第39話 奪われたもの
ガンッ!
鉄パイプが門へ叩きつけられた。
補強した金属部分が大きく震え、庭に張り巡らせていた空き缶が一斉に鳴る。
カラン。
カラン、カラン。
家の中まで響く警報音に、三浦翔太が短い悲鳴を上げた。
「お母さん……!」
「大丈夫。」
三浦恵が息子を抱き寄せる。
自分の脚も満足に動かない。
それでも、翔太を守ろうと身体を覆いかぶせた。
「全員、奥の部屋へ!」
真由美が声を上げる。
美咲と由紀がすぐに動いた。
窓から離れ、三浦親子を廊下の奥へ移動させる。英樹が補強した部屋。外側に面した窓が少なく、いざとなれば裏口へ逃げられる場所だ。
「美咲。」
玄関に立つ恒一が振り返る。
「何があっても外へ出るな。」
「お兄ちゃんは?」
「俺は大丈夫だ。」
「でも、何人もいるんでしょ。」
「大丈夫だ。」
「さっきからそれしか言ってない。」
美咲の声が震える。
恒一は妹を見る。
怖がっている。
当然だった。
門の向こうにいるのは、魔犬ではない。
人間だ。
話ができるはずの人間が、武器を持って家へ押し入ろうとしている。
だからこそ、魔獣より怖い。
「美咲。」
恒一は静かに言った。
「母さんたちを頼む。」
「……。」
「俺を助けたいなら、奥へ行け。」
美咲は唇を噛んだ。
それから、小さく頷く。
「絶対に戻ってきて。」
「ああ。」
恒一は玄関の扉を閉めた。
鍵を掛ける音が、妙に大きく響いた。
◇
「壊すなよ。」
門の外で黒田拓海が言った。
鉄パイプを持った男が振り返る。
「でも、開けねぇと入れないっすよ。」
「商品を壊してどうするんです。」
「商品?」
「家も、物資も、中の人間もです。」
黒田は笑っていた。
いつもと同じ、愛想のいい笑顔。
だが、その言葉を聞いた恒一の中で、何かが冷えた。
「聞こえてるぞ。」
門の内側から声を掛ける。
黒田が視線を向けた。
「失礼しました。」
「帰れ。」
「先ほどから、そればかりですね。」
「他に言うことがない。」
恒一は門の内側へ立ったまま、黒田たちを観察していた。
黒田を含めて六人。
全員が男。
鉄パイプ。
金属バット。
バール。
木刀。
刃物を隠し持っている可能性もある。
以前、藤堂家へ来た時よりも明らかに武装していた。
話し合いに来た人間の姿ではない。
「こちらとしても、荒っぽいことはしたくないんですよ。」
黒田は門越しに言った。
「水と食料を少し分けていただく。」
「それから、水を汲んでいる場所を教えていただく。」
「たったそれだけです。」
「断る。」
「困っている人間を見捨てるんですか?」
「武器を持って押しかけてきた連中を、困っている人間とは呼ばない。」
「これは護身用ですよ。」
「なら地面に置け。」
「それはできませんね。」
「話は終わりだ。」
恒一は黒田から視線を外さない。
「帰れ。」
黒田は困ったように息を吐いた。
「残念です。」
右手を軽く上げる。
その合図で、男たちが動いた。
「門を開けろ。」
一人がバールを格子の隙間へ差し込む。
別の男が鉄パイプを振り上げた。
ガンッ!
