表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/69

第33話 守るための一撃


 暗闇の中、一つ、また一つと赤い目が開いた。


「……父さん。」

「ああ。」


 誠が低く答える。


「囲まれてるな。」


 三浦家は青い屋根の二階建て。その二階、カーテンの隙間から小さな光がまた点滅する。一度、二度、三度。助けて、そう言っているように見えた。


 九歳の三浦翔太は高熱で一人。その家の周囲を魔犬が囲んでいる。


「……助けよう。」


 悠真が言った。声は震えていた。怖い。喉が乾き、心臓が痛いほど鳴っている。それでも。


「絶対に、あの子を連れて帰ろう。」


 恒一が拳を握る。誠は息子を見て、そして頷いた。


「ああ。そのために来たんだ。」



「まず、数を確認する。」


 誠が小さな声で言った。


「悠真、分かるか。」

「やってみる。」


 悠真は左腕へ意識を集中する。


(《鑑定》)


 視界に暗闇の三浦家、庭、塀、車庫、家の裏が映る。見えるだけでは足りない。悠真は意識を広げる。家の角、塀の向こう、暗闇の中で何かが動く。



【変異魔犬】

【危険度:D】

【状態:興奮】

【空腹度:低下中】



 一匹、家の裏。



【変異魔犬】

【危険度:D】

【状態:警戒】



 二匹、車庫。



【変異魔犬】

【危険度:D】

【状態:興奮】



 三匹。


「三匹、たぶん。」


 悠真が言う。


「たぶん?」

 誠が聞く。


「見える範囲と反応がある範囲では三匹です。家の裏、車庫、それと……」


 悠真は目を細める。ガリ、グチャと何かを噛む音。


「庭。一匹は何か食べてる。」

「何をだ。」

「分からない。でも人じゃない。」


 鑑定。



【対象:ニホンジカ】

【状態:死亡】



「鹿。」

「鹿?」


 誠が小さく聞き返す。


「何でこんな住宅街に。」

「分かりません。山から下りてきたのかも。」


 以前なら鹿が住宅街まで来ることなど滅多になかった。だが今は何が普通なのか分からない。魔獣に追われたのか、山の環境が変わったのか、それともただ逃げてきたのか。分からない。ただ今、一匹の魔犬はその鹿を食べている。


「腹は満たされ始めてる。だからすぐに家を襲うつもりはないかもしれない。」


「でも、俺たちが近付けば別だ。」


 恒一が低く言った。


「はい。気付かれたら襲ってくると思います。」


「三匹か。」


 誠が呟く。


「正面からやる必要はない。一匹ずつ離せれば俺がやります。」


「恒一君。」


 誠が恒一を見る。


「身体は大丈夫です。」

「今は……本当に今は。」


 恒一は自分の手を見る。


「前より調子がいい。」


 それが逆に怖いと悠真は思った。魔犬に噛まれ侵食され、高熱を出し死にかけたのに、今の恒一は以前より強くなっている。身体能力、反応、感覚、人間の範囲を少しずつ外れている。


「無理はしないでください。」


 悠真が言うと、恒一が少し笑う。


「お前に言われるとはな。」

「何ですか。」

「いや、何でもない。」

「俺、無茶したことないですよ。」

「……。」

「何ですか。」

「いや、何でもない。」

「絶対何か思ってますよね。」

「静かにしろ。」


 誠が二人を見る。


「すみません。」


 また声が重なった。


「本当に仲いいな。」

「どこがですか。」


 また重なる。


「だから静かにしろ。」



 作戦は単純だった。車庫にいる一匹を恒一が音で誘い出し、家から離れた場所で倒す。その間に誠と悠真が家へ入り、翔太を救出する。可能なら戦わない。鹿を食べている個体には近付かず、家の裏にいる個体も刺激しない。


