第31話 守るべきもの
黒牙が去った後も、藤堂家の庭には、しばらく誰も動けない時間が残っていた。
バイクの音は、もう聞こえない。
住宅街は静かだった。
風が庭に積まれた薪の隙間を抜け、植えたばかりの畑の土を撫でていく。
ほんの少し前まで、ここでは彩乃が種の蒔き方に文句を言い、美咲がそれを見て笑っていた。父と母は、昔やっていた家庭菜園の話をしていた。
つい数十分前まで、確かにここには日常があった。
それなのに今は、庭も、家も、周囲の景色さえも、まるで別の場所に変わってしまったように見える。
「……下見」
悠真が呟いた。
門の向こうを見つめたまま、誠がゆっくりと頷く。
「ああ。間違いない」
「やっぱり、最初から協力するつもりなんかなかったのかな?」
「分からん」
誠は慎重に言葉を選ぶように答えた。
「本当に協力するつもりも、少しくらいはあったのかもしれない。だが――」
誠の視線が門へ向かう。
補強した板と、侵入者を知らせるために設置した仕掛け。その向こうには、先ほどまで黒牙の男たちが立っていた。
「あいつらは、俺たちがどれだけ物資を持っているか見ていた」
誠は低い声で続けた。
「人数も、男と女の数も、物資も、守りも……全部だ」
悠真は何も言えなかった。
自分も気づいていた。
黒田と名乗った男は笑っていた。言葉遣いも丁寧で、少なくとも表面上は穏やかに振る舞っていた。
だが、その目は違った。
人と話している目ではなかった。
まるで店の棚に並んだ商品を確認するように、藤堂家にいる人間と物資を、一つずつ数えていた。
「家に入ろう」
誠が言った。
「一度、全員で話す」
◇
リビングには、藤堂家と朝倉家の全員が集まっていた。
誠、真由美、悠真、彩乃。
英樹、由紀、恒一、美咲。
以前なら、これだけの人数でテーブルを囲めば、息苦しいほど狭いと感じていただろう。
だが、今は違う。
ここに全員がいる。
誰も欠けずに同じ場所に集まっている。
それだけで、悠真はわずかな安心を覚えた。
「まずは、今日のことを全員で整理しよう」
誠が口を開くと、誰も異論を挟まなかった。
「相手は六人」
悠真が思い出しながら話し始める。
「バイクは五台。一台だけ二人乗りで、全員男だった。年齢は十代後半から二十代後半くらいだと思う」
誠が少し意外そうに悠真を見た。
「よく見ていたな」
「……怖かったから」
悠真は正直に答えた。
「見ておかないと、もっと怖かった」
それは本音だった。
魔獣ならば《鑑定》がある。
少なくとも、危険度や状態、特徴、場合によっては弱点まで知ることができる。
だが、人間は違う。
人間は笑う。
嘘をつく。
本心を隠す。
相手の反応を見ながら考え、行動を変える。
悠真にとって、それは魔獣とはまったく異なる種類の恐怖だった。
「黒田って男」
英樹が腕を組みながら言った。
「あいつが今日来た連中のまとめ役だろうな」
「たぶん」
誠が頷く。
「少なくとも、今日の六人の中では一番上だろう」
「でも、黒牙のリーダーじゃないんだよね?」
美咲が不安そうに尋ねた。
「ああ」
悠真が答える。
「噂になっていた怪力の男じゃない。黒牙のリーダーは――」
「神崎蓮司……」
彩乃がその名前を口にした。
全員の視線が、彩乃へ集まる。
「知っているのか?」
誠が尋ねると、彩乃は慌てて首を振った。
「名前だけ! 私たちよりかなり年上だけど、この辺では有名だったから……」
「何で有名だったの?」
真由美が聞く。
「……喧嘩」
彩乃は少し考えてから答えた。
「暴走族とか、不良とか。そういう話」
「相当評判が悪かったのか?」
「ううん。悪い話だけじゃなかった気がする」
「悪い話だけじゃない?」
悠真が聞き返す。
「後輩の面倒見がいいとか、他の街の連中から地元の子を守ったとか、そういう話も聞いたことがある」
その言葉を聞いた瞬間、恒一の表情がわずかに変わった。
「……変わったのかもしれないな」
悠真が恒一を見る。
「何がですか?」
「その神崎という男は、力を手に入れて変わったのかもしれない」
恒一は、自分の右手へ視線を落とした。
◇
その言葉を、誰もすぐには否定できなかった。
恒一自身もまた、変化している。
魔犬に噛まれ、体内を魔素に侵食され、普通の人間にはない力を得た。
今は落ち着いている。
侵食も一時的に止まり、理性も失ってはいない。
それでも恒一は、ずっと恐れている。
いつか自分が、自分ではなくなるのではないかと。
「恒一」