再び大きな音。
補強した門はすぐには壊れない。
だが、何度も続けられれば分からない。
恒一は門の鍵へ手を掛けた。
家の中へ入らせない。
ならば、自分が外へ出るしかない。
「恒一君!」
玄関の内側から真由美の声が聞こえた。
「開けちゃ駄目!」
「門を壊されたら、全員入ってきます。」
「でも一人で!」
「大丈夫です。」
また、その言葉。
大丈夫。
本当にそうなのか、自分でも分からない。
それでも言わなければ、家の中の人々が動けなくなる。
「絶対に玄関を開けないでください。」
恒一は門の鍵を外した。
門が内側へ開く。
黒牙の男たちが一瞬、動きを止めた。
まさか自分から出てくるとは思っていなかったのだろう。
恒一は門を抜け、道路へ出る。
すぐに背後の門を閉めた。
「随分と素直ですね。」
黒田が言った。
「俺一人で十分だ。」
「何がです?」
「お前たちを追い返すのに。」
男たちの顔が歪む。
「舐めてんのか!」
鉄パイプを持った男が前へ出た。
「やめておいた方がいい。」
恒一は構えを取らない。
腕を下ろし、自然体のまま立っている。
それが余計に相手を苛立たせた。
「ぶっ殺す!」
男が鉄パイプを振り下ろした。
◇
速くない。
恒一には、そう見えた。
以前なら、十分に危険な速さだった。
当たれば骨が折れる。
頭部なら死ぬ可能性もある。
けれど今の恒一には、振り下ろされる軌道がはっきりと見えた。
身体を半歩ずらす。
鉄パイプが肩の横を通過する。
「え?」
男が間の抜けた声を出した。
恒一は男の手首を掴む。
親指側へ捻り、身体を沈める。
「ぐあっ!」
握力が抜けた。
鉄パイプが道路へ落ちる。
同時に足を払う。
男の身体が宙へ浮き、背中から地面へ叩きつけられた。
息が詰まる音。
恒一は追撃しない。
「次。」
残りの男たちを見る。
空気が変わった。
簡単に殴れる相手ではない。
全員が理解した。
「全員で行け!」
黒田が命じる。
三人が同時に動いた。
正面。
左右。
連携などない。
人数だけで押し切ろうとする動き。
恒一は一人目の木刀を左腕で受け流した。
踏み込む。
掌底を顎へ入れる。
男の頭が跳ね上がった。
その脇から金属バットが振られる。
しゃがむ。
頭上を金属が通過する。
低い姿勢から腹部へ拳を入れる。
「ごっ……!」
男が腹を抱えて崩れる。
背後。
足音。
恒一は振り返らず、身体を横へずらした。
バールが空を切る。
肘を後方へ突き出す。
胸部へ当たる。
男が後退したところで振り返り、脚を払う。
地面へ倒れる。
十秒もかからなかった。
三人。
全員が道路へ倒れている。
恒一は息を整える。
力を使った。
以前より明らかに身体が動く。
反応も、威力も、空手だけでは説明できない。
それでも、意識は正常だった。
頭の奥から声が聞こえることもない。
誰かを食べたいとも思わない。
殴ることが楽しいとも感じない。
まだ、自分だ。
「……なるほど。」
黒田が呟いた。
笑みが消えていた。
「噂以上ですね。」
「次はお前か。」
「私は喧嘩が得意ではありませんので。」
黒田は一歩下がった。
「ですが。」
道路の先を見る。
「ちょうどいい方が来ました。」
低いエンジン音が近付いてくる。
一台。
大型のバイク。
黒い車体。
道路の中央を、急ぐ様子もなく進んでくる。
恒一の背筋に、冷たい感覚が走った。
バイクが黒田の後方で止まる。
乗っていた男がヘルメットを脱いだ。
神崎蓮司。
右腕に黒い龍の刺青。
以前よりも太くなった腕。
服の上からでも分かるほど膨らんだ筋肉。
首筋から頬にかけて、黒い血管のような筋が薄く浮かんでいた。
「何だよ。」
蓮司は道路に倒れた男たちを見る。
「情けねぇな。」
「申し訳ありません、総長。」
黒田が頭を下げる。
「ですが、報告どおりでした。」
「こいつが?」
「はい。」
「普通ではありません。」
蓮司の目が恒一へ向く。
じっと見る。
品物を値踏みするような視線。
恒一は無意識に拳を握った。
「お前が、あの家の強い奴か。」
「帰れ。」
「そればっかだな。」
蓮司は笑った。
「名前は?」
