第41話 勝つための作戦
美咲と彩乃を乗せた車が見えなくなってから、どれほどの時間が過ぎたのか。
悠真には分からなかった。
数分だったようにも思える。
一時間以上、その場に立ち尽くしていたような気もする。
道路には、戦いの跡が残っていた。
割れた植木鉢。
曲がった門。
地面に落ちた鉄パイプ。
乾き始めた血。
そして、黒牙の車が走り去った方向へ続くタイヤの跡。
けれど、美咲と彩乃の姿はもうない。
悠真は、青いグリップの金属バットを握ったまま、動けずにいた。
助けに来て。
車へ押し込まれる直前、彩乃の唇がそう動いた。
声は聞こえなかった。
それでも、確かに分かった。
悠真はバットを握る手に力を込めた。
掌へ爪が食い込む。
痛みがあった。
だが、その程度では胸の内側にあるものを押さえられない。
怒り。
恐怖。
焦り。
美咲と彩乃が、今この瞬間にも何をされているか分からない。
すぐに追わなければならない。
廃工場へ乗り込まなければならない。
そう叫ぶ自分がいる。
だが、別の自分が必死に止めていた。
今のまま行けば、また同じことになる。
恒一がどれほど強くても、美咲を人質にされれば動けなかった。
彩乃がどれほど戦えても、連れ去られた先には何人の黒牙がいるか分からない。
怒りのまま正面から飛び込めば、今度こそ二人を失う。
「悠真」
誠の声がした。
悠真は振り返らなかった。
「家に入ろう」
「……うん」
返事はした。
だが、足は動かなかった。
その時、遠くからエンジン音が聞こえた。
全員が顔を上げる。
黒牙が戻ってきたのか。
恒一が痛む身体を起こそうとした。
誠も道路の先を睨む。
やがて、曲がり角から一台の作業車が姿を現した。
「お父さん……!」
由紀が玄関から飛び出す。
朝倉家の作業車だった。
車体の側面には新しい擦り傷が増えている。
左側のミラーは割れ、荷台を覆っていたブルーシートも一部が裂けていた。
それでも、作業車は止まらずに藤堂家の前まで戻ってきた。
エンジンが切れる。
運転席の扉が開き、英樹が降りた。
額には汗が浮かび、右頬には細い傷があった。上着の袖も破れている。
だが、自分の足で立っていた。
「あなた!」
由紀が駆け寄る。
「大丈夫なの?」
「ああ。追ってきた連中は途中で撒いた」
英樹は妻へ答えながら、周囲を見回した。
壊された門。
道路に残る血。
傷だらけの恒一。
沈んだ表情の誠と真由美。
そこまで見て、英樹の顔から安堵が消えた。
「美咲は?」
誰も答えなかった。
「彩乃ちゃんは?」
沈黙が続く。
英樹の視線が恒一へ向いた。
「恒一」
「……親父」
「美咲はどこだ」
恒一は唇を噛んだ。
「黒牙に連れていかれた」
英樹の身体が固まった。
「何だって?」
「美咲を人質に取られた」
恒一の声が掠れる。
「俺が動けなくなって」
「彩乃ちゃんが、美咲を一人にしないために自分も連れていけって……」
英樹は何も言わなかった。
誠が代わりに、何が起きたのか説明した。
黒田たちが藤堂家へ押しかけたこと。
恒一が手下を無力化したこと。
蓮司が現れたこと。
美咲が黒田に人質にされたこと。
彩乃が自分から同行を申し出たこと。
黒牙が物資、水場の情報、服従を要求したこと。
英樹は最後まで黙って聞いた。
説明が終わると、作業車の荷台へ向かう。
「英樹さん?」
誠が呼ぶ。
英樹は工具箱を開けた。
大型のバールを掴む。
さらに金槌と長いレンチを取り出し、腰へ差し込もうとした。
「何をするつもりですか」
「決まってる」
振り返った英樹の顔に、普段の穏やかさはなかった。
「廃工場へ行く」
「待ってください」
