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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

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第35話 湧き水へ

 翌朝。


 藤堂家の玄関前には、空のポリタンクが並べられていた。


 十リットル。


 二十リットル。


 大きさはばらばらだ。


 けれど、どれも中身は空だった。


 持ち上げれば軽い。


 今はまだ、片手でも運べる。


 だが水を入れれば、一本一本が重くなる。


 二十リットルなら二十キロ。


 それを何本も車に積み、持ち帰らなければならない。


 悠真はポリタンクの列を見下ろしながら、改めて思った。


 水は重い。


 命を繋ぐものは、こんなにも重い。


「積めるだけ積むぞ。」


 英樹が作業車の荷台を開けながら言った。


 朝倉家から持ってきた作業車。


 元々は工具や資材を運ぶための車だ。


 今はそこに、空のポリタンク、ロープ、ブルーシート、工具、救急箱、毛布が積み込まれていく。


 帰りには、ここに水の重さが加わる。


「帰りは車体が沈むな。」


 英樹が言った。


「道が悪ければ、無理はしない。」


 誠が頷く。


「危険だと思ったら引き返す。」


「水は?」


 悠真が思わず聞いた。


 誠は悠真を見た。


「命が先だ。」


 短い言葉だった。


 でも、その声には迷いがなかった。


「水を持ち帰るために死んだら意味がない。」


「……うん。」


 悠真は頷いた。


 分かっている。


 分かっているが、空のポリタンクを見ていると、その言葉を簡単には飲み込めなかった。


 家には十人いる。


 高熱の翔太がいる。


 怪我をした三浦恵がいる。


 魔素侵食を抱えた恒一がいる。


 水がなければ、全員が弱っていく。


 持ち帰らなければならない。


 でも、生きて帰らなければならない。


 その二つは、同じようで少し違った。



 玄関には、見送りに家族たちが集まっていた。


 美咲は不安そうに両手を握っている。


 彩乃は腕を組み、納得していない顔をしていた。


 真由美と由紀は、三浦親子の様子を見ながらこちらにも視線を向けている。


 恒一は門の近くに立ち、外の気配を警戒していた。


「本当に三人だけで行くの?」


 美咲が聞いた。


「俺と英樹さんと悠真。」


 誠が答える。


「人数を増やすと目立つ。」


「家の守りも薄くなる。」


「でも……。」


 美咲は言葉を詰まらせる。


 正しいと分かっていても、不安が消えるわけではない。


「危険なら引き返す。」


 誠は穏やかに言った。


「無理はしない。」


「ちゃんと帰ってきてね。」


 美咲の視線が悠真に向く。


 以前、夜番の時にも聞いた言葉。


 ちゃんと帰ってきて。


 今の世界では、それはただの見送りの挨拶ではなかった。


 約束であり、祈りだった。


「帰ってくる。」


 悠真は答えた。


「水も持って帰る。」


「うん。」


 美咲は頷いた。


 けれど、その顔から不安は消えなかった。


「私も行けるけど。」


 彩乃が不満そうに言う。


「今回は残れ。」


 誠が言った。


「家の守りが必要だ。」


「分かってる。」


「でも納得はしてない。」


「それでも残れ。」


「……分かってるって。」


 彩乃は唇を尖らせた。


 だが、それ以上は言わなかった。


 恒一が横から声を掛ける。


「彩乃。」


「はい。」


「見張りを頼む。」


 彩乃の表情が変わった。


「はい。」


「黒牙が来る可能性もある。」


「俺一人で全部を見るより、お前の目があった方がいい。」


「……はい。」


 彩乃は真面目な顔で頷いた。


 恒一に頼られたことが、少し嬉しかったのかもしれない。


 けれど、その嬉しさを表に出すほど、今の状況は軽くなかった。


 悠真はそんな妹を見て、複雑な気持ちになった。


 連れていきたくない。


 でも、残していくのも安全ではない。


 家の中にいれば守られる。


 そんな状況は、もう終わっている。



 リビングの隅から、かすれた声がした。


「悠真兄ちゃん。」


 翔太だった。


