第28話 人間の脅威
自衛隊が首都圏各地で未知の魔獣と交戦していたことなど、藤堂家の誰も知らなかった。
ただ、町の中にも少しずつ情報は流れ始めていた。
それはラジオのような確かな情報ではない。
近所の誰かが見た。
誰かから聞いた。
避難所へ向かった人が戻ってきて話していた。
そんな、噂と呼ぶには重く、事実と呼ぶには曖昧な話だった。
◇
昼前。
藤堂誠は近所の情報交換から戻ってきた。
玄関へ入ってきた時点で、その表情は硬かった。
「父さん?」
悠真が声を掛ける。
誠は靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。
「皆を集めてくれ。」
その一言で、リビングの空気が変わった。
数分後。
藤堂家と朝倉家の面々がリビングに集まった。
恒一もソファに座っている。
体調は昨日より良い。
だが、まだ本調子ではないため、真由美から無理をしないよう釘を刺されていた。
誠はテーブルに地図を広げる。
「町の外れに廃工場があるだろう。」
英樹が頷く。
「国道へ出る途中の、あそこか。」
「ああ。」
誠は地図上の一点を指差した。
「そこを拠点にしている集団があるらしい。」
悠真はその言葉に嫌な予感を覚えた。
「集団?」
「黒牙。」
その名前が出た瞬間、彩乃の眉が動いた。
「聞いたことある。」
「暴走族だよね?」
誠は頷いた。
「昔からこの辺りで名前は聞いたことがあった。」
「ただ、今はただの暴走族では済まなくなっているらしい。」
◇
誠が聞いてきた話は、断片的だった。
黒牙は街外れの廃工場を拠点にしている。
停電と通信障害の後、コンビニやドラッグストア、ガソリンスタンドから物資を集め始めた。
最初は、避難している人や子どもにも食料を分けていたらしい。
だが、数日前から様子が変わった。
物資を奪う。
燃料を押さえる。
通りかかった車を止める。
女や若い人間を見れば声を掛ける。
従わない者には暴力を振るう。
そんな話が、あちこちから出始めていた。
「警察は?」
真由美が聞いた。
誠は首を横に振る。
「動こうとはしているらしい。」
「でも、手が足りない。」
英樹が腕を組む。
「魔獣か。」
「ああ。」
誠は苦い顔で頷いた。
「魔獣の出没。」
「避難所の混乱。」
「東京方面の治安維持。」
「県境の交通規制。」
「それに通信障害。」
「県警も対応しきれていないらしい。」
由紀が不安そうに口元を押さえる。
「そんな……。」
彩乃が低く呟く。
「つまり、警察はすぐには来ないってこと?」
「そういうことだ。」
誠の答えは重かった。
◇
「それだけじゃない。」
誠は続けた。
「黒牙のリーダーの男について、妙な噂がある。」
悠真は無意識に背筋を伸ばした。
「妙な噂?」
「異常な怪力らしい。」
リビングが静まり返る。
「怪力?」
「素手で車のドアを曲げたとか。」
「魔獣を殴り殺したとか。」
「大きな熊の魔獣と戦って生き残ったとか。」
「どこまで本当かは分からない。」
誠は慎重に言った。
「ただ、同じような話を複数人がしていた。」
悠真は恒一を見た。
恒一も悠真を見ていた。
二人だけが、同じことを考えていた。
自分たちだけではない。
能力を得た人間が、他にもいる。
しかも、その人間が善良だとは限らない。
◇
「……能力者。」
悠真が小さく呟いた。
美咲がこちらを見る。
「悠真?」
「俺や恒一さんみたいな人が、他にもいるってことだと思う。」
彩乃が息を呑む。
「でも、その人は黒牙のリーダーなんでしょ?」
「たぶん。」
「じゃあ、危ないじゃん。」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
能力は力だ。
力そのものに善悪はない。
けれど、それを持つ人間がどう使うかで意味は変わる。
悠真の《鑑定》は家族を守るために使える。
恒一の身体能力も、皆を守る力になるかもしれない。
だが、同じような力を持った人間が、物資を奪い、暴力で人を従わせるなら。
それは魔獣と同じくらい危険だった。
いや。
それ以上かもしれない。
魔獣は本能で動く。
だが人間は考える。
欲しがる。
奪う理由を作る。
正当化する。
◇
悠真は黙って拳を握った。
「でも……。」
思わず声が出た。
「でも、噂ですよね。」
全員が悠真を見る。
「本当に全部が本当か分からない。」
「最初は人を助けてたって話もある。」
「なら、まだ……。」
言いながら、悠真自身も分かっていた。
自分が何を言いたいのか。
信じたいのだ。
世界が壊れ始めても、人間まで完全に壊れたわけではないと。
力を持った人間が、皆悪くなるわけではないと。
まだ話し合える余地があるのだと。
そう思いたかった。
「悠真。」
声を掛けたのは恒一だった。
その声は穏やかだったが、どこか重かった。
「人を信じたいと思うのは、悪いことじゃない。」
「……はい。」
「俺も、できるならそうしたい。」
恒一は自分の手を見る。
昨日、角材を片手で持ち上げた手。
自分でも恐ろしくなるほどの力を宿した手。
「でもな。」
恒一は続けた。
「力を持った人間が、必ず正しく使うとは限らない。」
悠真は何も言えなかった。
「俺だってそうだ。」
