第38話 届いた警告
今回はかなり長めです!
空が白み始めるより前。
藤堂家の庭には、二台の車が並んでいた。
一台は朝倉英樹の作業車。
もう一台は藤堂家の乗用車だ。
作業車の荷台には、あえて空のポリタンクを何本も積んである。前回と同じ水汲みへ向かうように見せるためだった。
一方、乗用車の後部座席と荷室にも、可能な限りポリタンクを詰め込んでいる。こちらが本命だ。
水は確実に減っていた。
十人が飲み、料理に使い、薬を飲み、傷を洗う。
全員が節約していても、生きているだけで水は減る。
次の水汲みを先延ばしにはできなかった。
「最後に確認する」
誠が二台の間に立ち、低い声で言った。
周囲はまだ暗い。
声を張れば、離れた家にまで聞こえてしまいそうだった。
「英樹さんは作業車で前回と同じ方面へ向かう。黒牙が見張っているなら、作業車を追う可能性が高い」
「ああ」
英樹は短く答えた。
「追われても無理に振り切ろうとしない。家と水場から引き離せれば十分だ。囲まれそうなら作業車を捨てて逃げてください」
「分かってる。車より命だ」
英樹はいつもと変わらない調子で答えたが、その横では由紀が不安そうに夫を見つめていた。
「俺たちは乗用車で別の道から水場へ向かう」
誠は悠真と彩乃を見る。
「水汲みは俺、悠真、彩乃の三人だ。途中で黒牙や魔獣を確認した場合は、その場で中止する」
「水を汲んだ後でも?」
彩乃が尋ねた。
「ああ。追われたら水は捨てる」
「でも、今の残りじゃ……」
「もう一度取りに行けばいい」
誠は迷わなかった。
「生きて戻れればな」
彩乃は唇を結び、やがて小さく頷いた。
「分かった」
水より命。
口で言うのは簡単だ。
だが、家の中に残る水の量を知っているだけに、汲んだ水を捨てる決断が簡単ではないことも分かっていた。
だからこそ、出発前に決めておく必要がある。
危険が迫ってからでは、判断を誤るかもしれない。
「家は俺が守ります」
恒一が言った。
藤堂家に残るのは、恒一、美咲、真由美、由紀、三浦恵、翔太。
門や窓は補強してある。
警報も増やした。
それでも、複数の人間が本気で侵入しようとすれば、仕掛けだけでは防ぎきれない。
家に残るまともな戦力は恒一一人だった。
「お願いします」
誠が頭を下げる。
「美咲ちゃんたちを」
「入らせません」
恒一はそう答えた。
声には迷いがなかった。
だが悠真は、その言葉を聞いても完全には安心できなかった。
「恒一さん。出る前に確認します」
「ああ」
悠真は左腕へ意識を集中した。
(《鑑定》)
⸻
【朝倉 恒一】
【状態:安定】
【魔素侵食:停滞】
【侵食率:14%】
【身体変質:安定】
【適応進行中】
【精神状態:正常】
⸻
「変化はありません。侵食率も十四パーセントのままです」
「そうか」
恒一が小さく息を吐いた。
自分の身体がどう変わっていくのか。
戦えば侵食が進むのか。
力を使い続ければ、いつか蓮司のようになるのか。
何も分からない。
それでも今日は、その力を使わなければならないかもしれない。
「無理はしないでください」
悠真が言う。
「家を守る人間に言う言葉じゃないな」
「それでもです」
「分かってる」
恒一は悠真の手にある金属バットへ視線を落とした。
「お前も無茶するな」
「はい」
「周囲を見ることを忘れるな。彩乃を守ろうとして、一人で全部やろうとするな」
「そんなことは」
「顔に出てる」
「お父さんも同じ顔してるよ」
彩乃が横から言った。
誠が少し眉を上げる。
「俺もか?」
「うん。二人とも、私を連れていくのが嫌そう」
「嫌なわけじゃない」
悠真が言う。
「危ないから心配してるだけだ」