 まだ布団から起き上がるのもつらそうだが、上半身だけ少し起こしている。


 三浦恵が心配そうに支えていた。


「何?」


 悠真が近付く。


 翔太の視線は、悠真の手元に向いていた。


 銀色の金属バット。


 青いグリップ。


「それ、持っていくんだ。」


「うん。」


「借りる。」


「うん。」


 翔太は少しだけ笑った。


「誰かを助ける時に使って。」


 その言葉に、悠真の胸が少し痛んだ。


 昨夜。


 このバットで魔犬を殺した。


 その感触は、まだ手の奥に残っている。


 できるなら使いたくない。


 もう二度と、あの音を聞きたくない。


 でも。


「使わなくて済むなら、それが一番だけど。」


 悠真は言った。


「必要なら使う。」


 翔太は安心したように頷いた。


「いってらっしゃい。」


 その言葉に、悠真は一瞬だけ動きを止めた。


 いってらっしゃい。


 行ってきます。


 こんな状況でも、その言葉が残っている。


 それだけで、少しだけ胸が温かくなった。


「行ってきます。」


 悠真はそう答えた。



 門を出る前に、恒一が悠真を呼び止めた。


「毎日の確認、まだだろ。」


「あ、はい。」


 悠真はすぐに左腕へ意識を集中する。


(《鑑定》)



【朝倉 恒一】


【状態:安定】


【魔素侵食:停滞】


【侵食率:14%】


【身体変質:安定】


【適応進行中】


【精神状態:正常】



「変化なしです。」


「十四パーセントのまま。」


「そうか。」


 恒一は短く息を吐いた。


 ほんの少しだけ、表情が緩む。


「お前も気を付けろ。」


「はい。」


「危ないと思ったら引け。」


「でも水が。」


「水より命だ。」


 恒一は誠と同じことを言った。


「帰ってこなければ、水を持ち帰る意味がない。」


「……はい。」


「それと。」


 恒一は門の外へ視線を向ける。


「人間にも気を付けろ。」


 悠真は黙った。


 魔獣よりも、その言葉の方が重く聞こえた。


「黒牙ですか。」


「黒牙だけじゃない。」


 恒一の声は静かだった。


「水道が止まった。」


「これからは、水を持っている人間と持っていない人間に分かれる。」


「水場には人が集まる。」


「助けを求める人間もいる。」


「奪おうとする人間もいる。」


「……。」


「見極めろ。」


 悠真は頷いた。


 信じたい相手と守るべき相手を間違えるな。


 以前、恒一に言われた言葉が頭に浮かぶ。


 あの時よりも、少しだけ意味が分かる気がした。


「分かりました。」


「無理に英雄になるな。」


「はい。」


「でも、必要な時は動け。」


「……難しいですね。」


「難しい。」


 恒一は少しだけ笑った。


「だから考えろ。」


「はい。」



 門が開いた。


 作業車がゆっくりと外へ出る。


 運転席に英樹。


 助手席に誠。


 後部座席に悠真。


 荷台には空のポリタンクが並んでいる。


 帰りには、それが水で満たされているはずだった。


 門が閉まっていく。


 その隙間から、美咲と彩乃が見えた。


 悠真は小さく手を上げる。


 二人も手を振り返した。


 やがて門が完全に閉じる。


 家の中と外が分かれた。


 守られた場所と、壊れかけた街。


 その境界を越えた瞬間、車内の空気が変わった。



 住宅街は静かだった。


 朝だというのに、人の声はほとんど聞こえない。


 シャッターの下りた家。


 割れた窓。


 斜めに停まった車。


 道端に転がった自転車。


 数日前まで、ここには普通の朝があった。


 通学する子供。


 犬の散歩をする老人。


 ゴミ出しをする主婦。


 出勤する車。


 だが今は、別の街のようだった。


「前、放置車両。」


 悠真が言う。


 英樹が速度を落とす。


 道路の中央に軽自動車が止まっていた。


 運転席のドアは開いたまま。


 フロントガラスにはひびが入っている。


 中に人はいない。


「通れるか?」


 誠が聞く。


「ぎりぎりだな。」


 英樹は慎重にハンドルを切る。


 作業車が軽自動車の横をすり抜けた。


 タイヤが瓦礫を踏む。


 ガリ、と嫌な音がする。


 悠真は窓の外を見た。


 塀に黒っぽい血が付いている。


(《鑑定》)