「お前に名乗る必要はない。」
「俺は神崎蓮司。」
「聞いてない。」
蓮司の笑みが広がる。
「いいな。」
「その顔。」
バイクから降りる。
一歩。
道路へ足を置いた瞬間、恒一は感じた。
重い。
体重のことではない。
存在そのものが、普通の人間より濃い。
魔素。
自分の身体に入り込んだものと似ている。
だが、もっと濁っている。
もっと強く、気持ち悪い。
「お前。」
蓮司が言う。
「俺と同じだろ。」
「何の話だ。」
「隠すなよ。」
蓮司は倒れている男を片手で掴み、道路脇へ投げた。
成人男性の身体が、荷物のように転がる。
「普通の人間が、五人相手にあんな動きできるか。」
「お前も能力者だろ?」
家の中。
玄関の扉越しに聞いていた美咲の表情が強張る。
恒一は答えない。
「やっぱりいるんだな。」
蓮司は嬉しそうに笑った。
「俺以外にも。」
「選ばれた奴が。」
「選ばれた?」
恒一は眉を寄せる。
「何を勘違いしてる。」
「あ?」
「こんな力があるだけで、偉くなったつもりか。」
蓮司の笑みが薄くなる。
「お前も使ってるだろ。」
「家を守るためにな。」
「同じだ。」
「違う。」
恒一は静かに言った。
「俺は誰かを従わせるために使ってない。」
「守る?」
蓮司が鼻で笑う。
「弱い奴を背負って何になる。」
「足手まといが増えるだけだ。」
「お前には分からない。」
「分かる必要もねぇよ。」
蓮司は拳を鳴らした。
「力がある奴が上に立つ。」
「物資も女も、弱い奴らも。」
「強い奴が管理する。」
「もう、そういう世界だ。」
「ただ奪いたいだけだろ。」
「同じだ。」
「違う。」
恒一の構えが変わる。
左足を前。
両手を上げる。
空手の構え。
「お前は力に使われてる。」
蓮司の顔から笑みが消えた。
「言うじゃねぇか。」
次の瞬間。
蓮司が踏み込んだ。
◇
速い。
黒牙の男たちとは比べものにならない。
巨体が、一瞬で間合いを詰める。
右拳。
恒一は外側へ避ける。
頬のすぐ横を拳が通過した。
風圧。
当たっていないのに皮膚が痛い。
恒一は蓮司の脇腹へ突きを入れた。
硬い。
鍛えた筋肉。
だが、確かな手応え。
続けて顎へ掌底。
蓮司の頭がわずかに上がる。
恒一は軸足を回し、側頭部へ蹴りを放った。
命中。
鈍い音。
蓮司の身体が横へ揺れた。
道路にいた黒牙の男たちが息を呑む。
恒一は追う。
踏み込み。
胸部へ正拳。
腹部へ膝。
蓮司が数歩後退した。
「……。」
蓮司は顔を伏せている。
「帰れ。」
恒一は言った。
「今なら、まだ全員歩いて帰れる。」
蓮司の肩が震えた。
笑っている。
「面白ぇ。」
顔を上げる。
口元から血が流れていた。
それを親指で拭い、舐める。
「久しぶりだ。」
「こんなに殴られたの。」
目が輝いている。
怒りではない。
喜び。
恒一は寒気を覚えた。
この男は戦いを楽しんでいる。
痛みすら、自分の強さを確認するための刺激として受け入れている。
「やっぱり能力者だ。」
「しかも強ぇ。」
蓮司が再び踏み込む。
今度は拳ではない。
腕を広げ、掴みに来る。
恒一は後退する。
だが蓮司は止まらない。
門の横に置かれていた植木鉢を蹴り上げた。
土と破片が飛ぶ。
恒一の視界が一瞬遮られる。
「っ!」
その隙に蓮司が間合いへ入った。
肩。
腕。
掴まれる。
恒一は肘を入れるが、離れない。
「捕まえた。」
蓮司が笑う。
恒一の身体が持ち上がった。
足が地面から離れる。
「ぐっ!」
そのまま門へ叩きつけようとする。
恒一は身体を捻り、蓮司の耳へ掌底を打った。
人間の平衡感覚を崩す場所。
蓮司の力が一瞬緩む。
恒一は地面へ着地し、顎へ拳を入れた。
離れる。
蓮司がよろめく。
技術では恒一が上。
間合い。
急所。
身体の使い方。
蓮司は喧嘩慣れしていても、鍛え上げた格闘技術には及ばない。
だが。
倒れない。
何度打っても。
効いてはいる。
血も流れる。
身体も揺れる。
それでも、前へ出てくる。
「何で倒れない。」
恒一の口から声が漏れた。
「強いからだよ。」
蓮司は単純に答えた。
拳が飛ぶ。