「それを嫌って言うんじゃないの?」
「違う」
「同じでしょ」
「彩乃」
誠が少し強い声で呼ぶ。
彩乃はすぐに表情を改めた。
「何」
「お前を連れていくと決めた以上、守られるだけの人間として扱うつもりはない」
誠は真っ直ぐ娘を見る。
「だが勝手な行動はするな。俺か悠真から離れない。相沢君を見つけても、一人で近付かない。黒牙に挑発されても応じない」
「分かってる」
「本当に分かっているな?」
「お父さんまでお兄ちゃんみたいになってる」
「返事は?」
「……はい」
彩乃は不満そうに答えた。
家族のやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。
だが、それも長くは続かなかった。
今日、黒牙が動くかもしれない。
全員がその可能性を理解していた。
◇
出発の時間が近付く。
由紀は作業車の運転席に座る夫へ歩み寄った。
「本当に、車は捨てていいからね」
「ああ」
「工具も、荷物も全部」
「分かってる」
「絶対に無茶しないで」
英樹は妻を安心させるように笑った。
「囮になるだけだ。戦いに行くわけじゃない」
「囮だから心配なの」
「……そうだな」
英樹は笑みを消し、由紀の肩にそっと手を置いた。
「必ず帰る」
由紀は何度も頷いた。
その隣では、美咲も父を見上げていた。
「お父さん」
「何だ」
「約束して」
「ああ。帰ってくる」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしてただろ」
「……うん」
「大丈夫だ」
英樹は娘の頭を軽く撫でた。
その手が離れると、美咲は今度は悠真を見た。
「悠真も」
「分かってる」
「まだ言ってないよ」
「ちゃんと帰ってきて、だろ」
「……うん」
「帰ってくる」
「彩乃ちゃんも一緒に」
「もちろん」
彩乃が答える。
「私がいるから大丈夫」
「そういうこと言う人が一番心配なんだけど」
「何で?」
「無茶しそうだから」
「しないって」
美咲は笑おうとした。
だが、上手く笑えていなかった。
悠真は何か言おうとしたが、気の利いた言葉は浮かばなかった。
だから、もう一度だけ言った。
「必ず戻る」
美咲は黙って頷いた。
◇
悠真は玄関脇に立て掛けていた金属バットを手に取った。
青いグリップを握る。
手のひらの奥に、あの夜の感触が蘇った。
硬い骨を打った感触。
バットを振り下ろすたびに、腕へ返ってきた衝撃。
魔犬が動かなくなった後の静けさ。
今日は人間を相手にするかもしれない。
魔犬とは違う。
言葉がある。
家族がいるかもしれない。
何かを間違えただけの人間かもしれない。
それでも、父や彩乃を襲うなら。
連れ去ろうとするなら。
振らなければならない。
その時に迷えば、守れない。
「お兄ちゃん」
彩乃が声を掛ける。
「何?」
「顔、怖いよ」
「……そうか?」
「うん」
悠真は少しだけバットを下げた。
「怖いんだよ」
「黒牙が?」
「それも」
「人を殴るのが?」
「……それも」
彩乃はしばらく悠真を見つめた。
「私も怖いよ」
「お前が?」
「何、その意外そうな顔」
「いや」
「空手をやってても、人を殴るのが平気になるわけじゃない」
彩乃は用意されていた短い木の棒を手に取った。
「試合とは違うし」
「相手もルールを守らない」
「何をされるか分からない」
「でも」
棒を握る手に力を込める。
「何かあったら、私も戦う」
「逃げるために使え」
「分かってる」
「追いかけるな」
「分かってるって」
彩乃は少しだけ笑った。
「二人でちゃんと帰ろう」
「ああ」
「お父さんもね」
運転席へ向かっていた誠が振り返る。
「俺も入っていたのか」
