第32話 助けを求める声
「子供が……。」
暗闇の中で、女の声が震えていた。
「お願い……子供を……。」
そして人影が倒れた。
「……!」
悠真は反射的に前へ出ようとしたが、「悠真」と後ろから美咲の声がかかり、足が止まる。振り返ると、美咲はもう家へ戻ろうとしていたが、それでも悠真を見ていた。
「ダメ!一人で行かないで。」
「……うん。」
悠真は頷いた。黒牙、罠、助けを求める声、倒れた人――それだけで飛び出してはいけないと、今日そう決めたばかりだ。
「父さん!」
悠真が声を上げると、「誰かいる!」という声に応じて家の中が動いた。
◇
最初に出てきたのは誠で、その後ろに英樹、恒一、彩乃が続いた。
「何があった?」
誠が聞くと、悠真は暗闇を指差して「女の人が倒れて、子供を助けてって」と答えた。
誠の表情が変わる。
「一人か?」
「見える範囲では分からない。他にいるかもしれない!」
誠はすぐに答えず暗闇を見つめ、「英樹さん」と声をかけると、「ああ」と英樹が懐中電灯を持った。
「親父、俺が行く。」
「まだ無理するな。」
「分かってる。戦うつもりはない。でも悠真だけを行かせるよりいい。」
誠は少し考え、「三人で行く。俺と悠真と恒一君だ。英樹さんはここから見ていてください」と決めた。
「分かった。何かあったらすぐに知らせる。」
「彩乃。」
誠が娘を見ると、「家の中は分かってる」と彩乃が答え、「美咲ちゃんも」「はい」と続いた。
彩乃は少し不満そうな顔をしており、悠真がそれに気付く。
「どうした?」
「別に、、」
「行きたいの?」
「行きたいわけじゃない。」
「じゃあ何。」
「お兄ちゃん、絶対無茶しないでよ!」
「……分かってる。」
「本当に?」
「今日それ、俺がお前に言ったよな。」
「私はいいの。」
「何で。」
「妹だから。」
「意味分かんない。」
「早く行って。」
「どっちだよ。」
しかし彩乃の顔から少し冗談が消え、「気を付けて」と言うと、「……うん」と悠真は頷いた。
◇
門は開けず、裏側の庭の奥にある以前父たちが作った緊急用の出入口から三人は外へ出た。
誠、恒一、悠真の三人は懐中電灯を手にし、誠はホームセンターから持ち帰った長い工具を持っている。恒一は何も持っていないが、それは持たせなかったからであり、今の恒一に武器を持たせることを本人が嫌がったためだった。
『もし頭がおかしくなった時、素手ならまだ止められるかもしれない。』
そう言った言葉を悠真は忘れられない。
「悠真、使えるか。」
誠が小さな声で言うと、「うん」と答え、左腕へ意識を集中する。
(《鑑定》)
暗闇の中、倒れた女性との距離はまだ少し遠く、反応はない。
「もう少し近付かないと。」
「分かった。」
三人は静かに一歩一歩進み、懐中電灯は地面を照らしている。周囲の家や塀、車や物陰に何か隠れていないか、悠真は何度も確認した。
助けを求めている人がいるのに、それでも怖い。この女の人が囮かもしれず、近付いた瞬間に黒牙が飛び出してくるかもしれないと考えてしまう自分が嫌になるが、考えなければ家族を危険に晒す。
「悠真。大丈夫か?」
恒一が隣から小さく声を掛け、「何ですか」と返すと、「考えすぎるな」と言う。
「……でも。」
「警戒するのも疑うのも悪いことじゃない。それでも助けるかどうかは見てから決めればいい。今は見ろ。」
「……はい。」
悠真は頷いた。
◇
距離が十五メートル、十メートルと縮まり、女性の姿が少しずつ見えてくる。三十代か四十代ほどで、髪は乱れ、服は汚れ、右脚から血が出ていた。
「怪我してる、脚。」
悠真が言うと、誠が懐中電灯を向け、女性が僅かに顔を上げた。
「……誰。」
「藤堂です。この近所の。」
「藤堂さん……?」
「はい、分かりますか。」
女性の目が少し開き、「角の大きい車がある家……」と言うと、「そうです」と誠が息を吐いた。