恒一は避ける。
次の瞬間、蓮司の頭が突き出された。
頭突き。
額同士がぶつかる。
「っ!」
視界が白くなる。
鼻の奥に痛み。
恒一が下がったところへ、蓮司の膝が腹部へ入った。
「がっ……!」
息が抜ける。
続いて拳。
恒一は腕で受ける。
重い。
骨が軋む。
蹴り。
太腿へ当たる。
身体が崩れる。
蓮司は格闘家ではない。
構えもない。
規則もない。
使えるものを何でも使う。
頭。
爪。
服を掴む。
足を踏む。
路上で生き残るための喧嘩。
そこに、人間を超えた身体能力が加わっている。
恒一の技術が、少しずつ力で押し潰されていく。
「お兄ちゃん……。」
美咲は玄関の小さな覗き窓から外を見ていた。
恒一が押されている。
今まで見たことがなかった。
高校時代。
空手の試合。
後輩の指導。
兄が強いことを、美咲は知っていた。
魔犬に襲われて傷ついた時も、最後まで家族のことを考えていた。
その兄が、殴られている。
血を流している。
美咲の手が震えた。
「美咲ちゃん。」
真由美が後ろから呼ぶ。
「窓から離れて。」
「でも。」
「恒一君が、あなたを守るために外へ出たの。」
「……。」
「あなたが危険な場所に出たら、全部無駄になる。」
分かっている。
それでも、離れられない。
兄が倒れたら。
蓮司が家へ入ってきたら。
誰が守る。
何ができる。
「裏口から逃げる準備を。」
真由美が言う。
「由紀さん、三浦さんたちを。」
「はい。」
由紀が翔太を背負おうとする。
三浦恵は壁へ手をつきながら立ち上がった。
「私も歩きます。」
「無理です。」
「でも、翔太を抱えて逃げるなら。」
「私が背負う。」
美咲が振り返った。
「美咲ちゃん?」
「翔太君は私が。」
何かをしなければ。
ただ兄が殴られる姿を見ているだけでは耐えられない。
美咲は翔太の前へしゃがんだ。
「乗って。」
「でも。」
「早く。」
翔太が美咲の背中へ腕を回す。
その時。
玄関の外で大きな音がした。
ドンッ!
恒一の身体が門へ叩きつけられた。
「お兄ちゃん!」
美咲は反射的に立ち上がった。
翔太が背中から離れる。
「美咲!」
由紀が止める。
だが美咲は玄関へ走っていた。
扉は開けない。
開けてはいけない。
それでも兄の姿を確認したい。
覗き窓へ近付く。
恒一は膝をついていた。
口元から血を流している。
蓮司がその前に立つ。
「終わりか?」
恒一は地面へ手をつく。
立ち上がる。
「まだだ。」
「いいな。」
蓮司が笑う。
「お前、俺の下につけよ。」
「断る。」
「即答かよ。」
「誰がお前なんかに。」
恒一は息を整え、再び構える。
足が痛む。
腹部も。
左腕が痺れている。
それでも、まだ動ける。
家の中に美咲がいる。
倒れるわけにはいかない。
「俺と来れば、もっと強くなれる。」
蓮司が言う。
「魔獣を狩る。」
「食う。」
「力を増やす。」
「こんな家で、弱い奴らの面倒を見る必要もない。」
「お前は。」
恒一は蓮司を睨む。
「もう人間じゃない。」
蓮司の眉が動いた。
「力を得た人間だ。」
「違う。」
「欲望に食われた化け物だ。」
空気が変わる。
蓮司の目から笑みが消えた。
「殺すぞ。」
「やってみろ。」
恒一が踏み込む。
◇
恒一の拳が蓮司の顔面へ入る。
続いて二撃。
三撃。
蓮司も拳を振るう。
互いの攻撃が交差する。
恒一の頬が切れる。
蓮司の鼻から血が流れる。
恒一は技術で上回る。
蓮司は耐久力と力で押し返す。
均衡。
いや。
少しずつ恒一が下がっている。
守る場所がある。
門から離れられない。
蓮司を家へ近付けないため、動ける範囲が限られる。
黒田は、その戦いを少し離れた場所から見ていた。
倒れた部下たち。
恒一。
蓮司。
正面から入るのは難しい。
だが、全員の意識が二人の戦いへ向いている。
黒田は静かに道路脇へ下がった。
隣家との境。
低い塀。
以前、下見に来た時に確認している。
藤堂家の正門は補強されている。
だが、側面は正面ほどではない。
「二人、来てください。」
黒田が小声で言った。
まだ動ける手下二人が近付く。
「裏へ回ります。」
