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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

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29/69

間話 災害ではない



「撃て!」


 号令と同時に。


 乾いた銃声が連続して響いた。


 タタタタタタッ――!


 道路を埋め尽くすほどの発砲音。


 薬莢がアスファルトの上を跳ねる。


 耳を塞ぎたくなるほどの轟音。


 それでも。


「止まらない!」


 誰かが叫んだ。


「止まらんぞ!」


「撃ち続けろ!」


「射線に入るな!」


「撃て!」


 再び。


 銃声。


 高橋健吾三等陸曹は。


 小銃の照準器の向こうにいる化け物を見ながら。


 自分の目を。


 疑っていた。


 猪だった。


 少なくとも。


 見た目は。


 猪だった。


 だが。


「こんなの……。」


 高橋の口から。


 声が漏れた。


「猪じゃないだろ……!」


 体長。


 三メートルを超えている。


 いや。


 もっとあるかもしれない。


 高橋の目には。


 軽自動車ほどの大きさに見えた。


 肩の高さだけで。


 成人男性の胸元近くまである。


 異常に発達した筋肉。


 黒く。


 硬そうな体毛。


 口元から伸びる牙は。


 まるで。


 巨大な刃物だった。


 その身体に。


 何発もの弾丸が命中している。


 血も出ている。


 効いていないわけではない。


 だが。


 止まらない。


「グォォォォォォッ!!」


 咆哮。


 猪とは思えない声。


 高橋の背中に。


 冷たい汗が流れた。


「来るぞ!」


「散開!」


 巨大な猪が。


 地面を蹴った。


 ドンッ!


 アスファルトが。


 砕けた。


「速い!」


 高橋は。


 反射的に横へ飛んだ。


 数秒前まで。


 自分がいた場所を。


 巨大な黒い塊が通過する。


 直後。


 ガシャァァァン!!


 大きな音。


 振り返る。


 道路脇に放置されていた軽自動車。


 その側面に。


 猪が激突していた。


 車体が。


 浮いた。


「……嘘だろ。」


 高橋は。


 その光景を見た。


 軽自動車が。


 横倒しになる。


 ガラスが割れる。


 警報音が鳴り始める。


 ピーピーピーピー。


 その音に。


 猪が反応した。


「グルルルル……。」


 車を見る。


 次の瞬間。


 牙を。


 車体へ突き立てた。


 金属が。


 ひしゃげる。


「おい。」


 高橋の隣で。


 若い隊員が呟いた。


「マジかよ……。」


「喋るな!」


 怒声が飛ぶ。


「次が来るぞ!」


 猪が。


 こちらを向いた。


 血走った目。


 荒い呼吸。


 口元から。


 泡のような唾液が垂れている。


 身体中から血を流している。


 それでも。


 逃げない。


 高橋は。


 何度も。


 同じ疑問を抱いていた。


 なぜ。


 逃げない。


 銃声。


 負傷。


 仲間。


 いや。


 仲間はいない。


 一頭だけ。


 それでも。


 普通の動物なら。


 逃げるのではないか。


 痛みを感じないのか。


 恐怖はないのか。


「来るぞ!」


 猪が。


 再び地面を蹴った。


「撃て!」


 銃声。


 何発。


 撃ったのか。


 もう分からない。


 照準を合わせる。


 引き金を引く。


 また合わせる。


 撃つ。


 撃つ。


 撃つ。


「頭を狙え!」


「無理です!」


「速すぎる!」


「脚だ!」


「脚を潰せ!」


 弾丸が。


 猪の前脚へ命中する。


 血が飛ぶ。


 だが。


 速度は落ちない。


「退避!」


 誰かが叫んだ。


 間に合わない。


 高橋は。


 そう思った。


 巨大な牙。


 迫ってくる。


 その時。


 道路の反対側から。


 別の銃声が響いた。


 今までとは違う。


 低く。


 重い。


 連続した音。


 ダダダダダダダダッ――!


