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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

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第38話 届いた警告

今回はかなり長めです!


 空が白み始めるより前。


 藤堂家の庭には、二台の車が並んでいた。


 一台は朝倉英樹の作業車。


 もう一台は藤堂家の乗用車だ。


 作業車の荷台には、あえて空のポリタンクを何本も積んである。前回と同じ水汲みへ向かうように見せるためだった。


 一方、乗用車の後部座席と荷室にも、可能な限りポリタンクを詰め込んでいる。こちらが本命だ。


 水は確実に減っていた。


 十人が飲み、料理に使い、薬を飲み、傷を洗う。


 全員が節約していても、生きているだけで水は減る。


 次の水汲みを先延ばしにはできなかった。


「最後に確認する」


 誠が二台の間に立ち、低い声で言った。


 周囲はまだ暗い。


 声を張れば、離れた家にまで聞こえてしまいそうだった。


「英樹さんは作業車で前回と同じ方面へ向かう。黒牙が見張っているなら、作業車を追う可能性が高い」


「ああ」


 英樹は短く答えた。


「追われても無理に振り切ろうとしない。家と水場から引き離せれば十分だ。囲まれそうなら作業車を捨てて逃げてください」


「分かってる。車より命だ」


 英樹はいつもと変わらない調子で答えたが、その横では由紀が不安そうに夫を見つめていた。


「俺たちは乗用車で別の道から水場へ向かう」


 誠は悠真と彩乃を見る。


「水汲みは俺、悠真、彩乃の三人だ。途中で黒牙や魔獣を確認した場合は、その場で中止する」


「水を汲んだ後でも?」


 彩乃が尋ねた。


「ああ。追われたら水は捨てる」


「でも、今の残りじゃ……」


「もう一度取りに行けばいい」


 誠は迷わなかった。


「生きて戻れればな」


 彩乃は唇を結び、やがて小さく頷いた。


「分かった」


 水より命。


 口で言うのは簡単だ。


 だが、家の中に残る水の量を知っているだけに、汲んだ水を捨てる決断が簡単ではないことも分かっていた。


 だからこそ、出発前に決めておく必要がある。


 危険が迫ってからでは、判断を誤るかもしれない。


「家は俺が守ります」


 恒一が言った。


 藤堂家に残るのは、恒一、美咲、真由美、由紀、三浦恵、翔太。


 門や窓は補強してある。


 警報も増やした。


 それでも、複数の人間が本気で侵入しようとすれば、仕掛けだけでは防ぎきれない。


 家に残るまともな戦力は恒一一人だった。


「お願いします」


 誠が頭を下げる。


「美咲ちゃんたちを」


「入らせません」


 恒一はそう答えた。


 声には迷いがなかった。


 だが悠真は、その言葉を聞いても完全には安心できなかった。


「恒一さん。出る前に確認します」


「ああ」


 悠真は左腕へ意識を集中した。


(《鑑定》)