「待てるか!」
英樹の怒鳴り声が庭へ響いた。
「美咲が連れていかれたんだぞ!」
「彩乃ちゃんまで!」
「分かっています」
「分かってる人間が、何でここに立ってる!」
英樹はバールを握り締めた。
「俺が囮なんか引き受けたからだ」
「俺が家を離れたから、あいつらは入ってきた」
「英樹さんのせいじゃありません」
誠が言う。
「囮は成功しました」
「黒牙の一部を家から引き離せた」
「そんなことはどうでもいい!」
英樹の声が震える。
「娘を連れていかれて、成功も失敗もあるか!」
「俺も行く」
恒一が立ち上がろうとした。
足元が揺れる。
塀へ手をつき、それでも身体を起こそうとする。
「恒一君、動かないで」
真由美が腕を掴んだ。
「肋骨にひびが入っている可能性がある。左腕も酷く腫れてる」
「関係ありません」
「あります!」
「美咲がいるんです!」
「分かってる!」
真由美の声も大きくなる。
「彩乃は私の娘よ!」
「私だって、今すぐ助けに行きたい!」
「だったら!」
「だからこそ考えないと駄目なの!」
恒一が言葉を失う。
英樹はバールを持ったまま、廃工場がある方角を睨んでいる。
今にも走り出しそうだった。
「今行ったら、二人は助けられません」
悠真が言った。
庭にいた全員の視線が集まる。
悠真はいつの間にか、玄関へ向かっていた。
金属バットは手に持ったままだった。
「何で言い切れる」
英樹が睨む。
「今の俺たちは、何も分かってないからです」
「場所は分かってる!」
「廃工場のどこに二人がいるか分かりますか」
「……」
「黒牙が何人いるか」
「出入口がいくつあるか」
「見張りがどこに立っているか」
「蓮司と黒田がどこにいるか」
「何も分かってない」
悠真は英樹から目を逸らさなかった。
「正面から入れば、また二人を人質にされます」
「今度は刃物を当てるだけじゃ済まないかもしれない」
「だからって、ここで待てって言うのか」
「待つんじゃありません」
悠真は答えた。
「助ける方法を考えます」
◇
リビングのテーブルには、町の地図が広げられた。
悠真は白い紙とメモ帳を並べ、油性ペンを握っていた。
英樹が戻る前から、覚えている情報を書き出していた。
神崎蓮司。
黒田拓海。
黒牙の人数。
確認した武器。
車両。
廃工場の位置。
黒牙が去った方向。
蓮司と恒一の戦い。
黒田が取った行動。
鑑定で見た情報。
誰もが美咲と彩乃を奪われた衝撃で動けなくなっている中、悠真だけはひたすら文字を書いていた。
冷静だったわけではない。
書いていなければ、今すぐ飛び出してしまいそうだった。
手を動かす。
考える。
そうしていなければ、美咲の怯えた顔と彩乃の震える手ばかりが浮かんでくる。
「まず、俺が確認したことを全部話します」
悠真はテーブルを囲む家族たちへ言った。
恒一は真由美に応急処置を受けながら椅子へ座っている。
英樹はまだバールを手放していない。
誠も顔を強張らせたままだった。
由紀は夫の隣で両手を握っている。
三浦恵と翔太も、少し離れた場所からこちらを見ていた。
「蓮司の鑑定結果です」
悠真は紙へ書いた内容を読み上げる。
「《身体能力向上・大》」
「《欲望増強》」
「《精神汚染進行中》」
「侵食率は十一パーセントでした」
「十一……」
恒一が呟いた。
「俺より低いのか」
「数字だけなら」
恒一は十四パーセント。
それでも理性を保っている。
毎日、自分が変わっていないか悠真へ確認を求めている。
蓮司は十一パーセントで、他人を物として扱い、暴力を楽しんでいる。
「侵食率だけで人間性が決まるわけじゃないんだと思います」