相手もこちらを知っている、少なくとも完全な部外者ではない。
「悠真。」
「うん。」
(《鑑定》)
⸻
【氏名:三浦 恵】
【年齢:38歳】
【状態:衰弱】
【右下腿部:裂傷】
【出血:中】
【脱水:軽度】
【疲労:重度】
【魔素侵食:なし】
【敵意:なし】
⸻
「……大丈夫。魔獣じゃないし侵食も敵意もない。」
悠真が小さく言うと、誠は頷き、「行くぞ」と三人は女性のもとへ向かった。
◇
「大丈夫ですか。」
誠が女性の前にしゃがみ、「怪我を見せてください」と言うが、三浦恵は首を振る。
「私はいいんです。子供を……子供が。」
「どうしたんですか。」
悠真が聞くと、「熱が昨日からずっと下がらなくて」と答えた。
「何度ですか。」
「分からない。体温計の電池が切れて。でもすごく熱くて。」
「水は?」
「もうほとんど。」
悠真と誠が目を合わせる。
「家はどこです。」
恒一が聞くと、三浦は震える手で住宅街の奥を指差し、「向こうの青い屋根の二階建て」と言った。
悠真はそれを知っており、慎重に進んでも十分ほどの距離だ。
「子供は一人ですか。」
「はい。」
「何歳です。」
「九歳。」
「……お願い。」
三浦は誠の服を掴み、「息子を助けてください。薬を探しに出たけどどこにもなくて、途中で犬が」と言う。
「犬?」
悠真の表情が変わる。
「普通の犬ですか。」
「分からない。暗くて。でも大きくて目が赤くて。」
三人は魔犬を想像した。
「噛まれましたか。」
「分からない。脚を引っ掻かれて怖くて急いで逃げて。」
悠真は鑑定結果を見直し、「噛まれてない、たぶん爪だけ」と言う。
「でも近くに魔犬がいる。」
「そういうことです。」
恒一が暗闇を見て表情を変え、「急いだ方がいい」と言った。
◇
「父さん、どうする。」
悠真が聞くと、誠は迷わず「助ける」と答えた。
「でも全員で動く。一度家へ戻って準備する。三浦さんも連れて帰る。」
三浦は首を振るが、「まずあなたを安全な場所へ連れていく。それから息子さんを迎えに行きます」と誠は強く言い、「必ず行きます」と続けた。
三浦は誠を見て声を出さずに泣き、「……お願いします」と言った。
◇
三浦を誠と恒一が肩を貸して運ぶ。
「俺、背負えます。」
恒一が言うが、「駄目だ、まだ身体が」と誠が答え、「平気じゃなくても平気って言うだろ」と続ける。
恒一は少し苦笑し、「悠真の父親って頑固ですね」と言うと、「お前の父親ほどじゃない」と返され、「それは否定できません」と答えた。
こんな時でも少し笑えるのが不思議だが、必要なのかもしれない。
「止まって。」
悠真が言うと二人が止まり、「……音」と続ける。
全員が黙り、暗闇の中で風と遠くの擦れる音が聞こえる。
ガサ、ガサ。
悠真の心臓が速くなり、左の塀の向こうに何かいると感じる。
(《鑑定》)
⸻
【対象:野良猫】
【状態:空腹】
【魔素侵食:なし】
⸻
「……猫、普通の。」
悠真が息を吐き、誠も「驚かせるな」と言うと、「俺のせいじゃないよ」「猫に言った」「そう」とやり取りする。
塀の上には痩せた猫が三人を見ており、今はそれだけで少し安心した。
◇
藤堂家へ戻ると門が開き、「お父さん!」と彩乃が駆け寄る。
「怪我人だ、母さん!救急箱!」
「分かった!」
真由美と由紀がすぐに動き、「美咲、タオルと水」「うん!」と全員が動いた。
三浦をリビングに寝かせ、傷を洗い消毒し止血する。
「痛いです。」
「我慢してください。」
三浦は歯を食いしばる。
「悠真、もう一度見てくれ。」
「うん。」
(《鑑定》)
⸻
【三浦 恵】
【状態:衰弱】
【右下腿部:裂傷】
【出血:軽度】
【脱水:軽度】
【疲労:重度】
【魔素侵食:なし】
【生命危険度:低】
⸻
「大丈夫、命に関わる怪我じゃない。」
悠真が言うと、「本当に?」と美咲が聞き、「うん、出血も止まり始めてる」と答える。