 猪の身体が。


 揺れた。


 初めて。


 明確に。


 速度が落ちる。


「機関銃班!」


「射撃継続!」


 ダダダダダダッ!


 肉が裂ける。


 血が飛ぶ。


 猪が。


 よろめいた。


「グォォォォォォッ!」


 それでも。


 まだ。


 倒れない。


「何でだよ!」


 若い隊員が叫ぶ。


「何で死なねぇんだ!」


「撃て!」


「止めろ!」


「撃てぇ!」


 銃声。


 銃声。


 銃声。


 やがて。


 猪の巨体が。


 傾いた。


 前脚が。


 折れるように崩れる。


 そして。


 ズンッ。


 地面が。


 揺れた。


「……。」


 誰も。


 すぐには動かなかった。


 煙。


 火薬の臭い。


 血の臭い。


 鳴り続ける車の警報音。


 隊員たちは。


 倒れた巨大な猪を。


 見つめていた。


「……死んだのか。」


 誰かが呟いた。


「近付くな!」


 怒声。


「まだ確認するな!」


「距離を取れ!」


 高橋は。


 小銃を構えたまま。


 息を吐いた。


 手が。


 震えていた。


「……何なんだよ。」


 誰にも聞こえないほどの声で。


 呟く。


「これ。」



 数日前。


 高橋たちの部隊に下された命令は。


 災害派遣だった。


 首都圏で。


 大規模な通信障害。


 停電。


 交通網の麻痺。


 原因不明の動物被害。


 各地での混乱。


 避難支援。


 行方不明者の捜索。


 治安維持の補助。


 道路の確保。


 高橋は。


 地震かと思った。


 あるいは。


 大規模なテロ。


 最悪。


 何らかの攻撃を受けたのかもしれない。


 だが。


 現地へ近付くにつれて。


 どの予想も。


 間違っていると分かった。


 道路には。


 放置された車。


 事故車。


 血痕。


 壊された家。


 引き裂かれた金網。


 そして。


 動物に襲われたとしか思えない遺体。


 最初。


 上からの連絡では。


 こう呼ばれていた。


 ――未確認大型危険生物。


 現場では。


 誰も。


 そんな呼び方をしていなかった。


「魔獣。」


 誰かが。


 そう呼び始めた。


 ネットで使われていた言葉らしい。


 最初は。


 皆。


 笑った。


『ゲームじゃねぇんだから。』


『魔獣って。』


『ただの大型動物だろ。』


 だが。


 今。


 笑う者は。


 一人もいなかった。



「負傷者は!」


「二名!」


「一名は転倒!」


「もう一名は?」


「牙でやられてます!」


「衛生!」


「早く!」


 現場が。


 動き始める。


 高橋も。


 倒れた猪から視線を外した。


「三曹!」


「高橋三曹!」


「何だ!」


「佐藤が!」


 高橋は走った。


 道路脇。


 一人の隊員が倒れている。


 若い。


 二十二歳。


 確か。


 入隊して。


 三年目。


「佐藤!」


「聞こえるか!」


「……はい。」


 返事。


 意識はある。


「動くな。」


「大丈夫です。」


「大丈夫な奴が倒れてるか。」


「でも。」


「黙ってろ。」


 防弾チョッキ。


 その下。


 脇腹。


 血が滲んでいる。


「衛生!」


「こっちだ!」


 高橋は。


 声を上げた。


 そして。


 自分の手を見る。


 血。


 佐藤の血だった。


 その時。


 高橋は。


 急に。


 怒りを感じた。


 何に対してなのか。


 分からない。


 猪か。


 状況か。


 命令か。


 世界か。


 ただ。


 数日前まで。


 佐藤は。


 食堂で。


 くだらない話をしていた。


 休暇になったら。


 彼女と旅行へ行く。


 そんな話をしていた。


 それが。


 今。


 訳の分からない化け物に。


 殺されかけている。


「……ふざけんなよ。」


 高橋は。


 小さく呟いた。