「当然でしょ」
「そうか」
誠もわずかに笑った。
◇
二台の車が、まだ薄暗い住宅街へ出た。
先を走るのは作業車。
その後ろを、少し距離を空けて乗用車が続く。
空の東側が、わずかに白み始めている。
街灯は消えたまま。
家々の窓も暗い。
静まり返った町に、二台分のエンジン音だけが響いていた。
悠真は後部座席から家を振り返った。
門の前には、恒一、美咲、真由美、由紀が立っている。
門が閉まる直前、美咲が小さく手を振った。
悠真も手を上げる。
やがて塀に遮られ、家は見えなくなった。
「周囲は?」
誠が運転しながら尋ねる。
「今のところ異常なし」
悠真は窓の外を確認する。
空き家のように静まり返った住宅。
道端へ倒れた自転車。
放置された車。
割れた窓。
塀に残った血痕。
少し前なら、一つ見つけるだけで足が止まった。
今は危険がないか確認して、そのまま通り過ぎる。
慣れた。
そう考えた瞬間、悠真は自分が怖くなった。
こんな景色に慣れていいはずがない。
だが、立ち止まっている余裕もない。
「もうすぐ分岐だ」
誠の声で、悠真は前を向いた。
◇
町外れの交差点。
ここで二台は別れる。
作業車は右へ向かい、前回と同じ道路から大通りへ出る。
乗用車は左へ曲がり、畑の間を抜ける裏道から山側へ向かう。
作業車の右側のウインカーが点滅した。
乗用車も左へ合図を出す。
一瞬だけ、二台が横に並んだ。
英樹が運転席から右手を上げる。
誠も同じように手を上げた。
それが別れの合図だった。
作業車は右へ。
乗用車は左へ曲がる。
二台の距離が、急速に離れていった。
彩乃が後ろを振り返る。
「お父さん……」
英樹の作業車は、すぐに建物の陰へ消えた。
その直後。
道路脇に停まっていた小型車の陰から、二台のバイクが動き出した。
少し遅れて、一台の車も続く。
いずれも作業車の向かった方向へ進んでいく。
「いた」
悠真が言う。
「黒牙?」
「たぶん」
左腕へ意識を集中する。
(《鑑定》)
⸻
【対象:人間】
【人数:五】
【状態:警戒】
【敵意:軽度】
【追跡対象:作業車】
⸻
「五人」
「英樹さんの作業車を追ってる」
彩乃の顔が強張る。
「止めなくていいの?」
「これが作戦だ」
誠は前を向いたまま答える。
声は落ち着いていたが、ハンドルを握る手には力が入っている。
「英樹さんは、追われると分かって出た」
「俺たちは予定どおり水場へ向かう」
「でも」
「ここで戻れば、英樹さんが危険を引き受けた意味がなくなる」
彩乃は何も言えなくなった。
正しい。
だが、正しいからといって納得できるわけではない。
「無線は?」
悠真が尋ねる。
「まだ使わない」
誠が答える。
「こちらから連絡すれば、相手に気付かれる可能性がある」
「でも何かあったら」
「英樹さんから連絡が来る」
来なければ、無事だと信じるしかない。
通信が使えない世界では、離れた瞬間に互いの状況が分からなくなる。
その不安を抱えたまま、乗用車は畑の間の細い道へ入っていった。
◇
英樹はバックミラーを一度だけ確認した。
二台のバイク。
その後ろに、小型車。
距離を保ちながらついてくる。
こちらが速度を落とせば相手も落とし、角を曲がれば同じようについてくる。
偶然ではない。
「本当に食いついたか」
英樹は小さく呟いた。
計画どおりだ。
これで水場へ向かう三人は見つからない可能性が高い。
だが、計画どおり追われているからといって、恐怖が消えるわけではない。
相手は五人。
こちらは一人。
作業車には武器になる工具が積んである。
だが、戦うつもりはなかった。
家から遠ざける。
逃げる。
無事に戻る。
それだけだ。
「無茶はするな、か」
