第34話 断水
朝。
藤堂家のリビングには、いつもより多い呼吸の音があった。
誰かが眠る音。
誰かが身じろぎする音。
誰かが小さく咳をする音。
ほんの数日前まで、この家にいたのは藤堂家の四人だけだった。
父の誠。
母の真由美。
妹の彩乃。
そして悠真。
それが今は違う。
朝倉家の四人が加わり。
三浦親子が加わった。
十人。
たった数日で、藤堂家は小さな避難所のようになっていた。
「熱、少し下がってるわ。」
真由美が体温計を見ながら言った。
三浦翔太は、リビングの隅に敷かれた布団の中でぼんやりと目を開けている。
まだ顔は赤い。
額には汗が浮かんでいる。
だが、昨夜よりは呼吸が落ち着いているように見えた。
「三十八度二分。」
真由美は静かに続ける。
「まだ高いけど、昨日よりはいい。」
三浦恵は、息子の手を握りしめたまま何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「本当に……ありがとうございます。」
声はかすれていた。
右脚には包帯が巻かれている。
魔犬に引っかかれた傷だ。
真由美が丁寧に洗い、消毒し、包帯を巻いた。
命に関わるものではない。
だが、しばらくまともに歩くのは難しい。
「今は休んでくださいね。」
真由美は優しく言った。
「お母さんが倒れたら、翔太君が心配します。」
「はい……。」
三浦は頷いた。
それでも、息子の手は離さなかった。
翔太もまた、母親の指を弱々しく握り返している。
その様子を、悠真は少し離れた場所から見ていた。
助けられた。
生きている。
その事実に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
けれど同時に、悠真の視線は廊下の方へ向いてしまう。
そこには一本の金属バットが立て掛けられていた。
銀色の本体。
青いグリップ。
翔太が使っていた少年野球用のバット。
昨夜、翔太から「持っていて」と言われたものだ。
血はもう洗い落とされている。
誰かが拭いてくれたのだろう。
たぶん、父だ。
だが、悠真にはまだ見える気がした。
赤黒い血。
付着した毛。
そして、手に残った衝撃。
ガンッ。
頭の中で音が鳴る。
悠真は無意識に右手を握った。
「悠真。」
横から声を掛けられる。
美咲だった。
「大丈夫?」
「……大丈夫。」
「嘘。」
「早いな。」
「顔に出てる。」
「そんなに?」
「うん。」
美咲は廊下のバットへ視線を向けた。
何があったのか、詳しくは聞かれていない。
けれど、血の付いたバットを持って帰ってきた悠真を見れば、何もなかったとは思えない。
「無理しないでね。」
「してない。」
「それも嘘。」
「……。」
悠真は返す言葉を失った。
美咲はそれ以上、追及しなかった。
ただ、少しだけ近くに立っていた。
その距離が、今はありがたかった。
◇
朝食は、いつもより少なかった。
米は水を多めにして炊いた粥。
具の少ない味噌汁。
缶詰を少し。
漬物。
翔太用には、さらに柔らかくした粥が用意されている。
温かい食事がある。
それだけでありがたい。
そのはずだった。
だが、鍋の中身が減っていく速さを見れば、誰も楽観はできなかった。
十人分。
その数字は、皿の数にも、箸の数にも、茶碗の数にも、はっきりと表れていた。
「すみません……。」
三浦恵が小さく言った。
「私たちの分まで。」
誠は首を横に振る。
「今はそんなことを言わないでください。」
「でも……。」
「食べないと治りません。」
誠の声は静かだったが、はっきりしていた。
「翔太君も、恵さんも、まずは体を戻すことを考えてください。」
三浦は目を伏せた。
「……はい。」