【付着物】


【変異魔犬の血液】


【経過時間:約半日】



「魔犬の血です。」


 悠真が言った。


「半日くらい前。」


 誠の表情が硬くなる。


「本体は?」


「今のところ見えません。」


 悠真は周囲に意識を広げた。


 塀。


 庭。


 車の陰。


 電柱。


 物置。


 動くものを探す。



【異常反応なし】



「近くにはいないと思う。」


「油断はするな。」


「うん。」


 車は再び進み出す。


 誰も大きな声を出さなかった。



 大通りには出なかった。


 見通しはいい。


 だが、見通しがいいということは、こちらも見つかりやすいということだ。


 黒牙のような集団が見張っていれば、作業車はすぐ目立つ。


 特に帰りは水を積んでいる。


 狙われる理由ができてしまう。


 英樹は細い裏道を選んだ。


 住宅と畑の間を抜ける道。


 普段なら近所の人しか使わないような道だ。


 道幅は狭い。


 片側には畑。


 もう片側には古い民家の塀。


 そこを作業車が慎重に進む。


「ここ、昔通った時はもっと明るかったな。」


 誠が呟いた。


「人がいないと、同じ道でも違って見えるな。」


 英樹が答える。


 悠真は窓の外を見た。


 畑は荒れていた。


 作物は踏み荒らされ、土は掘り返されている。


 支柱が折れ、ビニール紐が引きちぎられていた。


 地面には無数の足跡が残っている。


 人間の靴跡。


 それから、人間ではないもの。


(《鑑定》)



【足跡】


【変異猪】


【経過時間:約一日】




【足跡】


【変異魔犬】


【経過時間:約半日】



「猪と魔犬の跡があります。」


 悠真が言った。


「猪は一日くらい前。」


「魔犬は半日くらい前。」


「ここもやられてるな。」


 英樹が低く言った。


「水場が近いから、人も魔獣も集まる。」


 誠が答える。


 悠真は前方を見つめた。


 山の麓。


 木々の間に、小さな祠が見える。


 その奥に、岩肌から水が湧き出ている場所がある。


 昔から近所の人間が使っていた湧き水。


 今は、命を繋ぐための場所。


「見えた。」


 悠真が言った。


 英樹が速度を落とす。


 周囲を確認する。


 人影はない。


 魔獣の姿も見えない。


「一旦止める。」


 車が木陰に停まった。


 すぐに出られる向き。


 道を塞がない位置。


 英樹はエンジンを切らず、しばらく周囲を見た。


「悠真、確認。」


「うん。」


(《鑑定》)


 視界を広げる。


 水場。


 祠。


 岩。


 木々。


 地面。



【異常反応なし】



「今は大丈夫。」


「よし。」


 英樹がエンジンを切った。


 三人は車を降りる。


 外の空気は少し湿っていた。


 住宅街よりも、土と草の匂いが濃い。


 そして、その奥から水の音が聞こえた。


 さらさらと。


 細く、けれど確かに流れる音。


 その音を聞いただけで、悠真の喉が鳴った。



 三人はポリタンクを持ち、水場へ近付いた。


 岩の隙間から透明な水が流れ落ちている。


 小さな祠の前に置かれた石は苔むしていて、昔と同じように見えた。


 だが、その周囲には新しい足跡がいくつもある。


 人が来ている。


 魔獣も来ている。


 水場が安全地帯ではないことは、足元を見れば分かった。


「綺麗だな。」


 英樹が呟いた。


「飲めそうか?」


「確認します。」


 悠真は湧き水へ意識を向けた。


(《鑑定》)



