第33話 守るための一撃
暗闇の中、一つ、また一つと赤い目が開いた。
「……父さん。」
「ああ。」
誠が低く答える。
「囲まれてるな。」
三浦家は青い屋根の二階建て。その二階、カーテンの隙間から小さな光がまた点滅する。一度、二度、三度。助けて、そう言っているように見えた。
九歳の三浦翔太は高熱で一人。その家の周囲を魔犬が囲んでいる。
「……助けよう。」
悠真が言った。声は震えていた。怖い。喉が乾き、心臓が痛いほど鳴っている。それでも。
「絶対に、あの子を連れて帰ろう。」
恒一が拳を握る。誠は息子を見て、そして頷いた。
「ああ。そのために来たんだ。」
◇
「まず、数を確認する。」
誠が小さな声で言った。
「悠真、分かるか。」
「やってみる。」
悠真は左腕へ意識を集中する。
(《鑑定》)
視界に暗闇の三浦家、庭、塀、車庫、家の裏が映る。見えるだけでは足りない。悠真は意識を広げる。家の角、塀の向こう、暗闇の中で何かが動く。
⸻
【変異魔犬】
【危険度:D】
【状態:興奮】
【空腹度:低下中】
⸻
一匹、家の裏。
⸻
【変異魔犬】
【危険度:D】
【状態:警戒】
⸻
二匹、車庫。
⸻
【変異魔犬】
【危険度:D】
【状態:興奮】
⸻
三匹。
「三匹、たぶん。」
悠真が言う。
「たぶん?」
誠が聞く。
「見える範囲と反応がある範囲では三匹です。家の裏、車庫、それと……」
悠真は目を細める。ガリ、グチャと何かを噛む音。
「庭。一匹は何か食べてる。」
「何をだ。」
「分からない。でも人じゃない。」
鑑定。
⸻
【対象:ニホンジカ】
【状態:死亡】
⸻
「鹿。」
「鹿?」
誠が小さく聞き返す。
「何でこんな住宅街に。」
「分かりません。山から下りてきたのかも。」
以前なら鹿が住宅街まで来ることなど滅多になかった。だが今は何が普通なのか分からない。魔獣に追われたのか、山の環境が変わったのか、それともただ逃げてきたのか。分からない。ただ今、一匹の魔犬はその鹿を食べている。
「腹は満たされ始めてる。だからすぐに家を襲うつもりはないかもしれない。」
「でも、俺たちが近付けば別だ。」
恒一が低く言った。
「はい。気付かれたら襲ってくると思います。」
「三匹か。」
誠が呟く。
「正面からやる必要はない。一匹ずつ離せれば俺がやります。」
「恒一君。」
誠が恒一を見る。
「身体は大丈夫です。」
「今は……本当に今は。」
恒一は自分の手を見る。
「前より調子がいい。」
それが逆に怖いと悠真は思った。魔犬に噛まれ侵食され、高熱を出し死にかけたのに、今の恒一は以前より強くなっている。身体能力、反応、感覚、人間の範囲を少しずつ外れている。
「無理はしないでください。」
悠真が言うと、恒一が少し笑う。
「お前に言われるとはな。」
「何ですか。」
「いや、何でもない。」
「俺、無茶したことないですよ。」
「……。」
「何ですか。」
「いや、何でもない。」
「絶対何か思ってますよね。」
「静かにしろ。」
誠が二人を見る。
「すみません。」
また声が重なった。
「本当に仲いいな。」
「どこがですか。」
また重なる。
「だから静かにしろ。」
◇
作戦は単純だった。車庫にいる一匹を恒一が音で誘い出し、家から離れた場所で倒す。その間に誠と悠真が家へ入り、翔太を救出する。可能なら戦わない。鹿を食べている個体には近付かず、家の裏にいる個体も刺激しない。
「本当に一人で大丈夫ですか。」
悠真がもう一度聞いた。
「一人じゃない。お前が見てろ。」
「……。」
「俺から見えない奴をお前が見ろ。」
悠真は恒一を見る。
「はい。それがお前の役目だ。」
その言葉に悠真は頷いた。自分は恒一のようには戦えない。彩乃のように空手を習っていたわけでもなく、身体も多少鍛えた程度、《身体能力上昇・小》はある。以前より速く走れ、力も少し強くなり、反応も良くなっている。でもそれだけだ。技術も経験もない。力の使い方を知らない。