翔太は布団の上で上体を起こし、粥を少しずつ口に運んでいた。
まだ食欲は少ないらしい。
それでも、母親が見ているからか、頑張って食べている。
「無理しなくていいよ。」
彩乃が言った。
「でも、少しは食べた方がいい。」
「うん。」
翔太は小さく頷く。
「ありがとう。」
「別に。」
彩乃は少し照れたように視線を逸らした。
その様子を見て、美咲が小さく笑う。
「彩乃ちゃん、優しい。」
「普通だよ。」
「顔赤いよ。」
「赤くない。」
「赤い。」
「翔太君、見ないで。」
「え。」
翔太が慌てる。
「見てない。」
少しだけ笑いが起きた。
その笑い声に、悠真は救われるような気がした。
昨夜、魔犬を殺した。
その事実は消えない。
でも、その先にこの朝がある。
泣いていた親子が、今は同じ場所で粥を食べている。
彩乃が翔太に話しかけている。
美咲が笑っている。
その全部が、あの一撃の先にあった。
恒一の言葉が蘇る。
『お前が殺したから、助かった命もある』
悠真は茶碗を見つめた。
忘れてはいけない。
殺したことも。
守れたことも。
どちらかだけを選んで覚えることは、きっと許されない。
◇
朝食の後。
誠は台所へ向かった。
全員が片付けを始めようとした時だった。
蛇口をひねる音がした。
キュッ。
金属が擦れるような音。
だが、水は出なかった。
誠はしばらく蛇口を見つめていた。
もう一度、ひねる。
キュッ。
何も出ない。
水音はない。
流し台の底に、一滴落ちる音すらなかった。
「……止まったな。」
誠が言った。
その一言で、リビングの空気が変わった。
全員が台所を見る。
真由美が立ち上がる。
「完全に?」
「ああ。」
誠は蛇口を閉めた。
「もう出ない。」
水道。
それはあるのが当たり前のものだった。
蛇口をひねれば水が出る。
料理にも。
手洗いにも。
洗濯にも。
トイレにも。
風呂にも。
何も考えずに使っていた。
その当たり前が、目の前で消えた。
「……本当に止まったんだ。」
美咲が呟く。
由紀が口元を押さえる。
英樹は黙って台所へ行き、自分でも蛇口を確認した。
だが結果は同じだった。
水は出ない。
「水道管の問題じゃないな。」
英樹が低く言った。
「この地域全体かもしれない。」
「ラジオでも一部地域で断水って言ってた。」
悠真が言う。
「ここも入ったんだ。」
彩乃が小さく息を呑む。
「じゃあ、今ある水だけ?」
誰もすぐには答えなかった。
答えるまでもなかった。
今ある水だけ。
それが現実だった。
◇
誠は備蓄ノートを開いた。
テーブルには、誠、英樹、真由美、由紀、恒一、悠真が集まっている。
彩乃と美咲は、三浦親子の様子を見ながら食器を片付けていた。
食器を洗う水すら惜しいため、汚れは紙で拭き取ってから最低限の水で処理することになった。
「飲料水の残量を確認する。」
誠が言った。
声は落ち着いていた。
だが、その落ち着きが逆に重かった。
「ペットボトル。」
「ポリタンク。」
「朝倉家から持ってきた分。」
「ホームセンターで買えた分。」
「風呂の残り水は飲用外。」
「雨水タンクも飲用外。」
英樹が頷く。
「風呂の水はトイレと掃除だな。」
「雨水は畑と洗い物の一部。」
「飲むには使わない。」
「煮沸しても駄目?」
彩乃が聞いた。
真由美が答える。
「緊急時の最後の手段としてなら考えるけど、今は飲まない方がいいわ。」
「屋根の汚れや鳥の糞、細菌、何が混じっているか分からない。」
「特に翔太君みたいに熱がある子には危険。」
彩乃は黙って頷いた。
「水は、飲むだけじゃない。」
真由美は続ける。
「薬を飲むにも必要。」
「傷を洗うにも必要。」
「熱を冷ますにも。」
「手を洗うにも。」