「でも総長は。」
「総長には戦っていてもらいましょう。」
「俺たちは目的を果たします。」
黒田たちは戦いから離れ、隣家側の路地へ入った。
恒一は気付かない。
蓮司の拳を避けるだけで精一杯だった。
◇
悠真たちの車が藤堂家へ近付く。
もう数百メートル。
その距離でも、金属音と怒鳴り声が聞こえた。
「まだ戦ってる。」
彩乃が言う。
「恒一先輩が。」
誠は返事をしない。
住宅街の狭い道を走る。
「前方、人影!」
悠真が叫ぶ。
黒牙の男が一人、道路の角に立っていた。
見張り。
乗用車に気付くと、懐から何かを取り出す。
笛。
鋭い音が響いた。
「戻ってきたことを知らせた!」
「そのまま行く!」
誠は速度を落とさない。
男が道路へ出る。
悠真は身構える。
だが男は、車へ轢かれる直前で横へ逃げた。
「止まらないで!」
彩乃が叫ぶ。
「分かってる!」
藤堂家が見える。
門。
道路。
倒れた男たち。
血。
壊れた植木鉢。
そして。
「恒一先輩!」
彩乃が叫んだ。
恒一が蓮司の拳を受け、道路へ転がる。
誠が急ブレーキを踏む。
乗用車が門の手前で止まった。
三人が車を降りる。
「恒一さん!」
悠真は金属バットを掴み、走り出そうとした。
だが。
「動くな!」
別の声が響いた。
黒田。
家の側面。
その腕の中に、美咲がいた。
後ろから首へ腕を回されている。
右手にはナイフ。
刃先が、美咲の首筋へ当てられていた。
「美咲!」
悠真の足が止まる。
身体中の血が冷えた。
美咲の顔は青ざめている。
両手で黒田の腕を掴んでいるが、振りほどけない。
首筋には、刃が触れた細い傷。
赤い血が一筋だけ流れていた。
「悠真……。」
震える声。
悠真の手から、バットが落ちそうになる。
「離せ!」
恒一が立ち上がろうとする。
黒田がナイフをわずかに動かした。
「動かないでください。」
美咲の首筋から、もう一筋血が流れる。
「お兄ちゃん!」
美咲が叫ぶ。
恒一の動きが止まった。
蓮司が振り返る。
「何だよ、黒田。」
少し不満そうな顔。
「余計なことすんなよ」
「これから面白くなるところだっただろ?」
「総長。」
黒田は冷静に答える。
「目的は喧嘩ではありません。」
「水場と物資、それから人員の確保です。」
「……。」
蓮司は美咲を見る。
口元が歪む。
「まあいい。」
恒一へ近付き、腹部を蹴った。
「ぐっ……!」
恒一が膝をつく。
反撃できない。
黒田の刃が美咲へ向いている。
「恒一さん!」
悠真が叫ぶ。
「ダメだ来るな!」
恒一が叫び返す。
「美咲が!」
「分かってる!」
何もできない。
蓮司は悠真へ一度だけ視線を向けた。
金属バットを持つ、細身の青年。
怯えた顔。
恒一のような圧もなければ鍛えた立ち方でもない。
すぐに興味を失った。
蓮司の認識では、能力者は恒一だけだった。
「お前の家族か?」
蓮司が恒一へ聞く。
「妹を離せ。」
「妹か。」
笑う。
「いい顔してるじゃねぇか。」
恒一が立ち上がろうとする。
黒田の刃が再び動く。
「止まれ。」
「……。」
「力があるのに、何もできねぇなー」
蓮司は恒一の髪を掴み、顔を上げさせる。
「弱い奴を守ろうとするからだ。」
「そいつらを捨てれば、お前はもっと強くなれる。」
恒一は血の混じった唾を地面へ吐いた。
「逆だ。」
「あ?」
「守る相手がいるから。」
蓮司を睨む。
「俺は人間でいられる。」
蓮司の顔から笑みが消える。
拳を振り上げた。
「待って!」
彩乃の声が響いた。
◇
全員の視線が彩乃へ向く。
悠真が振り返る。
「彩乃!」
彩乃は木の棒を地面へ置いた。
ゆっくりと両手を上げる。
「何してる。さがれ!」
「その子を離して!!。」
黒田ではない。
蓮司を真っ直ぐ見る。
「あんたが噂のリーダーなんでしょ?」
蓮司が彩乃へ顔を向ける。
初めて見る。
黒田から報告を受けていた、もう一人の若い女。
美咲とは違う。
怯えている。
だが、目を逸らさない。
立ち方。
重心。
身体の使い方。
戦える人間だと、蓮司にも分かった。
「彩乃、下がれ。」
誠が言う。
彩乃は動かない。