だから見る。見つける。伝える。それが今の自分の役目。
「行きます。いつでも。」
◇
恒一が地面から小さな石を拾った。車庫の反対側、道路の暗闇へ投げる。
カン、と石が道路標識に当たる金属音。赤い目が動く。
「反応した。出てくる。」
低い唸り声。車庫の暗闇から大きな影が現れる。普通の犬より遥かに大きく、肩の高さは成人男性の腰近く。毛はところどころ抜け、皮膚の下には黒い血管のようなものが浮かんでいる。
魔犬。悠真は何度も見た。それでも慣れない。怖い。毎回怖い。
「恒一さん。」
「ああ。」
恒一が一人前へ出る。魔犬の鼻が動き、こちらを見る。赤い目。恒一、人間、餌。そう認識したのかもしれない。
「来る!」
悠真が叫ぶ。魔犬が走った。速い。地面を蹴り、恒一へ一直線。
「右!」
悠真が叫ぶ。恒一が動く。牙を紙一重で避け、拳を魔犬の側頭部へ叩き込む。鈍い音。魔犬の身体が傾く。
「……!」
悠真は息を呑む。以前より強い。明らかに恒一の動きは速くなっている。
魔犬が地面を滑るが、起き上がる。
「まだです!」
「分かってる!」
魔犬が再び飛びかかる。恒一は避け、身体を沈めて踏み込む。
「シッ!」
短い呼吸とともに拳が顎を下から突き上げる。魔犬の頭が跳ね上がる。そのまま恒一は回り、蹴りを首へ叩き込む。魔犬の身体が地面へ叩きつけられる。
「今!」
誠が言った。三人が走る。
◇
三浦家の門は開いている。庭には入らない。鹿を食べている個体がいるからだ。反対側の勝手口へ。
「こっち。」
悠真が先を見る。
「裏の奴は家の向こう側。今なら行ける。」
三人が走る。勝手口は古い扉。誠が取っ手を掴む。
「これか。強く引けば開くかもしれないって。」
「やってみる。」
引くが動かない。
「もう一度。」
力を込める。ガタ。
「少し動いた。」
「貸してください。」
二人で。
「せーの。」
ガン、と扉が開いた。同時に家の中で何かが落ちる音。全員が止まる。
「翔太君?」
誠が小さく呼ぶが返事はない。
「入るぞ。」
2人が家へ入る。
◇
暗い人の家。誰もいない。懐中電灯で床、壁、家具を照らす。
「三浦さん。」
「翔太君。」
誠が小さく呼ぶが返事はない。
悠真は左腕へ意識を集中する。
(《鑑定》)
⸻
【三浦 翔太】
【年齢:9歳】
【状態:発熱】
【体温:39.4℃】
【脱水:中度】
【意識:清明】
【生命危険度:低】
⸻
「いる。二階。生きてる。意識もある。熱は三十九度四分。」
「高いな。」
誠の表情が険しくなる。
「急ぐぞ。」
2人は階段へ向かった。
古い木の階段が軋む音が、やけに大きく感じられた。
「静かに。」
誠が手で制する。
悠真は頷き、足音を殺して上がる。
二階の廊下は暗く、空気がこもっていた。
奥の部屋。
カーテンの隙間から、微かな光が漏れている。
「ここだ。」
悠真が指差す。
誠がゆっくりとドアノブに手をかける。
回す。
鍵はかかっていない。
静かに開ける。
部屋の中、ベッドの上に小さな影があった。
「……翔太君。」
誠が呼ぶ。
少年がゆっくりと顔を上げた。
汗で濡れた髪。
赤い顔。
それでも目は、しっかりとこちらを見ていた。
「……おじさん……?」
かすれた声。
「助けに来た。」
誠が近づく。
「もう大丈夫だ。」
翔太の目に、みるみる涙が浮かんだ。
「お母さんは……?」
「無事だ。」
「本当……?」
「ああ。」
「今、おじさんの家にいる。」
「怪我はしてるけど、命に別状はない。」
翔太は唇を震わせた。
ずっと我慢していたものが、ようやく溢れたようだった。
「よかった……。」
その声は小さかった。
けれど、その場にいる全員の胸に重く響いた。
◇
誠は翔太の額に手を当てる。
「熱いな……。」
「水……。」
翔太が小さく言う。
