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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

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間話 変わる人間

 最初に見た時、高橋健吾三等陸曹はその男を負傷者だと思った。


「救護班!」


 反射的に声を上げる。


 倒壊した民家。横転した軽自動車。割れた窓。道路に散乱した瓦礫。その中央に、一人の男が倒れていた。


 服は血まみれだった。腹部、肩、左腕に複数の傷。何か、巨大な獣に襲われたような、そんな傷だった。


「待て。」


 前を歩いていた村上一等陸曹が右手を上げる。


「近付くな。」


「ですが!」


「近付くな。」


 低い声に、高橋の足が止まった。


 村上は小銃を構えたまま、倒れている男を見ている。


「高橋。」


「はい。」


「何かおかしいと思わないか。」


「……。」


 言われて初めて気付いた。


 血。大量の血。服が赤黒く染まり、道路にも血溜まりができている。


 あれだけ出血して、生きているのか。


「救護班。」


 村上が言う。


「そこで止まれ。」


 後ろから来た隊員たちが止まる。


「対象に接近するな。」


「しかし。」


「命令だ。」


「……了解。」


 高橋は倒れている男を見る。動かない。


「村上一曹。」


「何ですか。」


「死亡してるんじゃ。」


「かもしれん。」


「なら。」


「だから確認する。」


 村上は慎重に近付いた。一歩、一歩と進み、小銃の銃口は下げない。


「自衛隊です!」


 声を掛ける。


「聞こえますか!」


 反応はない。


「聞こえていたら返事をしてください!」


 動かない。


 村上は数メートル手前で止まった。


「高橋。」


「はい。」


「周囲警戒。」


「了解。」


 高橋は小銃を構え、周囲を見る。


 住宅街は静かだった。静かすぎる。


 この数日、静かな場所ほど怖くなった。以前なら銃声や悲鳴、煙が上がる場所が危険だったが、今は違う。


 何も聞こえない。何も動かない。そんな場所に、何が潜んでいるか分からない。


「脈を確認する。」


 救護員が言う。


「待て。」


 村上が止める。


「俺が見る。」


「一曹。」


「指示があるまで動くな。」


 村上が男へ近付く。あと二メートル、一メートル。


 しゃがみ、手を伸ばす。


 その瞬間、男の目が開いた。


「っ!」


 村上が飛び退く。男の腕が空を切った。


「対象覚醒!」


「全員警戒!」


 高橋が小銃を構える。


 男が起き上がった。


「……。」


 高橋は息を呑む。


 おかしい。腹の深い傷、あの出血量で立てるはずがない。


「動くな!」


 村上が叫ぶ。


「自衛隊だ!その場から動くな!」


 男は聞いていなかった。いや、聞こえてはいるが理解していない。


 目は焦点が合っていない。口元には唾液、息は荒い。


「……腹。」


 男が呟いた。


「何だ。」


 村上が聞く。


「腹……減った……。」


 高橋の背筋に冷たいものが走った。



 任務を受けたのは一時間前だった。


 臨時駐屯地の簡易テント。疲労、眠気、汗、泥。隊員たちの顔にはその全部があった。


「新規任務。」


 指揮官が言う。


「特殊事案対象者の捜索及び確保。」


 高橋は聞き慣れない言葉に眉を寄せた。


「特殊事案対象者?」


「質問は最後にしろ。」


「失礼しました。」


 地図の住宅街に赤い印が付けられている。


「対象は男性、三十四歳、会社員。昨日午後、避難中に大型犬型生物の群れに襲われた。」


 大型犬型生物。今ではそれが普通の犬ではないことを全員が知っている。


「同行者の証言では、対象は現場で死亡。」


 高橋は指揮官を見る。


「死亡?」


「ああ。呼吸停止、心停止、大量出血。同行者は死亡したと判断して避難した。」


「では、なぜ捜索を?」


 指揮官は一枚の写真を置いた。


 防犯カメラの粗い画像。血まみれの男が歩いている。


「死亡確認から約三時間後、対象が市街地を歩いている姿が確認された。」


 誰も何も言わなかった。


「その後、民間人二名を襲撃。一名重傷、一名軽傷。警察官三名が制圧を試みたが失敗、警察官一名が負傷。」


「拳銃を?」


 誰かが聞く。


「使用していない。対象が人間だったからだ。」


 指揮官の言葉は重かった。


「今回、我々にも可能な限り非致死性の制圧が命じられている。」


「可能な限り?」


 高橋が聞く。


「そうだ。対象は民間人だ。同時に、通常の民間人ではない可能性がある。」


 その時は意味を理解できなかったが、今なら分かる。


 目の前に立っている血まみれの男。死んでいるはずの男。それが特殊事案対象者だった。



「動くな!」


 村上が叫ぶ。


「命令に従え!」


 男が顔を上げる。


「……。」


 笑ったように見えた。


 次の瞬間、男が消えた。


「え。」


 違う。消えたのではない、走ったのだ。速い。


「一曹!」


 男が村上へ突進する。村上が避ける。


 男の肩が停車していた軽自動車へぶつかった。


 ドンッ!