悠真は言った。
「力をどう使ったか」
「何のために欲しがったか」
「精神汚染を怖いと思ったか、それとも受け入れたか」
「その違いが大きい」
「今は研究の話をしてる場合じゃない」
英樹が急かした。
「分かっています」
悠真は紙の中に書いた言葉を指で示す。
戦闘欲求。
恒一への強い関心。
自信過剰。
支配欲。
「この性格と状態を、作戦に使います」
「使う?」
誠が聞く。
「蓮司は、恒一さんと戦いたがっています」
恒一が顔を上げる。
「今日の戦いでもそうでした」
悠真は続ける。
「黒田が美咲を人質にした時、蓮司は不満そうだった」
「目的を忘れて、そのまま戦いたがっていた」
「俺を自分の下につけとも言った」
恒一が言う。
「断ったら、明らかに怒った」
「だから」
悠真は頷く。
「恒一さんが挑発すればもう一度、一対一で戦う可能性が高いです」
「可能性だろ」
英樹が言う。
「はい。予測です」
悠真は断定しなかった。
「でも、鑑定結果と今日の言動を考えれば、かなり高いと思います」
「蓮司は自分が一番強いと証明したい」
「恒一さんは、蓮司が初めて出会った自分に近い能力者です」
「負けたまま、終わらせたくないはずです」
「俺は負けてない。」
恒一が低く言った。
「分かってます」
決着はついていない。
黒田が美咲を人質に取ったことで止められただけだ。
だからこそ、蓮司も続きを望んでいる。
「黒牙は元々、暴走族です」
悠真は別の紙を前へ出した。
「喧嘩の強さが上下関係に直結してる」
「総長が他の能力者と一対一で戦えば、部下にとっては見せ物になると思います」
「見せ物?」
由紀が顔を顰める。
「今日もそうでした」
悠真は答える。
「蓮司と恒一さんが戦い始めた後、残っていた手下は割って入らなかった」
「自分たちの総長が勝つところを見たがっていた」
「だから、もう一度二人が戦えば、黒牙の多くはそこへ集まる」
「絶対じゃない」
「でも、その可能性は高い」
悠真はさらに書き足した。
「それと、蓮司以外の能力者は確認できませんでした」
「鑑定した範囲では、他の黒牙構成員に能力や身体変化はない」
「武器も鉄パイプ、金属バット、木刀、バール、ナイフ」
「銃火器は確認してません」
「隠している可能性は?」
誠が尋ねる。
「あります」
悠真は正直に答える。
「絶対にないとは言えません」
「でも、恒一さんに何人も倒されて、それでも使わなかった」
「少なくとも、すぐ使える銃を持っていた可能性は低いと思います」
英樹が腕を組む。
「人数は多いが、蓮司以外は普通の人間、、」
「はい」
「ただし、武器を持ってる普通の人間です」
「油断はできません」
悠真は黒田拓海の名前を丸で囲んだ。
「一番問題なのは黒田です」
「蓮司じゃないのか」
英樹が聞く。
「戦力として一番危険なのは蓮司です」
「でも、作戦を崩すのは頭脳役の黒田です」
悠真の頭には、美咲へナイフを当てた黒田の顔が浮かんでいた。
笑っていた。
興奮していたわけではない。
怒っていたわけでもない。
必要だから人質を取った。
それだけの顔だった。
「黒田は冷静です」
「蓮司が戦いに夢中になっている間に家へ回り込んだ」
「人質を使う判断も早かった」
「物資や水場の情報を引き出そうとしたのも黒田だと思います」
「他のメンバーは?」
恒一が聞く。
「蓮司と黒田の命令で動くただの駒に近い」
悠真は答えた。
「危険なのは変わりません」
「でも、その場の状況を見て自分で作戦を変えられる人間は少ないと思います」
「蓮司が恒一さんに集中する」
「黒田が別の相手に集中する」
「その二つが同時に起きれば」