「今はこうして普通に話せてる。」
「でも、いつか自分を抑えられなくなるかもしれない。」
「そんなこと……。」
「ないって言い切れるか?」
悠真は言葉を失った。
言い切れない。
だから毎日、鑑定している。
だから恒一自身も恐れている。
「人を信じるなとは言わない。」
恒一は静かに言った。
「でも、信じたい相手と、守るべき相手を間違えるな。」
その言葉が、悠真の胸に深く刺さった。
◇
守るべき相手。
悠真はリビングを見回した。
父、誠。
母、真由美。
妹、彩乃。
幼馴染の美咲。
朝倉家の英樹、由紀。
そして恒一。
ここにいる人たち。
今、自分が守らなければならない人たち。
善性を信じることと、無防備でいることは違う。
助けたいと思うことと、家族を危険に晒すことは違う。
その当たり前のことを、悠真はようやく受け止め始めていた。
「……分かりました。」
悠真は小さく頷いた。
「黒牙を敵だと決めつけるつもりはありません。」
「でも。」
顔を上げる。
「警戒はします。」
「もし近付いてきたら、家族を守ることを最優先にします。」
恒一は少しだけ笑った。
「それでいい。」
◇
誠は地図へ視線を戻した。
「これからの方針を決めよう。」
皆が姿勢を正す。
「まず、黒牙の拠点には近付かない。」
「廃工場方面への移動は禁止。」
英樹が頷く。
「資材置き場もあっち方面は避けた方がいいな。」
「次に。」
誠は続ける。
「外出は必ず二人以上。」
「できれば三人。」
「悠真の鑑定、恒一君の護衛、そして大人の判断役。」
彩乃が手を挙げた。
「私も戦える。」
「まだ戦うとは言ってない。」
誠が苦笑する。
「でも、ちゃんと戦力として考えている。」
「分かった。」
彩乃は少しだけ嬉しそうだった。
真由美は不安そうに見ていたが、何も言わなかった。
娘を危険に出したくない。
だが、今の世界では、力のある者が何もせずにいることも難しい。
それもまた、現実だった。
「見張りも強化しよう。」
誠は言った。
「黒牙だけじゃない。」
「物資を持っている家は狙われる可能性がある。」
由紀が小さく呟く。
「人間が怖いなんて……。」
英樹が苦い顔をした。
「人間だから怖いんだよ。」
◇
その日の午後。
拠点強化は、人間対策を意識したものへ変わった。
門の内側に、さらに横木を一本追加する。
玄関の内側には、すぐに動かせる棚を置いた。
窓には、外から中が見えないよう布を張る。
ただし、内側からは外を確認できるよう、細い隙間を残した。
見張り台のノートには、新しい項目が加わった。
【人影】
【車両】
【バイク音】
【黒牙らしき集団】
悠真はその文字を見つめる。
黒牙。
まだ会ったこともない相手。
だが、すでにその名前は、藤堂家の中に重く入り込んでいた。
◇
夕方。
悠真は庭で薪を整理していた。
隣では恒一が座っている。
作業をしているわけではない。
真由美から、今日は見ているだけと言われている。
それでも、外の空気を吸いたいと言って庭に出ていた。
「悠真。」
「はい。」
「迷ってるか。」
「……少し。」
「黒牙のことか。」
「はい。」
悠真は薪を積みながら答えた。
「俺、まだどこかで思ってるんです。」
「話せば分かるんじゃないかって。」
「そう思えるのは、お前の良いところだ。」
恒一は言った。
「でも、良いところだからこそ、弱点にもなる。」
「……。」
「お前は、相手の事情を考える。」
「相手にも理由があるんじゃないかって思う。」
「それは間違ってない。」
「ただ。」
恒一は藤堂家の建物を見た。
「相手の事情で、美咲や彩乃が傷つけられていい理由にはならない。」
悠真の手が止まる。
「俺たちは、まずここを守る。」
「家族を守る。」
「友人を守る。」
「知っている人を守る。」
「その上で、助けられる相手を助ける。」
「順番を間違えるな。」
悠真は、ゆっくりと頷いた。
「はい。」
恒一は少し笑った。
「説教臭いな。」
「いえ。」
「兄貴みたいで助かります。」
「みたいじゃなくて、昔から兄貴分だろ。」
「自分で言います?」
「言う。」
二人は小さく笑った。
◇
その時だった。
遠くから、微かな音が聞こえた。
ブォン……。
ブォン……。
バイクの音。
悠真と恒一の表情が同時に変わる。
音はまだ遠い。
だが、確かに聞こえる。
一台ではない。
複数。
住宅街の向こう側を、ゆっくりと走っている。
悠真は左腕へ意識を向けた。
鑑定はまだ反応しない。
距離がある。
だが、嫌な予感だけはあった。
「……黒牙?」
悠真が呟く。
恒一は立ち上がろうとして、すぐに体勢を崩しかけた。
「無理しないでください。」
「分かってる。」
恒一は悔しそうに息を吐く。
「皆を呼べ。」
「はい。」
悠真は家の中へ向かった。
バイク音は、しばらく住宅街の外側を回るように続いていた。
近付いては来ない。
だが、離れもしない。
まるで、誰かがこの一帯を品定めしているようだった。
その音を聞きながら、悠真は思った。
魔獣だけではない。
停電でも、断水でも、物流停止でもない。
この世界で本当に恐ろしいものは。
人間の欲望かもしれない。
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