【湧き水】


【状態:清浄】


【飲用可能】


【魔素汚染:微量】


【人体への即時有害性:なし】



「飲めます。」


 悠真は言った。


「ただ、魔素汚染が微量って出てます。」


「魔素汚染?」


 誠が眉を寄せる。


「即時有害性はなし。」


「でも持ち帰ったら、念のため煮沸した方がいいと思う。」


「分かった。」


 誠は頷いた。


「それでも、飲める水だ。」


「ああ。」


 英樹が大きく息を吐いた。


「助かったな。」


 その一言に、悠真も頷いた。


 助かった。


 まだ汲んでいない。


 まだ持ち帰っていない。


 それでも、水があるというだけで、胸の奥が少し軽くなった。



 三人はすぐに作業へ入った。


 ポリタンクの蓋を開ける。


 水を受ける。


 待つ。


 蓋を閉める。


 車へ運ぶ。


 荷台に積む。


 ロープで固定する。


 また戻る。


 単純な作業だった。


 だが、時間がかかる。


 水の勢いは強くない。


 二十リットルのタンクを満たすには、それなりの時間が必要だった。


 その間、三人は無防備になる。


「悠真、周囲を頼む。」


 誠が言った。


「うん。」


 悠真は金属バットを握りながら、周囲へ視線を巡らせた。


 水の音。


 風の音。


 葉が擦れる音。


 遠くで鳥が鳴く声。


 その中に、異物が混じっていないか耳を澄ます。


 英樹と誠はポリタンクを運んでいる。


 水が入ったタンクは重い。


 空の時とはまるで違う。


 英樹でさえ、持ち上げる時に一瞬息を詰めた。


「……重いな。」


 英樹が苦笑する。


「これを何本もか。」


「やるしかない。」


 誠が答える。


 二人の額に汗が浮かぶ。


 水場の空気は冷たいはずなのに、作業をすればすぐに体が熱くなる。


 悠真も手伝いたかった。


 だが、自分の役目は周囲を見ることだ。


 父にも恒一にも、何度も言われた。


 見る役が必要だ。


 自分が見落とせば、二人が危ない。


 悠真は視線を動かし続けた。



 ポリタンクが一つ。


 また一つ。


 荷台に積まれていく。


 空だった容器に水が満ちる。


 軽かった荷台が、少しずつ沈んでいく。


 ブルーシートの下に並ぶそれは、ただの水ではなかった。


 翔太の熱を下げる水。


 三浦恵の傷を洗う水。


 料理を作る水。


 薬を飲む水。


 家に残った皆を、明日へ繋ぐ水。


 悠真はその重さを見ていた。


 その時。


 カサ。


 小さな音がした。


 悠真の視線が動く。


 木の上。


 枝の間。


 黒い影。


(《鑑定》)



