽度損傷。」
「それでも無理は駄目よ。」
「分かっています。」
恒一は答えた。
「今日は勝つ必要はない。」
悠真が言う。
「蓮司を引きつけるだけです。」
「分かってる。」
「本当に?」
「お前も誠さんたちと同じことを言うようになったな。」
「恒一さんが戦い始めたら、熱くなりそうだからです。」
「否定はできない。」
恒一は苦く笑った。
蓮司。
昨日の戦い。
技術では上回っていた。
だが、最後には押され始めた。
人質を取られなければ。
最後まで戦っていれば。
どちらが勝っていたか。
その答えを、恒一自身も考えている。
「恒一さん。」
悠真は真っ直ぐ相手を見る。
「蓮司を倒そうとしないでください。」
「……ああ。」
「俺が三回、無線を入れたら二人を見つけた合図です。」
「その時点で、戦いを終わらせる方法を考えてください。」
「すぐ逃げる。」
「はい。」
「だが、蓮司が追ってきたら?」
「その時は。」
悠真は一瞬、言葉に詰まった。
「何とかします。」
「人には言うくせに、自分もそれか。」
「今のところ、それ以上の答えがないので。」
恒一は少しだけ笑った。
「分かった。」
「お前が合図するまで、あいつを俺から離さない。」
「お願いします。」
悠真が頭を下げる。
恒一はその肩へ、右手を置いた。
「美咲を頼む。」
「はい。」
「彩乃も。」
「絶対に連れて帰ります。」
今度は迷わず答えた。
◇
台所では、由紀が小さな包みを作っていた。
握り飯。
水。
乾いた布。
最低限のものだけをまとめる。
悠真たちが帰ってきた時、すぐ口へ入れられるように。
美咲と彩乃がどんな状態で戻るか分からない。
食べられるのか。
水を飲めるのか。
怪我をしているのか。
それでも、何か用意せずにはいられなかった。
「由紀さん。」
真由美が声を掛ける。
「はい。」
「戻ってきたら、二人の状態を先に確認します。」
「食べさせるのは、その後で。」
「分かっています。」
由紀は頷く。
手は止めない。
「美咲は。」
声が震える。
「あの子、怖がってるでしょうね。」
「彩乃もです。」
「……はい。」
二人の母親は、それ以上何も言わなかった。
今は泣く時間ではない。
帰ってきた子供たちを迎える準備をする。
それだけを考えていた。
◇
三浦恵は、リビングの端で翔太と一緒に座っていた。
「悠真兄ちゃん。」
翔太が呼ぶ。
悠真はリュックの中身を確認する手を止めた。
「何?」
「それ。」
翔太は金属バットを見る。
青いグリップ。
以前は自分が野球で使っていたもの。
今は悠真が武器として持っている。
「持っていくんだね。」
「うん。」
「……怖い?」
悠真は少し考えた。
「怖い。」
正直に答える。
「魔犬の時より?」
「たぶん。」
「人が相手だから?」
「うん。」
翔太はしばらく黙っていた。
九歳の子供に理解できることではない。
そう思った。
だが、翔太は小さな拳を握った。
「でも。」
「うん。」
「美咲お姉ちゃんと彩乃お姉ちゃんを助けるんだよね。」
「そうだよ。」
「なら。」
翔太はバットを見た。
「使っていいよ。」
悠真の胸が詰まる。
「前にも言ったでしょ。」
「誰かを助ける時に使ってって。」
「……うん。」
「だから。」
「ちゃんと帰ってきて。」
その言葉に、悠真は頷いた。
「分かった。」
「二人も連れて帰る。」
「約束?」
「約束。」
今度は、守らなければならない約束だった。
◇
出発前。
全員がリビングへ集まった。
誠が作戦をもう一度確認する。
「作業車には俺と恒一君。」
「正面から廃工場へ入る。」
「黒田と交渉し、二人の無事を確認する。」
「恒一君は、蓮司が出てきたら一対一を持ちかける。」
恒一が頷く。
「昨日の決着をつける。」
「俺が負けたら、あいつの下につく。」
「そう言えば乗ると思います。」
悠真が答える。
「ただし、本当に従うつもりはない。」
「分かってる。」
「俺は廃工場から少し離れた位置で待機する。」
英樹が続ける。
「正門と裏手が両方見える場所を探す。」
「無線で状況を伝える。」
誠が頷く。
「悠真は俺たちより先に降りる。」
「廃工場の手前で車から離れ、裏手へ回る。」
「正面へ注意が集まった後に侵入。」
「二人を探し、救出する。」
「はい。」
