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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

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第37話 届かなかった警告



 その夜。


 藤堂家の周囲は、いつも以上に静かだった。


 風が塀を撫でる音。


 軒下に吊るした空き缶が、わずかに触れ合う音。


 遠くで何かが鳴く声。


 それ以外には、何も聞こえない。


 だが、静かだからといって安全とは限らない。


 むしろ今は、何も聞こえない時間の方が不気味だった。


 悠真は二階の窓際に座り、暗い道路を見下ろしていた。


 隣には金属バット。


 銀色の本体は、月明かりをわずかに反射している。


 以前なら、少年野球用の道具にしか見えなかっただろう。


 だが今は違う。


 命を奪った道具。


 命を守った道具。


 その両方を背負った武器だった。


「眠くない?」


 隣から美咲が聞いた。


 今夜の見張りは、悠真と美咲の二人だった。


「少し。」


「少しって顔じゃないけど。」


「美咲こそ。」


「私は昼間ちょっと寝たから。」


「ずるい。」


「見張りに備えたって言って。」


「同じことだろ。」


 美咲は小さく笑った。


 その声は、外へ漏れないよう抑えられている。


 以前の見張りでは、二人の距離を意識する余裕があった。


 今も美咲が近くにいることは分かる。


 肩が触れそうな距離。


 少し動けば、互いの体温が伝わりそうな距離。


 だが悠真の意識は、窓の外へ向いていた。


「やっぱり気になる?」


 美咲が言った。


「何が。」


「今日来た人たち。」


「……うん。」


 水を求めて藤堂家を訪れた人々。


 子供がいると訴えた女性。


 老人。


 赤ん坊を抱えた夫婦。


 水を渡せた相手。


 渡せなかった相手。


 門の前で何度も頭を下げ、肩を落として帰っていった人間。


「悪いことをしたとは思ってない。」


 悠真は言った。


「全部渡したら、こっちが足りなくなる。」


「うん。」


「分かってる。」


「でも?」


「……忘れられない。」


 水を渡せなかった男の顔。


 唇が乾き、頬が痩せていた。


 嘘を言っているようには見えなかった。


 だが、本当かどうかも分からなかった。


 誰か一人を信じれば、次も信じなければならなくなる。


 それが続けば、水はなくなる。


「難しいね。」


 美咲が小さく言った。


「うん。」


「私だったら、たぶん渡しちゃう。」


「美咲はそうだろうな。」


「何、その言い方。」


「褒めてる。」


「本当に?」


「半分くらい。」


「残り半分は?」


「心配してる。」


 美咲は少し黙った。


「悠真も、昔なら渡してたよね。」


「たぶん。」


「今は?」


「……分からない。」


 昔の自分なら、困っている人を助けるべきだと思った。


 それが正しいと信じていた。


 今も助けたい気持ちはある。


 だが、自分の水を渡すことは、自分だけの問題ではない。


 家族。


 朝倉家。


 三浦親子。


 ここにいる全員の命に関わる。


「俺が勝手に優しくなったら。」


 悠真は言った。


「その分、誰かが我慢することになる。」


「……うん。」


「だから、簡単には決められない。」


 美咲は膝を抱えながら、窓の外を見た。


「大人みたい。」


「大学生は一応大人だけど。」


「そういう意味じゃなくて。」


「じゃあ何。」


「前より、考えるようになった。」


「前から考えてたよ。」


「考えすぎて動けないことはあったけどね。」


「酷いな。」


「でも今は違う。」


 美咲は悠真を見る。


「怖くても動いてる。」


「それは。」


 動かなければ誰かが死ぬからだ。


 そう言おうとして、やめた。


 それを口にすれば、また魔犬を殺した夜を思い出す。


 美咲は何も聞かなかった。


 ただ、悠真の近くに寄り添っていた。



 カラン。


 突然。


 庭の端で、空き缶が鳴った。


 二人の身体が同時に固まる。


 風ではない。


 風で鳴る時とは、音が違った。


 一度。


 短く。


 何かが糸へ触れた音。


「悠真。」


「うん。」


 美咲が懐中電灯を持つ。


 悠真は金属バットを掴み、窓の下へ身体を隠した。


 外を見る。


 暗い。


 門。


 塀。


 庭木。


 何も動いていないように見える。


(《鑑定》)