「本当に一人で大丈夫ですか。」


 悠真がもう一度聞いた。


「一人じゃない。お前が見てろ。」


「……。」

「俺から見えない奴をお前が見ろ。」


 悠真は恒一を見る。


「はい。それがお前の役目だ。」


 その言葉に悠真は頷いた。自分は恒一のようには戦えない。彩乃のように空手を習っていたわけでもなく、身体も多少鍛えた程度、《身体能力上昇・小》はある。以前より速く走れ、力も少し強くなり、反応も良くなっている。でもそれだけだ。技術も経験もない。力の使い方を知らない。


 だから見る。見つける。伝える。それが今の自分の役目。


「行きます。いつでも。」



 恒一が地面から小さな石を拾った。車庫の反対側、道路の暗闇へ投げる。


 カン、と石が道路標識に当たる金属音。赤い目が動く。


「反応した。出てくる。」


 低い唸り声。車庫の暗闇から大きな影が現れる。普通の犬より遥かに大きく、肩の高さは成人男性の腰近く。毛はところどころ抜け、皮膚の下には黒い血管のようなものが浮かんでいる。


 魔犬。悠真は何度も見た。それでも慣れない。怖い。毎回怖い。


「恒一さん。」

「ああ。」


 恒一が一人前へ出る。魔犬の鼻が動き、こちらを見る。赤い目。恒一、人間、餌。そう認識したのかもしれない。


「来る!」


 悠真が叫ぶ。魔犬が走った。速い。地面を蹴り、恒一へ一直線。


「右!」


 悠真が叫ぶ。恒一が動く。牙を紙一重で避け、拳を魔犬の側頭部へ叩き込む。鈍い音。魔犬の身体が傾く。


「……!」


 悠真は息を呑む。以前より強い。明らかに恒一の動きは速くなっている。


 魔犬が地面を滑るが、起き上がる。


「まだです!」

「分かってる!」


 魔犬が再び飛びかかる。恒一は避け、身体を沈めて踏み込む。


「シッ!」


 短い呼吸とともに拳が顎を下から突き上げる。魔犬の頭が跳ね上がる。そのまま恒一は回り、蹴りを首へ叩き込む。魔犬の身体が地面へ叩きつけられる。


「今!」


 誠が言った。三人が走る。



 三浦家の門は開いている。庭には入らない。鹿を食べている個体がいるからだ。反対側の勝手口へ。


「こっち。」


 悠真が先を見る。


「裏の奴は家の向こう側。今なら行ける。」


 三人が走る。勝手口は古い扉。誠が取っ手を掴む。


「これか。強く引けば開くかもしれないって。」

「やってみる。」


 引くが動かない。


「もう一度。」


 力を込める。ガタ。


「少し動いた。」

「貸してください。」


 二人で。


「せーの。」


 ガン、と扉が開いた。同時に家の中で何かが落ちる音。全員が止まる。


「翔太君?」


 誠が小さく呼ぶが返事はない。


「入るぞ。」


 2人が家へ入る。



 暗い人の家。誰もいない。懐中電灯で床、壁、家具を照らす。


「三浦さん。」

「翔太君。」


 誠が小さく呼ぶが返事はない。


 悠真は左腕へ意識を集中する。


(《鑑定》)