「私も一緒に行く。」
悠真の頭が、一瞬理解を拒んだ。
「何言ってるんだ。」
「私も人質になる。」
「彩乃!」
「その代わり。」
彩乃は蓮司を見続ける。
「美咲ちゃんには手を出さないで。」
「駄目!」
美咲が叫ぶ。
「彩乃ちゃん、来ちゃ駄目!」
黒田の腕の中でもがく。
ナイフが揺れる。
「動かないで!」
彩乃が美咲へ言った。
強い声。
美咲の動きが止まる。
彩乃は、少しだけ笑った。
震えていることを悟らせないように。
「大丈夫だよ。」
「何が大丈夫なの……。」
「私も一緒に行くから。」
「そういう意味じゃないよ!」
美咲の目から涙がこぼれる。
「彩乃ちゃんまで来たら駄目だよ!」
「一人で行かせる方が無理。」
「でも。」
「大丈夫。」
彩乃は繰り返す。
「絶対に二人で帰ってくるから。」
その言葉は、美咲を安心させるためだけではない。
自分へ言い聞かせている。
捕まるために行くのではない。
美咲を一人にしない。
隙を探す。
必ず逃げる。
その覚悟だった。
「面白ぇな。」
蓮司が笑った。
彩乃を見る目が変わる。
外見だけではない。
自分の前で目を逸らさない。
仲間のために、自分から人質になる。
その強さが、蓮司の支配欲を刺激した。
「普通は泣いて助けてくれって言うもんだろ。」
「泣いたら美咲を返すの?」
彩乃が聞き返す。
蓮司の笑みが深くなる。
「いいな、お前。」
「気に入った。」
悠真の背筋に嫌悪が走る。
気に入った。
好意ではない。
自分へ従わせたい。
屈服させたい。
そういう目だった。
「その強がり。」
蓮司が彩乃へ近付く。
「いつまで続くか見てみたい。」
「近付くな!」
悠真が叫び、バットを構える。
蓮司が悠真を見る。
今度は少し長く。
それでも、警戒はしない。
「コイツの兄貴か?」
「彩乃に触るな。」
「怖ぇ顔すんなよ。」
蓮司は笑う。
「お前じゃ、俺を止められねぇ。」
その言葉は事実だった。
今の悠真が正面から戦っても勝てない。
分かっている。
だからこそ悔しい。
「彩乃。」
誠が低い声で言う。
「戻れ。」
「お父さん。」
「これは命令だ。」
「戻れ。」
彩乃の目が揺れた。
父の声。
従いたい。
怖い。
逃げたい。
でも、美咲の首には刃がある。
「戻ったら。」
彩乃が言う。
「美咲はどうなるの?」
「それは。」
「誰が助けるの?」
「……。」
「私が一緒にいれば、少なくとも一人じゃない。」
「彩乃。」
「ごめんなさい。」
誠の顔が歪む。
「でも、行く。」
彩乃は一歩前へ出た。
悠真が腕を掴む。
「駄目だ。」
「離して。」
「絶対に駄目だ。」
「お兄ちゃん。」
「俺が何とかする。」
「どうやって?」
言葉が詰まる。
美咲の首に刃。
蓮司。
黒田。
黒牙の男たち。
倒れた恒一。
今の悠真には、何もできない。
「私なら。」
彩乃は小声で言った。
「中に入っても戦える。」
「逃げる隙も探せる。」
「美咲ちゃんを守れる。」
「でも。」
「お兄ちゃんは外から助けて。」
悠真は妹を見る。
怖い。
彩乃の手が震えている。
強がっているだけだ。
それでも覚悟を決めている。
「絶対に来て。」
彩乃が言った。
「助けに来て。」
悠真の手から力が抜ける。
彩乃は腕を抜いた。
蓮司の方へ歩いていく。
黒牙の男が近付き、彩乃の両腕を後ろで拘束しようとする。
「私に気安く触るな。」
彩乃が睨む。
男が一瞬怯む。
蓮司が笑った。
「いい。」
「そいつは俺が見る。」
彩乃の肩へ手を置く。
ぞっとする感触。
彩乃は顔を歪めたが、逃げなかった。
「美咲は離して。」
「駄目です。」
黒田が答える。
「二人とも連れていきます。」
「約束が違う。」
「あなたは条件を出せる立場ではありません。」
彩乃が蓮司を見る。
蓮司は肩をすくめる。
「安心しろ。」
「今すぐ傷つけるつもりはねぇ。」
「返してほしければ、条件を飲め。」
恒一が顔を上げる。
「条件?」
蓮司は藤堂家を見回した。
すべてを自分のものとして見る目。
「食料と水。」
「使える物資を全部寄越せ。」
「湧き水の場所も教えろ。」