 車体が揺れる。


「……嘘だろ。」


 高橋の口から言葉が漏れた。


 男は痛がる様子もなく軽自動車を見て、そして笑った。


「力……ある。俺、力……ある……。」


「対象興奮!囲め!距離を取れ!」


 隊員たちが動く。盾、警棒、拘束具、小銃。全員訓練されている。


 それでも相手が人間であるという事実が動きを鈍らせる。


「撃つな!」


 村上が叫ぶ。


「まだ撃つな!」


 男が隊員へ向かう。


「来る!」


 盾を構える。


 衝突。


 ドンッ!


「ぐあっ!」


 隊員が盾ごと吹き飛んだ。


「田中!大丈夫か!」


「来るぞ!」


 男が倒れた隊員へ向かう。


 高橋は小銃を向けた。


「止まれ!」


 指が引き金にかかる。


「止まれ!」


 男は止まらない。


「高橋!」


 村上の声。


「……っ!」


 撃てるか。相手は人間だ。


 制服も着ていない。牙も爪もない。昨日まで普通に生活していたかもしれない人間。


 だが止めなければ隊員が死ぬ。


「高橋!」


 その瞬間、村上が横から体当たりした。


「一曹!」


「拘束!」


 男が村上を振り払う。まるで子供を払うように軽い。


 村上の身体が道路へ転がる。


「一曹!」


「俺はいい!拘束しろ!」


 隊員たちが一斉に動いた。



 最初は五人だった。腕、脚、胴体を押さえる。


 それでも男は動く。


「押さえろ!右腕!」


「駄目です!力が!」


「増員!」


 さらに三人、八人。それでも男の身体が少しずつ起き上がる。


「うああああああっ!」


 叫び声。人間だが、人間とは思えない。


「鎮静剤!」


「打ちます!」


 救護員が注射を構える。


「離れろ!」


 一本では効かない。


「追加!」


「規定量を超えます!」


「医官の許可は!」


「取れてる!打て!」


 二本目で動きが少し鈍る。それでも止まらない。


「拘束具!」


 両腕、両脚、胴体を固定する。


「首もだ!」


 高橋は思わず村上を見る。


「首まで?」


「やれ!」


「しかし。」


「輸送中に拘束具を破壊した事例がある。」


 高橋の手が止まる。


「事例?」


「早くしろ!」


「はい!」


 今回が最初ではない。その意味を考える暇はなかった。


 専用の拘束具で全身を固定する。それでも拘束具が軋む。


 ギシ、ギシ。


「……これ。」


 高橋が呟く。


「人間なんですか。」


 誰も答えなかった。



 三十分後、車両が到着した。


 最初は自衛隊の車両だと思ったが違った。灰色の大型車両で、所属を示す表示はない。


 外見は普通だが、降りてきた人間たちは明らかに普通ではなかった。


 見たことのない部隊章の自衛官、私服の警察官、白い防護服の医師や研究者、そしてスーツ姿の男女。


「……何だ。」


 高橋が呟く。


「医療班ですか。」


「知らん。」


 村上が答える。


「一曹も。」


「知らん。」


 短い答えだった。


 車両から金属製の担架が降ろされる。太い固定具と何重ものベルトが付いた、普通ではない担架だ。


「対象を移送します。」


 防護服の男が言う。


「現在の状態は。」


「鎮静剤を投与、効果は限定的。意識レベル低下。ただし筋力低下は確認できず。」


 救護員が答える。


 防護服の男は驚かず、端末に入力する。


「血液採取は。」


「していません。」


「なぜ。」


「現場です。採取できる状況ではありませんでした。」


「……了解。」


 それ以上何も言わない。


 高橋はその会話を聞いていた。


 おかしい。救護や治療よりも、採取や数値といった言葉ばかりが聞こえる。


「この人。」


 思わず聞く。


「どこへ。」


 防護服の男が高橋を見る。


「三曹。」


 村上の声。


「……。」


「下がれ。」


「ですが。」


「下がれ。」


「……はい。」


 高橋は一歩下がった。


 男が担架へ移される。目は閉じている。


 普通の三十四歳の男に見える。


「固定確認。上肢、下肢、頸部、固定。二重拘束へ移行。」


 ガチャ、と金属音が響く。


 その時、男の目が開いた。


「っ!」


 高橋が小銃に手を伸ばすが、研究者たちは動じない。


「覚醒反応、記録。瞳孔反応あり。言語理解能力は未確認。採血準備。」


「ここで?」


「輸送前に基礎データを取る。」


 男が唸る。


「腹……。」


 研究者が顔を近付ける。


「何が欲しい。」


「……肉。」


 高橋の背筋が冷える。


「肉……もっと食えば……もっと……強く……。」


 研究者の手が一瞬止まる。


「記録したか。」


「はい。」


「発言内容を輸送先へ先行送信。」


「了解。」


 高橋は見ていた。


 彼らは怖がっていない。むしろ興奮しているように見えた。


 それが男より少しだけ怖かった。



 車両の後部扉が開く。


 内部を一瞬だけ見た。医療機器、監視装置、固定具。そして奥にもう一つ、空の金属製担架。


 一つではない。


「……。」


 高橋は何も言えなかった。


 スーツ姿の男が誰かと話している。


「今回は適応型の可能性が。現時点では判断できません。侵食率は輸送後に詳細検査を。摂取歴は本人の発言だけでは……。」