由紀の言葉を思い出す。
「分かってるよ」
返事をする相手はいない。
英樹は大通りへ車を進めた。
その後ろを、黒牙の一団が追い続けていた。
◇
乗用車は住宅街を離れ、畑の多い地域へ入った。
荒れた畑。
倒れた柵。
踏み荒らされた作物。
土の上には、人間以外の足跡も残っている。
悠真は窓越しに《鑑定》を使った。
⸻
【足跡】
【変異猪】
【経過時間:約一日】
⸻
⸻
【足跡】
【変異魔犬】
【経過時間:約半日】
⸻
「魔犬の足跡があります」
悠真が言う。
「半日くらい前」
「近くにいる?」
彩乃が棒を握る。
「今は反応なし」
「でも油断しないで」
「分かってる」
誠は速度を上げず、慎重に車を進めた。
道幅が狭い。
片側は用水路。
反対側には荒れた畑。
魔獣が現れても、簡単に方向転換できる場所ではない。
「相沢は、どっちにいると思う?」
彩乃が前を見ながら言った。
「分からない」
「黒牙と一緒にお父さんを追ってるのかな」
「可能性はある」
「それとも、私たちを追ってる?」
悠真は答えなかった。
直人は黒牙の一員だ。
黒田の命令に従っている可能性が高い。
だが、夜中に警告へ来た。
完全に黒牙側とも言い切れない。
「来たとしても、一人で近付くな」
「分かってる」
「知り合いでも油断するな」
「それも分かってる」
「本当に」
「しつこい」
彩乃が振り返った。
「お兄ちゃんの方こそ、相沢を見つけてもいきなり殴らないでよ」
「殴らない」
「バット持ってるから怖いんだけど」
「これは魔獣用だ」
「黒牙が来たら?」
悠真は答えに詰まった。
「……必要なら使う」
「人にも?」
「お前や父さんを守るためなら」
彩乃は何も言わなかった。
悠真自身も、それ以上は言えなかった。
必要なら。
その言葉の意味を、まだ完全には受け入れられていない。
だが受け入れられるまで待っていれば、間に合わないかもしれない。
◇
「後ろ」
悠真が急に言った。
誠がアクセルを緩める。
遠くの林。
木々の間から、一台のバイクが現れた。
こちらとの距離はかなりある。
急いで追いつこうとはしていない。
だが、乗用車が速度を落とすと、バイクも速度を落とした。
「尾行されてる」
悠真は《鑑定》を使う。
⸻
【対象:人間】
【人数:一】
【状態:強い緊張】
【敵意:なし】
【葛藤:大】
⸻
その表示には見覚えがあった。
「相沢かもしれない」
彩乃がすぐに振り返る。
「顔は?」
「まだ見えない」
「どうする」
誠が尋ねる。
このまま進めば、水場まで案内することになる。
だが敵意はない。
一人。
強い緊張と葛藤。
「ここで確認しよう」
悠真が答えた。
「見失おうとしても、別の道から追われるかもしれない」
「分かった」
誠は少し先の、道幅が広くなっている場所へ車を寄せた。
「エンジンは切らない」
「彩乃は降りるな」
「でも」
「降りるな」
誠の声は強かった。
「相沢君だったとしても、今は黒牙の人間だ」
「……分かった」
乗用車が停まる。
悠真だけが後部座席から降りた。
手には金属バット。
車から離れすぎず、バイクが近付いてくるのを待つ。
相手も少し手前で停止した。
黒いヘルメット。
黒い上着。
「そこで止まれ!」
悠真が呼びかける。
相手の足が止まる。
「ヘルメットを外して、両手を見せろ!」
数秒の沈黙。
やがて男はゆっくりとヘルメットを外した。
相沢直人だった。
顔は青ざめ、額には汗が滲んでいる。
「相沢」
車内から彩乃が呼ぶ。
直人は一瞬だけ彩乃を見た。
その表情がわずかに緩む。
だがすぐに、焦りが戻った。
「家に戻れ」
直人は挨拶もなく言った。
「何?」
「水場へ行ってる場合じゃねぇ」