【朝倉 恒一】


【状態:安定】


【魔素侵食:停滞】


【侵食率:14%】


【身体変質:安定】


【適応進行中】


【精神状態:正常】



「変化はありません。侵食率も十四パーセントのままです」


「そうか」


 恒一が小さく息を吐いた。


 自分の身体がどう変わっていくのか。


 戦えば侵食が進むのか。


 力を使い続ければ、いつか蓮司のようになるのか。


 何も分からない。


 それでも今日は、その力を使わなければならないかもしれない。


「無理はしないでください」


 悠真が言う。


「家を守る人間に言う言葉じゃないな」


「それでもです」


「分かってる」


 恒一は悠真の手にある金属バットへ視線を落とした。


「お前も無茶するな」


「はい」


「周囲を見ることを忘れるな。彩乃を守ろうとして、一人で全部やろうとするな」


「そんなことは」


「顔に出てる」


「お父さんも同じ顔してるよ」


 彩乃が横から言った。


 誠が少し眉を上げる。


「俺もか?」


「うん。二人とも、私を連れていくのが嫌そう」


「嫌なわけじゃない」


 悠真が言う。


「危ないから心配してるだけだ」


「それを嫌って言うんじゃないの?」


「違う」


「同じでしょ」


「彩乃」


 誠が少し強い声で呼ぶ。


 彩乃はすぐに表情を改めた。


「何」


「お前を連れていくと決めた以上、守られるだけの人間として扱うつもりはない」


 誠は真っ直ぐ娘を見る。


「だが勝手な行動はするな。俺か悠真から離れない。相沢君を見つけても、一人で近付かない。黒牙に挑発されても応じない」


「分かってる」


「本当に分かっているな?」


「お父さんまでお兄ちゃんみたいになってる」


「返事は?」


「……はい」


 彩乃は不満そうに答えた。


 家族のやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。


 だが、それも長くは続かなかった。


 今日、黒牙が動くかもしれない。


 全員がその可能性を理解していた。



 出発の時間が近付く。


 由紀は作業車の運転席に座る夫へ歩み寄った。


「本当に、車は捨てていいからね」


「ああ」


「工具も、荷物も全部」


「分かってる」


「絶対に無茶しないで」


 英樹は妻を安心させるように笑った。


「囮になるだけだ。戦いに行くわけじゃない」


「囮だから心配なの」


「……そうだな」


 英樹は笑みを消し、由紀の肩にそっと手を置いた。


「必ず帰る」


 由紀は何度も頷いた。


 その隣では、美咲も父を見上げていた。


「お父さん」


「何だ」


「約束して」


「ああ。帰ってくる」


「まだ何も言ってない」


「言おうとしてただろ」


「……うん」


「大丈夫だ」


 英樹は娘の頭を軽く撫でた。


 その手が離れると、美咲は今度は悠真を見た。


「悠真も」


「分かってる」


「まだ言ってないよ」


「ちゃんと帰ってきて、だろ」


「……うん」


「帰ってくる」


「彩乃ちゃんも一緒に」


「もちろん」


 彩乃が答える。


「私がいるから大丈夫」


「そういうこと言う人が一番心配なんだけど」


「何で?」


「無茶しそうだから」


「しないって」


 美咲は笑おうとした。


 だが、上手く笑えていなかった。


 悠真は何か言おうとしたが、気の利いた言葉は浮かばなかった。


 だから、もう一度だけ言った。


「必ず戻る」


 美咲は黙って頷いた。



 悠真は玄関脇に立て掛けていた金属バットを手に取った。


 青いグリップを握る。


 手のひらの奥に、あの夜の感触が蘇った。


