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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

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第39話 奪われたもの



 ガンッ!


 鉄パイプが門へ叩きつけられた。


 補強した金属部分が大きく震え、庭に張り巡らせていた空き缶が一斉に鳴る。


 カラン。


 カラン、カラン。


 家の中まで響く警報音に、三浦翔太が短い悲鳴を上げた。


「お母さん……!」


「大丈夫。」


 三浦恵が息子を抱き寄せる。


 自分の脚も満足に動かない。


 それでも、翔太を守ろうと身体を覆いかぶせた。


「全員、奥の部屋へ!」


 真由美が声を上げる。


 美咲と由紀がすぐに動いた。


 窓から離れ、三浦親子を廊下の奥へ移動させる。英樹が補強した部屋。外側に面した窓が少なく、いざとなれば裏口へ逃げられる場所だ。


「美咲。」


 玄関に立つ恒一が振り返る。


「何があっても外へ出るな。」


「お兄ちゃんは?」


「俺は大丈夫だ。」


「でも、何人もいるんでしょ。」


「大丈夫だ。」


「さっきからそれしか言ってない。」


 美咲の声が震える。


 恒一は妹を見る。


 怖がっている。


 当然だった。


 門の向こうにいるのは、魔犬ではない。


 人間だ。


 話ができるはずの人間が、武器を持って家へ押し入ろうとしている。


 だからこそ、魔獣より怖い。


「美咲。」


 恒一は静かに言った。


「母さんたちを頼む。」


「……。」


「俺を助けたいなら、奥へ行け。」


 美咲は唇を噛んだ。


 それから、小さく頷く。


「絶対に戻ってきて。」


「ああ。」


 恒一は玄関の扉を閉めた。


 鍵を掛ける音が、妙に大きく響いた。



「壊すなよ。」


 門の外で黒田拓海が言った。


 鉄パイプを持った男が振り返る。


「でも、開けねぇと入れないっすよ。」


「商品を壊してどうするんです。」


「商品?」


「家も、物資も、中の人間もです。」


 黒田は笑っていた。


 いつもと同じ、愛想のいい笑顔。


 だが、その言葉を聞いた恒一の中で、何かが冷えた。


「聞こえてるぞ。」


 門の内側から声を掛ける。


 黒田が視線を向けた。


「失礼しました。」


「帰れ。」


「先ほどから、そればかりですね。」


「他に言うことがない。」


 恒一は門の内側へ立ったまま、黒田たちを観察していた。


 黒田を含めて六人。


 全員が男。


 鉄パイプ。


 金属バット。


 バール。


 木刀。


 刃物を隠し持っている可能性もある。


 以前、藤堂家へ来た時よりも明らかに武装していた。


 話し合いに来た人間の姿ではない。


「こちらとしても、荒っぽいことはしたくないんですよ。」


 黒田は門越しに言った。


「水と食料を少し分けていただく。」


「それから、水を汲んでいる場所を教えていただく。」


「たったそれだけです。」


「断る。」


「困っている人間を見捨てるんですか?」


「武器を持って押しかけてきた連中を、困っている人間とは呼ばない。」


「これは護身用ですよ。」


「なら地面に置け。」


「それはできませんね。」


「話は終わりだ。」


 恒一は黒田から視線を外さない。


「帰れ。」


 黒田は困ったように息を吐いた。


「残念です。」


 右手を軽く上げる。


 その合図で、男たちが動いた。


「門を開けろ。」


 一人がバールを格子の隙間へ差し込む。


 別の男が鉄パイプを振り上げた。


 ガンッ!


