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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

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第36話 水を求める者たち

体調不良で更新出来ませんでした!



 翌朝。


 藤堂家の台所には、湯気が立っていた。


 鍋の中で、昨日汲んできた湧き水が静かに沸騰している。


 透明な水。


 それだけなら、水道から出ていたものと何も変わらない。


 だが、今は違う。


 山道を進み。


 魔獣の痕跡を警戒し。


 レイブンクロウの群れから逃げながら持ち帰った水だ。


 ガスコンロの火にかけられているだけなのに、悠真にはひどく重いものに見えた。


「そろそろいいわね。」


 真由美が時計を確認し、火を止める。


 鍋をすぐには動かさない。


 冷ましてから、飲料用の容器へ移す。


 その間にも、水がどれだけ残っているかを確認する。


 藤堂家では、水を使うたびに記録をつけることになっていた。


 誰が。


 何のために。


 どれだけ使ったのか。


 以前なら、考えもしなかったことだ。


 コップ一杯の水を飲むために、わざわざ紙へ数字を書く。


 けれど、それをしなければ、いつの間にかなくなってしまう。


「翔太君の分、冷めた?」


 美咲が聞いた。


「もう少しね。」


 真由美は答えながら、別の容器に入った水を確認した。


「朝の薬を飲む分は残してあるから、そっちを使って。」


「分かった。」


 美咲は小さなコップを持ち、リビングへ向かう。


 その姿を見送りながら、悠真は台所の隅に並んだポリタンクへ視線を向けた。


 昨日は、あれだけ多く見えた。


 荷台いっぱいに積み込まれた水。


 家へ戻った時には、これでしばらく大丈夫だと思った。


 しかし、一晩過ぎただけで考えが変わる。


 飲む。


 料理をする。


 薬を飲む。


 身体を拭く。


 傷を洗う。


 使うたびに、水は確実に減っていく。


 十人で使えば、その速度は早い。


「また行かないとな。」


 悠真が呟く。


 近くにいた誠が振り返った。


「湧き水か。」


「うん。」


「昨日持ってきた分だけじゃ、ずっとは持たない。」


「分かってる。」


 誠はポリタンクを見る。


「ただ、続けて同じ場所へ行くのは危険だ。」


「レイブンクロウ?」


「それもある。」


 誠は声を落とした。


「人間に見られる可能性もある。」


 昨日は、誰にも会わなかった。


 少なくとも、水場では。


 だが、作業車で山道へ向かう姿を誰にも見られていないとは限らない。


 帰りの作業車は明らかに重かった。


 荷台にはブルーシートをかけていたが、見る人間が見れば、何かを運んでいることは分かる。


「黒牙が気付くかな。」


「いずれは気付く。」


 誠は否定しなかった。


「断水しているのは、俺たちだけじゃない。」


「水を探している人間は大勢いる。」


「黒牙も同じだ。」


 悠真は黙った。


 以前、藤堂家へ来た黒田拓海。


 物資を確認するような視線。


 美咲や彩乃へ向けられた、嫌な目。


 彼らがこの家を忘れたとは思えない。


「次に行く時は、もっと考えた方がいいね。」


「ああ。」


 誠は頷いた。


「同じ時間、同じ道は使わない。」


「監視されている前提で動く。」


 監視。


 その言葉が重かった。