 硬い骨を打った感触。


 バットを振り下ろすたびに、腕へ返ってきた衝撃。


 魔犬が動かなくなった後の静けさ。


 今日は人間を相手にするかもしれない。


 魔犬とは違う。


 言葉がある。


 家族がいるかもしれない。


 何かを間違えただけの人間かもしれない。


 それでも、父や彩乃を襲うなら。


 連れ去ろうとするなら。


 振らなければならない。


 その時に迷えば、守れない。


「お兄ちゃん」


 彩乃が声を掛ける。


「何?」


「顔、怖いよ」


「……そうか?」


「うん」


 悠真は少しだけバットを下げた。


「怖いんだよ」


「黒牙が?」


「それも」


「人を殴るのが?」


「……それも」


 彩乃はしばらく悠真を見つめた。


「私も怖いよ」


「お前が?」


「何、その意外そうな顔」


「いや」


「空手をやってても、人を殴るのが平気になるわけじゃない」


 彩乃は用意されていた短い木の棒を手に取った。


「試合とは違うし」


「相手もルールを守らない」


「何をされるか分からない」


「でも」


 棒を握る手に力を込める。


「何かあったら、私も戦う」


「逃げるために使え」


「分かってる」


「追いかけるな」


「分かってるって」


 彩乃は少しだけ笑った。


「二人でちゃんと帰ろう」


「ああ」


「お父さんもね」


 運転席へ向かっていた誠が振り返る。


「俺も入っていたのか」


「当然でしょ」


「そうか」


 誠もわずかに笑った。



 二台の車が、まだ薄暗い住宅街へ出た。


 先を走るのは作業車。


 その後ろを、少し距離を空けて乗用車が続く。


 空の東側が、わずかに白み始めている。


 街灯は消えたまま。


 家々の窓も暗い。


 静まり返った町に、二台分のエンジン音だけが響いていた。


 悠真は後部座席から家を振り返った。


 門の前には、恒一、美咲、真由美、由紀が立っている。


 門が閉まる直前、美咲が小さく手を振った。


 悠真も手を上げる。


 やがて塀に遮られ、家は見えなくなった。


「周囲は?」


 誠が運転しながら尋ねる。


「今のところ異常なし」


 悠真は窓の外を確認する。


 空き家のように静まり返った住宅。


 道端へ倒れた自転車。


 放置された車。


 割れた窓。


 塀に残った血痕。


 少し前なら、一つ見つけるだけで足が止まった。


 今は危険がないか確認して、そのまま通り過ぎる。


 慣れた。


 そう考えた瞬間、悠真は自分が怖くなった。


 こんな景色に慣れていいはずがない。


 だが、立ち止まっている余裕もない。


「もうすぐ分岐だ」


 誠の声で、悠真は前を向いた。



 町外れの交差点。


 ここで二台は別れる。


 作業車は右へ向かい、前回と同じ道路から大通りへ出る。


 乗用車は左へ曲がり、畑の間を抜ける裏道から山側へ向かう。


 作業車の右側のウインカーが点滅した。


 乗用車も左へ合図を出す。


 一瞬だけ、二台が横に並んだ。


 英樹が運転席から右手を上げる。


 誠も同じように手を上げた。


 それが別れの合図だった。


 作業車は右へ。


 乗用車は左へ曲がる。


 二台の距離が、急速に離れていった。


 彩乃が後ろを振り返る。


「お父さん……」


 英樹の作業車は、すぐに建物の陰へ消えた。


 その直後。


 道路脇に停まっていた小型車の陰から、二台のバイクが動き出した。


 少し遅れて、一台の車も続く。


 いずれも作業車の向かった方向へ進んでいく。


「いた」


 悠真が言う。


「黒牙?」


「たぶん」


 左腕へ意識を集中する。


(《鑑定》)