【三浦 翔太】

【年齢:9歳】

【状態:発熱】

【体温:39.4℃】

【脱水:中度】

【意識:清明】

【生命危険度:低】



「いる。二階。生きてる。意識もある。熱は三十九度四分。」


「高いな。」


 誠の表情が険しくなる。


「急ぐぞ。」


 2人は階段へ向かった。


 古い木の階段が軋む音が、やけに大きく感じられた。


「静かに。」


 誠が手で制する。


 悠真は頷き、足音を殺して上がる。


 二階の廊下は暗く、空気がこもっていた。


 奥の部屋。


 カーテンの隙間から、微かな光が漏れている。


「ここだ。」


 悠真が指差す。


 誠がゆっくりとドアノブに手をかける。


 回す。


 鍵はかかっていない。


 静かに開ける。


 部屋の中、ベッドの上に小さな影があった。


「……翔太君。」


 誠が呼ぶ。


 少年がゆっくりと顔を上げた。


 汗で濡れた髪。


 赤い顔。


 それでも目は、しっかりとこちらを見ていた。


「……おじさん……?」


 かすれた声。


「助けに来た。」


 誠が近づく。


「もう大丈夫だ。」


 翔太の目に、みるみる涙が浮かんだ。


「お母さんは……?」


「無事だ。」


「本当……?」


「ああ。」


「今、おじさんの家にいる。」


「怪我はしてるけど、命に別状はない。」


 翔太は唇を震わせた。


 ずっと我慢していたものが、ようやく溢れたようだった。


「よかった……。」


 その声は小さかった。


 けれど、その場にいる全員の胸に重く響いた。



 誠は翔太の額に手を当てる。


「熱いな……。」


「水……。」


 翔太が小さく言う。


 誠は部屋を見回し、机の上に半分ほど残ったペットボトルを見つけた。


「飲めるか。」


 翔太が頷く。


 誠がゆっくりと口元へ運ぶ。


 翔太は少しずつ水を飲んだ。


「……ありがとう。」


「怖かったな。」


 誠が優しく言う。


「うん……外に……いっぱい……。」


「ああ。」


「分かってる。」


「今からここを出る。」


 誠は翔太を背負う。


 軽い。


 軽すぎる。


 九歳の子供の重さとは思えないほどだった。


「悠真、状況は。」


 悠真はすぐに《鑑定》を使う。


(《鑑定》)


 外の様子が、頭の中に薄く浮かび上がる。


「庭の一匹はまだ鹿を食べてます。」


「裏の一匹は……動いた。」


「こっちに近づいてる。」


「気付かれたか。」


「たぶん音で。」


「恒一君は。」


「車庫の奴は今、倒したみたいです。」


 そこで悠真は息を呑む。


「でも、裏の奴が速い。」


「もうすぐ家の裏口に来ます。」


「正面から出る。」


 誠が即断する。


「庭の奴は食事中だ。」


「刺激しなければ、まだやり過ごせる可能性がある。」


「でも距離が近いです。」


「それでも裏よりはマシだ。」


 誠は翔太を背負い直した。


「行くぞ。」



 三人は階段を下りた。


 今度は音を気にしている余裕はない。


「庭の奴、位置は。」


 誠が聞く。


「右奥。」


「鹿のそば。」


「こっちには背を向けてます。」


「ゆっくり行く。」


 玄関のドアを開ける。


 夜の空気が流れ込む。


 三人は外へ出た。


 足音を抑え、息を殺す。


 庭の奥では、黒い影が鹿に食らいついていた。


 ガリ。


 グチャ。


 骨を砕く音が響く。


 赤い目が一瞬こちらを向いた。


 悠真の心臓が跳ねる。


(気付くな……気付くな……)


 魔犬は再び鹿へ顔を戻した。


「今だ。」


 誠が小さく言う。


 あと少し。


 その時だった。


 ガンッ!