「お前らが知ってる魔獣や能力者の情報も全部だ。」
恒一へ視線を戻す。
「それから。」
「お前らは今後、俺たちに従え。」
「断る。」
恒一は即答した。
蓮司が笑う。
「なら女は返さねぇ。」
「男は働け。」
「力のある奴は俺の下につけ。」
「家も、物資も、水も。」
「俺たちが管理する。」
「管理?」
誠が声を震わせる。
「奪うと言え。」
「同じだろ。」
「違う。」
「弱い奴だけで持ってるから奪われる。」
蓮司は恒一を指差す。
「お前もだ。」
「俺の下につけ。」
「能力者同士、仲良くしようぜ。」
「何度言われても断る。」
「なら。」
蓮司は彩乃の肩を引き寄せた。
彩乃が嫌悪に顔を歪める。
「ゆっくり考えろ。」
「二人がどうなるか想像しながらな。」
「彩乃から手を離せ!」
悠真がバットを構える。
蓮司は鼻で笑った。
「お前は黙ってろ。」
「今は、お前みたいな奴に興味ねぇ。」
その言葉が、悠真の胸へ突き刺さる。
侮辱。
だが同時に。
蓮司は知らない。
悠真が能力者であることを。
《鑑定》を持っていることを。
恒一より弱く見えること。
戦えない一般人だと思われていること。
今は、それが唯一の利点だった。
悠真は口を閉じた。
怒りを飲み込む。
ここで飛びかかれば、美咲と彩乃が傷つく。
今は耐える。
覚える。
見る。
人数。
武器。
車。
蓮司。
黒田。
逃走方向。
すべてを。
(《鑑定》)
⸻
【神崎 蓮司】
【状態:興奮】
【身体能力向上・大】
【欲望増強】
【精神汚染進行中】
【侵食率:11%】
⸻
十一パーセント。
以前、恒一は十四パーセントでも理性を保っていた。
蓮司は十一パーセントで、ここまで壊れている。
数字だけではない。
受け入れ方。
力の使い方。
欲望。
人間性。
その全てが違う。
さらに見る。
⸻
【黒田 拓海】
【状態:警戒】
【敵意:中】
【目的:人質確保/物資獲得】
⸻
車。
二台。
バイク。
退路。
悠真は静かに情報を集めた。
蓮司は、その視線の意味に気付かない。
◇
美咲と彩乃は、黒牙の小型車へ連れていかれた。
黒田が美咲を拘束したまま後部座席へ乗せる。
彩乃も隣へ押し込まれる。
「美咲ちゃん」
彩乃がすぐに手を握った。
美咲の手は冷たく、震えていた。
「ごめんなさい、、」
美咲が泣きながら言う。
「私のせいで、、」
「違う。」
「でも、私が捕まらなかったら。」
「違うよ。」
彩乃は美咲の手を強く握る。
「一緒に帰る。」
「絶対に。」
「怖くないの?」
美咲が聞く。
彩乃は一瞬、答えられなかった。
車の外では、蓮司が恒一たちを見下ろしている。
黒牙の男たち。
武器。
知らない場所へ連れていかれる。
怖くないはずがない。
「怖いよ。」
彩乃は正直に言った。
「でも、一人じゃない。」
「……。」
「美咲ちゃんも一緒だから。」
今度は美咲が、彩乃の手を握り返した。
「うん。」
「私も一緒にいる。」
二人は互いの手を離さなかった。
◇
「明日の正午まで待つ。」
蓮司が言った。
「物資と水場の情報を持って、廃工場へ来い。」
「警察を連れてきたら?」
誠が聞く。
「その時は分かるだろ?」
蓮司が車を見る。
「それにいまは、警察なんかまともに機能してねぇよ。」
恒一が立ち上がろうとする。
身体が揺れる。
それでも拳を握る。
「今すぐ2人を返せ。」
「またやるか?」
蓮司が笑う。
「今度は妹を見ながら。」
恒一の足が止まる。
「力があるのに、守れなかったな。」
蓮司はそう言い残し、バイクへ戻った。
黒田も車へ乗る。
黒牙の男たちは、動ける仲間を引きずりながら車やバイクへ乗せた。
エンジン音。
一台。
また一台。
車が動き出す。
「美咲!」
悠真が叫ぶ。
後部座席の窓。
美咲が振り返る。
涙。
その隣で彩乃もこちらを見ていた。
彩乃は唇を動かした。
声は聞こえない。
だが、分かった。
助けに来て。
悠真はバットを握り締めた。
「必ず行く。」
声が震える。
「絶対に。」
車は角を曲がる。
美咲と彩乃の姿が見えなくなる。
エンジン音だけが遠ざかっていった。
◇