由紀が心配そうに息子を見る。
「大丈夫よ」
「分かってる」
恒一は母親を安心させるように笑ってみせた。
「今すぐ、どうこうなるって話じゃない。ただ、考えておいた方がいい」
恒一は悠真たちを見回す。
「俺たちみたいな人間が、他にもいる。それだけじゃない。手に入れた力をどう使うかは、本人次第だ」
悠真は黙って頷いた。
「もし、その神崎って奴が本当に魔獣を狩れるほどの力を持っているなら、黒牙は普通の暴走族じゃない」
恒一の声が低くなる。
「警察が来ないから好き勝手にしているだけの連中でもない。能力者を中心にした、武装集団だと思った方がいい」
「武装集団……」
美咲が小さく呟く。
「ああ。銃を持っていなくても、人間離れした力を持っている奴がいるなら同じだ」
リビングの空気が一段と重くなった。
「それと、彩乃」
誠が話題を変えるように言った。
「さっき話していた、知っている子のことだ」
「……はい」
彩乃の表情が少し硬くなる。
「相沢直人。中学の同級生です」
「仲が良かったのか?」
「別に。ほとんど話したことはない」
「なら、どうして覚えている?」
英樹が尋ねる。
「目立ってたから……」
「悪い意味で?」
「……うん」
彩乃は少し困ったように眉を寄せた。
「遅刻、欠席、喧嘩。授業中は寝てるし、先生にもよく怒られてた」
「典型的だな」
英樹が苦笑する。
「でも、悪い奴じゃなかった」
彩乃がすぐに続けた。
その言葉に、また全員の視線が集まる。
「どういうこと?」
悠真が聞く。
「……分かんない。何となく」
「何となく?」
「うん。上手く説明できないけど」
彩乃は記憶を探るように目を伏せた。
相沢直人。
問題児。
不良。
教師から嫌われ、同級生からも距離を置かれていた少年。
それでも彩乃には、一つだけ忘れられない記憶があった。
◇
中学二年の冬。
放課後、校舎裏を通りかかった彩乃は、一人の男子生徒が数人の上級生に囲まれているのを見つけた。
囲まれていたのは下級生だった。
上級生たちは笑いながら、金を出せと迫っていた。
彩乃は考えるより先に声を上げていた。
『何してるの!』
上級生たちが一斉に振り返る。
『関係ねぇだろ』
『ある!』
『何でだよ』
『見たから』
『意味分かんねぇ』
『私も分かんない。でも、見たからには関係ある!』
自分でも滅茶苦茶な理屈だとは思った。
それでも彩乃は退かなかった。
その時、校舎の角から気怠そうな声が聞こえた。
『お前ら、何やってんの?』
相沢直人だった。
制服のシャツは外に出ていて、ネクタイは締めていない。頬には小さな傷があった。
直人の姿を見た瞬間、上級生たちの表情が変わった。
『直人には関係ねぇだろ』
『じゃあさ』
直人は退屈そうに欠伸をした。
『俺がそいつらを見てんのも、お前らには関係ねぇよな』
それだけだった。
直人が声を荒らげたわけでも、殴りかかったわけでもない。
だが、上級生たちは舌打ちをすると、その場を離れていった。
彩乃は直人を見る。
『助けてくれたの?』
『違う』
『じゃあ、何?』
『うるさかったから』
『嘘』
『うぜぇ』
『ありがとう』
『お前に言われる筋合いねぇよ』
直人はそれだけ言うと、歩き去った。
だが、彩乃は見ていた。
直人が去る直前、囲まれていた下級生の足元に落ちていた財布を拾い、黙って本人へ渡したことを。
◇
「そういう奴だった」
彩乃は言った。
「悪いこともいっぱいしてたと思う。喧嘩もしてた。でも、弱い奴を面白がっていじめるような奴じゃなかった」
彩乃の声が少し小さくなる。
「少なくとも……昔は」
昔は。
ならば今は、どうなのか。
それは分からない。
今日、直人は黒牙の一員として藤堂家を訪れた。
仲間たちは物資を見ていた。家を見ていた。美咲や彩乃を、嫌な目で眺めていた。
その中に、直人もいた。
「顔を隠したんだよな」
悠真が聞く。
「うん」
「どうしてだと思う?」
「分からない。でも、私に気づかれたくなかったんだと思う」
「後ろめたいからか」
英樹が言う。
「かもしれない」
「なら、まだ完全に黒牙側ってわけじゃないのかも」
悠真が口にすると、恒一が静かに名前を呼んだ。
「悠真」
その声に含まれた警告を察し、悠真は口を閉じる。
「……すみません」
「謝ることじゃない」
恒一は首を振った。
「お前の言う通り、本当に迷っているのかもしれない。だが、期待するな」
恒一の目が鋭くなる。
「期待して、違った時に死ぬのは、お前だけじゃない」