 家の裏から、何かがぶつかる音が響いた。


 裏の魔犬だ。


「来る!」


 悠真が叫ぶ。


 庭の魔犬が顔を上げる。


 赤い目が三人を捉えた。


「走れ!」


 誠が叫ぶ。


 三人は門へ向かって走った。


 背後で唸り声が響く。


 庭の魔犬が追ってくる。


 同時に、家の裏手からもう一匹が回り込んできた。


「恒一さん!」


 悠真が叫ぶ。


 道路の先で影が動く。


「こっちだ!」


 恒一が立っていた。


 服は裂け、腕には血が滲んでいる。


 だが、立っている。


「任せろ!」


 一匹目が飛びかかる。


 恒一が踏み込み、拳を叩き込む。


 鈍い音。


 魔犬が弾かれる。


 二匹目が横から来る。


「左!」


 悠真が叫ぶ。


 恒一が身体を捻り、蹴りを叩き込む。


 魔犬が地面を転がった。


「今のうちに行け!」


「頼む!」


 誠が叫び、翔太を背負ったまま走る。


 悠真も続く。


 後ろで戦う音が響く。


 振り返りたい。


 でも振り返らない。


 走る。


 ただ走る。



 だが、完全には振り切れなかった。


 背後から、一匹の魔犬が追ってくる。


 恒一が倒したはずの個体ではない。


 庭にいた個体だ。


 鹿を捨て、獲物を変えた。


 翔太を背負う誠。


 その背中を狙っている。


(まずい)


 悠真は振り返る。


 赤い目。


 開いた口。


 牙。


 魔犬の狙いは、明らかに誠だった。


(《鑑定》)



【変異魔犬】


【危険度:D】


【状態:興奮】


【攻撃対象:藤堂誠】


【次行動予測:跳躍攻撃】



「父さん!」


 悠真は叫んだ。


 誠も気付く。


 だが、翔太を背負っている。


 避けきれない。


 手も塞がっている。


 悠真の視界の端に、何かが映った。


 銀色の金属バット。


 悠真は考えるより先に走った。


 手を伸ばす。


 青いグリップを掴む。


 冷たい。


 金属の感触が手に伝わる。


「悠真!」


 誠の声。


 魔犬が地面を蹴った。


 父へ飛ぶ。


(間に合え)


 悠真は踏み込んだ。


 以前なら、絶対に間に合わない距離だった。


 けれど今は違う。


 《身体能力上昇・小》


 その力が、ほんの一歩だけ悠真を前へ押し出した。


「うあああああっ!」


 両手でバットを握り、横殴りに振る。


 ガンッ!


 硬い音が響いた。


 バットが魔犬の頭部にぶつかる。


 魔犬の身体が横へ弾け、地面に叩きつけられた。


 悠真の両手に、嫌な痺れが残る。


 硬いものを叩いた感触。


 肉を通して骨へぶつかった感触。


 手の中に残った。


「……っ」


 息が詰まる。


 やった。


 止めた。


 父は無事だ。


 翔太も無事だ。


 そう思った。


 だが。


 グル……。


 魔犬が動いた。


 血を流しながら、前脚で地面を掻く。


 立ち上がろうとしている。


(《鑑定》)