「無理だと思ったら引き返せ。」
誠が言う。
悠真はすぐには答えなかった。
「悠真。」
「……はい。」
「助けたい気持ちは分かる。」
「だが、見つかって囲まれたら終わりだ。」
「引き返して、別の方法を考える。」
「分かったな。」
「分かりました。」
答えた。
だが、本当に引き返せるかは分からない。
美咲と彩乃が目の前にいたら。
助けを求めていたら。
自分だけ戻ることなどできない。
それでも今は、父を安心させるために頷くしかなかった。
「無線の合図を確認する。」
英樹が無線機を手に取る。
「一回の短い送信。」
「危険が接近。」
「二回。」
「見張りが移動、または配置変更。」
「三回。」
「二人を発見。」
「声が届くなら、普通に話す。」
「届かない場合は、この合図だけを使う。」
「はい。」
悠真は小型の無線機を腰の袋へ入れた。
その上から上着を被せる。
目立たせないためだ。
「それから。」
誠が全員を見回す。
「目的を間違えない。」
「黒牙を倒すために行くんじゃない。」
「物資を守るためでもない。」
「美咲ちゃんと彩乃を連れて帰る。」
「危険なら物資は捨てる。」
「作業車も捨てる。」
「戦いも途中で止める。」
「全員で戻ることを最優先にする。」
誰も異論を唱えなかった。
「行こう。」
誠が言った。
◇
まだ日が昇る前の住宅街を、作業車が走り出した。
運転席には誠。
助手席には恒一。
荷台には物資。
後ろの狭い座席には悠真。
英樹は別の乗用車で、少し離れて後を追っている。
門の前。
真由美と由紀が立っている。
三浦恵と翔太も玄関から見送っていた。
悠真は振り返らなかった。
振り返れば、行けなくなる気がした。
目の前の道だけを見る。
道路は暗い。
朝靄が薄く漂っている。
放置車両。
壊れた信号。
道端に転がるゴミ。
数日前まで見慣れていた町が、知らない場所のように見えた。
「緊張してるか。」
前から恒一の声がした。
「はい。」
「俺もだ。」
意外な言葉だった。
「恒一さんも?」
「当たり前だ。」
「昨日は負けかけた。」
「それに、今度は美咲と彩乃の命がかかってる。」
「怖くない方がおかしい。」
悠真はバットを握った。
「でも行く。」
「ああ。」
「怖くても行く。」
昨日まで何度も聞いた言葉。
怖いと思えるなら、まだ大丈夫。
何も感じなくなった時が危ない。
「恒一さん。」
「何だ。」
「昨日より、蓮司は強くなってると思いますか。」
「分からん。」
「でも、可能性はある。」
「魔獣を狩って強くなるなら、昨日の後も狩ってるかもしれない。」
「……。」
「だから俺も、昨日と同じようには戦わない。」
「どうするんですか。」
「守りに徹する。」
恒一は前を見たまま答える。
「倒そうとしない。」
「距離を保つ。」
「挑発して、追わせる。」
「時間を稼ぐ。」
「それだけだ。」
簡単に言う。
だが、蓮司を相手にそれを続けるのが、どれほど危険なのか。
悠真にも分かる。
「必ず合図します。」
「待ってる。」
◇
廃工場が近付くにつれ、周囲の景色が変わった。
住宅が減る。
倉庫。
工場。
空き地。
錆びたフェンス。
放置されたトラック。
壊れた看板。
黒牙の拠点がある工業地帯。
人の気配は少ない。
だが、完全に無人ではない。
(《鑑定》)
⸻
【対象:人間】
【状態:警戒】
【位置:右前方建物内】
⸻
「見張りがいます。」
悠真が小声で言った。
「右側の建物。」
「一人。」
誠は前を見たまま頷く。
「こっちを見てるか。」
「たぶん。」
「敵意は?」
「警戒だけです。」
「作業車を確認している。」
恒一が窓の外を見る。
「黒牙の見張りだな。」
こちらが来ることを予想していた。
当然だ。
交渉期限を指定したのは黒牙側。
正面から物資を運んでくるのを待っている。
「予定どおり行く。」
誠が言う。
少し先。
壊れた倉庫の陰。
悠真が降りる地点だった。
作業車が速度を落とす。
「今です。」
悠真が後部ドアへ手を掛ける。
「待て。」
誠が言った。
悠真の動きが止まる。
父は前を向いたままだった。
「絶対に無茶をするな。」
「はい。」
「見つけられなかったら戻れ。」
「はい。」
「二人を見つけても、すぐ動くな。」
「周囲を確認しろ。」
「はい。」
「それから。」
誠の声が少し震えた。