【対象:人間】


【人数:五】


【状態:警戒】


【敵意:軽度】


【追跡対象:作業車】



「五人」


「英樹さんの作業車を追ってる」


 彩乃の顔が強張る。


「止めなくていいの?」


「これが作戦だ」


 誠は前を向いたまま答える。


 声は落ち着いていたが、ハンドルを握る手には力が入っている。


「英樹さんは、追われると分かって出た」


「俺たちは予定どおり水場へ向かう」


「でも」


「ここで戻れば、英樹さんが危険を引き受けた意味がなくなる」


 彩乃は何も言えなくなった。


 正しい。


 だが、正しいからといって納得できるわけではない。


「無線は?」


 悠真が尋ねる。


「まだ使わない」


 誠が答える。


「こちらから連絡すれば、相手に気付かれる可能性がある」


「でも何かあったら」


「英樹さんから連絡が来る」


 来なければ、無事だと信じるしかない。


 通信が使えない世界では、離れた瞬間に互いの状況が分からなくなる。


 その不安を抱えたまま、乗用車は畑の間の細い道へ入っていった。



 英樹はバックミラーを一度だけ確認した。


 二台のバイク。


 その後ろに、小型車。


 距離を保ちながらついてくる。


 こちらが速度を落とせば相手も落とし、角を曲がれば同じようについてくる。


 偶然ではない。


「本当に食いついたか」


 英樹は小さく呟いた。


 計画どおりだ。


 これで水場へ向かう三人は見つからない可能性が高い。


 だが、計画どおり追われているからといって、恐怖が消えるわけではない。


 相手は五人。


 こちらは一人。


 作業車には武器になる工具が積んである。


 だが、戦うつもりはなかった。


 家から遠ざける。


 逃げる。


 無事に戻る。


 それだけだ。


「無茶はするな、か」


 由紀の言葉を思い出す。


「分かってるよ」


 返事をする相手はいない。


 英樹は大通りへ車を進めた。


 その後ろを、黒牙の一団が追い続けていた。



 乗用車は住宅街を離れ、畑の多い地域へ入った。


 荒れた畑。


 倒れた柵。


 踏み荒らされた作物。


 土の上には、人間以外の足跡も残っている。


 悠真は窓越しに《鑑定》を使った。



【足跡】


【変異猪】


【経過時間:約一日】




【足跡】


【変異魔犬】


【経過時間:約半日】



「魔犬の足跡があります」


 悠真が言う。


「半日くらい前」


「近くにいる?」


 彩乃が棒を握る。


「今は反応なし」


「でも油断しないで」


「分かってる」


 誠は速度を上げず、慎重に車を進めた。


 道幅が狭い。


 片側は用水路。


 反対側には荒れた畑。


 魔獣が現れても、簡単に方向転換できる場所ではない。


「相沢は、どっちにいると思う?」


 彩乃が前を見ながら言った。


「分からない」


「黒牙と一緒にお父さんを追ってるのかな」


「可能性はある」


「それとも、私たちを追ってる?」


 悠真は答えなかった。


 直人は黒牙の一員だ。


 黒田の命令に従っている可能性が高い。


 だが、夜中に警告へ来た。


 完全に黒牙側とも言い切れない。


「来たとしても、一人で近付くな」


「分かってる」


「知り合いでも油断するな」


「それも分かってる」


「本当に」


「しつこい」


 彩乃が振り返った。


「お兄ちゃんの方こそ、相沢を見つけてもいきなり殴らないでよ」


「殴らない」


「バット持ってるから怖いんだけど」


「これは魔獣用だ」


「黒牙が来たら?」


 悠真は答えに詰まった。


「……必要なら使う」


「人にも?」


「お前や父さんを守るためなら」


 彩乃は何も言わなかった。


 悠真自身も、それ以上は言えなかった。


 必要なら。


 その言葉の意味を、まだ完全には受け入れられていない。


 だが受け入れられるまで待っていれば、間に合わないかもしれない。



「後ろ」


 悠真が急に言った。


 誠がアクセルを緩める。


 遠くの林。


 木々の間から、一台のバイクが現れた。


 こちらとの距離はかなりある。