【変異魔犬】


【状態:重傷】


【意識:混濁】


【行動継続可能】


【攻撃意思:継続】



 まだ生きている。


 まだ襲ってくる。


 悠真はバットを握ったまま固まった。


 一発目は咄嗟だった。


 父を守るためだった。


 考える前に身体が動いた。


 でも、次は違う。


 目の前の魔犬は倒れている。


 血を流している。


 苦しんでいる。


 それでもまだ生きている。


 まだこちらを見ている。


 まだ立ち上がろうとしている。


 ここで終わらせなければ、また誰かを襲う。


 父を。


 翔太を。


 自分を。


 だから。


 殺す。


 その言葉が、自然に頭に浮かんだ。


 悠真は吐き気を覚えた。



 白い実験室を思い出した。


 大学の農学部。


 実習。


 白衣。


 手袋。


 アルコールの匂い。


 小さな実験動物。


 命を扱ったことがないわけではない。


 実験で小動物を扱ったこともあった。


 命を「教材」や「データ」として見る時間もあった。


 もちろん、何も感じなかったわけではない。


 指導教員は言った。


『命を扱っている自覚を持つように』


 悠真は頷いた。


 理解しているつもりだった。


 命を扱うこと。


 命を奪うこと。


 その重さを分かっているつもりだった。


 でも、違う。


 全然違う。


 あの時は手順があった。


 目的があった。


 説明があった。


 先生がいた。


 正しいやり方があった。


 今は違う。


 目の前にいるのは、自分を殺そうとした生き物だ。


 父を殺そうとした生き物だ。


 苦しみながら、それでもまだ生きようとしている。


 そして悠真は今から、自分の意思でそれを終わらせる。


 殺すために、バットを振る。


「……ごめん」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 魔犬にか。


 翔太にか。


 父にか。


 それとも、自分にか。


 悠真はバットを振り上げた。


 腕が震える。


 脚も震える。


 それでも、振り下ろした。


 ガンッ!


 魔犬の身体が跳ねた。


 まだ、動く。


 悠真は歯を食いしばる。


 もう一度。


 今度は完全に分かっている。


 自分が何をしているのか。


 分かった上で、振る。


 ガンッ!


 もう一度。


 ガンッ!


 動かなくなった。


(《鑑定》)