 意識を広げる。


 庭。


 門の外。


 道路。


 路地。



【対象反応あり】



 悠真の呼吸が止まる。


「いる。」


 小声で美咲へ伝える。


「何人?」


「まだ分からない。」


 もう一度。


 集中する。


 門の外ではない。


 塀の側面。


 家の裏へ続く細い道。



【対象:人間】


【状態:緊張】


【敵意:なし】



「人間。」


「敵意はない。」


「でも、隠れてる。」


 美咲の表情が強張る。


「黒牙?」


「分からない。」


 悠真は立ち上がらないまま、廊下へ下がった。


「恒一さんを起こす。」


「私も行く。」


「美咲はここから見てて。」


「でも。」


「何か動いたらすぐ呼んで。」


 美咲は迷った後、頷いた。


「分かった。」


 悠真は音を立てないよう階段を下りた。



 数分後。


 恒一。


 誠。


 英樹。


 悠真。


 四人が玄関近くへ集まった。


 真由美たちには、まだ声を掛けていない。


 状況が分からないうちに全員を起こせば、余計な混乱を招く。


「場所は?」


 恒一が小声で聞く。


「家の裏側。」


「細い路地。」


「一人です。」


「武器は?」


「見えません、、」


「敵意はなし。」


 誠が少し考える。


「声を掛けるか?」


「罠かもしれない。」


 英樹が言った。


「敵意がない人間を囮にして、別の奴が見ている可能性もある。」


 悠真は再び《鑑定》を使う。


 周囲。


 門の外。


 道路の向こう。


 民家の陰。



【周辺に追加の人間反応なし】



「他にはいません。」


「今見える範囲では一人だけ。」


「なら俺が行く。」


 恒一が言った。


「待ってください。」


 悠真が止める。


「俺も行きます!」


「お前は家から見ろ。」


「でも。」


「鑑定がある。」


「遠くからでも位置が分かるなら、そっちの方がいい。」


 恒一の判断は正しい。


 悠真は反論できなかった。


「俺と英樹さんで行く。」


 誠が言う。


「いや。」


 恒一が首を横に振った。


「誠さんは残ってください。」


「もし正面から別の人間が来た場合、まとめる人が必要です。」


「……分かった。」


 恒一と英樹が裏口へ向かう。


 悠真は二階へ戻り、窓から様子を見ることになった。



 家の裏。


 細い路地。


 街灯は消え、月明かりも建物に遮られている。


 恒一は音を立てずに進んだ。


 その後ろを英樹がついていく。


 手には短い鉄パイプ。


 武器というより、工具に近い。


 だが今は、十分に武器として使える。


「そこにいるのは分かってる!」


 恒一が低い声で言った。


「出てこい。」


 返事はない。


「敵意がないことも分かってる。」


 悠真の能力を知らない人間には、不気味な言葉だっただろう。


 路地の奥。


 物置の影から、人が動いた。


 若い。


 細い身体。


 パーカー。


 顔を隠すようにフードを被っている。


「両手を見せろ。」


 恒一が言う。


 相手がゆっくり両手を上げた。


 武器はない。


「顔を見せろ。」


 相手が迷う。


「早くしろ。」


 フードが下がる。


 その顔を見た瞬間。


 英樹の表情が変わった。


「お前は」


 相沢直人。


 黒牙の一員。


 藤堂家へ来た時、黒田たちと一緒にいた少年。


「何の用だ?」


 恒一の声が一段低くなる。


「……話がある。」


「誰に?」


「藤堂。」


「どの藤堂だ。」


「彩乃。」


 恒一の目が鋭くなった。


 直人はすぐに言い直す。


「いや。」


「家の奴らに。」


「何を話す。」


「ここじゃ言えない。」


「なら帰れ。」


「待ってくれ。」


 直人が一歩前へ出る。


 恒一も一歩出た。


 身体から発せられる圧に、直人の足が止まる。


「勝手に近付くな。」


「……。」


「お前たちは、一度この家を下見に来ている。」


「今度は夜中に一人で忍び込んだ。」


「信用されると思うか。」


「思ってねぇよ。」


 直人は吐き捨てるように答えた。


「でも伝えないと。」


 声が震えている。


 恐怖。


 焦り。


 そして迷い。


 悠真は二階から鑑定を続けていた。



【相沢 直人】


【状態:強い緊張】


【敵意:なし】


【恐怖:大】


【葛藤:大】



「嘘はついてないと思います。」


 悠真は窓から小さく言った。


 声が届く距離ではない。


 だが、隣にいる誠には聞こえた。


「何を怖がっている。」