 藤堂家は、壁に囲まれた安全な場所ではない。


 外から見れば、物資を持つ家だ。


 家族が多く。


 作業車があり。


 ある程度の防備を整えている。


 奪う側にとっては、魅力的な獲物かもしれない。



 翔太の熱は、三十七度台まで下がっていた。


 まだ顔色は良くない。


 だが、昨日よりは目に力が戻っている。


「水、おいしい?」


 彩乃が聞く。


「うん。」


 翔太はコップを両手で持ち、小さく口をつけた。


「冷たい。」


「一気に飲んじゃ駄目だよ。」


 美咲が言う。


「少しずつね。」


「うん。」


 翔太は素直に頷いた。


 その隣では、三浦恵が横になっている。


 右脚の傷はまだ痛むようだったが、腫れは昨日より引いていた。


「本当に、何から何まで……。」


 三浦が申し訳なさそうに言う。


「水まで。」


「気にしないでください。」


 美咲が答えた。


「今は治すことだけ考えてください。」


「でも、私たちが来たせいで……。」


 三浦の視線が、台所のポリタンクへ向かう。


 自分たちが増えたことで、水の消費が増えている。


 そのことを分かっているのだろう。


「三浦さん。」


 誠が静かに呼びかけた。


「助けたことを後悔している人間は、ここにはいません。」


「……。」


「水が足りないのは、あなたたちのせいじゃない。」


「水道が止まったからです。」


「でも。」


「それと、今後どうするかは別です。」


 誠は穏やかに続ける。


「水が必要なら取りに行く。」


「食料が必要なら探す。」


「一緒に生き残る方法を考える。」


 三浦の目から涙がこぼれた。


「ありがとうございます……。」


 誠は、それ以上何も言わなかった。


 悠真は父の横顔を見る。


 父は優しい。


 だが、何でも受け入れるつもりではないことも分かっている。


 助けられる範囲。


 守れる人数。


 残っている物資。


 その全てを計算しながら、父は言葉を選んでいる。


 以前の悠真なら、それを冷たいと思ったかもしれない。


 今は違う。


 全員を無条件に助けると言う方が、無責任なのだ。


 水は有限だ。


 食料も。


 薬も。


 そして、守る側の命も。



 昼前。


 門の外で、空き缶が鳴った。


 カラン。


 釣り糸を利用した警報。


 大きな音ではない。


 だが、家の中にいる全員の動きが止まった。


 恒一がすぐに立ち上がる。


 彩乃も玄関脇に置いてあった棒を取った。


「一人か?」


 英樹が小声で聞く。


「分からない。」


 恒一は耳を澄ませる。


 門の外。


 足音。


 荒い呼吸。


 複数ではない。


「俺が見る。」


「待ってください。」


 悠真も立ち上がった。


 金属バットを手に取る。


 触れた瞬間、手の奥に嫌な感触が蘇った。


 それでも離さない。


「一緒に行きます。」


 恒一は一瞬だけ悠真を見たが、何も言わなかった。


 二人は玄関を出る。


 誠と英樹も少し遅れて続いた。


 彩乃は家の中に残り、美咲たちを守る。


「誰だ!」


 恒一が門越しに呼びかける。


「すみません!」


 女性の声だった。


「お願いします!」


「少しだけ、話を聞いてください!」


 悠真は門の隙間から外を見る。


 女性。


 四十代くらい。


 髪は乱れ、顔には疲労が浮かんでいる。


 手には、空のペットボトルが入った袋。


 武器は持っていないように見える。


(《鑑定》)



