第40話 檻の中
廃工場の奥。
かつて資材置き場として使われていた一室は、今では黒牙が物資を保管するための部屋になっていた。
割れた窓は板で塞がれ、薄暗い室内には古い木箱やドラム缶が積み上げられている。
部屋の隅には毛布が二枚だけ敷かれていた。
「ここに入れておけ。」
黒田の指示で、美咲と彩乃は部屋へ押し込まれる。
扉の外には見張りが二人。
簡単には逃げられない。
黒田は二人を見回すと、部下たちへ穏やかな笑みを浮かべた。
「皆さん、まだ手荒な真似はしないでくださいね。」
その言葉に、何人かの男が不満そうな表情を浮かべる。
「黒田さん、せっかく捕まえたのに……。」
「そうっすよ。」
「黙ってください。」
黒田は笑顔のまま言った。
「相手の出方を見極める必要があります。」
そして二人へ視線を向ける。
「それに、この二人の商品価値も判断しなければなりませんから。」
美咲の肩が小さく震えた。
「商品……?」
「ええ。」
黒田は当然のように頷く。
「朝倉恒一という能力者をこちらへ引き込むための大切な交渉材料です。」
「能力者は、まだ非常に希少です。」
「ただ殺したり傷付けたりするには惜しい。」
部下たちは黙って聞いている。
黒田は続けた。
「それと……。」
彩乃を見る。
「こちらの女性には特に手を出さないように。」
「総長のお気に入りです。」
その一言で、男たちの顔色が変わる。
「勝手なことをすれば、私ではなく総長がお怒りになりますよ。」
「分かりました……。」
「よろしい。」
黒田は満足そうに頷いた。
「では、見張りを付けてください。」
そう言い残し、部屋を後にした。
◇
男たちも部屋から出て行き、扉が閉まる。
錆びた鉄扉が重々しく閉じる音だけが響いた。
美咲はその場へ座り込み、小さく肩を震わせる。
「ごめん……。」
ぽつりと呟く。
「私のせいで……。」
彩乃は首を横に振った。
「違う。」
「でも……。」
「誰も悪くない。」
彩乃も怖かった。
心臓は早鐘のように鳴っている。
それでも美咲の前では気丈でいた。
「絶対に助けに来る!」
「兄ちゃんも!」
「恒一先輩も。」
「だから、それまで私たちも諦めない。」
美咲は涙を拭き、小さく頷いた。
「うん……!!」
◇
ギィ、と扉が開く音がした。
入ってきたのは蓮司だった。
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
見張りの男たちも姿勢を正した。
蓮司はゆっくりと彩乃の前まで歩いてくる。
「まだそんな目で睨めるのか。」
低い声。
彩乃は一歩も引かず、蓮司を見返した。
「当然。」
「私は、あんたみたいな人間が一番嫌い。」
周囲の空気が凍る。
見張りの男たちが息を呑んだ。
蓮司は一瞬だけ無表情になり、次の瞬間、口元を歪めた。
「いいな。」
「その顔。」
手を伸ばし、彩乃の顎に触れようとする。
彩乃は即座にその手を払いのけた。
「触るな。」
乾いた音が響く。
美咲が息を呑む。
蓮司は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑った。
「強がりじゃねぇのか?」
「怖いよ。」
彩乃は正直に言った。
「でも、怖いからって何もしないほど弱くない。」
蓮司の笑みが深くなる。
「ますます気に入った。」
その時だった。
「総長。」
扉の方から声がかかる。
直人だった。
「黒田さんが呼んでます。」
蓮司は舌打ちする。
「何だよ、今いいところだろ。」
「捕まえた連中のことで話があるそうです。」
少しの沈黙。
蓮司は彩乃を見下ろしたまま、鼻で笑う。
「逃げるなよ。」
そう言い残し、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
残されたのは、直人と彩乃、美咲の三人だった。
直人は一瞬だけ彩乃を見る。
何か言いかけて、言葉を飲み込む。
「……。」
そのまま何も言わず、扉を閉めて外へ出ていった。
◇
コンコン。
しばらくして、再び扉が叩かれる。
「飯だ。」
同じ声。
扉が開き、直人が紙袋を抱えて入ってくる。
見張りの男が後ろで腕を組んだまま見ていた。
直人は無言で紙袋を床へ置く。
「食え。」
それだけ言う。
中を見ると、乾パン、缶詰、水のペットボトルが二本。
さらに菓子パンまで入っていた。
彩乃は袋を見つめる。
「……多くない?」
「余ってた。」
ぶっきらぼうに答える。
彩乃は直人を見る。
「嘘。」
「……。」
「これ、自分の分でしょ。」
直人は目を逸らした。
何も言わない。
その沈黙が答えだった。
「食わねぇと動けねぇ。」
ようやくそれだけ口にする。
「だから食え。」
彩乃は少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。」