 戦闘から。


 一時間後。


 巨大な猪の死体の周囲には。


 立入禁止の範囲が作られていた。


 上からの指示だった。


 死体に。


 不用意に触れるな。


 体液との接触を避けろ。


 採取は。


 専門部隊が行う。


 高橋は。


 少し離れた場所で。


 水を飲んでいた。


 口の中が。


 火薬臭い。


「……でけぇな。」


 隣で。


 若い隊員が言った。


「三曹。」


「何だ。」


「やっぱ。」


「あれ。」


「猪なんですかね。」


 高橋は。


 答えなかった。


 分からない。


 見た目は。


 猪だ。


 だが。


 知っている猪とは。


 あまりにも違う。


「猪じゃねぇよ。」


 後ろから。


 低い声がした。


 二人が振り返る。


 一人の男が立っていた。


「村上一曹。」


 村上義明一等陸曹。


 四十二歳。


 高橋より。


 十年以上先輩。


 日に焼けた顔。


 無口。


 必要なことしか喋らない。


 若い隊員からは。


 少し怖がられている。


 だが。


 高橋は知っていた。


 面倒見のいい男だ。


 そして。


 村上には。


 もう一つ。


 部隊内で知られている顔があった。


 猟師。


 休日には。


 地元の猟友会に参加している。


 狩猟歴。


 十五年以上。


 猪。


 鹿。


 地域によっては。


 熊の駆除にも参加した経験がある。


「一曹。」


 若い隊員が。


 倒れた巨大な生物を見る。


「でも。」


「どう見ても猪ですよ。」


「見た目はな。」


 村上は答えた。


「あれは。」


「普通の猪じゃない。」


 高橋は。


 村上を見る。


 その顔は。


 冗談を言っていなかった。


「大きさですか。」


「ああ。」


 村上は。


 猪の死体を見る。


「猪ってのは。」


「でかい。」


「実物を間近で見たことがない奴は。」


「驚くくらいでかい個体もいる。」


「特に山で会えば。」


「数字以上に大きく見える。」


「怖い。」


 村上は。


 少し間を置く。


「だが。」


「あれは違う。」


 死体を指差す。


「大きすぎる。」


「身体の作りもおかしい。」


「筋肉。」


「骨格。」


「牙。」


「全部だ。」


 高橋は。


 黙って聞く。


「それに。」


 村上が言う。


「お前ら。」


「犬みたいな奴も見ただろ。」


「はい。」


 高橋は頷いた。


 三日前。


 遠くからだった。


 住宅街を。


 数頭で走る。


 大型犬のような生物。


 だが。


 普通の犬より。


 明らかに大きかった。


「あんな大きさの犬は。」


「存在しない。」


「熊もだ。」


 村上の声が。


 少し低くなる。


「例の映像。」


「見ただろ。」


 高橋の表情が。


 強張った。


「……はい。」


 忘れられるはずがない。


 ドローンが撮影した。


 巨大な黒い影。


 住宅街を歩く。


 熊。


 そうとしか見えない。


 だが。


 体長は。


 十メートル近いと推定されている。


 道路に放置された車を。


 玩具のように踏み潰す。


 電柱に身体をぶつけ。


 傾かせる。


 そして。


 ドローンに気付いた瞬間。


 こちらを見た。


 高橋は。


 映像越しなのに。


 目が合ったような気がした。


「あんな大きさの熊も。」


 村上は言う。


「存在しない。」


「少なくとも。」


「俺たちが知っている生き物じゃない。」


 若い隊員が。


 少し笑おうとした。


「じゃあ。」


「本当に魔獣ですか。」


 村上は。


 笑わなかった。


「名前なんかどうでもいい。」


「魔獣でも。」


「怪物でも。」


「未確認大型危険生物でも。」


「好きに呼べ。」


 そして。


 猪の死体を見る。


「問題は。」


「あれを。」


「普通の野生動物だと思うなってことだ。」



「でも。」