「必ず帰ってこい。」
悠真は父の横顔を見た。
「帰ります。」
「美咲も彩乃も連れて。」
「……ああ。」
恒一も振り返る。
「頼む。」
「はい。」
悠真はドアを開けた。
作業車が完全に止まる前に飛び降りる。
足が地面へつく。
すぐに倉庫の陰へ身を隠した。
ドアを静かに閉める。
作業車はそのまま進んでいく。
悠真は暗い路地から、父と恒一を乗せた車を見送った。
少し遅れて英樹の乗用車が角を曲がる。
こちらには近付かず、別の道へ入った。
全員が、それぞれの場所へ向かう。
ここから先。
悠真は一人だった。
◇
廃工場の裏手へ続く道は、雑草に覆われていた。
人が普段使う道ではない。
地面には割れたガラス。
錆びた鉄板。
空き缶。
悠真は足音を立てないよう、慎重に進む。
バットは右手。
左手は壁へ触れない。
古い工場の壁には、どんな汚れや危険物が付いているか分からない。
呼吸を抑える。
心臓の音が大きい。
これほど離れていても、誰かに聞かれるのではないかと思う。
(《鑑定》)
⸻
【周辺:人間反応なし】
⸻
今は誰もいない。
悠真は次の建物の陰へ移る。
廃工場の外周が見えた。
高いフェンス。
正門。
側面にある搬入口。
割れた窓。
屋根の一部は崩れている。
外にはバイクが並んでいた。
十台以上。
車も二台。
黒牙の人数は、昨日襲撃に来た者だけではない。
廃工場内には、もっといる。
悠真は地面へ膝をつき、数を確認する。
(《鑑定》)
⸻
【対象:人間】
【位置:廃工場内部】
【確認可能人数:十七】
⸻
十七人。
見える範囲だけで。
蓮司。
黒田。
直人。
見張り。
全員を含んでいるかは分からない。
「多いな……。」
小さく呟く。
まともに戦う人数ではない。
最初から戦うつもりはない。
見つからずに入る。
二人を探す。
連れて逃げる。
それだけだ。
だが、三人で動けば見つかりやすい。
美咲と彩乃が拘束されていれば、外す時間も必要になる。
計画どおりにいく保証など何もなかった。
その時。
遠くから作業車のエンジン音が聞こえた。
正門側。
父と恒一が到着する。
悠真は無線機へ触れた。
まだ使わない。
まずは、正面に注意が集まるのを待つ。
◇
廃工場の正門。
作業車がゆっくりと敷地へ入った。
その瞬間、工場内の空気が変わる。
黒牙の男たちが集まってくる。
バイクのそば。
倉庫の入口。
事務所の前。
鉄パイプや木刀を持った男もいる。
誠は作業車を停めた。
エンジンを切る。
恒一と目を合わせる。
「準備は。」
「できてます。」
「無理はしないでください。」
「誠さんも。」
二人は車を降りた。
「お待ちしていました。」
黒田拓海が現れる。
いつもの穏やかな笑み。
その後ろには数人の手下。
黒田の視線が、荷台のブルーシートへ向く。
「随分と素直ですね。」
「要求された物資の一部です。」
誠が答える。
「一部?」
黒田の眉がわずかに動く。
「全て持ってくるようお願いしたはずですが。」
「二人の無事を確認していません。」
「まず、美咲ちゃんと彩乃を見せてください。」
「その後で、残りの物資と水場の情報について話します。」
黒田は少しだけ笑みを深くする。
「交渉するおつもりですか。」
「そのために来ました。」
「なるほど。」
黒田は恒一を見る。
「あなたも。」
「妹を返せ。」
恒一の声は低かった。
「その話も、条件を飲んでいただいてからです。」
「条件は蓮司と直接話す。」
「総長と?」
「ああ。」
恒一は周囲へ聞こえるよう、声を張った。
「昨日の決着がついてない。」
ざわめきが広がる。
黒牙の男たちが顔を見合わせる。
「神崎蓮司!」
恒一が廃工場へ向かって叫ぶ。
「隠れてないで出てこい!」
「俺と一対一で決着をつけろ!」
「俺が負けたら、お前の下につく!」
周囲の空気が一気に変わった。
喧嘩。
一対一。
総長。
能力者。
予想どおり、黒牙の男たちの顔に興奮が浮かぶ。
「おい。」
「総長とあいつがやるのか?」
「昨日の続きだろ。」
「見てぇ。」
黒田の表情だけが変わらない。
「勝手な条件を出されても困りますね。」
「蓮司が断るなら、昨日は俺に負けかけたと認めたことになる。」
恒一は挑発を続ける。
「人質を取らなきゃ勝てなかったってな。」
「恒一君。」