悠真は廃工場を表す四角の中へ、一本の線を引いた。
「工場の中に隙ができる!」
◇
「黒田はどうする?」
誠が尋ねた。
悠真は父を見る。
「父さん」
真由美の表情が強張る。
「誠さんを?」
「はい」
「危険すぎるわ!」
「危険なのは全員同じです」
「それでも」
「この中で、黒田と対等に話せるのは父さんだけです」
悠真は言った。
「英樹さんは美咲を連れ去られた」
「恒一さんは人質にした黒田を見たら、冷静でいられない」
「俺も美咲と彩乃を見せられたら、何を言うか分からない」
「父さんなら、仕事柄慣れてるから黒田と交渉を続けられる」
誠は黙ったまま、地図を見ている。
「要求された物資を作業車へ積みます」
「食料、水、工具」
「全部じゃない」
「一部だけ」
「交渉へ来たように見せるためです」
「誠さんが黒田と話して時間を稼ぐ」
恒一が言う。
「そうです」
「物資を渡す前に二人の無事を確認させろ」
「まず一人を返せ」
「能力者の情報は、二人を返してから話す」
「すぐには決まらない条件を出してください」
「黒田は物資と情報が欲しい」
「交渉をすぐ打ち切る可能性は低いと思います」
「その間、蓮司は?」
「恒一さんが引きつける」
悠真は恒一を見る。
「昨日の決着をつけようと言ってください」
「一対一で勝ったら、要求を受け入れる」
「恒一さんが能力者として蓮司の下につく」
「それくらい言えば、乗ってくると思います」
「従うつもりはない」
「当然です」
「約束を破るのか」
恒一の問いに、悠真は迷わず頷いた。
「破ります」
部屋が静かになった。
以前の悠真なら、そんなことは言わなかった。
約束は守るべきだと考えていた。
人を騙すことにも抵抗があった。
だが、蓮司たちは美咲へ刃を当てた。
彩乃を連れ去った。
約束を守る相手ではない。
「二人を助けるためなら、蓮司を騙します」
悠真は言った。
「黒田にも嘘をつく」
「物資を渡すふりもする」
「恒一さんが従うと言っても、本当に従う必要はない」
「相手は最初から対等に交渉するつもりなんてない」
青いグリップのバットへ視線を落とす。
「だから俺たちも、正面から約束を守る必要はないと思ってます」
真由美は息子を見つめていた。
心配そうに。
少しだけ悲しそうに。
それでも、止めなかった。
「その後は?」
誠が聞く。
悠真は地図へ視線を戻した。
「恒一さんと蓮司が戦えば、黒牙の大半はそっちを見る」
「父さんと黒田が交渉を続ければ、黒田も動きにくい」
「その間、英樹さんには廃工場の外から監視してもらいます」
「俺が外?」
英樹が眉を寄せた。
「はい」
「俺は中へ入る」
「英樹さんには、逃走経路の確保と連絡をお願いします」
「黒牙の増援が来た時」
「見張りが動いた時」
「蓮司が予想外の動きをした時」
「外から見て知らせる人が必要です」
「連絡はどうする」
「無線機を使います」
「短距離なら、前も通じました」
「通信が途切れる可能性はあります」
「だから合図は短くする」
「危険なら一回」
「見張りが移動したら二回」
「二人を見つけたら三回」
英樹は納得していない顔だった。
「俺が中へ入る」
「駄目です」
「美咲は俺の娘だ」
「だからです!」
悠真は英樹を見た。
「美咲を見つけた瞬間、英樹さんは絶対に助けようとする」
「当たり前だ!!」
「見張りがいても?」
「刃物を向けられていても?」
「それでも俺は、、」
「それでは、また人質にされます」
英樹の言葉が止まる。
「俺だって、彩乃と美咲を見つけたら冷静でいられる保証はありません」
悠真は正直に言った。
「でも俺には《鑑定》があります」