「家も同時に狙われてる」
悠真の背筋が冷えた。
「どういうことだ」
「黒田は、作業車だけを追うつもりじゃない」
直人は息を整える暇もなく続ける。
「囮の方には何人かついていった」
「俺は水場を特定するために、お前らを尾行するように言われた」
「なら何で警告する」
「それだけじゃねぇからだ!」
直人が声を荒らげる。
「黒田たちは家も狙ってる」
「強い奴が外へ出たら、その間に入るつもりだ」
「家には恒一さんが残ってる」
悠真が言う。
「普通の黒牙なら」
「総長も来る!」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「蓮司が?」
彩乃が尋ねる。
「最初から家へ向かったのか」
悠真が聞く。
「分からねぇ」
「俺が出た時は、まだ廃工場にいた」
「でも黒田たちで強い奴を押さえられなかったら、総長を呼ぶことになってる」
恒一は強い。
普通の黒牙構成員なら相手にならない。
だが蓮司は違う。
魔獣の肉を食べ。
魔獣を狩り。
力を増し続けている能力者。
恒一一人で、美咲たちを守りながら戦える保証はない。
「父さん」
悠真が振り返る。
誠の判断は早かった。
「水汲みは中止だ」
「すぐ戻る」
「待て!」
直人が叫ぶ。
「まだある」
悠真は直人を見る。
「何だ」
「今の総長は、本当に異常だ」
直人の声が震えていた。
怖がっている。
だが、それだけではない。
怒り。
悲しみ。
認めたくないものを、認めざるを得なくなった人間の声だった。
「前は違った」
「腹を空かせた奴に飯をやった」
「弱い奴を守った」
「俺みたいな奴も助けた」
「でも今は、力のことしか考えてねぇ」
直人は拳を握った。
「魔獣を狩って」
「強くなって」
「自分に逆らう仲間まで殴る」
「水も、食料も、女も」
「欲しいものは全部、自分のものにするつもりだ」
彩乃が直人の名を呼ぶ。
「相沢……」
「この街にいたら駄目だ」
直人は彩乃を見た。
「今の総長は、お前らを諦めない」
「今回を凌いでも、また来る」
「水場を隠しても、家を守っても、何度でも狙われる」
「だから」
一度、言葉を切る。
「早くこの街から逃げろ」
黒牙から逃げろ、ではない。
家を守れ、でもない。
この街から逃げろ。
それは直人自身が、もう蓮司を止められないと認めた言葉だった。
◇
「相沢も来て」
彩乃が言った。
直人の目が揺れる。
「黒牙に戻らないで」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
「今の総長がおかしいって、自分で言ったんでしょ」
「だからって、すぐ捨てられるかよ!」
直人の声が荒れる。
「俺には黒牙しかなかった」
「親父に殴られて」
「飯もなくて」
「誰も助けなかった時、総長だけが助けてくれた」
「だから何をされても従うの?」
「そうじゃねぇ!」
「じゃあ」
「それでも置いていけねぇんだよ!」
直人は苦しそうに顔を歪めた。
「前の総長が、まだどこかにいるかもしれない」
「戻れるかもしれない」
「俺が見捨てたら」
声が掠れる。
「助けてもらったことまで、全部嘘になる気がする」
「嘘にはならないよ」
彩乃は言った。
「昔助けてもらったことと、今離れることは別でしょ」
「お前には分かんねぇよ」
直人は吐き捨てた。
「帰る家がある奴には」
「家族が待ってる奴には、分からねぇ」
彩乃の表情が傷ついたように曇った。
直人も気付いた。
だが、謝らなかった。
今謝れば、戻る覚悟が崩れてしまいそうだった。
「俺は行かない」
「相沢」
「早く戻れ」
直人はヘルメットを被る。