誠が心配そうに見る。
だが、止めない。
それが作戦だ。
「言うじゃねぇか。」
工場の奥から、声が響いた。
男たちが道を開ける。
神崎蓮司が歩いてくる。
上半身には黒いシャツ。
右腕の龍の刺青。
昨日の傷は残っている。
頬に痣。
切れた唇。
それでも、歩き方には痛みがない。
むしろ昨日より機嫌が良さそうだった。
「お前から来るとは思わなかった。」
蓮司が笑う。
「妹を返してほしいんだろ?」
「俺が勝ったら返せ。」
「勝てると思ってんのか?」
「昨日は決着がついてない。」
「黒田が邪魔したからな。」
黒田の眉がわずかに動く。
だが、蓮司は笑った。
「いいぜ。」
「総長。」
黒田が止める。
「今は交渉が先です。」
「うるせぇ。」
蓮司は黒田を見ずに答えた。
「こいつが俺の下につくって言ってる。」
「勝てば全部終わるだろ。」
「しかし。」
「俺が決める。」
黒田は口を閉じた。
納得してはいない。
だが、蓮司の前で強く止めることもできない。
「場所を空けろ!」
蓮司が叫ぶ。
黒牙の男たちが嬉しそうに動き始める。
荷物。
椅子。
バイク。
中央の空間を広げる。
人が集まる。
悠真の予測どおり。
喧嘩は見せ物になる。
◇
廃工場の裏手。
工場内部から歓声が聞こえ始めた。
悠真は壁へ背をつけたまま、ゆっくり息を吐く。
乗った。
蓮司は恒一の挑発に乗った。
人の気配が移動する。
(《鑑定》)
⸻
【廃工場内人員移動】
【多数が中央作業区画へ集中】
⸻
今。
悠真はフェンスへ近付いた。
正面からは見えない場所。
フェンスの一部が、下から浮いている。
誰かが以前出入りに使ったのかもしれない。
身体一つなら通れそうだ。
バットを先に入れる。
地面へ腹をつけ、隙間を潜る。
服へ泥が付く。
錆びた金網が上着を擦る。
音を立てない。
息を止める。
反対側へ出る。
廃工場の敷地内。
悠真はすぐに壊れた資材の陰へ身を隠した。
(《鑑定》)
⸻
【周辺:人間反応一】
【距離:約十二メートル】
【状態:警戒低下】
⸻
一人。
建物の角。
見張り。
だが、正門側の歓声を気にしている。
身体はそちらを向いている。
「やれ!」
「総長!」
「潰せ!」
叫び声。
男は落ち着かない様子で何度も中央を見ていた。
見たい。
だが持ち場を離れられない。
その葛藤が動きに表れている。
悠真は、見張りが正門側へ顔を向けた瞬間に移動した。
資材置き場。
壊れたドラム缶。
古い重機。
その陰を使って距離を詰める。
あと八メートル。
五メートル。
見張りがこちらを向きそうになる。
悠真は身を伏せた。
「くそ。」
男が小さく呟く。
「俺も見てぇのに。」
無線機から、小さな雑音が聞こえた。
二回。
短い送信。
英樹からの合図。
見張りが動いた。
悠真が顔を上げる。
男は我慢できなくなったのか、中央区画へ続く通路を覗こうと数歩移動していた。
今しかない。
悠真は背後を通り抜ける。
工場側面。
錆びた鉄扉。
完全には閉まっていない。
僅かな隙間。
手を掛ける。
ゆっくり開く。
ギィ。
小さな音。
悠真の身体が固まる。
見張りは振り返らない。
歓声に紛れた。
悠真は扉の中へ滑り込む。
暗い廊下。
埃。
油。
湿った鉄の匂い。
外よりも空気が重い。
ここが黒牙の拠点。
美咲と彩乃がいる場所。
悠真はバットを握り直した。
青いグリップが汗で滑りそうになる。
「待ってて。」
誰にも聞こえない声で呟く。
「今、行くから。」
正面では、歓声がさらに大きくなった。
恒一と蓮司の戦いが始まった。
そして悠真は、誰にも知られないまま廃工場の奥へ足を踏み入れた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
少しでも「おもしろかった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
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皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。
誤字脱字なども気づいた点があれば、遠慮なく教えてください。
これからもよろしくお願いします。