【対象:成人女性】


【状態:疲労】


【脱水:軽度】


【敵意:なし】



「敵意はありません。」


 悠真が小声で伝える。


 誠が門の前へ出た。


「どうしましたか。」


「水を……。」


 女性は、門に縋るようにして言った。


「少しでいいんです。」


「子供がいるんです。」


 誠の表情がわずかに硬くなる。


「何歳ですか。」


「五歳です。」


「昨日から、ほとんど飲ませてやれなくて。」


「水道も止まって。」


「店にも何もなくて。」


 女性の目から涙がこぼれる。


「お願いします。」


「一杯だけでも。」


 悠真の胸が締め付けられた。


 水はある。


 昨日、命がけで持ち帰った水。


 家には病人がいる。


 怪我人もいる。


 十人分だ。


 それでも、門の外にいる子供を見捨てることが正しいとは思えない。


「父さん。」


 悠真が呼ぶ。


 誠は答えず、しばらく女性を見ていた。


「子供はどこにいますか。」


「家です。」


「近所です。」


「歩いて五分くらいで。」


「他に家族は?」


「夫は水を探しに行ったまま、帰ってきません。」


 女性は震えながら答えた。


「私と娘だけです。」


「容器を。」


 誠が言った。


 女性は何度も頷き、袋から二リットルの空のペットボトルを出した。


「一度だけです。」


 誠ははっきりと言った。


「今後も毎日分けられる保証はありません。」


「はい。」


「分かっています。」


「それでも十分です。」


 誠は英樹へ目を向ける。


 英樹が頷き、家の中へ戻る。


 少しして、ペットボトルに水を入れて持ってきた。


 満杯ではない。


 半分ほど。


 一リットル程度。


 女性はそれを受け取ると、胸に抱えた。


「ありがとうございます。」


「本当に。」


「娘さんには少しずつ飲ませてください。」


 真由美が門の内側から声を掛ける。


「一度に大量に飲ませず、様子を見ながら。」


「はい。」


「もし意識がおかしい、吐いて水を飲めない、呼びかけへの反応が弱いなら、連れてきてください。」


 その言葉に、誠がわずかに振り返った。


 真由美も、自分が何を言ったのか分かっている。


 連れてきて。


 それは、この家でさらに一人を受け入れる可能性を意味する。


 だが、看護師として見捨てられないのだろう。


 女性は何度も頭を下げた。


「分かりました。」


「本当に、ありがとうございます。」


 彼女は水を抱え、何度も振り返りながら去っていった。



 門を閉めた後も、誰もすぐには家へ戻らなかった。


「これで終わらないな。」


 英樹が言った。


 誠は門を見つめたまま頷く。


「ああ。」


「あの人が誰かに話す。」


「話さなくても、水を持って帰る姿を見られる。」


「そうすれば、他の人も来ますね。」


 悠真が言った。


「水がある家だって。」


「分けてくれる家だって。」


「そうなる。」


 誠の声は重い。


「悪いことをしたとは思わない。」


「だが、これからは同じようにはできない。」


「どうするの?」


 彩乃が玄関から出てきた。


「子供がいるって言われても、断るの?」


 その問いに、誰もすぐ答えられなかった。


「助けられるなら助けたい。」


 誠は言った。


「だが、全員に水を分ければ、ここにいる人間が死ぬ。」


「……。」


「十人分の水を確保するだけでも危険だった。」


「町中の人間を支えられる量はない。」


 彩乃は唇を噛む。


「じゃあ、何人までならいいの。」


「分からない。」


 誠は正直に答えた。


「だから決めなければならない。」


「病人。」


「子供。」


「本当に危険な人。」


「それ以外は、場所を教えることも考える。」


「湧き水の場所を?」


 英樹が眉を寄せた。


「人が集まりすぎれば危険だぞ。」


「魔獣も寄ってくる。」


「黒牙に知られる可能性も高まる。」


「でも、何も教えずに断るのか?」


 誠が聞く。


 英樹は答えられなかった。


 水場の情報。


 それ自体が物資になる。


 知っている者と、知らない者。


 それだけで生死が分かれる。


「場所を教えれば助かる人もいる。」


 悠真が言った。


「でも、そこで争いが起きるかもしれない。」


「黒牙が占拠するかもしれない。」


「魔獣に襲われる人も出るかもしれない。」


 何が正解なのか分からない。


 黙っていれば、人が死ぬ。


 教えても、人が死ぬかもしれない。


 助けるという行為は、単純ではなかった。



 その日の午後。


 また警報が鳴った。


 今度は、老人の男性だった。


 水を求めていた。


 夕方には、若い夫婦が来た。


 赤ん坊がいると言った。


 全員に渡すことはできなかった。


 状態を確認し。


 事情を聞き。


 本当に危険だと判断した相手にだけ、最低限の水を渡した。


 渡せなかった者もいる。


「お願いします。」


「少しだけでいいんです。」


「家族がいるんです。」


「何でもしますから。」


 そう言われても、断らなければならなかった。


 悠真は、門の内側で何度も拳を握った。


 水はある。


 目の前にある。


 それでも渡せない。


 魔犬を殺した時とは違う苦しさだった。


 あの時は、守るために殺すしかなかった。


 今は、生かすための水を渡さない。