「家に着いた時には、もう始まってるかもしれない」
「お前は黒牙へ戻るのか」
悠真が尋ねる。
「……ああ」
「警告したことが知られたら?」
「知られなきゃいい」
「知られたら?」
直人は答えなかった。
答えられないのだろう。
「水場は報告するのか」
「しない」
「何て説明する」
「見失ったって言う」
「信じてもらえるのか」
「知らねぇよ」
直人は苛立ったように言った。
「今はそれしかできねぇ」
バイクへ跨がる。
「相沢」
彩乃がもう一度呼ぶ。
直人はエンジンをかける前に、彩乃を見た。
「絶対に捕まるなよ」
彩乃の目が見開かれる。
「今の総長に連れていかれたら、何をされるか分からねぇ」
「だから早く戻れ」
「相沢も」
「行け!」
直人が叫んだ。
「今は俺のこと考えてる場合じゃねぇだろ!」
彩乃は唇を噛む。
「……馬鹿」
「ああ」
直人は自嘲するように笑った。
「分かってる」
「直人」
悠真が呼び止めた。
直人は振り返らない。
「警告は受け取った」
少し間を置く。
「ありがとう」
直人の肩が、ほんのわずかに動いた。
返事はなかった。
エンジンがかかる。
バイクは来た道とは別の農道へ入り、すぐに見えなくなった。
◇
「乗れ!」
誠の声に、悠真はすぐ車へ戻った。
後部座席へ入り、ドアを閉める。
誠が車を発進させる。
「英樹さんは?」
彩乃が尋ねる。
「一度だけ無線を使う」
助手席の足元に置かれたバッグから、彩乃が無線機を取り出した。
事前に合わせていた周波数へ切り替える。
「おじさん、聞こえる?」
雑音。
返事はない。
「おじさん!」
『――ザ……聞こえ……』
途切れた声。
英樹だ。
「家が同時に狙われてる!」
彩乃が叫ぶ。
「水汲みは中止!」
「今から戻る!」
『……了解……こっち……五人……』
「逃げられる?」
『問題……ない……家を……』
雑音が強くなる。
「おじさん!」
『先に……戻れ……』
電波障害の影響か通信が途切れた。
彩乃は無線機を握ったまま固まる。
「大丈夫だ」
誠が言った。
「英樹さんなら無茶はしない」
「でも」
「今は家へ戻る」
誠は速度を上げた。
細い農道。
片側には用水路。
飛ばしすぎれば、自分たちが家へ帰れなくなる。
焦りを抑えながら、可能な限り速く進む。
「前を見ろ」
誠が言う。
「悠真」
「うん」
悠真は周囲へ意識を広げる。
(《鑑定》)
⸻
【前方に異常反応なし】
⸻
「今は大丈夫」
「次の交差点を右」
誠がハンドルを切る。
車体が大きく揺れた。
彩乃が取っ手を掴む。
「恒一先輩なら大丈夫」
彩乃が言った。
誰に聞かせるでもなく。
「黒牙の奴らなんかに負けない」
悠真もそう思いたかった。
恒一は強い。
空手の技術がある。
魔素によって身体能力も上がっている。
普通の黒牙構成員なら、何人来ても簡単には負けない。
だが。
「蓮司が来ても?」
口に出した瞬間、悠真は後悔した。
彩乃の表情が強張る。
それでも、彼女は言った。
「負けない」
その声は、自分自身へ言い聞かせているようだった。
◇
住宅街へ戻る直前。
道路の中央に、小型車が斜めに停められていた。
「止まって!」
悠真が叫ぶ。
誠がブレーキを踏む。
来る時にはなかった車だ。
運転席にも周囲にも、人影はない。
「通れる?」
彩乃が聞く。
「左側なら、ぎりぎりだ」
誠が慎重にハンドルを切る。
塀と放置車両の間。
乗用車がゆっくり進む。
サイドミラーが塀へ触れそうになる。
反対側は、数センチしか余裕がない。
「そのまま」
悠真が窓の外を見ながら伝える。
「もう少し右」
「右は車に当たる」
「じゃあ、そのまま」
タイヤが瓦礫を踏む。
ガリッ。
車体が揺れた。
「抜けた!」