誠は部屋を見回し、机の上に半分ほど残ったペットボトルを見つけた。
「飲めるか。」
翔太が頷く。
誠がゆっくりと口元へ運ぶ。
翔太は少しずつ水を飲んだ。
「……ありがとう。」
「怖かったな。」
誠が優しく言う。
「うん……外に……いっぱい……。」
「ああ。」
「分かってる。」
「今からここを出る。」
誠は翔太を背負う。
軽い。
軽すぎる。
九歳の子供の重さとは思えないほどだった。
「悠真、状況は。」
悠真はすぐに《鑑定》を使う。
(《鑑定》)
外の様子が、頭の中に薄く浮かび上がる。
「庭の一匹はまだ鹿を食べてます。」
「裏の一匹は……動いた。」
「こっちに近づいてる。」
「気付かれたか。」
「たぶん音で。」
「恒一君は。」
「車庫の奴は今、倒したみたいです。」
そこで悠真は息を呑む。
「でも、裏の奴が速い。」
「もうすぐ家の裏口に来ます。」
「正面から出る。」
誠が即断する。
「庭の奴は食事中だ。」
「刺激しなければ、まだやり過ごせる可能性がある。」
「でも距離が近いです。」
「それでも裏よりはマシだ。」
誠は翔太を背負い直した。
「行くぞ。」
◇
三人は階段を下りた。
今度は音を気にしている余裕はない。
「庭の奴、位置は。」
誠が聞く。
「右奥。」
「鹿のそば。」
「こっちには背を向けてます。」
「ゆっくり行く。」
玄関のドアを開ける。
夜の空気が流れ込む。
三人は外へ出た。
足音を抑え、息を殺す。
庭の奥では、黒い影が鹿に食らいついていた。
ガリ。
グチャ。
骨を砕く音が響く。
赤い目が一瞬こちらを向いた。
悠真の心臓が跳ねる。
(気付くな……気付くな……)
魔犬は再び鹿へ顔を戻した。
「今だ。」
誠が小さく言う。
あと少し。
その時だった。
ガンッ!
家の裏から、何かがぶつかる音が響いた。
裏の魔犬だ。
「来る!」
悠真が叫ぶ。
庭の魔犬が顔を上げる。
赤い目が三人を捉えた。
「走れ!」
誠が叫ぶ。
三人は門へ向かって走った。
背後で唸り声が響く。
庭の魔犬が追ってくる。
同時に、家の裏手からもう一匹が回り込んできた。
「恒一さん!」
悠真が叫ぶ。
道路の先で影が動く。
「こっちだ!」
恒一が立っていた。
服は裂け、腕には血が滲んでいる。
だが、立っている。
「任せろ!」
一匹目が飛びかかる。
恒一が踏み込み、拳を叩き込む。
鈍い音。
魔犬が弾かれる。
二匹目が横から来る。
「左!」
悠真が叫ぶ。
恒一が身体を捻り、蹴りを叩き込む。
魔犬が地面を転がった。
「今のうちに行け!」
「頼む!」
誠が叫び、翔太を背負ったまま走る。
悠真も続く。
後ろで戦う音が響く。
振り返りたい。
でも振り返らない。
走る。
ただ走る。
◇
だが、完全には振り切れなかった。
背後から、一匹の魔犬が追ってくる。
恒一が倒したはずの個体ではない。
庭にいた個体だ。
鹿を捨て、獲物を変えた。
翔太を背負う誠。
その背中を狙っている。
(まずい)
悠真は振り返る。
赤い目。
開いた口。
牙。
魔犬の狙いは、明らかに誠だった。
(《鑑定》)
⸻
【変異魔犬】
【危険度:D】
【状態:興奮】
【攻撃対象:藤堂誠】
【次行動予測:跳躍攻撃】
⸻
「父さん!」
悠真は叫んだ。
誠も気付く。
だが、翔太を背負っている。
避けきれない。
手も塞がっている。
悠真の視界の端に、何かが映った。
銀色の金属バット。
悠真は考えるより先に走った。
手を伸ばす。
青いグリップを掴む。
冷たい。
金属の感触が手に伝わる。
「悠真!」
誠の声。
魔犬が地面を蹴った。
父へ飛ぶ。
(間に合え)
悠真は踏み込んだ。
以前なら、絶対に間に合わない距離だった。
けれど今は違う。
《身体能力上昇・小》
その力が、ほんの一歩だけ悠真を前へ押し出した。
「うあああああっ!」
両手でバットを握り、横殴りに振る。
ガンッ!