 自分たちを守るために。


「悠真。」


 恒一が隣に立つ。


「つらいか。」


「はい。」


「でも、父さんの判断は間違ってない。」


「ああ。」


「分かってます。」


 分かっている。


 全員に渡せば足りなくなる。


 そうなれば、翔太も。


 三浦恵も。


 自分の家族も。


 朝倉家も。


 全員が危険になる。


「助ける相手を選ぶって。」


 悠真は小さく言った。


「こんなに嫌なことなんですね。」


「そうだな。」


「恒一さんなら、どうします?」


「分からん。」


 恒一はすぐに答えた。


「俺も誠さんと同じようにすると思う。」


「でも、それが正しいかは分からない。」


「……。」


「正しいからやるんじゃない。」


「守るために必要だからやる。」


 悠真は門を見る。


 水を渡せず、肩を落として帰っていった人。


 その背中が頭から離れない。


「恨まれますよね。」


「たぶんな。」


「そのうち、奪おうとする人も出る。」


「ああ。」


「それでも?」


「それでも守る。」


 恒一は家を振り返った。


「全員を救えないなら、せめて自分の手が届く範囲は守る。」


「それしかない。」


 悠真は何も答えなかった。


 手が届く範囲。


 それがどこまでなのか。


 今はまだ分からない。



 藤堂家から少し離れた場所。


 路地の陰に、一人の少年が立っていた。


 相沢直人。


 黒牙の一員。


 直人は、遠くから藤堂家の門を見ていた。


 朝から何人もの人間が訪れている。


 空の容器を持ってきた者。


 水を抱えて帰る者。


 何も持たずに帰る者。


「……水か。」


 直人は小さく呟いた。


 黒田から命じられていた。


 藤堂家の動きを見てこい。


 物資。


 人数。


 外出する時間。


 誰が戦えるのか。


 女は何人いるのか。


 報告しろ。


 直人は、その命令が嫌だった。


 以前なら、何も思わなかった。


 黒牙は自分の居場所だ。


 蓮司は恩人だ。


 命令に従うのは当然だった。


 だが今は違う。


 彩乃がいる。


 藤堂彩乃。


 中学の同級生。


 自分を疑わなかった女。


 名前を覚えていた女。


 あの家を調べるということは、彩乃を危険に晒すことになる。


「……。」


 直人は壁へ背中を預ける。


 報告しなければ、黒田に疑われる。


 蓮司に知られれば、それだけでは済まない。


 今の蓮司は、以前の蓮司ではない。


 仲間を守っていた男。


 腹を空かせた直人に牛丼を食わせてくれた男。


 父親に殴られていた直人を助けた男。


 その背中は、今も直人の中に残っている。


 だが、最近の蓮司は。


 女。


 物資。


 力。


 そればかりを求めている。


 藤堂家に水があると知れば、必ず動く。


 それだけではない。


 美咲。


 彩乃。


 二人がいることも、黒田は報告している。


 直人は奥歯を噛んだ。


「どうすりゃいいんだよ……。」


 答える者はいない。


 その時。


 藤堂家の門が開いた。


 彩乃が外へ顔を出す。


 周囲を警戒するためだろう。


 直人は反射的に身体を隠した。


 壁の陰。


 息を止める。


 彩乃は道路の左右を確認する。


 その視線が、一瞬だけ直人のいる路地へ向いた。


「……。」


 見つかった。


 そう思った。


 だが彩乃は、何も言わなかった。


 しばらく路地を見つめた後、門の内側へ戻る。


 門が閉じる。


 直人はゆっくり息を吐いた。


 気付かれたのか。


 気付かれていないのか。


 分からない。


 ただ、胸の奥が痛かった。



 夕方。


 黒牙の廃工場。


 直人は黒田の前に立っていた。


「どうでした?」


 黒田が聞く。


「何人か来てました。」


「何の用で。」


「水を貰いに。」


 黒田の目が細くなる。


「水?」


「はい。」


「藤堂家に?」


「たぶん。」


「容器を持って帰る奴がいたんで。」


「どのくらい持ってる。」


「そこまでは分かりません。」


「車は動いていたんですか?」


 直人は一瞬、答えに詰まった。


「……作業車が出てたみたいです。」


「みたい?」


「戻った跡がありました。」


「積み荷は?」


「見てません。」


 黒田は直人をじっと見る。


 目が笑っていない。


「お前。」


「何か隠してませんか?」


「隠してません。」


「そうですか。」


 黒田はしばらく直人を見ていたが、やがて視線を外した。


「まあいい。」


「水場を見つけた可能性が高いですね。」


 直人の胸が強く鳴る。


「どうするんですか?」


「総長に報告する。」


「それだけです。」


「……。」


「何だ。」


「いえ。」


 黒田は小さく笑った。


「心配ですか?」


「何がですか。」


「あの家。」


「別に。」


「中学の同級生がいたんでしょ?」


 直人の拳に力が入る。


「関係ないです。」


「そうか。」


 黒田は直人の肩を軽く叩いた。


「ならいいですよ。」


「情は見せ無い方が良い。」


「今の総長は、そういうものを一番嫌う。」


「……はい。」


 直人は答えた。


 黒田の手が離れる。


 その直後。


 廃工場の奥から、大きな音が響いた。


 ドンッ!