悠真が言う。
誠が再び速度を上げる。
その時、悠真の視界に表示が浮かんだ。
⸻
【対象:小型車】
【状態:人為的に移動】
【経過時間:約十分】
⸻
「今の車」
「誰かが道を塞ぐために動かしてる」
誠の表情が変わる。
「黒牙?」
「分からない」
「でも十分くらい前」
家へ戻る道まで読まれている。
あるいは、帰還を遅らせるために置かれた。
「別の道を使う」
誠は次の角を曲がった。
最短ではない。
だが、さらに道を塞がれて停止するよりはましだった。
家までの距離が遠くなる。
悠真は金属バットを握り締めた。
美咲。
母。
恒一。
由紀。
三浦親子。
全員が家にいる。
もし黒田たちがすでに入っていたら。
もし蓮司まで来ていたら。
「間に合ってくれ」
声が漏れる。
祈ることしかできない自分が、腹立たしかった。
◇
その頃。
藤堂家の門前には、黒田拓海と数人の男が立っていた。
鉄パイプ。
金属バット。
バール。
全員が武器を持っている。
門の内側では、恒一が一人で彼らを見ていた。
「朝早くから何の用だ」
恒一の声は低い。
黒田はいつものように愛想よく笑った。
「おはようございます」
「少しお話をしに来ただけですよ」
「話なら門の外でしろ」
「もちろんです」
黒田は門越しに家の中を覗こうとした。
「藤堂さんたちは、お出掛けですか?」
「お前には関係ない」
「作業車も乗用車もないので、少し心配になりまして」
見張られていた。
恒一の目が鋭くなる。
「帰れ」
「そんなに警戒しなくても」
「困った時は助け合いでしょう?」
「水や食料を少し分けていただきたいだけです」
「断る」
「即答ですか」
黒田は肩をすくめた。
笑みは消えない。
だが、その目から愛想の良さが消えた。
「なら」
「少し強引にお願いするしかありませんね」
後ろの男たちが動く。
門へ近付く。
恒一はゆっくりと拳を握った。
背後の家には、美咲たちがいる。
一人も入れさせない。
「最後に言う」
恒一は門の向こうを睨んだ。
「帰れ」
身体をわずかに沈める。
「次は、加減できる保証はない」
黒田の笑みが深くなった。
「やっぱり」
「あなたが一番厄介そうですね〜」
男の一人が、門へ向かって鉄パイプを振り下ろす。
ガンッ!
金属音が、静かな住宅街へ響いた。
◇
乗用車が最後の大通りへ入った時。
遠くから、何かを叩く音が聞こえた。
カンッ。
一度。
続いて、さらに大きな音。
ガンッ!
彩乃が顔を上げる。
「家の方だ」
「お父さん!」
「掴まってろ!」
誠がアクセルを踏み込む。
乗用車が加速した。
悠真は金属バットを強く握る。
ポリタンクは空のまま。
水を汲むことはできなかった。
それでも、今はどうでもいい。
水はまた取りに行ける。
車も物資も、失っていい。
だが家族は違う。
美咲は違う。
絶対に失うわけにはいかない。
もう一度、何かが壊れる音がした。
藤堂家は、まだ見えない。
「間に合ってくれ」
悠真は祈るように呟いた。
車は朝の住宅街を、藤堂家へ向かって走り続けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
少しでも「おもしろかった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、
感想・レビュー・ブックマーク・評価などで応援していただけると、とても励みになります。
皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。
誤字脱字なども気づいた点があれば、遠慮なく教えてください。
これからもよろしくお願いします。