【レイブンクロウ】


【危険度:E】


【状態:観察】


【特徴:仲間を呼ぶ習性】



「来た。」


 悠真が低く言った。


 誠と英樹の動きが止まる。


「魔犬か?」


「違う。」


「レイブンクロウ。」


「一羽。」


 誠が顔をしかめた。


「仲間を呼ぶやつか。」


「はい。」


「鳴かれる前に終わらせる。」


 英樹がすぐに判断した。


「あと何本だ。」


「二本。」


 誠が答える。


「急ぐぞ。」


 三人の動きが速くなる。


 水を汲む。


 蓋を閉める。


 運ぶ。


 積む。


 ロープで固定する。


 その間、悠真はレイブンクロウから目を離さなかった。


 黒い羽。


 赤く濁った目。


 枝の上で首を傾げ、こちらを見ている。


 鳴かない。


 ただ見ている。


 それが逆に不気味だった。


 まるで、こちらが焦るのを待っているように見える。


「あと一本!」


 英樹が言った。


 最後のポリタンクに水が入っていく。


 悠真はバットを握る。


 もし鳴いたら。


 もし飛びかかってきたら。


 叩き落とせるのか。


 魔犬よりは小さい。


 でも空を飛ぶ。


 しかも仲間を呼ぶ。


 ここで群れに囲まれたら、水どころではない。


 水が満ちる。


 誠が蓋を閉める。


 英樹と二人で持ち上げる。


 重い。


 それでも落とさない。


 荷台へ運ぶ。


 乗せる。


 ロープをかける。


「よし、終わり!」


 誠が言った。


「戻るぞ!」


 三人は急いで車に乗り込んだ。


 ドアを閉める。


 英樹がエンジンをかける。


 その瞬間だった。


「カァァッ!」


 鋭い鳴き声が、水場に響いた。


 悠真の背筋が凍る。


「呼ばれた!」


 誠が叫ぶ。


 英樹がアクセルを踏む。


 作業車が動き出した。


 タイヤが砂利を弾く。


 荷台の水が重く揺れる。


 車体が沈んでいるせいで、来た時よりも動きが鈍い。


「くそ、重いな!」


 英樹がハンドルを握りしめる。


「無理しないでください!」


 誠が言う。


「分かってる!」


 車が水場を離れる。


 バックミラーの中で、黒い影が増えていくのが見えた。


 一羽。


 二羽。


 三羽。


 木々の間から、さらに黒い影が飛び立つ。


「増えてる!」


 悠真が叫ぶ。


「何羽だ!」


「五……いや、もっと!」


 レイブンクロウが空を旋回する。


 すぐには襲ってこない。


 だが、つかず離れず追ってくる。


 まるでこちらが弱るのを待っているようだった。


「振り切る!」


 英樹が山道を下る。


 作業車が大きく揺れる。


 荷台から鈍い音がした。


 ポリタンクが動いたのだ。


「ロープは!?」


 誠が振り返る。


「今のところ大丈夫!」


 悠真は後ろを確認した。


 ブルーシートの下でポリタンクが揺れている。


 だが、ロープは外れていない。


 水。


 せっかく汲んだ水。


 落とすわけにはいかない。


 しかし、止まるわけにもいかない。


 レイブンクロウの鳴き声が近付く。


「カァッ!」


「カァァッ!」


 耳障りな声。


 悠真は窓から身を乗り出しそうになったが、誠に止められた。


「出るな!」


「でも!」


「落ちたら終わりだ!」


 その通りだった。


 走る車から身を乗り出してバットを振るなど、危険すぎる。


 悠真は歯を食いしばる。


 見ているしかない。


 また。


 見るしかできない。


 だが、今回はそれでいい。


「右上!」


 悠真が叫ぶ。


「一羽、近い!」


 英樹がハンドルをわずかに切る。


 レイブンクロウが急降下してくる。


 フロントガラスを狙ったのか。


 それとも運転席か。


 黒い影が目の前を横切った。


 ドンッ!


 車体の側面に何かがぶつかる。


「っ!」


「大丈夫か!」


「問題ない!」


 英樹が叫ぶ。


 だが車は揺れた。


 荷台から水の重さが押してくる。


 道は細い。


 片側は斜面。


 もう片側は畑。


 大きくハンドルを切れば横転しかねない。


「次、左!」


 悠真が叫ぶ。


 英樹がまた微調整する。


 レイブンクロウは直接襲うより、進路を乱そうとしているように見えた。


 知能がある。


 少なくとも、ただの鳥ではない。


 それが嫌だった。



 山道を抜け、畑の多い道へ出る。


 木が減る。


 空は開ける。


 だが同時に、レイブンクロウの姿もよく見える。


 黒い影が空に散っていた。


 数は六羽。


 いや、七羽。


 完全に追跡されている。


「住宅街まで戻れば、建物で撒けるかもしれない!」


 誠が言った。


「そこまで持たせる!」


 英樹が答える。


 車は荒れた畑の横を走る。


 踏み荒らされた作物。


 折れた支柱。


 潰れた網。


 その向こうに、住宅街の屋根が見え始める。


「もう少し!」


 悠真が言う。


 その時、後ろで大きな音がした。


 ガンッ!