 誠が呟く。


「恒一君たちじゃない。」


 悠真は表示を見る。


「たぶん。」


「別の何かです。」



「黒牙が動く。」


 直人が言った。


 恒一も英樹も黙る。


「何をする。」


「詳しくは知らねぇ。」


「嘘をつくな。」


「本当に知らねぇんだよ。」


 直人は苛立ったように髪を掻いた。


「俺は下っ端だ。」


「全部聞かされるわけじゃない。」


「でも、水のことはバレてる。」


 英樹の表情が硬くなる。


「誰に。」


「黒田。」


「それから総長にも話が行った。」


「作業車が出たこと。」


「水を持って帰ったこと。」


「家に人が集まってること。」


 恒一の拳がゆっくり握られる。


「誰が見ていた?」


 直人は答えなかった。


「お前か。」


「……。」


「お前が見張っていたのか。」


「命令だった。」


 直人は俯く。


「断れるかよ!!」


「それで警告に来たのか。」


「……。」


「何が目的だ。」


「別に。」


「目的がない人間が、命令に逆らって夜中に来るか。」


 直人の顔が歪む。


「俺は、、、」


 言葉が止まる。


 何を言えばいいのか分からない。


 彩乃を守りたい。


 だが、そんなことを言える立場ではない。


 彩乃とは、ほとんど話したこともない。


 黒牙の一員として藤堂家を調べた。


 仲間が美咲と彩乃へ嫌な視線を向けていた時も、その場にいた。


 守りたいなどと言って、信じてもらえるはずがない。


「次に水を取りに出た時。」


 直人は言った。


「後をつけるつもりだ」


「黒牙が?」


「ああ」


「水場を押さえる。」


「邪魔する奴は殴ってでも退かす。」


「それだけか。」


 恒一が聞く。


 直人は答えない。


「それだけじゃないな。」


「……。」


「他に何を命じられた。」


 沈黙。


 直人の喉が動く。


「言え。」


「女、、」


 掠れた声。


「何だ。」


「女を連れてこいって、、」


 恒一の表情が消えた。


 怒りが強すぎて、逆に何も浮かばなくなったような顔だった。


「誰を。」


「名前までは。」


「誰を見て言った。」


 恒一が一歩近付く。


 直人が後退する。


「若い女が二人いるって。」


「黒田が報告している」


「総長が、、」


 その先を言えない。


 言わなくても分かる。


 美咲。


 彩乃。


 恒一の身体から、目に見えない何かが広がった。


 魔素。


 怒り。


 殺気。


 直人は息を呑む。


「恒一。」


 英樹が低く呼んだ。


 父親の声だった。


 英樹も怒っている。


 だが、今ここで直人を殴っても何も解決しない。


「それを伝えに来たのか?」


 英樹が聞く。


「……ああ。」


「なぜだ。」


「分からねぇよ!」


 直人が苛立ったように答えた。


「俺だって分かんねぇ!」


「総長には恩がある、、」


「黒牙しか居場所がなかった、、」


「でも!」


 また言葉が止まる。


「でも何だ。」


「今の総長は、、、」


 直人は拳を握った。


「前と違うんだよ、、」


 その声には、怒りよりも悲しみがあった。


「何をするか分からねぇんだ、」


「だから!」


「気を付けろ。」


「次に出るなら絶対に、家を空けるな。」


 矛盾した言葉だった。


 水を汲みに出るなら、家を空けない。


 そんなことは不可能だ。


 だが直人が言いたいことは分かった。


 外出する者を狙う。


 同時に、残った家も狙う。


 どちらが本命かは分からない。


 あるいは、両方。


「いつ動く。」


 英樹が聞く。


「分からない。」


「明日か。」


「明後日か。」


「次に作業車が出た時かもしれない。」


「人数は。」


「知らない。」


「総長も来るのか?」


「……分からない。」


 直人は本当に知らないようだった。


 下っ端。


 命令される側。


 それでも、危険を冒してここまで来た。


「もう行く。」


 直人がフードを被る。


「待て。」


 恒一が呼び止めた。


「お前を信用したわけじゃない。」


「分かってる。」


「次に黒牙と一緒に来たら。」


 恒一の声が冷える。


「敵として扱う。」


 直人の身体が一瞬固まる。


「……ああ。」


「それでいい。」


 直人は背を向けた。


「相沢。」


 英樹が呼んだ。


 直人が振り返る。


「なぜ言いに来たんだ?」


「……。」


 答えない。


「彩乃と何がある?」


「何もねぇよ。」


「なら。」


「何もねぇからだよ。」