【変異魔犬】


【状態:死亡】



 死亡。


 たった二文字。


 その二文字が、悠真の胸を強く押し潰した。


「……俺が」


 声が震える。


「殺した」


 金属バットを握る手が震えていた。


 手のひらに衝撃が残っている。


 腕に感触が残っている。


 魔犬が動かなくなるまで、自分が殴った。


 自分が殺した。


「悠真」


 誠が近づこうとする。


「触らないで」


 反射的に言っていた。


 誠が止まる。


「……ごめん」


「いや」


 誠は静かに言った。


「いい」


 悠真はバットを見る。


 銀色の金属に、血と毛が付いていた。


 胃の奥がせり上がる。


「うっ……」


「悠真」


「大丈夫」


 悠真は口元を押さえた。


「大丈夫だから」


 何が大丈夫なのか、自分でも分からない。


 父は生きている。


 翔太も生きている。


 それは大丈夫だ。


 でも、自分の中の何かは、大丈夫ではなかった。


「行こう」


 悠真は無理やり声を出した。


「早く」


「翔太君を、お母さんのところへ」


 誠は何かを言おうとした。


 けれど言わなかった。


「ああ」


 それだけ答えた。



 藤堂家へ戻る頃には、恒一も合流していた。


 腕に血が滲んでいたが、本人は「掠っただけ」と言った。


 悠真はすぐに《鑑定》した。



【朝倉 恒一】


【状態:軽傷】


【魔素侵食:停滞】


【侵食率:14%】


【精神状態:正常】


【適応進行中】



「変わってません」


「そうか」


 恒一は短く息を吐く。


 そして悠真の手元を見た。


 血の付いた金属バット。


「……」


 恒一は何も聞かなかった。


 ただ、悠真の肩に軽く手を置こうとして、途中で止めた。


 さっき悠真が、誠に「触らないで」と言ったのを覚えていたのだろう。


「帰ろう」


 恒一はそれだけ言った。


「はい」



 藤堂家の門が開く。


「お父さん!」


 彩乃の声が飛ぶ。


「静かに!」


 誠が小さく怒鳴る。


「あ、ごめん」


 英樹が門を閉める。


 真由美と由紀がリビングで待っていた。


 翔太を見た瞬間、三浦恵が起き上がろうとする。


「翔太!」


「お母さん!」


 翔太は誠の背中から降ろされ、母親の元へ駆け寄った。


 三浦は息子を抱きしめる。


 翔太も泣いた。


 何度も、何度も名前を呼び合っていた。


 生きている。


 会えた。


 それだけで、二人は泣いていた。


 悠真は少し離れた場所から見ていた。


 右手には、まだ金属バットを持っている。


 青いグリップを握る手が、震えている。


「悠真」


 恒一が隣に立った。


「外、行くか」


「……はい」



 庭に出ると、夜風が冷たかった。


 悠真はようやく、バットを地面へ置いた。


 指が痛い。


 強く握りしめすぎていた。


「しんどいか」


 恒一が聞いた。


 悠真は少し黙った後、頷いた。


「はい」


「殺しました」


「ああ」


「俺、殺そうと思って殺しました」


「ああ」


「一発目は違ったんです」


「父さんが襲われそうで、気付いたら振ってた」


「でも、二発目は違った」


 声が詰まる。


「分かってました」


「こいつを殺すって」


「分かってて振った」


「三発目も」


「動かなくなるまで」


「俺がやった」


 恒一は否定しなかった。


 仕方なかった、とも言わなかった。


 それが、逆にありがたかった。


「大学で、実験動物を扱ったことはあります。」


 悠真は続けた。


「命に触れたことがないわけじゃない」


「でも、全然違った」


「目の前で生きてて」


「動いてて」


「苦しんでて」


「それを俺が終わらせた」


「何で、こんなに手が震えるんだろう。」


 恒一は静かに答えた。


「怖かったからだろ」


「魔犬が?」


「それも」


 恒一は少し考える。


「自分が怖いんじゃないか。」


 悠真は何も言えなかった。


 その通りだった。


 自分の中に、殺せる自分がいた。


 殺さなければと考えられる自分がいた。


 それが怖かった。


「俺、変わりますかね」


「何が」


「こういうのを続けたら」


「殺すことに慣れたら」


「何も感じなくなったら」


 恒一はすぐには答えなかった。


 自分の腕を見る。


 魔犬に噛まれた場所。


 魔素に侵された身体。


「分からない」


 恒一は答えた。


「俺も怖い」


「俺は身体が変わってる」


「お前は心が変わるのが怖い」


「たぶん、どっちも同じだ」


 悠真は恒一を見る。


「でも」


 恒一は続ける。


「今、しんどいんだろ」


「はい」


「殺したことを忘れられないんだろ」


「……はい」


「なら、忘れるな」


「え?」


「無理に慣れようとするな」


「仕方なかったって、簡単に片付けるな」


 恒一の声は静かだった。


「しんどいなら、しんどいままでいい」


「何も感じなくなった時が、一番危ない」


 悠真は地面のバットを見る。


「……はい」


「それに」


 恒一は家を見る。


 窓の向こう。


 母親と子供の泣き声が、まだ微かに聞こえる。


「お前が殺したから、助かった命もある」


「……」


「それも忘れるな」


 悠真は顔を上げた。


 恒一はそれ以上、何も言わなかった。



「悠真」


 家へ戻ろうとした時、誠が庭に立っていた。


「父さん」


「少しいいか」


 恒一が悠真の肩を軽く叩く。


「先に戻ってる」


「はい」


 二人だけになる。


 父と息子。