 再び大きな音。


 補強した門はすぐには壊れない。


 だが、何度も続けられれば分からない。


 恒一は門の鍵へ手を掛けた。


 家の中へ入らせない。


 ならば、自分が外へ出るしかない。


「恒一君!」


 玄関の内側から真由美の声が聞こえた。


「開けちゃ駄目!」


「門を壊されたら、全員入ってきます。」


「でも一人で!」


「大丈夫です。」


 また、その言葉。


 大丈夫。


 本当にそうなのか、自分でも分からない。


 それでも言わなければ、家の中の人々が動けなくなる。


「絶対に玄関を開けないでください。」


 恒一は門の鍵を外した。


 門が内側へ開く。


 黒牙の男たちが一瞬、動きを止めた。


 まさか自分から出てくるとは思っていなかったのだろう。


 恒一は門を抜け、道路へ出る。


 すぐに背後の門を閉めた。


「随分と素直ですね。」


 黒田が言った。


「俺一人で十分だ。」


「何がです?」


「お前たちを追い返すのに。」


 男たちの顔が歪む。


「舐めてんのか!」


 鉄パイプを持った男が前へ出た。


「やめておいた方がいい。」


 恒一は構えを取らない。


 腕を下ろし、自然体のまま立っている。


 それが余計に相手を苛立たせた。


「ぶっ殺す!」


 男が鉄パイプを振り下ろした。



 速くない。


 恒一には、そう見えた。


 以前なら、十分に危険な速さだった。


 当たれば骨が折れる。


 頭部なら死ぬ可能性もある。


 けれど今の恒一には、振り下ろされる軌道がはっきりと見えた。


 身体を半歩ずらす。


 鉄パイプが肩の横を通過する。


「え?」


 男が間の抜けた声を出した。


 恒一は男の手首を掴む。


 親指側へ捻り、身体を沈める。


「ぐあっ!」


 握力が抜けた。


 鉄パイプが道路へ落ちる。


 同時に足を払う。


 男の身体が宙へ浮き、背中から地面へ叩きつけられた。


 息が詰まる音。


 恒一は追撃しない。


「次。」


 残りの男たちを見る。


 空気が変わった。


 簡単に殴れる相手ではない。


 全員が理解した。


「全員で行け!」


 黒田が命じる。


 三人が同時に動いた。


 正面。


 左右。


 連携などない。


 人数だけで押し切ろうとする動き。


 恒一は一人目の木刀を左腕で受け流した。


 踏み込む。


 掌底を顎へ入れる。


 男の頭が跳ね上がった。


 その脇から金属バットが振られる。


 しゃがむ。


 頭上を金属が通過する。


 低い姿勢から腹部へ拳を入れる。


「ごっ……!」


 男が腹を抱えて崩れる。


 背後。


 足音。


 恒一は振り返らず、身体を横へずらした。


 バールが空を切る。


 肘を後方へ突き出す。


 胸部へ当たる。


 男が後退したところで振り返り、脚を払う。


 地面へ倒れる。


 十秒もかからなかった。


 三人。


 全員が道路へ倒れている。


 恒一は息を整える。


 力を使った。


 以前より明らかに身体が動く。


 反応も、威力も、空手だけでは説明できない。


 それでも、意識は正常だった。


 頭の奥から声が聞こえることもない。


 誰かを食べたいとも思わない。


 殴ることが楽しいとも感じない。


 まだ、自分だ。


「……なるほど。」


 黒田が呟いた。


 笑みが消えていた。


「噂以上ですね。」


「次はお前か。」


「私は喧嘩が得意ではありませんので。」


 黒田は一歩下がった。


「ですが。」


 道路の先を見る。


「ちょうどいい方が来ました。」


 低いエンジン音が近付いてくる。


 一台。


 大型のバイク。


 黒い車体。


 道路の中央を、急ぐ様子もなく進んでくる。


 恒一の背筋に、冷たい感覚が走った。


 バイクが黒田の後方で止まる。


 乗っていた男がヘルメットを脱いだ。