悠真はその言葉の重みを受け止め、ゆっくりと頷いた。
「はい」
◇
「彩乃」
誠が改めて娘を見る。
「その相沢という子と、勝手に接触するな」
「分かってる」
「向こうから来たとしても、一人では会うな」
「分かってるって」
「本当に?」
悠真が聞くと、彩乃が顔をしかめた。
「分かってる!」
「お前、こういう時に一人で行きそうだから」
「行かない!」
「絶対?」
「……」
「おい」
「行かないって!」
「今、間があったぞ」
「うるさい!」
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩んだ。
だが、誠の表情は真剣なままだった。
「冗談ではないぞ、彩乃」
「うん」
「昔の同級生だから大丈夫だ、とは考えるな」
「……うん」
「お前を疑っているんじゃない。相手も、状況も、昔とは変わっている」
「分かってる」
今度は彩乃も、真剣な顔で頷いた。
◇
その後、話し合いは具体的な対策へ移った。
「まず、物資を移動する」
誠がノートを開きながら言った。
「移動?」
美咲が聞き返す。
「ああ。外から見える場所に置きすぎた」
庭や軒下、物置の周辺には、ホームセンターから一度に運び込んだため、まだ整理しきれていない物資が残っている。
「今日中に、できる限り家の中か裏手へ移そう」
「ただ、全部隠すのも良くないかもしれないな」
英樹が口を挟んだ。
「全部隠したら、逆に何か持っていると思われないか?」
「どういうこと?」
真由美が尋ねる。
「大した物じゃない物資だけ、少し外から見える場所に置いておく。何もないように見せると、隠していると疑われるかもしれない」
誠が考え込む。
「なるほど。囮か」
「囮というほどじゃない。ただ、全部を同じ場所に置くのは危険だ」
悠真は二人の会話を聞きながら、不思議な気持ちになった。
数日前まで、食料は台所に置くものだった。
水は蛇口から出るものだった。
日用品は、なくなれば店へ買いに行くものだった。
今は、それらをどこへ隠すのか、誰にどこまで見せるのか、奪われた時にどうするのかを真剣に考えている。
「見張りのやり方も変えた方がいい」
恒一が言った。
「どう変える?」
誠が尋ねる。
「時間を固定しない。毎日同じ時間に交代していたら、外から観察された時に見張りの薄い時間が分かる」
「交代時間をずらすのか」
「ああ。毎日少しずつ変える。それと、見張りが一人だけだと思わせない方がいい」
「どうするの?」
美咲が聞く。
「時々、別の人間も庭へ出る。常に複数の人間が動いているように見せるんだ」
英樹が頷いた。
「いいな」
「もう一つ」
恒一は女性陣を見た。
「女性だけでは外に出ない方がいい」
美咲の表情が曇る。
「……私たち、そんなに危ない?」
誰もすぐには答えなかった。
だが、誠は誤魔化さなかった。
「ああ」
美咲が小さく息を呑む。
「今日、あいつらがどういう目でお前たちを見ていたか、俺たちも見ていた」
英樹の声が低くなる。
「だから、しばらく一人では絶対に外へ出るな」
「分かった」
美咲が答える。
「彩乃もだぞ」
「分かってる」
「本当に?」
「お兄ちゃん、しつこい」
「お前はしつこく言わないと聞かないからだ」
「聞くよ!」
「聞かない」
「聞く!」
「昔、台風の日に川を見に行こうとしただろ」
「小学生の時じゃん!」
「お前は今でもやる」
「やらない!」
また少しだけ、笑いが起きた。
今度は彩乃自身も笑っていた。
◇
午後になると、藤堂家は再び動き始めた。
外から見える物資を、家の中や裏手へ移す。
食料は一か所にまとめず、台所、押し入れ、二階、床下収納へ分散した。朝倉家から持ち込んだ物も、すべて同じ場所には置かない。
「これ、どこに置く?」
缶詰を抱えた美咲が尋ねる。
「二階」
悠真が答える。
「また?」
「うん」
「もう何往復目?」
「知らない」
「疲れたー」
「俺もー」
「休む?」
「父さんに見つからないように?」
「五分だけ」
「賛成」
二人がこっそり階段へ向かおうとした時、背後から誠の声が飛んだ。
「悠真」
「はい」
「次は米だ」
「……はい」
美咲が必死に笑いを堪えている。
「お前もだぞ」
今度は英樹が言った。
「……はい」
美咲が肩を落とし、今度は悠真が笑った。
◇
夕方になり、作業はようやく一段落した。
庭の畑には、まだ植えたばかりの種しかなく、地面から芽は出ていない。
「本当に生えてくるのかな」
彩乃が畑の前にしゃがみ込んだ。