 誠はなかなか話さなかった。


「何」


 悠真が聞く。


「すまなかった」


「……何が」


「俺を助けるためだった」


「お前が、あれを殺したのは」


「俺を助けるためだったんだ、」


「父さんが謝ることじゃない」


「ああ」


「分かってる」


「じゃあ、何で」


「それでも」


 誠は息子を見る。


「親としては謝りたい。」


「……」


「お前に、あんなことをさせた」


「父さん」


「違う」


「違わない」


「でも、俺が自分でやった」


「ああ」


「お前が決めてやった」


「だから、ありがとうとは言わない」


「……」


「でも、すまない」


「それだけは言わせてくれ」


 悠真は父を見る。


 父は、ずっと大きい存在だった。


 子供の頃から、そう思っていた。


 困った時はどうにかしてくれる。


 何かが壊れたら直してくれる。


 怖い時は前に立ってくれる。


 そんな父が今、自分に謝っている。


「……やめてよ」


 悠真が言った。


「俺、父さんを助けたかっただけだから」


「ああ」


「だから謝らないで」


「……」


「俺が余計しんどくなる」


 誠は少しだけ笑った。


「そうか」


「うん」


「分かった」


「うん」


「でも、ありがとうは言わないんだよね」


「ああ」


「何で」


「お前が、そういう顔をしてた」


「何それ」


「知らん」


 悠真は少しだけ笑った。


 本当に、少しだけ。



 その夜、三浦親子は藤堂家で休むことになった。


 翔太に水を飲ませる。


 解熱剤を飲ませる。


 汗を拭く。


 身体を冷やす。


 三浦恵は息子の隣から離れようとしなかった。


 真由美と由紀が交代で様子を見る。


 藤堂家に、人が二人増えた。


 水が減る。


 食料が減る。


 薬も減る。


 それでも、誰も追い出そうとは言わなかった。



 深夜。


 悠真は眠れなかった。


 目を閉じる。


 音が蘇る。


 ガンッ。


 手に残る感触。


 目を開ける。


 暗い天井。


 もう一度、目を閉じる。


 ガンッ。


「……」


 起き上がる。


 喉が乾いていた。


 台所へ向かい、水を少しだけ飲む。


 戻ろうとした時、廊下に何かが置かれていることに気付いた。


 銀色の金属バット。


 洗われていた。


 血はもうない。


 誰かが洗ったのだ。


 たぶん、父だ。


 悠真はバットを見つめる。


 触れない。


 触りたくない。


 その時。


「悠真兄ちゃん」


 声がした。


 振り返る。


 翔太が毛布を肩に掛けて立っていた。


「起きてたの」


「うん」


「熱は」


「まだあるけど、さっきより楽」


「そっか」


 翔太がバットを見る。


「それ、僕の」


「……うん」


「勝手に使った」


「ごめん」


 何に謝ったのか、自分でも分からない。


 人のものを勝手に使ったからか。


 血で汚したからか。


 それとも、このバットで生き物を殺したからか。


「いいよ」


 翔太が言った。


「お母さんと僕を助けるのに使ったんでしょ」


「……うん」


「じゃあ、いいよ」


 悠真は何も言えなかった。


 九歳の子供が、自分より簡単に答えを出したように見えた。


 助けるために使った。


 だからいい。


 そんなに簡単ではない。


 悠真には、そう思えた。


 けれど、その言葉に少しだけ救われたのも事実だった。


「悠真兄ちゃん」


「何」


「それ、持ってて」


「……何で」


「僕、今は振れないから」


「熱があるから?」


「違う」


 翔太は首を振る。


「弱いから」


「……」


「でも、悠真兄ちゃんは強いから」


「俺、強くないよ」


「強いよ」


「お母さんも、僕も助けてくれた」


「それは俺だけじゃない」


「でも」


 翔太はバットを指差した。


「それ、持ってて」


「また誰かを助ける時に使って」


 悠真はバットを見る。


 嫌だった。


 触りたくなかった。


 思い出すから。


 けれど翔太は言った。


 誰かを助ける時に使って、と。


 悠真はゆっくり手を伸ばした。


 青いグリップを握る。


 もう血はない。


 でも感触は残っている。


「……分かった」


 悠真は言った。


「借りる」


「うん」


「返してって言ったら、返すから」


「うん」


「絶対」


「うん」


「あと、俺はそんなに強くないから」


「うん」


「そこは否定してよ」


「眠い」


「……そう」


 翔太が少し笑った。


 悠真も少しだけ笑った。


 金属バット。


 初めて、命を奪った武器。


 そして初めて、誰かの命を守った武器。


 その二つは、きっと同じだった。


 どちらかだけを忘れることはできない。


 悠真はバットを握った。


 まだ手は少し震えていた。


 それでも今度は、離さなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

少しでも「おもしろかった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、

感想・レビュー・ブックマーク・評価などで応援していただけると、とても励みになります。


皆さまの反応を参考に、今後の更新ペースや展開も調整していきたいと思っています。

誤字脱字なども気づいた点があれば、遠慮なく教えてください。


これからもよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