直人の肩がわずかに揺れる。
「礼なんか言うな。」
「俺は黒牙だ。」
「それでも。」
彩乃は静かに言った。
「家に知らせてくれた。」
「ご飯も持ってきてくれた。」
「助けようとしてくれたじゃん。」
直人は拳を握る。
「助けられてねぇよ。」
声が震えていた。
「結局、お前ら捕まった。」
「俺は何も変えられなかった。」
彩乃はゆっくり首を横に振る。
「そんなことない!」
「相沢が警告してくれたから、私たちは家に戻れた。」
「知らせてくれなかったら、もっと酷いことになってた。」
直人は何も言えなかった。
責められる覚悟で来た。
なのに、感謝された。
それが何より苦しかった。
「……食え。」
ようやく絞り出す。
「冷める前に。」
彩乃が少し笑う。
「缶詰なのに?」
「うるせぇ。」
そのやり取りに、美咲も少しだけ笑みを浮かべた。
その笑顔を見た直人は、どこか安心したように息を吐く。
だが、その表情はすぐに曇った。
「……悪い。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
その一言だけ残し、直人は部屋を出ていく。
鉄扉が閉まり、再び静寂が戻る。
彩乃は手の中のペットボトルを見つめながら呟いた。
「相沢も……苦しんでる。」
美咲は静かに頷いた。
直人が部屋を出ると、重い鉄扉が閉まり、廃工場の静けさが戻った。
だが、その静けさとは裏腹に、直人の胸の内は荒れ狂っていた。
「直人。」
低い声が背後から掛かる。
驚いて振り返ると、黒田がいつもの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「随分と長居でしたね。」
直人の肩が僅かに震える。
「ただの飯を置いてきただけです。」
「そうですか。」
黒田は直人の横を通り過ぎ、閉じた扉を一瞥した。
「あなたは優しいですね〜」
その一言に、直人は反射的に顔を上げる。
「……何のことですか。」
「いえ。」
黒田は笑みを崩さない。
「まさか、自分の食料まで渡してしまうとは思いませんでしたので。」
心臓が跳ねた。
見られていた。
全部。
「違います。」
「余ってただけです。」
「そういうことにしておきましょう。」
黒田はそれ以上追及しなかった。
だが、その笑顔が直人には恐ろしく感じた。
何もかも見透かされているようだった。
「もう一度、忠告しておきます。」
黒田は眼鏡を押し上げる。
「情に流されると、あなた死にますよ。」
「……。」
「この世界はもう、以前とは違います。」
「必要なのは善意ではありません。」
「利用価値です。」
そう言うと、黒田は蓮司のいる事務所へ歩いていった。
直人はその背中を見送ることしかできなかった。
◇
事務所では蓮司が机に足を投げ出し、煙草を咥えていた。
頬には恒一との戦いでできた痣が残っている。
それでもどこか嬉しそうだった。
「総長。」
黒田が部屋へ入る。
「どうでした?」
蓮司は煙を吐きながら笑う。
「最高だ。」
「あんなに殴られたの、久しぶりだ。」
「朝倉恒一。」
「あいつは確かに強ぇ。」
黒田は静かに頷く。
「能力者である可能性は極めて高いでしょう。」
「間違いねぇ。」
「俺とヤツは同じ匂いがした。」
蓮司は拳を握る。
「次は絶対に勝つ。」
「そのためにも、まずは交渉です。」
黒田は机へ地図を広げた。
「水場の場所。」
「備蓄している物資。」
「そして能力者についての情報。」
「全て引き出せれば、こちらが一気に有利になります。」
「交渉に応じなかったら?」
「その時は考えましょう。」
黒田は淡々と答える。
「ですが、人質が二人ともこちらにいる以上、向こうも簡単には見捨てられません。」
蓮司はニヤリと笑った。
「あの若い兄ちゃんは?」
「ただのそこらの大学生でしょう。」
黒田は資料を見ながら答える。
「多少落ち着いてはいましたが、脅威ではありません。」
「警戒すべきは朝倉恒一だけです。」
「そうか。」
蓮司は興味なさそうに煙草を灰皿へ押し付ける。
「じゃあ雑魚は放っとけ。」
「はい。」
「俺はあの空手野郎とまた戦えれば良い。」
黒田は頷いた。
だが、その胸の内では別の計算もしていた。
あの場で一番冷静だったのは、あの大学生だった。
怯えているように見えて、最後まで周囲を観察していた。
黒田はそれを見逃していなかった。
だが確証はない。
だから今は、まだ報告しない。
もし自分の考え過ぎなら、総長に余計な警戒心を与えるだけだからだ。
「さて……。」
「明日はどんな顔をして現れるでしょうか。」
廃工場の外では、夕日がゆっくりと山の向こうへ沈み始めていた。
一方その頃、藤堂家では悠真たちが二人を救出するための作戦会議を始めようとしていた。
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