 神崎蓮司。


 右腕に黒い龍の刺青。


 以前よりも太くなった腕。


 服の上からでも分かるほど膨らんだ筋肉。


 首筋から頬にかけて、黒い血管のような筋が薄く浮かんでいた。


「何だよ。」


 蓮司は道路に倒れた男たちを見る。


「情けねぇな。」


「申し訳ありません、総長。」


 黒田が頭を下げる。


「ですが、報告どおりでした。」


「こいつが?」


「はい。」


「普通ではありません。」


 蓮司の目が恒一へ向く。


 じっと見る。


 品物を値踏みするような視線。


 恒一は無意識に拳を握った。


「お前が、あの家の強い奴か。」


「帰れ。」


「そればっかだな。」


 蓮司は笑った。


「名前は?」


「お前に名乗る必要はない。」


「俺は神崎蓮司。」


「聞いてない。」


 蓮司の笑みが広がる。


「いいな。」


「その顔。」


 バイクから降りる。


 一歩。


 道路へ足を置いた瞬間、恒一は感じた。


 重い。


 体重のことではない。


 存在そのものが、普通の人間より濃い。


 魔素。


 自分の身体に入り込んだものと似ている。


 だが、もっと濁っている。


 もっと強く、気持ち悪い。


「お前。」


 蓮司が言う。


「俺と同じだろ。」


「何の話だ。」


「隠すなよ。」


 蓮司は倒れている男を片手で掴み、道路脇へ投げた。


 成人男性の身体が、荷物のように転がる。


「普通の人間が、五人相手にあんな動きできるか。」


「お前も能力者だろ?」


 家の中。


 玄関の扉越しに聞いていた美咲の表情が強張る。


 恒一は答えない。


「やっぱりいるんだな。」


 蓮司は嬉しそうに笑った。


「俺以外にも。」


「選ばれた奴が。」


「選ばれた?」


 恒一は眉を寄せる。


「何を勘違いしてる。」


「あ?」


「こんな力があるだけで、偉くなったつもりか。」


 蓮司の笑みが薄くなる。


「お前も使ってるだろ。」


「家を守るためにな。」


「同じだ。」


「違う。」


 恒一は静かに言った。


「俺は誰かを従わせるために使ってない。」


「守る?」


 蓮司が鼻で笑う。


「弱い奴を背負って何になる。」


「足手まといが増えるだけだ。」


「お前には分からない。」


「分かる必要もねぇよ。」


 蓮司は拳を鳴らした。


「力がある奴が上に立つ。」


「物資も女も、弱い奴らも。」


「強い奴が管理する。」


「もう、そういう世界だ。」


「ただ奪いたいだけだろ。」


「同じだ。」


「違う。」


 恒一の構えが変わる。


 左足を前。


 両手を上げる。


 空手の構え。


「お前は力に使われてる。」


 蓮司の顔から笑みが消えた。


「言うじゃねぇか。」


 次の瞬間。


 蓮司が踏み込んだ。



 速い。


 黒牙の男たちとは比べものにならない。


 巨体が、一瞬で間合いを詰める。


 右拳。


 恒一は外側へ避ける。


 頬のすぐ横を拳が通過した。


 風圧。


 当たっていないのに皮膚が痛い。


 恒一は蓮司の脇腹へ突きを入れた。


 硬い。


 鍛えた筋肉。


 だが、確かな手応え。


 続けて顎へ掌底。


 蓮司の頭がわずかに上がる。


 恒一は軸足を回し、側頭部へ蹴りを放った。


 命中。


 鈍い音。


 蓮司の身体が横へ揺れた。


 道路にいた黒牙の男たちが息を呑む。


 恒一は追う。


 踏み込み。


 胸部へ正拳。


 腹部へ膝。


 蓮司が数歩後退した。


「……。」


 蓮司は顔を伏せている。


「帰れ。」


 恒一は言った。


「今なら、まだ全員歩いて帰れる。」


 蓮司の肩が震えた。


 笑っている。


「面白ぇ。」


 顔を上げる。


 口元から血が流れていた。


 それを親指で拭い、舐める。


「久しぶりだ。」