 直人はそれだけ言い、暗い路地へ消えた。



「中へ入れなかったの?」


 話を聞いた彩乃の第一声は、それだった。


 リビングには全員が集まっていた。


 三浦親子は奥の部屋で休んでいる。


 翔太の熱が下がったとはいえ、夜中に起こす必要はない。


「黒牙の人間だ。」


 誠が答える。


「警告に来たとしても、家へ入れるわけにはいかない。」


「でも、何か訳があるかも、、」


「彩乃。」


 英樹が静かに言った。


「今の話で大事なのは、相沢君を信用するかどうかじゃない。」


「黒牙が実際に動く可能性があることだ。」


 彩乃は黙った。


 直人。


 やはり昼間、路地にいたのは彼だった。


 自分の見間違いではなかった。


「相沢は。」


 悠真が言った。


「かなり怖がってた。」


「嘘をついてる感じもなかった。」


「鑑定で?」


「うん。」


「敵意はなかった。」


「葛藤と恐怖が強かった。」


「なら信じていいんじゃないの?」


 彩乃が言う。


「全部を信じる必要はない。」


 恒一が答えた。


「警告が事実だと仮定して動く。」


「それでいい。」


「でも、相沢君は危険を冒して来たんだよね?」


 美咲が言った。


「黒牙に知られたら、ただじゃ済まないんじゃ?」


「そうだな。」


 誠は頷く。


「だから、警告自体には意味がある。」


「少なくとも、何も起きないと思って動くよりはいい。」


 真由美が不安そうに手を握る。


「女を連れてこいって。」


 その言葉が、部屋の中へ重く落ちた。


 美咲。


 彩乃。


 二人とも顔を強張らせる。


 以前、黒牙が藤堂家へ来た時。


 向けられた視線。


 舐めるような目。


 あれが、ただの不快な視線ではなくなった。


 明確な危険。


 奪う対象として見られている。


「絶対に外へ出すべきじゃない。」


 恒一が言った。


「美咲も彩乃も。」


「恒一先輩。」


 彩乃が反応する。


「私も戦えます!」


「知ってる!」


「なら!!」


「相手は一人じゃないし、いまはマトモな世界じゃない。」


 恒一の声は厳しかった。


「子供同士の喧嘩じゃない。」


「勝てば終わる試合でもない。」


「複数で囲まれて、刃物や武器を使われる。」


「人質を取られるかもしれない。」


「お前が強いことと、危険がないことは別だ。」


 彩乃は唇を噛んだ。


 正論だった。


 だが、守られるだけの存在として扱われることに納得できない。


「それでも、、」


「彩乃!」


 悠真が言った。


「今は聞いて、、」


「お兄ちゃんまで!」


「お前を弱いと思ってるわけじゃない、むしろ強いから頼りにしてる。」


「でも、黒牙はお前を倒したいんじゃない。」


「自分達の欲の為に連れていきたいんだ。」


 戦いの目的が違う。


 勝ち負けではない。


 掴まれれば。


 車へ押し込まれれば。


 誰かを人質に取られれば。


 空手の強さだけでは解決できない。


 彩乃は何も言えなかった。


「私は?」


 美咲が聞いた。


「家から出ない方がいい?」


「少なくとも、しばらくは一人で外へ出ない。」


 誠が答える。


「庭も、見張りがいる時だけ。」


「水汲みには?」


 美咲の問いに、全員が黙った。


 次の水汲み。


 水は必要だ。


 だが、作業車を出せば黒牙が追ってくる。


 道中を狙われる可能性。


 留守を狙われる可能性。


 同時に襲われる可能性。


「水汲みを止めることはできない。」


 英樹が言った。


「今ある分も、数日で減る。」


「なら、黒牙が来ると分かっていても行くしかない。」


「時間を変える。」


 誠が言った。


「前回は朝に出た。」


「次は夜明け前に出る。」


「暗い中で?」


 由紀が不安そうに聞く。


「完全な夜は危険だ。」


「だが、日が昇り始める少し前なら、黒牙の見張りも少ないかもしれない。」


「道中の魔獣は?」


「悠真が見る。」


 全員の視線が悠真へ向く。


 責任が重い。


 だが、断れない。


「やります。」


 悠真は答えた。


「俺が周囲を見ます。」


「誰が行く。」


 恒一が聞く。


 前回は誠、英樹、悠真。


 次は黒牙に狙われている。


 同じ三人では危険だ。


「俺も行く。」


 恒一が言う。


「駄目だ。」


 英樹がすぐに否定した。


「お前が出たら、家の守りが薄くなる。」


「でも外で黒牙と接触したら、三人では危険です。」


「家には美咲と彩乃がいる。」


「だから俺が残るべきだ。」


「なら、道中はどうする?」


「……。」


 戦力が足りない。