「料理にも。」
「最低限の衛生を保つにも。」
言葉が重なるたびに、水の重みが増していく。
電気がないのは不便だ。
ガスが止まれば煮炊きに困る。
食料が減れば飢える。
だが、水はもっと早い。
水がなければ、人間はすぐに弱る。
病人がいればなおさらだ。
「十人分だ。」
誠が言った。
その数字に、全員が沈黙する。
藤堂家四人。
朝倉家四人。
三浦親子二人。
十人。
十人分の飲み水。
十人分の生活用水。
それを、止まった水道の前で考えなければならない。
「節約しても、長くは持たない。」
誠はノートに数字を書き込む。
「翔太君と恵さんには優先して水を回す。」
「恒一君も、体の変化がある以上、脱水は避けたい。」
「子供と怪我人を優先。」
「それ以外は、飲む量を管理する。」
「父さん。」
悠真が言う。
「それだと大人がかなり削ることになる。」
「そうだ。」
「でも。」
「悠真。」
真由美が静かに言った。
「今は感情じゃなくて、医学的な優先順位で決めるべきよ。」
「……うん。」
「翔太君は高熱がある。」
「三浦さんは出血と疲労がある。」
「恒一君も完全に普通の状態じゃない。」
「水分不足は本当に危ない。」
看護師としての声だった。
悠真は頷くしかなかった。
◇
「……湧き水。」
悠真が呟いた。
全員が悠真を見る。
「何だ?」
誠が聞く。
「昔、行ったことあるよね。」
「車で。」
「山道の奥に。」
「湧き水が汲める場所。」
誠の目が少しだけ細くなる。
「あそこか。」
「うん。」
悠真は記憶を辿る。
小学生の頃。
父に連れられて何度か行った場所。
近所の人や年配の夫婦が、ポリタンクを持って水を汲みに来ていた。
山道を少し入った先。
小さな駐車スペース。
古びた東屋。
石で囲われた水汲み場。
夏でも手が痛くなるほど冷たい水。
当時の悠真は、わざわざ車で水を汲みに行く意味が分からなかった。
水道水でいいじゃないか。
そう思っていた。
でも今は違う。
あの場所は、命綱になるかもしれない。
「まだ出てるかは分からないけど。」
悠真は言った。
「あそこなら、飲み水に使えるかもしれない。」
英樹が地図を広げる。
「どの辺だ。」
「この辺です。」
悠真が指差す。
住宅街から少し離れている。
車なら、それほど遠くはない。
普段なら二十分ほど。
だが、今は違う。
道路には放置車両がある。
魔獣もいる。
黒牙もいる。
簡単に行ける場所ではない。
「車で行く必要があるな。」
英樹が言った。
「ポリタンクを積むなら、作業車がいい。」
「徒歩では無理だ。」
誠が頷く。
「水は重い。」
「一度に運べるだけ運びたい。」
恒一が地図を見つめる。
「ただ、山に近い。」
「魔獣が出る可能性は高いですね。」
悠真も同じことを考えていた。
三浦家の近くに鹿がいた。
住宅街にまで野生動物が出ている。
なら、山道には何がいるか分からない。
魔犬。
レイブンクロウ。
それ以外の何か。
そして、巨大熊。
あの体長十メートル近い化け物が、今どこにいるのかも分からない。
「行くなら昼間だ。」
誠が言った。
「日没前には必ず戻る。」
「人数は絞る。」
「家を空けるわけにはいかない。」
その言葉に、悠真の胸が少し重くなった。
家を空ける。
それは、黒牙のことを考えれば危険だ。
昨日の接触。
あの目。
物資を見ていた男たち。
美咲と彩乃を見る嫌な視線。
全部が頭に蘇る。
「黒牙が見ている可能性があります。」
悠真が言った。
「こっちの人数が少なくなる時を狙われるかもしれない。」
誠は頷いた。
「その通りだ。」
「だから、すぐには動かない。」
「でも、水は待ってくれない。」
英樹が言った。
その声には、現場仕事の人間らしい現実感があった。