「壁や扉の向こうに人がいるか」
「見張りの敵意」
「二人の状態」
「動けるか」
「逃げ道に危険があるか」
「普通に探すより、見つけられる可能性が高い」
「それに」
悠真は紙の端へ、自分の名前を書いた。
藤堂悠真。
その横には一言だけ書く。
能力――未認識。
「俺の能力は、黒牙に知られていません」
恒一がゆっくり顔を上げる。
「蓮司は、能力者が俺だけだと思ってる」
「はい」
「黒田も、俺をただの大学生くらいにしか見てないと思います」
「蓮司は俺に興味がないって言いました」
その時は悔しかった。
彩乃へ近付く蓮司を止められず、自分では相手にならないと笑われた。
だが、今は違う。
侮られている。
警戒されていない。
それは潜入する上で、何より大きな武器になる。
「黒牙が警戒するのは恒一さんです」
「次に、交渉相手になる父さん」
「誠さんも、彩乃のお父さんとして顔を知られてる」
「でも俺は違う」
「蓮司から見れば、バットを持っただけの大学生です」
悠真は少しだけ口元を歪めた。
笑ったわけではない。
「一番弱そうに見える」
「だから、一番動きやすい」
◇
「駄目よ」
真由美が言った。
声が震えていた。
「一人で敵の中へ入るなんて、許せない」
「母さん」
「美咲ちゃんも彩乃も助けたい」
「でも悠真まで失ったら」
言葉が続かない。
真由美は口元を押さえた。
「俺も行く」
英樹が言う。
「中へ入らなくても、近くまで」
「見つかったら、全員の注意がそっちへ向きます」
「俺一人なら、隠れられる」
「見つかった時は?」
誠が聞いた。
悠真は答えなかった。
全員が続きを待っている。
テーブルの横には、翔太の金属バットが立て掛けてあった。
銀色の本体。
青いグリップ。
悠真はゆっくり手を伸ばし、それを持ち上げた。
魔犬を殺した夜の感触が戻ってくる。
頭部を打った硬さ。
手に伝わった衝撃。
二度目の一撃を、自分の意思で振り下ろしたこと。
あの時は父と翔太を守るためだった。
今度は。
「見つかったら」
悠真は言った。
一度、息を吸う。
「人でも殴ります」
誰も言葉を発しなかった。
自分の口から出た言葉が、部屋の中へ重く残る。
「警棒を持ってても」
「ナイフを持ってても」
「美咲と彩乃を傷つけようとするなら」
バットを握る手に力を込める。
「後ろからでも殴る」
「騙してでも、不意を突いてでも止める」
「必要なら」
その先を口にするのが怖かった。
人間を殺す。
魔犬とは違う。
それでも、二人を殺そうとする人間を前にして、手加減できる保証はない。
「必要なら、殺すことになるかもしれない」
声が震えた。
怖くないわけではない。
むしろ、怖くて仕方がない。
そんなことを口にする自分が。
本当に実行できてしまうかもしれない自分が。
「悠真」
誠が名前を呼ぶ。
「それでも行きます」
悠真は父を見た。
「美咲が待ってる」
「彩乃も、助けに来てって言った」
「二人が俺たちを信じてる間に、行かなきゃならない」
「でも、一人で」
「一人じゃない」
悠真は恒一を見る。
「正面には恒一さんがいる」
誠を見る。
「黒田を父さんが引きつける」
英樹を見る。
「外から英樹さんが見てくれる」
真由美と由紀を見る。
「母さんたちは、戻った二人を助ける準備をしてくれる。」
「全員で助けるんです」
「中へ入る役が、俺なだけです」
誰もすぐには答えなかった。
時計の針が進む音だけが聞こえる。
やがて恒一が口を開いた。
「蓮司は俺が引きつける」
「恒一君」
真由美が止めようとする。
「大丈夫だとは言いません」
恒一は傷ついた左腕を見る。