 聞いたことのない言葉ばかりだ。


 適応、侵食、摂取。


 意味は分からないが、一つだけ分かる。


 彼らは自分たちより遥かに多くを知っている。


「村上一曹。」


「何だ。」


「あの人たち、何者ですか。」


「知らん。」


「でも。」


「知らんと言った。」


「……。」


「俺たちの仕事は対象を確保するまで。その後は管轄外だ。」


 高橋は車両を見る。


「治療されるんですよね。」


 村上は答えなかった。


「一曹。」


「……。」


「あの人、治療されるんですよね。」


 しばらく沈黙が続く。


「そうだといいな。」


 それだけだった。



 特殊車両が去る。


 高橋はその後ろ姿を見送った。


「なあ。」


 隣の同期が小声で言う。


「何だ。」


「あの車、どこ行くんだろうな。」


「知らん。」


「研究所じゃないのか。」


「研究所?」


「噂だよ。魔獣、それと……。」


 さらに声を潜める。


「人間。」


「人間?」


「見ただろ、あれ。普通じゃない。」


「……。」


「政府が研究してるらしい。」


「どこで。」


「知らん。」


「誰から聞いた。」


「知らん。」


「何だよそれ。」


「だから噂だって。」


 周囲を見回す。


「でも、自衛隊だけじゃないって。警察、大学、製薬会社、民間研究所、企業。色々集められてるって。」


「何のために。」


「知らねぇよ。治療法とか、魔獣の研究とか。」


「……。」


「あと。」


 言葉を止める。


「何だ。」


「兵器。」


 高橋は黙る。


「魔獣を?」


「違う。人間を。」


 風が吹く。


 誰も何も言わない。


「馬鹿な。」


「噂だって。でも。」


 道路を見る。


 軽自動車がへこんでいる。


「もしあんな力を兵士が使えたら……すげぇよな。」


 高橋は何も答えられなかった。



 その頃、知らない場所で会議が始まっていた。


 同じ時間、複数の場所で、政府、自衛隊、警察、大学、研究機関、企業が同じものを見ていた。


 魔素、魔獣、能力者。呼び方すら統一されていない。


 未知、理解不能、危険。それでも調べなければならない。


 政府は混乱を収束させなければならない。物流、電力、通信、治安、避難、首都圏。


 今、目の前の国民を守る必要がある。


 同時に考える。これは日本だけの問題ではない。海外でも異常事案が報告され始めている。


 ならば、魔素を理解した国と理解できなかった国。その差は何になるのか。


 資源、技術、医療、軍事、外交。世界の力関係そのものを変えるかもしれない。


 自衛隊は考える。小銃が効かない、車両が壊される、隊員が死ぬ。


 次に、巨大な生物が何十頭現れたら、何で止めるのか、誰が止めるのか。


 だから力が必要だ。兵器が必要だ。対抗手段が必要だ。


 企業は考える。魔獣の皮膚、骨、牙、血液。未知の物質、未知のエネルギー。


 新素材、新薬、防具、探知装置、特殊弾薬。そこには可能性がある。


 国を守る技術になるかもしれない。同時に莫大な利益にもなる。


 研究者は考える。魔素とは何かを。




その時だった。


 ザザッ。


 高橋の腰に下げた無線機が、低いノイズを吐いた。


『――全部隊へ。』


 その声に、高橋も村上も同時に顔を上げた。


『警戒情報を更新。』


『B級指定個体を市街地内で確認。』


 B級。


 その言葉だけで、周囲の隊員たちの空気が変わる。


『対象は現在、市街地北西部を徘徊中。』


『各班は監視を継続。』


『対象を確認した場合、位置情報のみ報告せよ。』


『独断での接近、追跡、及び交戦を禁止する。』


 無線の向こうで、わずかに雑音が混じる。


『繰り返す。』


『B級指定個体との交戦は禁止。』


『更なる指示を待て。』


 通信が切れる。


 高橋は無線機を見つめた。


「……一曹。」


「何だ。」


「あれ、まだこの街にいるんですね。」


「ああ。」


「何でずっと徘徊してるんでしょう。」


「知らん。」


「餌を探してるとか。」


「かもしれん。」


「縄張りとか。」


「かもしれん。」


「何かを探してるとか。」


 村上が高橋を見る。


「何をだ。」


「……分かりません。」


「なら、今は考えても仕方ない。」


「はい。」


 高橋は暗い街を見た。


 どこか。


 この街のどこかを、あの巨大な熊が歩いている。


 何を求めているのか。


 誰も知らない。


 ただ、徘徊している。


 そう思われていた。




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

少しでも「おもしろかった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

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皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。

誤字脱字なども気づいた点があれば、遠慮なく教えてください。


これからもよろしくお願いします。

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