「断水した以上、今日か明日には動く必要がある。」
「三日後じゃ遅い。」
「分かってる。」
誠は地図を見た。
「今日中に容器を全部確認する。」
「水の残量も正確に出す。」
「作業車に積める量を計算する。」
「ルートも考える。」
「出るなら明日。」
真由美が不安そうに顔を上げる。
「明日?」
「ああ。」
誠は頷いた。
「今夜は準備に使う。」
「明日の昼前に出て、日が高いうちに戻る。」
美咲が小さく聞いた。
「誰が行くの?」
沈黙。
それが一番難しい問題だった。
◇
「俺は行く。」
悠真が言った。
全員の視線が向く。
「水が飲めるかどうか、《鑑定》で分かるかもしれない。」
「それに、魔獣の状態も見れる。」
誠はすぐには答えなかった。
父としては連れて行きたくない。
けれど、悠真の能力が必要なのも分かっている。
その葛藤が、表情に出ていた。
「俺も行きます。」
恒一が言った。
「戦力が必要です。」
「いや。」
英樹が首を横に振る。
「恒一君は残った方がいい。」
「黒牙が家を狙うなら、残る戦力が必要だ。」
「でも、水汲み中に魔獣が出たら。」
「その時は俺たちでどうにかする。」
英樹はそう言ったが、簡単な話ではない。
恒一は今、藤堂家側で最も強い戦力だ。
その恒一を水汲みに連れていけば、道中の安全は上がる。
だが家の守りが薄くなる。
家には怪我人と病人がいる。
美咲も、由紀も、真由美もいる。
そして彩乃も。
「俺が残る。」
恒一は少し考えた後、そう言った。
「黒牙が来る可能性を考えるなら、家にいた方がいい。」
悠真が顔を上げる。
「でも。」
「お前は行け。」
「悠真。」
恒一は真っ直ぐ悠真を見る。
「お前の《鑑定》が必要だ。」
「水も、魔獣も、道も。」
「見る役が必要だ。」
「……はい。」
悠真は頷く。
行くしかない。
そう分かっている。
怖い。
昨日のことがまだ手に残っている。
それでも、行かなければならない。
助けた命を守り続けるには、水がいる。
昨日、魔犬を殺して翔太を助けた。
でも、水がなければ、その翔太も弱っていく。
助けたことは、そこで終わりではなかった。
助けた命には、その先がある。
食べさせる。
飲ませる。
休ませる。
守る。
生き続けさせる。
そこまで含めて、助けるということなのだと、悠真はようやく理解し始めていた。
◇
昼前。
悠真は庭に出た。
植えたばかりの畑の土が、朝日を受けて少し乾いている。
水をやりすぎても駄目。
少なすぎても駄目。
袋に書かれた説明を思い出しながら、じょうろで少しずつ水を撒く。
使っているのは雨水タンクの水だ。
飲み水ではない。
それでも、水を土へ撒く行為そのものが、今は少し後ろめたく感じられた。
「それ、飲み水じゃないよね?」
後ろから彩乃が声を掛けた。
「雨水タンクの水。」
「ならいいけど。」
「お前も細かくなったな。」
「今は細かくならないと駄目でしょ。」
「昨日まで株間二十センチが分からなかった人が?」
「それはもういいでしょ!」
彩乃がむっとする。
悠真は少し笑った。
その笑いが自然に出たことに、自分でも少し驚いた。
「翔太君は?」
「寝てる。」
「お母さんも?」
「うん。」
「美咲と母さんが見てる。」
「そっか。」
彩乃は少し黙ってから、廊下の方を見た。
「バット。」
「見た?」
「うん。」
「……。」
「お兄ちゃんが使ったんだよね。」
悠真はじょうろを置いた。
「うん。」
「魔犬を?」
「うん。」
「……怖かった?」
「怖かった。」
即答だった。
「今も怖い。」
「そっか。」
彩乃はそれ以上、軽い言葉を言わなかった。
いつものようにからかうこともしなかった。
「お兄ちゃん。」
「何。」