硬い音が響いた。
バットが魔犬の頭部にぶつかる。
魔犬の身体が横へ弾け、地面に叩きつけられた。
悠真の両手に、嫌な痺れが残る。
硬いものを叩いた感触。
肉を通して骨へぶつかった感触。
手の中に残った。
「……っ」
息が詰まる。
やった。
止めた。
父は無事だ。
翔太も無事だ。
そう思った。
だが。
グル……。
魔犬が動いた。
血を流しながら、前脚で地面を掻く。
立ち上がろうとしている。
(《鑑定》)
⸻
【変異魔犬】
【状態:重傷】
【意識:混濁】
【行動継続可能】
【攻撃意思:継続】
⸻
まだ生きている。
まだ襲ってくる。
悠真はバットを握ったまま固まった。
一発目は咄嗟だった。
父を守るためだった。
考える前に身体が動いた。
でも、次は違う。
目の前の魔犬は倒れている。
血を流している。
苦しんでいる。
それでもまだ生きている。
まだこちらを見ている。
まだ立ち上がろうとしている。
ここで終わらせなければ、また誰かを襲う。
父を。
翔太を。
自分を。
だから。
殺す。
その言葉が、自然に頭に浮かんだ。
悠真は吐き気を覚えた。
◇
白い実験室を思い出した。
大学の農学部。
実習。
白衣。
手袋。
アルコールの匂い。
小さな実験動物。
命を扱ったことがないわけではない。
実験で小動物を扱ったこともあった。
命を「教材」や「データ」として見る時間もあった。
もちろん、何も感じなかったわけではない。
指導教員は言った。
『命を扱っている自覚を持つように』
悠真は頷いた。
理解しているつもりだった。
命を扱うこと。
命を奪うこと。
その重さを分かっているつもりだった。
でも、違う。
全然違う。
あの時は手順があった。
目的があった。
説明があった。
先生がいた。
正しいやり方があった。
今は違う。
目の前にいるのは、自分を殺そうとした生き物だ。
父を殺そうとした生き物だ。
苦しみながら、それでもまだ生きようとしている。
そして悠真は今から、自分の意思でそれを終わらせる。
殺すために、バットを振る。
「……ごめん」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
魔犬にか。
翔太にか。
父にか。
それとも、自分にか。
悠真はバットを振り上げた。
腕が震える。
脚も震える。
それでも、振り下ろした。
ガンッ!
魔犬の身体が跳ねた。
まだ、動く。
悠真は歯を食いしばる。
もう一度。
今度は完全に分かっている。
自分が何をしているのか。
分かった上で、振る。
ガンッ!
もう一度。
ガンッ!
動かなくなった。
(《鑑定》)
⸻
【変異魔犬】
【状態:死亡】
⸻
死亡。
たった二文字。
その二文字が、悠真の胸を強く押し潰した。
「……俺が」
声が震える。
「殺した」
金属バットを握る手が震えていた。
手のひらに衝撃が残っている。
腕に感触が残っている。
魔犬が動かなくなるまで、自分が殴った。
自分が殺した。
「悠真」
誠が近づこうとする。
「触らないで」
反射的に言っていた。
誠が止まる。
「……ごめん」
「いや」
誠は静かに言った。
「いい」
悠真はバットを見る。
銀色の金属に、血と毛が付いていた。
胃の奥がせり上がる。
「うっ……」
「悠真」
「大丈夫」
悠真は口元を押さえた。
「大丈夫だから」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
父は生きている。
翔太も生きている。
それは大丈夫だ。
でも、自分の中の何かは、大丈夫ではなかった。
「行こう」
悠真は無理やり声を出した。
「早く」
「翔太君を、お母さんのところへ」
誠は何かを言おうとした。
けれど言わなかった。
「ああ」
それだけ答えた。
◇
藤堂家へ戻る頃には、恒一も合流していた。
腕に血が滲んでいたが、本人は「掠っただけ」と言った。
悠真はすぐに《鑑定》した。
⸻
【朝倉 恒一】
【状態:軽傷】
【魔素侵食:停滞】
【侵食率:14%】
【精神状態:正常】
【適応進行中】
⸻
「変わってません」
「そうか」