静かになった道路に、誰も動けずにいた。
誠は、娘が消えた方向を見つめている。
顔から表情が失われていた。
「俺が、、、」
声が掠れる。
「俺が彩乃を連れ出した。」
「父さん。」
「囮なんて考えたから。」
「違う。」
悠真が言う。
「でも。」
「今は、それを言ってる場合じゃない。」
自分でも驚くほど低い声だった。
怒り。
恐怖。
焦り。
全部が胸の中で暴れている。
それでも、頭は妙に冷静だった。
二人は生きている。
蓮司は交渉材料にするつもりだ。
すぐには殺さない。
廃工場。
正午まで。
条件。
時間がある。
なら、助けられる。
「恒一さん。」
悠真は呼ぶ。
恒一は道路へ膝をついていた。
拳から血が流れている。
地面を殴ったのだろう。
「俺が守るって、、、」
恒一が呟く。
「美咲に言った。」
「……。」
「俺がいたのに、、、何もできなかった、、」
「黒田が人質を取った。」
「それでも。」
「俺がもっと強ければ!!」
「違う。」
悠真はもう一度言った。
「強さの問題じゃない。」
「美咲を人質にされたら、誰だって動けない。」
「でも。」
「今は自分を責めないでください。」
「そんな時間はない。」
恒一が顔を上げる。
悠真を見る。
いつもの慎重な大学生。
戦いを怖がる青年。
魔犬を殺したことに震えていた青年。
その目が変わっていた。
「二人は生きてる。」
悠真は言った。
「だったら助けられる。」
「どうやって。」
誠が尋ねる。
「物資を渡しても、服従しても、あいつらが約束を守る保証はない。」
「分かってる。」
悠真は蓮司たちが消えた道を見る。
「だから、まともに交渉しない。」
「悠真。」
「正面から行けば、蓮司は恒一さんを警戒する。」
「黒牙も集まる。」
「でも。」
金属バットを握る。
「蓮司は俺を知らない。」
全員が悠真を見る。
「俺が能力者だって知らない。」
「《鑑定》が使えることも。」
「戦えると思ってない。」
先ほどの蓮司の言葉。
お前みたいな奴に興味はない。
その侮り。
それを利用する。
「俺なら。」
悠真は言う。
「中へ入れるかもしれない。」
「見張りの位置も。」
「美咲と彩乃がいる場所も。」
「逃げ道も見つけられる。」
「一人で行くつもりか。」
誠の声が強くなる。
「一人じゃない。」
悠真は恒一を見る。
「正面は恒一さんにお願いします。」
「蓮司を引きつけてください。」
「その間に、俺が二人を助け出す。」
恒一の目が見開かれる。
「危険すぎる。」
「分かってます。」
「黒牙の拠点だぞ。」
「分かってる。」
「捕まったら。」
「それでも行く。」
悠真は迷わなかった。
怖い。
今にも吐きそうなほど怖い。
人間を殴ることになるかもしれない。
殺すことになるかもしれない。
自分も死ぬかもしれない。
でも。
美咲。
彩乃。
二人が連れていかれた。
怖いからと止まる理由にはならない。
「どんな手を使っても。」
悠真は言った。
「騙しても。」
「隠れても。」
「後ろから殴っても。」
「必要なら、人間相手にこのバットを使っても。」
青いグリップを握る手に力を込める。
「絶対に二人を助け出す。」
声は震えていた。
それでも、言葉は揺れなかった。
守るだけでは足りない。
奪われた。
なら、奪い返す。
正しい方法でなくてもいい。
綺麗なやり方でなくてもいい。
二人が戻るなら。
生きて帰れるなら。
「俺が。」
悠真は暗い道路の先を睨んだ。
「必ず連れ戻す。」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
少しでも「おもしろかった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
感想・レビュー・ブックマーク・評価などで応援していただけると、とても励みになります。
皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。
誤字脱字なども気づいた点があれば、遠慮なく教えてください。
これからもよろしくお願いします。