「こんなに殴られたの。」


 目が輝いている。


 怒りではない。


 喜び。


 恒一は寒気を覚えた。


 この男は戦いを楽しんでいる。


 痛みすら、自分の強さを確認するための刺激として受け入れている。


「やっぱり能力者だ。」


「しかも強ぇ。」


 蓮司が再び踏み込む。


 今度は拳ではない。


 腕を広げ、掴みに来る。


 恒一は後退する。


 だが蓮司は止まらない。


 門の横に置かれていた植木鉢を蹴り上げた。


 土と破片が飛ぶ。


 恒一の視界が一瞬遮られる。


「っ!」


 その隙に蓮司が間合いへ入った。


 肩。


 腕。


 掴まれる。


 恒一は肘を入れるが、離れない。


「捕まえた。」


 蓮司が笑う。


 恒一の身体が持ち上がった。


 足が地面から離れる。


「ぐっ!」


 そのまま門へ叩きつけようとする。


 恒一は身体を捻り、蓮司の耳へ掌底を打った。


 人間の平衡感覚を崩す場所。


 蓮司の力が一瞬緩む。


 恒一は地面へ着地し、顎へ拳を入れた。


 離れる。


 蓮司がよろめく。


 技術では恒一が上。


 間合い。


 急所。


 身体の使い方。


 蓮司は喧嘩慣れしていても、鍛え上げた格闘技術には及ばない。


 だが。


 倒れない。


 何度打っても。


 効いてはいる。


 血も流れる。


 身体も揺れる。


 それでも、前へ出てくる。


「何で倒れない。」


 恒一の口から声が漏れた。


「強いからだよ。」


 蓮司は単純に答えた。


 拳が飛ぶ。


 恒一は避ける。


 次の瞬間、蓮司の頭が突き出された。


 頭突き。


 額同士がぶつかる。


「っ!」


 視界が白くなる。


 鼻の奥に痛み。


 恒一が下がったところへ、蓮司の膝が腹部へ入った。


「がっ……!」


 息が抜ける。


 続いて拳。


 恒一は腕で受ける。


 重い。


 骨が軋む。


 蹴り。


 太腿へ当たる。


 身体が崩れる。


 蓮司は格闘家ではない。


 構えもない。


 規則もない。


 使えるものを何でも使う。


 頭。


 爪。


 服を掴む。


 足を踏む。


 路上で生き残るための喧嘩。


 そこに、人間を超えた身体能力が加わっている。


 恒一の技術が、少しずつ力で押し潰されていく。


「お兄ちゃん……。」


 美咲は玄関の小さな覗き窓から外を見ていた。


 恒一が押されている。


 今まで見たことがなかった。


 高校時代。


 空手の試合。


 後輩の指導。


 兄が強いことを、美咲は知っていた。


 魔犬に襲われて傷ついた時も、最後まで家族のことを考えていた。


 その兄が、殴られている。


 血を流している。


 美咲の手が震えた。


「美咲ちゃん。」


 真由美が後ろから呼ぶ。


「窓から離れて。」


「でも。」


「恒一君が、あなたを守るために外へ出たの。」


「……。」


「あなたが危険な場所に出たら、全部無駄になる。」


 分かっている。


 それでも、離れられない。


 兄が倒れたら。


 蓮司が家へ入ってきたら。


 誰が守る。


 何ができる。


「裏口から逃げる準備を。」


 真由美が言う。


「由紀さん、三浦さんたちを。」


「はい。」


 由紀が翔太を背負おうとする。


 三浦恵は壁へ手をつきながら立ち上がった。


「私も歩きます。」


「無理です。」


「でも、翔太を抱えて逃げるなら。」


「私が背負う。」


 美咲が振り返った。


「美咲ちゃん?」


「翔太君は私が。」


 何かをしなければ。


 ただ兄が殴られる姿を見ているだけでは耐えられない。


 美咲は翔太の前へしゃがんだ。


「乗って。」


「でも。」


「早く。」


 翔太が美咲の背中へ腕を回す。


 その時。


 玄関の外で大きな音がした。


 ドンッ!