恒一は短く息を吐く。
そして悠真の手元を見た。
血の付いた金属バット。
「……」
恒一は何も聞かなかった。
ただ、悠真の肩に軽く手を置こうとして、途中で止めた。
さっき悠真が、誠に「触らないで」と言ったのを覚えていたのだろう。
「帰ろう」
恒一はそれだけ言った。
「はい」
◇
藤堂家の門が開く。
「お父さん!」
彩乃の声が飛ぶ。
「静かに!」
誠が小さく怒鳴る。
「あ、ごめん」
英樹が門を閉める。
真由美と由紀がリビングで待っていた。
翔太を見た瞬間、三浦恵が起き上がろうとする。
「翔太!」
「お母さん!」
翔太は誠の背中から降ろされ、母親の元へ駆け寄った。
三浦は息子を抱きしめる。
翔太も泣いた。
何度も、何度も名前を呼び合っていた。
生きている。
会えた。
それだけで、二人は泣いていた。
悠真は少し離れた場所から見ていた。
右手には、まだ金属バットを持っている。
青いグリップを握る手が、震えている。
「悠真」
恒一が隣に立った。
「外、行くか」
「……はい」
◇
庭に出ると、夜風が冷たかった。
悠真はようやく、バットを地面へ置いた。
指が痛い。
強く握りしめすぎていた。
「しんどいか」
恒一が聞いた。
悠真は少し黙った後、頷いた。
「はい」
「殺しました」
「ああ」
「俺、殺そうと思って殺しました」
「ああ」
「一発目は違ったんです」
「父さんが襲われそうで、気付いたら振ってた」
「でも、二発目は違った」
声が詰まる。
「分かってました」
「こいつを殺すって」
「分かってて振った」
「三発目も」
「動かなくなるまで」
「俺がやった」
恒一は否定しなかった。
仕方なかった、とも言わなかった。
それが、逆にありがたかった。
「大学で、実験動物を扱ったことはあります。」
悠真は続けた。
「命に触れたことがないわけじゃない」
「でも、全然違った」
「目の前で生きてて」
「動いてて」
「苦しんでて」
「それを俺が終わらせた」
「何で、こんなに手が震えるんだろう。」
恒一は静かに答えた。
「怖かったからだろ」
「魔犬が?」
「それも」
恒一は少し考える。
「自分が怖いんじゃないか。」
悠真は何も言えなかった。
その通りだった。
自分の中に、殺せる自分がいた。
殺さなければと考えられる自分がいた。
それが怖かった。
「俺、変わりますかね」
「何が」
「こういうのを続けたら」
「殺すことに慣れたら」
「何も感じなくなったら」
恒一はすぐには答えなかった。
自分の腕を見る。
魔犬に噛まれた場所。
魔素に侵された身体。
「分からない」
恒一は答えた。
「俺も怖い」
「俺は身体が変わってる」
「お前は心が変わるのが怖い」
「たぶん、どっちも同じだ」
悠真は恒一を見る。
「でも」
恒一は続ける。
「今、しんどいんだろ」
「はい」
「殺したことを忘れられないんだろ」
「……はい」
「なら、忘れるな」
「え?」
「無理に慣れようとするな」
「仕方なかったって、簡単に片付けるな」
恒一の声は静かだった。
「しんどいなら、しんどいままでいい」
「何も感じなくなった時が、一番危ない」
悠真は地面のバットを見る。
「……はい」
「それに」
恒一は家を見る。
窓の向こう。
母親と子供の泣き声が、まだ微かに聞こえる。
「お前が殺したから、助かった命もある」
「……」
「それも忘れるな」
悠真は顔を上げた。
恒一はそれ以上、何も言わなかった。
◇
「悠真」
家へ戻ろうとした時、誠が庭に立っていた。
「父さん」
「少しいいか」
恒一が悠真の肩を軽く叩く。
「先に戻ってる」
「はい」
二人だけになる。
父と息子。
誠はなかなか話さなかった。
「何」
悠真が聞く。
「すまなかった」
「……何が」
「俺を助けるためだった」
「お前が、あれを殺したのは」
「俺を助けるためだったんだ、」
「父さんが謝ることじゃない」
「ああ」
「分かってる」
「じゃあ、何で」
「それでも」
誠は息子を見る。
「親としては謝りたい。」
「……」
「お前に、あんなことをさせた」
「父さん」
「違う」
「違わない」
「でも、俺が自分でやった」