「ちゃんと育てれば生えてくるだろ」
悠真が答える。
「どのくらいで?」
「袋を見ろ」
「またそれー」
「書いてあるんだから仕方ないだろ」
「冷たい」
「お前が読まないだけだ」
彩乃は頬を膨らませながら、畑の土を見つめた。
「でも、食べられるようになるまで結構かかるよね」
「うん」
「その前に、今ある食べ物がなくなったらどうするの?」
悠真はすぐに答えられなかった。
今のところ備蓄はある。
藤堂家と朝倉家、二家族分の食料。
ホームセンターから入手した物資もある。
すぐに飢えるわけではない。
だが、八人が毎日食べれば、確実に減っていく。
水も必要だ。
飲料だけではない。料理、洗濯、トイレ。人間が生活するために必要な水の量は、悠真が想像していたよりもはるかに多かった。
「……考えないとな」
悠真が言った。
「食料?」
「それも。水もだ」
もし、このままずっと水道が止まったままなら、今あるポリタンクだけでは足りない。
「お兄ちゃん」
「何?」
「この先、もっと人が増えたら……もっと足りなくなるよね」
悠真は妹を見る。
「どうして増えると思うんだ?」
「分かんない」
彩乃は困ったように笑った。
「でも、何となく。この家、そうなる気がする」
「どういう意味?」
「困ってる人が来たら、父さんもお兄ちゃんも、追い返せないでしょ」
悠真は否定できなかった。
「彩乃は追い返せるのか?」
「私?」
「ああ」
「……無理」
「だろ」
「うん」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
◇
その夜、悠真は見張り台にいた。
新しく決めた時間割に従い、今日は予定より三十分早く見張りに入っている。
住宅街は暗い。
時折、遠くに懐中電灯の光が見えた。
誰かが生きている。
誰かが歩いている。
誰かが困っている。
そう思う。
だが、その誰かが善人とは限らない。
黒牙の一員かもしれない。
物資を狙っているかもしれない。
家族を傷つけようとしているかもしれない。
「……難しいな」
悠真は小さく呟いた。
「何が?」
「うわっ!」
声に驚いて振り返ると、美咲が立っていた。
「びっくりした」
「ごめん」
「いつ来たの?」
「今」
「音した?」
「したよ。悠真がぼーっとしてただけ」
「……そう」
美咲が隣に座る。
「黒牙のこと?」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
悠真は素直に答えた。
「魔獣より?」
「種類が違う怖さかな」
「そっか」
「美咲は怖くないの?」
「怖いよ」
美咲は即答した。
「今日、あの人たちに見られて……すごく気持ち悪かった」
悠真の手に、無意識に力が入る。
「でも、悠真たちがいたから大丈夫だった」
「……」
「だから、次も守ってね」
悠真は美咲を見る。
暗闇の中では、表情まではよく見えない。
それでも、彼女の声がわずかに震えているのは分かった。
「うん」
悠真は答えた。
「守る」
その言葉が、以前よりもずっと重く感じられた。
◇
その時、遠くで金属の転がる音がした。
カラン――。
悠真と美咲が同時に顔を上げる。
「今の、聞こえた?」
「うん」
悠真は立ち上がった。
門の方ではない。
家の裏手、住宅街側からだ。
再び、カラン、と音が鳴る。
誰かがいる。
「美咲、家に入って」
「うん」
美咲がすぐに立ち上がる。
悠真は左腕へ意識を集中させながら、暗闇に目を凝らした。
人影が一つ、こちらへ近づいてくる。
足を引きずり、今にも倒れそうな歩き方だった。
「誰だ……?」
やがて、か細い女の声が届いた。
「……すみません」
人影がよろめく。
「誰か……誰か、助けてください!」
悠真の身体が強張った。
黒牙。
罠。
その可能性が、真っ先に頭をよぎる。
同時に、恒一の言葉も蘇った。
信じたい相手と、守るべき相手を間違えるな。
暗闇の中で、人影が地面へ崩れ落ちる。
「お願い……」
かすかな声が聞こえた。
「子供が……」
悠真は左腕を強く握った。
助けるのか。
疑うのか。
今、選ばなければならない。
世界が変わってから初めて、藤堂家の外から、本当の意味で助けを求める声が届いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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