 ポリタンクが荷台の壁にぶつかった音だ。


「ロープ緩んだか!?」


 英樹が叫ぶ。


 悠真が振り返る。


 ブルーシートが少しめくれている。


 ポリタンクの一つが斜めになっていた。


 このまま揺れれば、蓋が外れるかもしれない。


 水がこぼれる。


 落ちる。


「一本ずれてる!」


「止まれないぞ!」


「分かってる!」


 悠真は窓越しに荷台を見つめる。


(《鑑定》)



【ポリタンク】


【状態:固定不完全】


【内容物:湧き水】


【漏出危険:中】



「漏れるかもしれない!」


 悠真が叫ぶ。


 誠が奥歯を噛む。


「住宅街に入ったら一度止める!」


「それまで持たせる!」


 英樹が速度を少し落とす。


 速度を落とせば、追いつかれる。


 だが速すぎれば、荷台の水が落ちる。


 嫌な二択だった。


「くそっ。」


 英樹が低く吐き捨てる。


「水ってのは、積んでるだけでこんなに厄介か。」


 冗談のようで、誰も笑えなかった。



 住宅街へ入る。


 建物が増える。


 電線。


 塀。


 屋根。


 狭い道。


 レイブンクロウの動きが少し鈍った。


 大きく旋回できない。


 真上から狙いにくい。


「離れた!」


 悠真が言った。


 黒い影はまだ見える。


 だが距離が開いている。


「次の角を曲がって止める。」


 英樹が言った。


「荷台を見るぞ。」


 作業車は細い道へ入り、古い倉庫の陰で一度止まった。


 三人はすぐに車を降りる。


 悠真は空を確認する。


(《鑑定》)



【レイブンクロウ】


【状態:追跡中】


【距離:拡大】



「まだ遠くにいます。」


「急いで。」


 英樹が荷台へ回る。


 ブルーシートを押さえ、ずれたポリタンクを直す。


「蓋は?」


 誠が聞く。


「大丈夫だ。」


「少し緩みかけてるが、漏れてはいない。」


 英樹がロープを締め直す。


 ぎりぎりと音を立てて固定する。


 悠真も手伝う。


 水の入ったポリタンクは、信じられないほど重かった。


 少し持ち上げるだけで腕に力が入る。


 これを歩いて運ぶなど無理だ。


 車があること。


 作業車があること。


 英樹が運転できること。


 その全てが、今は命綱だった。


「よし。」


 英樹が言った。


「今度こそ帰るぞ。」


 三人は再び車へ乗り込む。


 レイブンクロウの鳴き声は、もう遠かった。


 だが、完全に消えたわけではない。


 悠真は後ろを見続けた。


 黒い影は、やがて建物の向こうへ消えた。


「……離れた。」


 悠真が言った。


「追ってこない。」


 誠が大きく息を吐いた。


 英樹もハンドルを握ったまま、肩の力を抜く。


「ギリギリだったな。」


「はい。」


 悠真はシートに背を預けた。


 心臓が速い。


 手のひらに汗をかいている。


 バットは一度も振らなかった。


 誰も殺していない。


 それだけで、少しだけ救われた気がした。


 でも、危険はあった。


 水を汲むだけ。


 ただそれだけのことが、命がけだった。



 藤堂家へ近付くにつれ、悠真は別の緊張を覚え始めた。


 家は無事か。


 黒牙は来ていないか。


 恒一たちは大丈夫か。


 水を持ち帰ることばかり考えていたが、家に着くまで終わりではない。


「前方、異常なし。」


 悠真が言う。


「家の周辺は?」


 誠が聞く。


 悠真は目を凝らす。


(《鑑定》)