 何かが壁へ叩きつけられた音。


 続いて、男の呻き声。


「総長……。」


 直人が呟く。


 黒田の表情から笑みが消えた。


「またか。」


 二人が工場の奥へ向かう。


 そこには、倒れた黒牙の男がいた。


 壁際で腹を押さえ、苦しそうに息をしている。


 その前に、神崎蓮司が立っていた。


 上半身は裸。


 筋肉が以前より膨らんでいる。


 皮膚の下には、黒い筋のようなものが浮かんでいた。


「総長。」


 黒田が呼びかける。


 蓮司が振り返る。


 その目は赤く充血していた。


「何だ。」


「藤堂家の報告です。」


 蓮司の口元が歪む。


「あの家か。」


「はい。」


「水を確保している可能性があります。」


「水。」


 蓮司は舌で唇を舐めた。


「どこからだ。」


「まだ不明です。」


「作業車で外出していた形跡があります。」


「追え。」


 蓮司は即座に言った。


「次に出た時。」


「後をつけろ。」


 直人の身体が固まる。


「場所を見つけたら。」


 蓮司は続ける。


「水場を押さえる。」


「逆らう奴は。」


 倒れている男へ視線を向ける。


「潰せ。」


「……了解しました。」


 黒田が答えた。


 蓮司はさらに言う。


「あの家。」


「女もいたよな。」


 直人の背筋が凍った。


「はい。」


 黒田が答える。


「二人。」


「若いのが。」


 蓮司が笑った。


「次は。」


「連れてこい。」


 直人の拳が強く握られる。


 爪が掌へ食い込む。


 それでも、顔には出さない。


 出してはいけない。


 黒田の言葉が蘇る。


 情を見せるな。


 食われるぞ。


「直人。」


 蓮司が呼んだ。


「……はい。」


「お前も行け。」


「顔を知ってるんだろ。」


「……はい。」


 喉が乾く。


 水の話をしているのに。


 直人の口の中には、一滴の唾液も残っていなかった。



 その夜。


 藤堂家では、翌日の水の使用量について話し合いが続いていた。


 今日だけで、何人もの人が水を求めてきた。


 明日はもっと増えるかもしれない。


「門の前に人が集まれば、目立つ。」


 英樹が言う。


「黒牙にも気付かれる。」


「もう気付かれているかもしれない。」


 恒一が答える。


 彩乃は黙っていた。


 昼間。


 路地の奥。


 一瞬だけ見えた影。


 見間違いかもしれない。


 だが、あの立ち方。


 顔を隠す動き。


 相沢直人に見えた。


「彩乃。」


 悠真が呼ぶ。


「何?」


「さっきから静かだけど。」


「……何でもない。」


「本当に?」


「うん。」


 彩乃は答えた。


 直人がいた。


 確信はない。


 だから言えない。


 もし違っていたら。


 もし本当に直人だったら。


 なぜ、あの家を見ていたのか。


 黒牙の命令か。


 それとも。


 何かを伝えようとしていたのか。


 分からない。


「明日から警戒を一段上げる。」


 誠が言った。


「水を求めて来る人間には、門を開けない。」


「状態を確認し、必要なら最低限だけ渡す。」


「ただし、残量が危険域に入ったら渡さない。」


 誰も反対しなかった。


 反対できなかった。


「次の水汲みは?」


 美咲が聞く。


「明日一日、様子を見る。」


 誠が答える。


「明後日には行く必要がある。」


「人数が増えてるから、減りが早い。」


 悠真はポリタンクを見る。


 また、あの場所へ行く。


 レイブンクロウがいる。


 魔犬や変異猪の痕跡もあった。


 そして今度は、人間にも見られるかもしれない。


「次は。」


 悠真が言った。


「もう少し人数を増やした方がいいかもしれない。」


「俺も行く。」


 恒一が即座に言った。


「でも家が。」


「黒牙に水の存在を知られたなら、道中の危険も上がる。」


 恒一は誠を見る。


「次は戦える人間が必要です。」


 誠はすぐには答えなかった。


 家の守り。


 水汲みの護衛。


 どちらにも戦力が必要だ。


 だが、恒一は一人しかいない。


 彩乃も強い。


 悠真も能力を持っている。


 それでも、全員を守れるわけではない。


「明日決める。」


 誠はそう言った。


「今夜は、いつも以上に周囲を警戒する。」


 話し合いは終わった。


 だが、誰も安心してはいなかった。


 水を持ち帰ったことで、一つの危機は越えた。


 同時に、その水が新しい危険を引き寄せ始めている。


 人間も。


 魔獣も。


 水を求める。


 そして、力を持つ者は。


 水だけでは満足しない。


 藤堂家の外。


 暗い路地の先で。


 一台のバイクが、音を立てないよう押されながら遠ざかっていった。


 その存在に気付いた者は、まだいなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。

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