 恒一を外へ出せば家が危ない。


 残せば水汲み組が危ない。


 彩乃は戦える。


 だが狙われている本人だ。


 連れていくわけにはいかない。


 悠真の《身体能力上昇・小》だけでは、複数の黒牙を相手にはできない。


「二台に分けるか。」


 誠が言った。


「二台?」


 悠真が聞く。


「作業車と、うちの車。」


「片方が囮になる。」


 英樹が眉を寄せる。


「かなり危険な賭けだぞ。」


「ああ。」


「だが、一台だけ出れば確実に追われる。」


「二台を別方向へ出す。」


「どちらが水汲みに行くか分からなくする。」


「誰が囮になるんですか。」


 美咲の声が震える。


 誠は答えなかった。


 囮。


 黒牙を引きつける役。


 危険なのは分かっている。


 それでも、何か策を考えなければ全員が狙われる。


「今すぐ決めない。」


 誠は言った。


「明日一日、周囲の動きを見る。」


「水の残量も再計算する。」


「その上で決める。」


 話は一度そこで終わった。


 だが、不安は誰の中からも消えなかった。



 深夜。


 彩乃は一人、二階の窓から外を見ていた。


 直人がいた路地。


 今は誰もいない。


「何もないから。」


 直人はそう言ったらしい。


 理由を聞かれて。


 何もないから。意味が分からない。


 でも、分かる気もした。


 直人と彩乃は友人ではない。


 仲が良かったわけでもない。


 話した回数も少ない。


 それでも彩乃は、直人を完全な悪人だと思えなかった。


 中学時代。


 問題ばかり起こしていた。


 授業中は寝ていた。


 教師へ反抗した。


 喧嘩もした。


 だが、弱い相手を面白がって虐めるような男ではなかったと思っていた。


 盗難事件で疑われた時も。


 本当は直人ではないと、彩乃は知っていた。


 ずっと机に伏せて寝ていたから。


 だから、そう言っただけだった。


 本人にとって、それがどれほど大きなことだったのか。


 彩乃は知らない。


「……馬鹿な奴。」


 彩乃は小さく呟いた。


 警告に来れば、自分が危険になる。


 それくらい分かっているはずだ。


 それでも来た。


 なら、もう黒牙へ戻らなければいい。


 そう思う。


 だが、それが簡単ではないことも分かる。


 直人にとって蓮司は恩人なのだろう。


 居場所をくれた人間。


 家族の代わりだった人間。


 変わってしまったからといって、簡単に捨てられるものではない。


「相沢か〜。」


 名前を呼ぶ。


 返事はない。


 暗い路地。


 誰もいない。


 その向こうで。


 直人が一人、自転車を押していた。


 バイクを使えば音で知られる。


 だから、途中から借りた自転車で移動していた。


 廃工場へ戻る道。


 足取りは重い。


 警告はした。


 これで彩乃たちは備えられる。


 それでいい。


 そう思いたい。


 だが、黒田に見つかったら。


 蓮司に知られたら。


 自分はどうなる。


「……。」


 怖い。


 それでも戻る。


 黒牙以外に、自分の居場所はない。


 少なくとも直人は、まだそう思っていた。



 廃工場。


 入口の前に、黒田が立っていた。


 直人の足が止まる。


 黒田は煙草を吸っていた。


 火の赤い光が、暗闇の中で小さく揺れる。


「遅かったですね〜」


「……眠れなくて。」


「散歩ですか?」


「そうです。」


「ずいぶん遠くまで行ったみたいですねー」


 黒田の視線が、自転車の泥へ向く。


 直人の背中に汗が流れる。


「何が言いたいんですか。」


「別に。」


 黒田は煙を吐いた。


「若い奴は夜中に走りたくなることもあるかもしれない。」


「そうでしょ?」


「……はい。」


「ただ。」


 黒田が直人の肩へ手を置く。


「総長に隠し事はしない方が懸命ですよ。」


 力は入っていない。


 それでも直人には、首を掴まれたように感じられた。


「してません。」


「ならいい。」


 黒田は笑った。


 目は笑っていない。


「明日から忙しくなりますよ〜」


「準備しておくように。」


「何の。」


「水ですよ。」


「それと〜」


 黒田の笑みが深くなる。


「あの家の女」


 直人は拳を握った。


 暗闇のおかげで、その表情は見えなかった。


 少なくとも。


 直人は、そう思っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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