 急いで追いつこうとはしていない。


 だが、乗用車が速度を落とすと、バイクも速度を落とした。


「尾行されてる」


 悠真は《鑑定》を使う。



【対象:人間】


【人数:一】


【状態:強い緊張】


【敵意:なし】


【葛藤:大】



 その表示には見覚えがあった。


「相沢かもしれない」


 彩乃がすぐに振り返る。


「顔は?」


「まだ見えない」


「どうする」


 誠が尋ねる。


 このまま進めば、水場まで案内することになる。


 だが敵意はない。


 一人。


 強い緊張と葛藤。


「ここで確認しよう」


 悠真が答えた。


「見失おうとしても、別の道から追われるかもしれない」


「分かった」


 誠は少し先の、道幅が広くなっている場所へ車を寄せた。


「エンジンは切らない」


「彩乃は降りるな」


「でも」


「降りるな」


 誠の声は強かった。


「相沢君だったとしても、今は黒牙の人間だ」


「……分かった」


 乗用車が停まる。


 悠真だけが後部座席から降りた。


 手には金属バット。


 車から離れすぎず、バイクが近付いてくるのを待つ。


 相手も少し手前で停止した。


 黒いヘルメット。


 黒い上着。


「そこで止まれ!」


 悠真が呼びかける。


 相手の足が止まる。


「ヘルメットを外して、両手を見せろ!」


 数秒の沈黙。


 やがて男はゆっくりとヘルメットを外した。


 相沢直人だった。


 顔は青ざめ、額には汗が滲んでいる。


「相沢」


 車内から彩乃が呼ぶ。


 直人は一瞬だけ彩乃を見た。


 その表情がわずかに緩む。


 だがすぐに、焦りが戻った。


「家に戻れ」


 直人は挨拶もなく言った。


「何?」


「水場へ行ってる場合じゃねぇ」


「家も同時に狙われてる」


 悠真の背筋が冷えた。


「どういうことだ」


「黒田は、作業車だけを追うつもりじゃない」


 直人は息を整える暇もなく続ける。


「囮の方には何人かついていった」


「俺は水場を特定するために、お前らを尾行するように言われた」


「なら何で警告する」


「それだけじゃねぇからだ!」


 直人が声を荒らげる。


「黒田たちは家も狙ってる」


「強い奴が外へ出たら、その間に入るつもりだ」


「家には恒一さんが残ってる」


 悠真が言う。


「普通の黒牙なら」


「総長も来る!」


 その言葉に、全員が息を呑んだ。


「蓮司が?」


 彩乃が尋ねる。


「最初から家へ向かったのか」


 悠真が聞く。


「分からねぇ」


「俺が出た時は、まだ廃工場にいた」


「でも黒田たちで強い奴を押さえられなかったら、総長を呼ぶことになってる」


 恒一は強い。


 普通の黒牙構成員なら相手にならない。


 だが蓮司は違う。


 魔獣の肉を食べ。


 魔獣を狩り。


 力を増し続けている能力者。


 恒一一人で、美咲たちを守りながら戦える保証はない。


「父さん」


 悠真が振り返る。


 誠の判断は早かった。


「水汲みは中止だ」


「すぐ戻る」


「待て!」


 直人が叫ぶ。


「まだある」


 悠真は直人を見る。


「何だ」


「今の総長は、本当に異常だ」


 直人の声が震えていた。


 怖がっている。


 だが、それだけではない。


 怒り。


 悲しみ。


 認めたくないものを、認めざるを得なくなった人間の声だった。


「前は違った」


「腹を空かせた奴に飯をやった」


「弱い奴を守った」


「俺みたいな奴も助けた」


「でも今は、力のことしか考えてねぇ」


 直人は拳を握った。


「魔獣を狩って」


「強くなって」


「自分に逆らう仲間まで殴る」


「水も、食料も、女も」


「欲しいものは全部、自分のものにするつもりだ」


 彩乃が直人の名を呼ぶ。


「相沢……」


「この街にいたら駄目だ」


 直人は彩乃を見た。


「今の総長は、お前らを諦めない」


「今回を凌いでも、また来る」


「水場を隠しても、家を守っても、何度でも狙われる」


「だから」


 一度、言葉を切る。


「早くこの街から逃げろ」


 黒牙から逃げろ、ではない。