「ああ」
「お前が決めてやった」
「だから、ありがとうとは言わない」
「……」
「でも、すまない」
「それだけは言わせてくれ」
悠真は父を見る。
父は、ずっと大きい存在だった。
子供の頃から、そう思っていた。
困った時はどうにかしてくれる。
何かが壊れたら直してくれる。
怖い時は前に立ってくれる。
そんな父が今、自分に謝っている。
「……やめてよ」
悠真が言った。
「俺、父さんを助けたかっただけだから」
「ああ」
「だから謝らないで」
「……」
「俺が余計しんどくなる」
誠は少しだけ笑った。
「そうか」
「うん」
「分かった」
「うん」
「でも、ありがとうは言わないんだよね」
「ああ」
「何で」
「お前が、そういう顔をしてた」
「何それ」
「知らん」
悠真は少しだけ笑った。
本当に、少しだけ。
◇
その夜、三浦親子は藤堂家で休むことになった。
翔太に水を飲ませる。
解熱剤を飲ませる。
汗を拭く。
身体を冷やす。
三浦恵は息子の隣から離れようとしなかった。
真由美と由紀が交代で様子を見る。
藤堂家に、人が二人増えた。
水が減る。
食料が減る。
薬も減る。
それでも、誰も追い出そうとは言わなかった。
◇
深夜。
悠真は眠れなかった。
目を閉じる。
音が蘇る。
ガンッ。
手に残る感触。
目を開ける。
暗い天井。
もう一度、目を閉じる。
ガンッ。
「……」
起き上がる。
喉が乾いていた。
台所へ向かい、水を少しだけ飲む。
戻ろうとした時、廊下に何かが置かれていることに気付いた。
銀色の金属バット。
洗われていた。
血はもうない。
誰かが洗ったのだ。
たぶん、父だ。
悠真はバットを見つめる。
触れない。
触りたくない。
その時。
「悠真兄ちゃん」
声がした。
振り返る。
翔太が毛布を肩に掛けて立っていた。
「起きてたの」
「うん」
「熱は」
「まだあるけど、さっきより楽」
「そっか」
翔太がバットを見る。
「それ、僕の」
「……うん」
「勝手に使った」
「ごめん」
何に謝ったのか、自分でも分からない。
人のものを勝手に使ったからか。
血で汚したからか。
それとも、このバットで生き物を殺したからか。
「いいよ」
翔太が言った。
「お母さんと僕を助けるのに使ったんでしょ」
「……うん」
「じゃあ、いいよ」
悠真は何も言えなかった。
九歳の子供が、自分より簡単に答えを出したように見えた。
助けるために使った。
だからいい。
そんなに簡単ではない。
悠真には、そう思えた。
けれど、その言葉に少しだけ救われたのも事実だった。
「悠真兄ちゃん」
「何」
「それ、持ってて」
「……何で」
「僕、今は振れないから」
「熱があるから?」
「違う」
翔太は首を振る。
「弱いから」
「……」
「でも、悠真兄ちゃんは強いから」
「俺、強くないよ」
「強いよ」
「お母さんも、僕も助けてくれた」
「それは俺だけじゃない」
「でも」
翔太はバットを指差した。
「それ、持ってて」
「また誰かを助ける時に使って」
悠真はバットを見る。
嫌だった。
触りたくなかった。
思い出すから。
けれど翔太は言った。
誰かを助ける時に使って、と。
悠真はゆっくり手を伸ばした。
青いグリップを握る。
もう血はない。
でも感触は残っている。
「……分かった」
悠真は言った。
「借りる」
「うん」
「返してって言ったら、返すから」
「うん」
「絶対」
「うん」
「あと、俺はそんなに強くないから」
「うん」
「そこは否定してよ」
「眠い」
「……そう」
翔太が少し笑った。
悠真も少しだけ笑った。
金属バット。
初めて、命を奪った武器。
そして初めて、誰かの命を守った武器。
その二つは、きっと同じだった。
どちらかだけを忘れることはできない。
悠真はバットを握った。
まだ手は少し震えていた。
それでも今度は、離さなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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