 恒一の身体が門へ叩きつけられた。


「お兄ちゃん!」


 美咲は反射的に立ち上がった。


 翔太が背中から離れる。


「美咲!」


 由紀が止める。


 だが美咲は玄関へ走っていた。


 扉は開けない。


 開けてはいけない。


 それでも兄の姿を確認したい。


 覗き窓へ近付く。


 恒一は膝をついていた。


 口元から血を流している。


 蓮司がその前に立つ。


「終わりか?」


 恒一は地面へ手をつく。


 立ち上がる。


「まだだ。」


「いいな。」


 蓮司が笑う。


「お前、俺の下につけよ。」


「断る。」


「即答かよ。」


「誰がお前なんかに。」


 恒一は息を整え、再び構える。


 足が痛む。


 腹部も。


 左腕が痺れている。


 それでも、まだ動ける。


 家の中に美咲がいる。


 倒れるわけにはいかない。


「俺と来れば、もっと強くなれる。」


 蓮司が言う。


「魔獣を狩る。」


「食う。」


「力を増やす。」


「こんな家で、弱い奴らの面倒を見る必要もない。」


「お前は。」


 恒一は蓮司を睨む。


「もう人間じゃない。」


 蓮司の眉が動いた。


「力を得た人間だ。」


「違う。」


「欲望に食われた化け物だ。」


 空気が変わる。


 蓮司の目から笑みが消えた。


「殺すぞ。」


「やってみろ。」


 恒一が踏み込む。



 恒一の拳が蓮司の顔面へ入る。


 続いて二撃。


 三撃。


 蓮司も拳を振るう。


 互いの攻撃が交差する。


 恒一の頬が切れる。


 蓮司の鼻から血が流れる。


 恒一は技術で上回る。


 蓮司は耐久力と力で押し返す。


 均衡。


 いや。


 少しずつ恒一が下がっている。


 守る場所がある。


 門から離れられない。


 蓮司を家へ近付けないため、動ける範囲が限られる。


 黒田は、その戦いを少し離れた場所から見ていた。


 倒れた部下たち。


 恒一。


 蓮司。


 正面から入るのは難しい。


 だが、全員の意識が二人の戦いへ向いている。


 黒田は静かに道路脇へ下がった。


 隣家との境。


 低い塀。


 以前、下見に来た時に確認している。


 藤堂家の正門は補強されている。


 だが、側面は正面ほどではない。


「二人、来てください。」


 黒田が小声で言った。


 まだ動ける手下二人が近付く。


「裏へ回ります。」


「でも総長は。」


「総長には戦っていてもらいましょう。」


「俺たちは目的を果たします。」


 黒田たちは戦いから離れ、隣家側の路地へ入った。


 恒一は気付かない。


 蓮司の拳を避けるだけで精一杯だった。



 悠真たちの車が藤堂家へ近付く。


 もう数百メートル。


 その距離でも、金属音と怒鳴り声が聞こえた。


「まだ戦ってる。」


 彩乃が言う。


「恒一先輩が。」


 誠は返事をしない。


 住宅街の狭い道を走る。


「前方、人影!」


 悠真が叫ぶ。


 黒牙の男が一人、道路の角に立っていた。


 見張り。


 乗用車に気付くと、懐から何かを取り出す。


 笛。


 鋭い音が響いた。


「戻ってきたことを知らせた!」


「そのまま行く!」


 誠は速度を落とさない。


 男が道路へ出る。


 悠真は身構える。


 だが男は、車へ轢かれる直前で横へ逃げた。


「止まらないで!」


 彩乃が叫ぶ。


「分かってる!」


 藤堂家が見える。


 門。


 道路。


 倒れた男たち。


 血。


 壊れた植木鉢。


 そして。


「恒一先輩!」


 彩乃が叫んだ。


 恒一が蓮司の拳を受け、道路へ転がる。


 誠が急ブレーキを踏む。


 乗用車が門の手前で止まった。


 三人が車を降りる。


「恒一さん!」


 悠真は金属バットを掴み、走り出そうとした。


 だが。


「動くな!」


 別の声が響いた。


 黒田。


 家の側面。


 その腕の中に、美咲がいた。


 後ろから首へ腕を回されている。


 右手にはナイフ。


 刃先が、美咲の首筋へ当てられていた。


「美咲!」


 悠真の足が止まる。


 身体中の血が冷えた。


 美咲の顔は青ざめている。


 両手で黒田の腕を掴んでいるが、振りほどけない。


 首筋には、刃が触れた細い傷。


 赤い血が一筋だけ流れていた。


「悠真……。」


 震える声。


 悠真の手から、バットが落ちそうになる。


「離せ!」