「今度は、勝つ必要もない」
「悠真が二人を見つけるまで、蓮司を俺から離さなければいい」
「でも、身体が」
「動けます」
「痛み止めと固定をお願いします」
恒一は悠真を見る。
「どれくらい時間が必要だ」
「分かりません」
「工場の広さも中の構造も分からない」
「でも、できるだけ早く探します」
「なら、それまで持たせる」
「無理は」
「お前に言われたくない」
恒一は少しだけ笑った。
傷で歪んだ、苦い笑みだった。
「美咲を頼む」
「はい」
「彩乃も」
「絶対に」
英樹がバールをテーブルへ置いた。
まだ納得したわけではない。
表情を見れば分かる。
「俺は外から見る」
低い声。
「ただし、何かあれば中へ入る」
「英樹さん」
「娘が危険なら命令は聞かない」
「……分かりました」
止めても無駄だと悠真にも分かった。
誠は地図を見つめたまま、長く息を吐いた。
「俺は黒田と交渉する」
真由美が夫を見る。
「誠さん」
「悠真に行かせて、自分だけ残ることはできない」
「それに、黒田と話す役は必要だ」
誠は悠真が書いた紙を手に取った。
「要求された物資の一部を積む」
「すぐには渡さない」
「二人を確認させるまで、交渉を引き延ばす」
「黒田が別の動きをしたら?」
「その時は、何とかする」
「父さんもそれ言うんだ」
悠真が言う。
「お前にだけは言われたくないな」
誠は力なく笑った。
ほんの僅か。
それでも、家族の顔に生気が戻った。
絶望しているだけでは、二人は戻らない。
助けるために動く。
その目的が、全員を立たせ始めていた。
◇
作戦は、明日の正午まで待たないことに決まった。
黒牙は交渉期限を正午に指定した。
ならば、相手は藤堂家側が期限ぎりぎりに来ると思っている可能性が高い。
夜明け前に廃工場へ近付き、周囲を確認する。
明るくなる頃に作業車を正門へ出す。
誠と恒一が姿を見せる。
英樹は少し離れた場所から廃工場全体を監視する。
悠真は、正門側へ黒牙の注意が集まった後、工場の側面か裏手から侵入する。
美咲と彩乃を見つける。
拘束されているなら外す。
見張りがいるなら、気付かれずに避ける。
避けられないなら。
悠真は手元のバットを見る。
迷わない。
そう決めた。
「勝つ必要はない」
悠真は地図を見ながら言った。
「黒牙を倒す必要もない」
「蓮司を倒す必要も」
恒一が僅かに眉を動かす。
「今回の目的は二人を連れて帰ることです」
「全員で生きて帰る」
「それだけです」
英樹が娘のいない廊下を見る。
「それが一番難しいんだろうな」
「はい」
「でも、やります」
悠真は答えた。
勝つための作戦ではない。
奪われた二人を、取り返すための作戦。
卑怯でもいい。
嘘をついてもいい。
正面から戦わなくてもいい。
蓮司に見下されたままでいい。
美咲と彩乃が生きて戻るなら。
それ以外は、正直にいうと自分の命でさえ、どうでもよかった。
悠真は地図へ最後の線を引いた。
正門から離れた、廃工場の裏手。
そこへ、自分の名前を書く。
藤堂悠真。
蓮司が存在すら警戒していない、ただの大学生。
その過小評価を。
必ず利用する。
「絶対に助ける」
悠真は小さく呟いた。
今度は誰へ聞かせるためでもない。
自分自身へ刻み込むための言葉だった。
「どんな手を使っても」
青いグリップを強く握る。
「二人とも、必ず連れて帰る」
藤堂家の長い夜が、始まった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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