 門。


 塀。


 周囲の道路。


 人影。



【異常反応なし】



「今のところ大丈夫。」


 作業車が藤堂家の前に停まる。


 門の内側から、彩乃の声がした。


「誰?」


「俺たちだ。」


 誠が答える。


 門が少しだけ開く。


 隙間から彩乃が顔を出した。


 次の瞬間、その表情が明るくなる。


「帰ってきた!」


 門が開く。


 恒一が奥から出てくる。


 美咲も玄関から駆け出してきた。


「悠真!」


「ただいま。」


 悠真が言う。


 美咲は荷台を見た。


 ブルーシートの下の膨らみ。


 ポリタンク。


「水……。」


「ああ。」


 誠が頷いた。


「持って帰れた。」


 その一言で、家の空気が緩んだ。


 真由美も玄関に出てくる。


 由紀も手を合わせるようにして息を吐いた。


 三浦恵はリビングからこちらを見て、涙ぐんでいた。


「よかった……。」


 誰かがそう呟いた。


 それが誰の声だったのか、悠真には分からなかった。



 水を降ろす作業は、想像以上に大変だった。


 満タンに近いポリタンクは重い。


 英樹と恒一が中心になって運び、誠と悠真も手伝う。


 飲料用。


 調理用。


 医療用。


 それぞれ分けて置く。


 真由美が確認しながら指示を出す。


「翔太君に飲ませる分は、煮沸してから冷ます。」


「三浦さんの傷を洗う分も別に。」


「手洗い用は最低限。」


「トイレ用は風呂の残り水を使う。」


 水がある。


 それだけで、家の中の空気が変わる。


 昨日の夜から張り詰めていたものが、少しだけ緩んでいく。


 だが、悠真は荷台から最後のポリタンクを降ろしながら思った。


 これは永遠には続かない。


 今日持ち帰った水も、使えば減る。


 十人で使えば、あっという間だ。


 また汲みに行かなければならない。


 その時も、今日と同じように無事に帰れる保証はない。


 水場には人も魔獣も集まる。


 今日は誰にも会わなかった。


 黒牙にも会わなかった。


 でも、それは運が良かっただけかもしれない。


「悠真。」


 美咲が声を掛ける。


「怪我してない?」


「してない。」


「本当に?」


「本当。」


 悠真は両手を見せた。


 美咲はそれを確認して、ようやく安心したように息を吐いた。


「よかった。」


「水も持って帰れた。」


「うん。」


「でも、結構危なかった。」


 美咲の表情が少し強張る。


「何があったの?」


「レイブンクロウに見つかった。」


「カラスの魔獣?」


「うん。」


「仲間を呼ばれた。」


「でも振り切った。」


「……。」


 美咲は何か言いかけて、やめた。


 代わりに小さく言った。


「帰ってきてくれてよかった。」


「うん。」


 悠真は頷いた。


「ただいま。」


「おかえり。」


 その言葉に、悠真の肩から少しだけ力が抜けた。



 夜。


 煮沸した湧き水が、少しずつ容器に移された。


 翔太は冷ました水をゆっくり飲んだ。


「冷たい。」


 小さく呟く。


「おいしい?」


 美咲が聞く。


 翔太は頷いた。


「うん。」


 それを聞いて、三浦恵がまた涙を浮かべた。


 ただ水を飲む。


 それだけのことが、今は奇跡のようだった。


 悠真は廊下に座り、金属バットを横に置いていた。


 今日は一度も振らなかった。


 誰も殺さなかった。


 それでも、水を持ち帰ることはできた。


 命を繋ぐことができた。


 少しだけ、息ができる気がした。


 けれど同時に、頭の中には水場の光景が残っている。


 荒れた畑。


 人間の足跡。


 魔犬の足跡。


 変異猪の足跡。


 木の上からこちらを見ていたレイブンクロウ。


 あの場所は、きっとこれからもっと危険になる。


 水が必要なのは、自分たちだけではない。


 誰もが水を求める。


 人間も。


 魔獣も。


 そして、おそらく黒牙も。


 悠真はバットに触れた。


 冷たい金属の感触。


 今日は使わなかった。


 でも、次も使わずに済むとは限らない。


「……次も、持って帰る。」


 悠真は小さく呟いた。


 水を。


 命を。


 自分たちの明日を。


 そのために、また外へ出なければならない。


 藤堂家に持ち帰った水は、確かに重かった。


 だがその重さは、安心だけではなかった。


 次の危険を呼び寄せる重さでもあった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

少しでも「おもしろかった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

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