 恒一が立ち上がろうとする。


 黒田がナイフをわずかに動かした。


「動かないでください。」


 美咲の首筋から、もう一筋血が流れる。


「お兄ちゃん!」


 美咲が叫ぶ。


 恒一の動きが止まった。


 蓮司が振り返る。


「何だよ、黒田。」


 少し不満そうな顔。


「余計なことすんなよ」


「これから面白くなるところだっただろ?」


「総長。」


 黒田は冷静に答える。


「目的は喧嘩ではありません。」


「水場と物資、それから人員の確保です。」


「……。」


 蓮司は美咲を見る。


 口元が歪む。


「まあいい。」


 恒一へ近付き、腹部を蹴った。


「ぐっ……!」


 恒一が膝をつく。


 反撃できない。


 黒田の刃が美咲へ向いている。


「恒一さん!」


 悠真が叫ぶ。


「ダメだ来るな!」


 恒一が叫び返す。


「美咲が!」


「分かってる!」


 何もできない。


 蓮司は悠真へ一度だけ視線を向けた。


 金属バットを持つ、細身の青年。


 怯えた顔。


 恒一のような圧もなければ鍛えた立ち方でもない。


 すぐに興味を失った。


 蓮司の認識では、能力者は恒一だけだった。


「お前の家族か?」


 蓮司が恒一へ聞く。


「妹を離せ。」


「妹か。」


 笑う。


「いい顔してるじゃねぇか。」


 恒一が立ち上がろうとする。


 黒田の刃が再び動く。


「止まれ。」


「……。」


「力があるのに、何もできねぇなー」


 蓮司は恒一の髪を掴み、顔を上げさせる。


「弱い奴を守ろうとするからだ。」


「そいつらを捨てれば、お前はもっと強くなれる。」


 恒一は血の混じった唾を地面へ吐いた。


「逆だ。」


「あ?」


「守る相手がいるから。」


 蓮司を睨む。


「俺は人間でいられる。」


 蓮司の顔から笑みが消える。


 拳を振り上げた。


「待って!」


 彩乃の声が響いた。



 全員の視線が彩乃へ向く。


 悠真が振り返る。


「彩乃!」


 彩乃は木の棒を地面へ置いた。


 ゆっくりと両手を上げる。


「何してる。さがれ!」


「その子を離して!!。」


 黒田ではない。


 蓮司を真っ直ぐ見る。


「あんたが噂のリーダーなんでしょ?」


 蓮司が彩乃へ顔を向ける。


 初めて見る。


 黒田から報告を受けていた、もう一人の若い女。


 美咲とは違う。


 怯えている。


 だが、目を逸らさない。


 立ち方。


 重心。


 身体の使い方。


 戦える人間だと、蓮司にも分かった。


「彩乃、下がれ。」


 誠が言う。


 彩乃は動かない。


「私も一緒に行く。」


 悠真の頭が、一瞬理解を拒んだ。


「何言ってるんだ。」


「私も人質になる。」


「彩乃!」


「その代わり。」


 彩乃は蓮司を見続ける。


「美咲ちゃんには手を出さないで。」


「駄目!」


 美咲が叫ぶ。


「彩乃ちゃん、来ちゃ駄目!」


 黒田の腕の中でもがく。


 ナイフが揺れる。


「動かないで!」


 彩乃が美咲へ言った。


 強い声。


 美咲の動きが止まる。


 彩乃は、少しだけ笑った。


 震えていることを悟らせないように。


「大丈夫だよ。」


「何が大丈夫なの……。」


「私も一緒に行くから。」


「そういう意味じゃないよ!」


 美咲の目から涙がこぼれる。


「彩乃ちゃんまで来たら駄目だよ!」


「一人で行かせる方が無理。」


「でも。」


「大丈夫。」


 彩乃は繰り返す。


「絶対に二人で帰ってくるから。」


 その言葉は、美咲を安心させるためだけではない。


 自分へ言い聞かせている。


 捕まるために行くのではない。


 美咲を一人にしない。


 隙を探す。


 必ず逃げる。


 その覚悟だった。


「面白ぇな。」


 蓮司が笑った。


 彩乃を見る目が変わる。


 外見だけではない。


 自分の前で目を逸らさない。


 仲間のために、自分から人質になる。


 その強さが、蓮司の支配欲を刺激した。


「普通は泣いて助けてくれって言うもんだろ。」


「泣いたら美咲を返すの?」


 彩乃が聞き返す。


 蓮司の笑みが深くなる。


「いいな、お前。」


「気に入った。」


 悠真の背筋に嫌悪が走る。


 気に入った。


 好意ではない。


 自分へ従わせたい。


 屈服させたい。


 そういう目だった。


「その強がり。」


 蓮司が彩乃へ近付く。