 家を守れ、でもない。


 この街から逃げろ。


 それは直人自身が、もう蓮司を止められないと認めた言葉だった。



「相沢も来て」


 彩乃が言った。


 直人の目が揺れる。


「黒牙に戻らないで」


「簡単に言うなよ」


「簡単じゃない」


「今の総長がおかしいって、自分で言ったんでしょ」


「だからって、すぐ捨てられるかよ!」


 直人の声が荒れる。


「俺には黒牙しかなかった」


「親父に殴られて」


「飯もなくて」


「誰も助けなかった時、総長だけが助けてくれた」


「だから何をされても従うの?」


「そうじゃねぇ!」


「じゃあ」


「それでも置いていけねぇんだよ!」


 直人は苦しそうに顔を歪めた。


「前の総長が、まだどこかにいるかもしれない」


「戻れるかもしれない」


「俺が見捨てたら」


 声が掠れる。


「助けてもらったことまで、全部嘘になる気がする」


「嘘にはならないよ」


 彩乃は言った。


「昔助けてもらったことと、今離れることは別でしょ」


「お前には分かんねぇよ」


 直人は吐き捨てた。


「帰る家がある奴には」


「家族が待ってる奴には、分からねぇ」


 彩乃の表情が傷ついたように曇った。


 直人も気付いた。


 だが、謝らなかった。


 今謝れば、戻る覚悟が崩れてしまいそうだった。


「俺は行かない」


「相沢」


「早く戻れ」


 直人はヘルメットを被る。


「家に着いた時には、もう始まってるかもしれない」


「お前は黒牙へ戻るのか」


 悠真が尋ねる。


「……ああ」


「警告したことが知られたら?」


「知られなきゃいい」


「知られたら?」


 直人は答えなかった。


 答えられないのだろう。


「水場は報告するのか」


「しない」


「何て説明する」


「見失ったって言う」


「信じてもらえるのか」


「知らねぇよ」


 直人は苛立ったように言った。


「今はそれしかできねぇ」


 バイクへ跨がる。


「相沢」


 彩乃がもう一度呼ぶ。


 直人はエンジンをかける前に、彩乃を見た。


「絶対に捕まるなよ」


 彩乃の目が見開かれる。


「今の総長に連れていかれたら、何をされるか分からねぇ」


「だから早く戻れ」


「相沢も」


「行け!」


 直人が叫んだ。


「今は俺のこと考えてる場合じゃねぇだろ!」


 彩乃は唇を噛む。


「……馬鹿」


「ああ」


 直人は自嘲するように笑った。


「分かってる」


「直人」


 悠真が呼び止めた。


 直人は振り返らない。


「警告は受け取った」


 少し間を置く。


「ありがとう」


 直人の肩が、ほんのわずかに動いた。


 返事はなかった。


 エンジンがかかる。


 バイクは来た道とは別の農道へ入り、すぐに見えなくなった。



「乗れ!」


 誠の声に、悠真はすぐ車へ戻った。


 後部座席へ入り、ドアを閉める。


 誠が車を発進させる。


「英樹さんは?」


 彩乃が尋ねる。


「一度だけ無線を使う」


 助手席の足元に置かれたバッグから、彩乃が無線機を取り出した。


 事前に合わせていた周波数へ切り替える。


「おじさん、聞こえる?」


 雑音。


 返事はない。


「おじさん!」


『――ザ……聞こえ……』


 途切れた声。


 英樹だ。


「家が同時に狙われてる!」


 彩乃が叫ぶ。


「水汲みは中止!」


「今から戻る!」


『……了解……こっち……五人……』


「逃げられる?」


『問題……ない……家を……』


 雑音が強くなる。


「おじさん!」


『先に……戻れ……』


 電波障害の影響か通信が途切れた。


 彩乃は無線機を握ったまま固まる。


「大丈夫だ」


 誠が言った。


「英樹さんなら無茶はしない」


「でも」


「今は家へ戻る」


 誠は速度を上げた。


 細い農道。


 片側には用水路。


 飛ばしすぎれば、自分たちが家へ帰れなくなる。


 焦りを抑えながら、可能な限り速く進む。


「前を見ろ」


 誠が言う。


「悠真」


「うん」


 悠真は周囲へ意識を広げる。


(《鑑定》)