三浦が悠真を見て「あなた、お医者さんなの?」と聞くが、「違います」と答え、「じゃあ何で」と続けられて言葉に詰まる。
誠が小さく首を振り、能力は誰にでも話すものではないと示す。
「少し分かるんです。」
そう答えると、「……そう」と三浦はそれ以上聞かなかった。
「息子をお願いします。」
その一言で全員の表情が変わった。
◇
「名前は。」
「三浦翔太、九歳です。」
「家の中は。」
「二階の子供部屋です。玄関は鍵が掛かってます。」
鍵を探すが見つからず、「落とした、たぶん逃げてる時に」と顔色が変わる。
「大丈夫、家に入る方法はありますか。」
「裏の勝手口が古くて、強く引けば開くかも。」
「分かりました。」
誠が立ち上がり、「行くぞ」と言うと、「俺も」「私も」と悠真、恒一、彩乃が同時に言う。
「駄目。」
「何で!」
「魔犬がいる。」
「だからでしょ。」
言い合いになるが、恒一が「今回は残ってくれ」と言い、「三浦さんを一人にするのか」と続ける。
さらに「もしここに何か来たら動けるのは英樹さんとお前だ」と言うと、彩乃は父を見て頷きを受け、「残れ、家を守ってくれ」と言われて唇を噛み、「分かった」と答えた。
「絶対戻ってきて。」
「ああ、子供も連れて。」
「……うん。」
◇
救助に向かうのは誠、悠真、恒一の三人だった。
「行こう。」
誠が言った。
◇
三人は再び暗闇へ出た。今度は目的がある。
三浦家、九歳の三浦翔太、高熱で一人、そして近くには魔犬。
「悠真、絶対に一人で動くな。」
「分かってる。」
「恒一君、もし魔犬が出ても無理はしないでくれ。」
「……分かりました。」
「今、間があったな。」
「悠真、お前の家族細かいな。」
「恒一さん、今俺が彩乃に言われた気持ち分かりました?」
「ああ、すげぇ分かった。」
誠が「静かにしろ」と言うと「すみません」と二人の声が重なった。
◇
住宅街の夜、電気の消えた家々は静まり返り、以前のような生活音は何もない。人はいるが、皆息を潜めて生きていることを隠すようだった。
「……あれ。」
悠真が指を差すと、青い屋根の三浦家が見えた。
その時、「待て」と恒一が足を止める。
「臭い、血だ。」
悠真の背筋が冷える。
「三浦さんの?」
「違う、もっと濃くて近い。」
悠真は鑑定を試みるが反応はない。
「何も見えない。」
「でもいる。」
恒一が言ったその時、三浦家の裏からガリ、ガリと何かを噛む音が聞こえた。
悠真の心臓が速くなる。
「全員止まれ。」
誠が低い声で言い、懐中電灯を消す。
暗闇の中、ガリ、グチャと何かを食べる音だけが響く。
悠真はゆっくり家の角を見て鑑定する。
(《鑑定》)
⸻
【変異魔犬】
【危険度:D】
【状態:興奮】
【空腹度:低下中】
【警告】
【周辺に同系統個体の反応あり】
⸻
「……いる、魔犬だ。」
「一匹?」
「違う、周りにもいる。」
その瞬間、二階の窓のカーテンの隙間から懐中電灯の光が一度、二度、三度と点滅した。
悠真が見上げると、小さな人影――三浦翔太が生きて助けを待っている。
しかしその家の周囲の暗闇の中で、一つ、また一つと赤い目が開いた。
「……父さん。」
「ああ、囲まれてるな。」
悠真は左腕を握る。
九歳の子供が一人であの家にいる。そして魔犬は一匹ではない。
今ならまだ逃げて藤堂家へ戻れるが、二階の窓の懐中電灯がまた光った。
一度、二度、三度――助けてと言っているように見えた。
「……助けよう。」
悠真が震える声で言う。
「絶対にあの子を連れて帰ろう。」
恒一が拳を握り、誠は息子を見て頷いた。
「ああ、そのために来たんだ。」
暗闇と赤い目に囲まれた家の二階で、一人の少年が助けを待っていた。
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