「いつまで続くか見てみたい。」


「近付くな!」


 悠真が叫び、バットを構える。


 蓮司が悠真を見る。


 今度は少し長く。


 それでも、警戒はしない。


「コイツの兄貴か?」


「彩乃に触るな。」


「怖ぇ顔すんなよ。」


 蓮司は笑う。


「お前じゃ、俺を止められねぇ。」


 その言葉は事実だった。


 今の悠真が正面から戦っても勝てない。


 分かっている。


 だからこそ悔しい。


「彩乃。」


 誠が低い声で言う。


「戻れ。」


「お父さん。」


「これは命令だ。」


「戻れ。」


 彩乃の目が揺れた。


 父の声。


 従いたい。


 怖い。


 逃げたい。


 でも、美咲の首には刃がある。


「戻ったら。」


 彩乃が言う。


「美咲はどうなるの?」


「それは。」


「誰が助けるの?」


「……。」


「私が一緒にいれば、少なくとも一人じゃない。」


「彩乃。」


「ごめんなさい。」


 誠の顔が歪む。


「でも、行く。」


 彩乃は一歩前へ出た。


 悠真が腕を掴む。


「駄目だ。」


「離して。」


「絶対に駄目だ。」


「お兄ちゃん。」


「俺が何とかする。」


「どうやって?」


 言葉が詰まる。


 美咲の首に刃。


 蓮司。


 黒田。


 黒牙の男たち。


 倒れた恒一。


 今の悠真には、何もできない。


「私なら。」


 彩乃は小声で言った。


「中に入っても戦える。」


「逃げる隙も探せる。」


「美咲ちゃんを守れる。」


「でも。」


「お兄ちゃんは外から助けて。」


 悠真は妹を見る。


 怖い。


 彩乃の手が震えている。


 強がっているだけだ。


 それでも覚悟を決めている。


「絶対に来て。」


 彩乃が言った。


「助けに来て。」


 悠真の手から力が抜ける。


 彩乃は腕を抜いた。


 蓮司の方へ歩いていく。


 黒牙の男が近付き、彩乃の両腕を後ろで拘束しようとする。


「私に気安く触るな。」


 彩乃が睨む。


 男が一瞬怯む。


 蓮司が笑った。


「いい。」


「そいつは俺が見る。」


 彩乃の肩へ手を置く。


 ぞっとする感触。


 彩乃は顔を歪めたが、逃げなかった。


「美咲は離して。」


「駄目です。」


 黒田が答える。


「二人とも連れていきます。」


「約束が違う。」


「あなたは条件を出せる立場ではありません。」


 彩乃が蓮司を見る。


 蓮司は肩をすくめる。


「安心しろ。」


「今すぐ傷つけるつもりはねぇ。」


「返してほしければ、条件を飲め。」


 恒一が顔を上げる。


「条件?」


 蓮司は藤堂家を見回した。


 すべてを自分のものとして見る目。


「食料と水。」


「使える物資を全部寄越せ。」


「湧き水の場所も教えろ。」


「お前らが知ってる魔獣や能力者の情報も全部だ。」


 恒一へ視線を戻す。


「それから。」


「お前らは今後、俺たちに従え。」


「断る。」


 恒一は即答した。


 蓮司が笑う。


「なら女は返さねぇ。」


「男は働け。」


「力のある奴は俺の下につけ。」


「家も、物資も、水も。」


「俺たちが管理する。」


「管理?」


 誠が声を震わせる。


「奪うと言え。」


「同じだろ。」


「違う。」


「弱い奴だけで持ってるから奪われる。」


 蓮司は恒一を指差す。


「お前もだ。」


「俺の下につけ。」


「能力者同士、仲良くしようぜ。」


「何度言われても断る。」


「なら。」


 蓮司は彩乃の肩を引き寄せた。


 彩乃が嫌悪に顔を歪める。


「ゆっくり考えろ。」


「二人がどうなるか想像しながらな。」


「彩乃から手を離せ!」


 悠真がバットを構える。


 蓮司は鼻で笑った。


「お前は黙ってろ。」


「今は、お前みたいな奴に興味ねぇ。」


 その言葉が、悠真の胸へ突き刺さる。


 侮辱。


 だが同時に。


 蓮司は知らない。


 悠真が能力者であることを。


 《鑑定》を持っていることを。


 恒一より弱く見えること。


 戦えない一般人だと思われていること。


 今は、それが唯一の利点だった。


 悠真は口を閉じた。


 怒りを飲み込む。


 ここで飛びかかれば、美咲と彩乃が傷つく。


 今は耐える。


 覚える。


 見る。


 人数。


 武器。


 車。


 蓮司。


 黒田。


 逃走方向。


 すべてを。


(《鑑定》)