【前方に異常反応なし】



「今は大丈夫」


「次の交差点を右」


 誠がハンドルを切る。


 車体が大きく揺れた。


 彩乃が取っ手を掴む。


「恒一先輩なら大丈夫」


 彩乃が言った。


 誰に聞かせるでもなく。


「黒牙の奴らなんかに負けない」


 悠真もそう思いたかった。


 恒一は強い。


 空手の技術がある。


 魔素によって身体能力も上がっている。


 普通の黒牙構成員なら、何人来ても簡単には負けない。


 だが。


「蓮司が来ても?」


 口に出した瞬間、悠真は後悔した。


 彩乃の表情が強張る。


 それでも、彼女は言った。


「負けない」


 その声は、自分自身へ言い聞かせているようだった。



 住宅街へ戻る直前。


 道路の中央に、小型車が斜めに停められていた。


「止まって!」


 悠真が叫ぶ。


 誠がブレーキを踏む。


 来る時にはなかった車だ。


 運転席にも周囲にも、人影はない。


「通れる?」


 彩乃が聞く。


「左側なら、ぎりぎりだ」


 誠が慎重にハンドルを切る。


 塀と放置車両の間。


 乗用車がゆっくり進む。


 サイドミラーが塀へ触れそうになる。


 反対側は、数センチしか余裕がない。


「そのまま」


 悠真が窓の外を見ながら伝える。


「もう少し右」


「右は車に当たる」


「じゃあ、そのまま」


 タイヤが瓦礫を踏む。


 ガリッ。


 車体が揺れた。


「抜けた!」


 悠真が言う。


 誠が再び速度を上げる。


 その時、悠真の視界に表示が浮かんだ。



【対象:小型車】


【状態:人為的に移動】


【経過時間:約十分】



「今の車」


「誰かが道を塞ぐために動かしてる」


 誠の表情が変わる。


「黒牙?」


「分からない」


「でも十分くらい前」


 家へ戻る道まで読まれている。


 あるいは、帰還を遅らせるために置かれた。


「別の道を使う」


 誠は次の角を曲がった。


 最短ではない。


 だが、さらに道を塞がれて停止するよりはましだった。


 家までの距離が遠くなる。


 悠真は金属バットを握り締めた。


 美咲。


 母。


 恒一。


 由紀。


 三浦親子。


 全員が家にいる。


 もし黒田たちがすでに入っていたら。


 もし蓮司まで来ていたら。


「間に合ってくれ」


 声が漏れる。


 祈ることしかできない自分が、腹立たしかった。



 その頃。


 藤堂家の門前には、黒田拓海と数人の男が立っていた。


 鉄パイプ。


 金属バット。


 バール。


 全員が武器を持っている。


 門の内側では、恒一が一人で彼らを見ていた。


「朝早くから何の用だ」


 恒一の声は低い。


 黒田はいつものように愛想よく笑った。


「おはようございます」


「少しお話をしに来ただけですよ」


「話なら門の外でしろ」


「もちろんです」


 黒田は門越しに家の中を覗こうとした。


「藤堂さんたちは、お出掛けですか?」


「お前には関係ない」


「作業車も乗用車もないので、少し心配になりまして」


 見張られていた。


 恒一の目が鋭くなる。


「帰れ」


「そんなに警戒しなくても」


「困った時は助け合いでしょう?」


「水や食料を少し分けていただきたいだけです」


「断る」


「即答ですか」


 黒田は肩をすくめた。


 笑みは消えない。


 だが、その目から愛想の良さが消えた。


「なら」


「少し強引にお願いするしかありませんね」


 後ろの男たちが動く。


 門へ近付く。


 恒一はゆっくりと拳を握った。


 背後の家には、美咲たちがいる。


 一人も入れさせない。


「最後に言う」


 恒一は門の向こうを睨んだ。


「帰れ」


 身体をわずかに沈める。


「次は、加減できる保証はない」


 黒田の笑みが深くなった。


「やっぱり」


「あなたが一番厄介そうですね〜」


 男の一人が、門へ向かって鉄パイプを振り下ろす。


 ガンッ!


 金属音が、静かな住宅街へ響いた。



 乗用車が最後の大通りへ入った時。


 遠くから、何かを叩く音が聞こえた。


 カンッ。


 一度。


 続いて、さらに大きな音。


 ガンッ!


 彩乃が顔を上げる。


「家の方だ」


「お父さん!」


「掴まってろ!」


 誠がアクセルを踏み込む。


 乗用車が加速した。


 悠真は金属バットを強く握る。


 ポリタンクは空のまま。


 水を汲むことはできなかった。


 それでも、今はどうでもいい。


 水はまた取りに行ける。


 車も物資も、失っていい。


 だが家族は違う。


 美咲は違う。


 絶対に失うわけにはいかない。


 もう一度、何かが壊れる音がした。


 藤堂家は、まだ見えない。


「間に合ってくれ」


 悠真は祈るように呟いた。


 車は朝の住宅街を、藤堂家へ向かって走り続けた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

少しでも「おもしろかった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

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皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。

誤字脱字なども気づいた点があれば、遠慮なく教えてください。


これからもよろしくお願いします。

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