「私は、ありがとうって言っていい?」
悠真は妹を見る。
「何で。」
「お父さんを守ってくれたから。」
「翔太君も助けたから。」
「三浦さんも。」
「……。」
「駄目?」
悠真は少しだけ視線を落とした。
父は、ありがとうとは言わなかった。
謝った。
親として。
でも彩乃は妹だ。
同じ家族でも、立場が違う。
悠真はしばらく考えてから、小さく頷いた。
「……いいよ。」
彩乃は真っ直ぐに悠真を見た。
「ありがとう。」
「お兄ちゃん。」
その言葉は、胸に痛かった。
でも、温かくもあった。
「うん。」
悠真は頷いた。
「どういたしまして。」
声は少し掠れた。
彩乃はそれに気付いたようだったが、何も言わなかった。
代わりに、じょうろを持ち上げた。
「私もやる。」
「水やり?」
「うん。」
「やりすぎるなよ。」
「分かってる。」
「本当に?」
「分かってるって!」
「株間二十センチの件があるから信用できない。」
「しつこい!」
彩乃が怒る。
悠真は少し笑った。
今度は、さっきより自然に笑えた。
◇
午後。
台所では、水の仕分けが始まっていた。
飲料用。
調理用。
医療用。
衛生用。
トイレ用。
紙に書いて、容器ごとに貼っていく。
誠が全体を管理し、英樹がポリタンクを運ぶ。
真由美は医療用として最低限必要な水を確保する。
由紀と美咲は食器や調理器具の洗い方を変え、できるだけ水を使わない方法を考えていた。
「食器は紙で拭いてから洗う。」
由紀が言う。
「油が多いものは、そもそも作らない方がいいわね。」
「お粥とか汁物中心?」
美咲が聞く。
「そうね。」
「ただ、汁物は水を使うから難しい。」
「でも病人には食べやすい。」
「うん……。」
美咲は鍋を見ながら眉を寄せる。
「水って、こんなに全部に関係してたんだね。」
「本当にね。」
由紀は静かに答えた。
「普通に暮らしている時は、気付かなかったわ。」
その言葉は、台所にいた全員の胸に落ちた。
気付かなかった。
水道。
電気。
物流。
店。
病院。
電話。
警察。
全部、あるのが当たり前だった。
でも、それは当たり前ではなかった。
誰かが守っていた。
どこかで動かしていた。
それが壊れれば、蛇口一つでさえ沈黙する。
「悠真。」
誠が呼んだ。
「明日、行くぞ。」
悠真は顔を上げる。
「湧き水?」
「ああ。」
「このままだと飲料水が持たない。」
「今日中に準備する。」
「メンバーは?」
「俺、英樹さん、お前。」
誠が答えた。
「三人ですか。」
「車を出す。」
「ポリタンクを積めるだけ積む。」
「恒一君は家に残ってもらう。」
「黒牙対策ですか。」
「ああ。」
「真由美、由紀さん、美咲ちゃん、三浦さん、翔太君を守る必要がある。」
「彩乃は?」
悠真が聞く。
「本人は行くと言うだろうな。」
「……。」
「だが、今回は残す。」
誠は言った。
「家の守りにも必要だ。」
「それに、黒牙が来た時、美咲ちゃんたちを守れる人間がいる。」
悠真は複雑な気持ちで頷いた。
彩乃を危険な水汲みに連れて行きたくない。
でも、家に残ることも安全ではない。
危険の種類が違うだけだ。
「お前は納得してない顔だな。」
誠が言う。
「どっちにしても危ないから。」
「ああ。」
「でも、どちらかを選ばなきゃならない。」
「……うん。」
「これからは、そういうことが増える。」
誠の言葉は重かった。
安全な選択肢などない。
危険が少ない方を選ぶだけ。
その結果も、誰かが背負う。
◇
夕方。
悠真は金属バットを手に取った。
青いグリップ。
銀色の本体。
洗われていても、記憶までは落ちない。
手に持つだけで、あの音が蘇る。
ガンッ。
悠真は目を閉じた。
逃げたい。