【神崎 蓮司】


【状態:興奮】


【身体能力向上・大】


【欲望増強】


【精神汚染進行中】


【侵食率:11%】



 十一パーセント。


 以前、恒一は十四パーセントでも理性を保っていた。


 蓮司は十一パーセントで、ここまで壊れている。


 数字だけではない。


 受け入れ方。


 力の使い方。


 欲望。


 人間性。


 その全てが違う。


 さらに見る。



【黒田 拓海】


【状態:警戒】


【敵意:中】


【目的:人質確保/物資獲得】



 車。


 二台。


 バイク。


 退路。


 悠真は静かに情報を集めた。


 蓮司は、その視線の意味に気付かない。



 美咲と彩乃は、黒牙の小型車へ連れていかれた。


 黒田が美咲を拘束したまま後部座席へ乗せる。


 彩乃も隣へ押し込まれる。


「美咲ちゃん」


 彩乃がすぐに手を握った。


 美咲の手は冷たく、震えていた。


「ごめんなさい、、」


 美咲が泣きながら言う。


「私のせいで、、」


「違う。」


「でも、私が捕まらなかったら。」


「違うよ。」


 彩乃は美咲の手を強く握る。


「一緒に帰る。」


「絶対に。」


「怖くないの?」


 美咲が聞く。


 彩乃は一瞬、答えられなかった。


 車の外では、蓮司が恒一たちを見下ろしている。


 黒牙の男たち。


 武器。


 知らない場所へ連れていかれる。


 怖くないはずがない。


「怖いよ。」


 彩乃は正直に言った。


「でも、一人じゃない。」


「……。」


「美咲ちゃんも一緒だから。」


 今度は美咲が、彩乃の手を握り返した。


「うん。」


「私も一緒にいる。」


 二人は互いの手を離さなかった。



「明日の正午まで待つ。」


 蓮司が言った。


「物資と水場の情報を持って、廃工場へ来い。」


「警察を連れてきたら?」


 誠が聞く。


「その時は分かるだろ?」


 蓮司が車を見る。


「それにいまは、警察なんかまともに機能してねぇよ。」


 恒一が立ち上がろうとする。


 身体が揺れる。


 それでも拳を握る。


「今すぐ2人を返せ。」


「またやるか?」


 蓮司が笑う。


「今度は妹を見ながら。」


 恒一の足が止まる。


「力があるのに、守れなかったな。」


 蓮司はそう言い残し、バイクへ戻った。


 黒田も車へ乗る。


 黒牙の男たちは、動ける仲間を引きずりながら車やバイクへ乗せた。


 エンジン音。


 一台。


 また一台。


 車が動き出す。


「美咲!」


 悠真が叫ぶ。


 後部座席の窓。


 美咲が振り返る。


 涙。


 その隣で彩乃もこちらを見ていた。


 彩乃は唇を動かした。


 声は聞こえない。


 だが、分かった。


 助けに来て。


 悠真はバットを握り締めた。


「必ず行く。」


 声が震える。


「絶対に。」


 車は角を曲がる。


 美咲と彩乃の姿が見えなくなる。


 エンジン音だけが遠ざかっていった。



 静かになった道路に、誰も動けずにいた。


 誠は、娘が消えた方向を見つめている。


 顔から表情が失われていた。


「俺が、、、」


 声が掠れる。


「俺が彩乃を連れ出した。」


「父さん。」


「囮なんて考えたから。」


「違う。」


 悠真が言う。


「でも。」


「今は、それを言ってる場合じゃない。」


 自分でも驚くほど低い声だった。


 怒り。


 恐怖。


 焦り。


 全部が胸の中で暴れている。


 それでも、頭は妙に冷静だった。


 二人は生きている。


 蓮司は交渉材料にするつもりだ。


 すぐには殺さない。


 廃工場。


 正午まで。


 条件。


 時間がある。


 なら、助けられる。


「恒一さん。」


 悠真は呼ぶ。


 恒一は道路へ膝をついていた。


 拳から血が流れている。


 地面を殴ったのだろう。


「俺が守るって、、、」


 恒一が呟く。


「美咲に言った。」


「……。」


「俺がいたのに、、、何もできなかった、、」


「黒田が人質を取った。」


「それでも。」


「俺がもっと強ければ!!」


「違う。」


 悠真はもう一度言った。


「強さの問題じゃない。」


「美咲を人質にされたら、誰だって動けない。」


「でも。」


「今は自分を責めないでください。」


「そんな時間はない。」


 恒一が顔を上げる。


 悠真を見る。


 いつもの慎重な大学生。


 戦いを怖がる青年。


 魔犬を殺したことに震えていた青年。


 その目が変わっていた。


「二人は生きてる。」


 悠真は言った。


「だったら助けられる。」


「どうやって。」


 誠が尋ねる。


「物資を渡しても、服従しても、あいつらが約束を守る保証はない。」


「分かってる。」


 悠真は蓮司たちが消えた道を見る。


「だから、まともに交渉しない。」


「悠真。」


「正面から行けば、蓮司は恒一さんを警戒する。」


「黒牙も集まる。」


「でも。」


 金属バットを握る。


「蓮司は俺を知らない。」


 全員が悠真を見る。


「俺が能力者だって知らない。」


「《鑑定》が使えることも。」


「戦えると思ってない。」


 先ほどの蓮司の言葉。


 お前みたいな奴に興味はない。


 その侮り。


 それを利用する。


「俺なら。」


 悠真は言う。


「中へ入れるかもしれない。」


「見張りの位置も。」


「美咲と彩乃がいる場所も。」


「逃げ道も見つけられる。」


「一人で行くつもりか。」


 誠の声が強くなる。


「一人じゃない。」


 悠真は恒一を見る。


「正面は恒一さんにお願いします。」


「蓮司を引きつけてください。」


「その間に、俺が二人を助け出す。」


 恒一の目が見開かれる。


「危険すぎる。」


「分かってます。」


「黒牙の拠点だぞ。」


「分かってる。」


「捕まったら。」


「それでも行く。」


 悠真は迷わなかった。


 怖い。


 今にも吐きそうなほど怖い。


 人間を殴ることになるかもしれない。


 殺すことになるかもしれない。


 自分も死ぬかもしれない。


 でも。


 美咲。


 彩乃。


 二人が連れていかれた。


 怖いからと止まる理由にはならない。


「どんな手を使っても。」


 悠真は言った。


「騙しても。」


「隠れても。」


「後ろから殴っても。」


「必要なら、人間相手にこのバットを使っても。」


 青いグリップを握る手に力を込める。


「絶対に二人を助け出す。」


 声は震えていた。


 それでも、言葉は揺れなかった。


 守るだけでは足りない。


 奪われた。


 なら、奪い返す。


 正しい方法でなくてもいい。


 綺麗なやり方でなくてもいい。


 二人が戻るなら。


 生きて帰れるなら。


「俺が。」


 悠真は暗い道路の先を睨んだ。


「必ず連れ戻す。」

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。

誤字脱字なども気づいた点があれば、遠慮なく教えてください。


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