触りたくない。
でも、置いていくこともできない。
翔太が言った。
『また誰かを助ける時に使って』
それは子供の無邪気な言葉だった。
だが、悠真にとっては呪いのようでもあり、救いのようでもあった。
命を奪った道具。
命を守った道具。
どちらか片方だけにはできない。
「持っていくのか。」
背後から恒一の声がした。
「はい。」
悠真は答えた。
「正直、持ちたくないです。」
「でも持っていく。」
「はい。」
「何で。」
「怖いからです。」
悠真はバットを見る。
「持ってない方が、もっと怖い。」
恒一は少し黙った。
そして頷いた。
「それでいい。」
「いいんですかね。」
「分からん。」
「でも、怖いと思って持つなら、まだ大丈夫だ。」
「……またそれですか。」
「何度でも言う。」
恒一は静かに言った。
「怖くなくなったら危ない。」
悠真は小さく頷いた。
「恒一さん。」
「何だ。」
「明日、俺が外に出てる間、家をお願いします。」
「ああ。」
「美咲と彩乃も。」
「分かってる。」
「母さんたちも。」
「分かってる。」
「翔太君たちも。」
「分かってる。」
恒一は少し呆れたように言った。
「全部分かってる。」
「……すみません。」
「謝るな。」
「はい。」
「お前こそ、誠さんと親父を頼む。」
親父。
英樹のことだ。
恒一の声には、家族を預ける重さがあった。
「はい。」
悠真は頷く。
「必ず戻ります。」
「そうしろ。」
◇
夜。
藤堂家では、いつもより早く明かりが落とされた。
電気が使えない中、ランタンの光も貴重だ。
眠れる時に眠る。
動く時に動く。
そう決めていても、簡単には眠れなかった。
リビングでは三浦親子が寄り添って眠っている。
翔太の熱はまだある。
三浦恵も傷の痛みに時折顔をしかめる。
美咲と彩乃は交代で様子を見ると言っていたが、真由美に休むよう言われて今は横になっている。
悠真は廊下の端に座っていた。
横には金属バット。
少し離れた場所には、明日のために並べられたポリタンク。
空の容器。
中身のない器。
それが今の藤堂家の不安そのもののように見えた。
水が必要だ。
食料も必要だ。
薬も必要だ。
守りも必要だ。
そして、力も必要だ。
けれど力を使えば、何かを壊す。
何かを傷つける。
昨日のように。
「……。」
悠真はバットに触れた。
冷たい。
その冷たさで、少しだけ頭がはっきりする。
助けた命がある。
その命を、明日も生かすために水を取りに行く。
それだけだ。
簡単な理屈。
でも、そのためにまた何かを殺すことになるかもしれない。
魔獣か。
別の何かか。
あるいは。
人間か。
悠真はその先を考えないようにした。
考えないのではない。
今は、考えすぎれば動けなくなる。
だから、目の前のことを一つずつ見る。
水。
道。
魔獣。
危険。
家族。
仲間。
守るべきもの。
「明日。」
悠真は小さく呟いた。
「絶対に水を持って帰る。」
誰に言ったわけでもない。
けれど、その言葉は暗い廊下に静かに落ちた。
外では、遠くで何かが鳴いていた。
犬のようにも。
鳥のようにも。
それ以外の何かのようにも聞こえた。
悠真はバットを握り直す。
藤堂家の水道は、もう沈黙している。
蛇口をひねっても、水は出ない。
ならば取りに行くしかない。
この家で増えた命を、明日も生かすために。
その夜、悠真はバットを抱えるようにして、浅い眠りについた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。
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これからもよろしくお願いします。