 高橋が聞いた。


「一曹。」


「大きさ以外は。」


「猪なんですよね。」


「違う。」


 村上は。


 即答した。


「何がですか。」


「行動だ。」


「行動?」


「野生動物は。」


 村上が言う。


「人間を見れば。」


「何でも襲うわけじゃない。」


 その声は。


 いつもの。


 隊員に指示を出す声ではなかった。


 猟師の声だった。


 実際に。


 山へ入り。


 野生動物を見てきた人間の声。


「基本的には。」


「人間を避ける。」


「逃げる。」


「もちろん。」


「例外はある。」


「追い詰めれば襲う。」


「子供を守るために襲う。」


「手負いなら。」


「危険だ。」


「腹を減らして。」


「人里へ降りることもある。」


「熊なら。」


「人間を襲う個体もいる。」


 村上は。


 そこで。


 高橋を見る。


「だが。」


「あいつらは違う。」


「違う?」


「お前。」


「さっきの猪。」


「見てただろ。」


「……はい。」


「何発撃たれた。」


「分かりません。」


「俺も分からん。」


 村上は。


 静かに言った。


「それでも。」


「逃げなかった。」


 高橋は。


 何も言わない。


「普通の動物なら。」


「銃声を恐れる。」


「仲間が死ねば逃げる。」


「傷を負えば。」


「逃げようとする。」


「だが。」


「あいつは。」


 村上の目が。


 細くなる。


「俺たちを見ていた。」


「……。」


「食い物を見る目じゃない。」


「縄張りから追い出そうとする目でもない。」


「怯えてもいない。」


「怒ってるだけでもない。」


 村上は。


 少し。


 言葉を探した。


「一曹。」


「何です。」


「あれは。」


「俺たちを。」


 村上は。


 猪の死体を見た。


「殺すために襲ってきてる。」


 高橋の背中に。


 冷たいものが走った。


「……殺すため。」


「ああ。」


「食べるためじゃないんですか。」


「少なくとも。」


「それだけじゃない。」


 村上は言った。


「犬型もそうだ。」


「野犬の群れは。」


「獲物を囲むことがある。」


「追い込むこともある。」


「だが。」


「銃声がして。」


「仲間が死んで。」


「それでも。」


「撃った人間だけを狙って突っ込んでくるか?」


 高橋は。


 三日前を思い出す。


 一頭。


 撃たれた。


 倒れた。


 すると。


 残った魔犬たちは。


 逃げなかった。


 撃った隊員を。


 見た。


 そして。


 一斉に。


 その隊員だけを狙った。


「……まさか。」


 高橋が呟く。


「分かってるってことですか。」


「何を。」


「誰が撃ったのか。」


 村上は。


 答えなかった。


 その沈黙が。


 何よりも。


 怖かった。



 夕方。


 部隊の指揮所。


 無線が。


 絶えず鳴っていた。


『こちら第三班!』


『道路上に放置車両多数!』


『通行不能!』


『迂回路を確認する!』


 別の無線。


『避難民約百五十名!』


『水が不足している!』


『給水支援を要請!』


 別の声。


『通信状態が悪い!』


『繰り返せ!』


『聞こえない!』


『――大型――確認――』


『座標――』


 雑音。


 途切れる。


「クソ。」


 通信員が。


 ヘッドセットを押さえる。


「まただ。」


 電波障害。


 突然。


 起きる。


 数分で戻る時もある。


 数時間。


 使えなくなる時もある。


 原因は。


 分からない。


「電話は?」


「駄目です。」


「衛星は。」


「不安定です。」


「無線もこれか。」


 指揮官が。


 顔をしかめる。


 高橋は。


 壁際に立ちながら。


 その様子を見ていた。


 情報が。


 足りない。


 何が起きているのか。


 誰も。


 全体を把握できていない。


 東京。


 埼玉。


 千葉。


 神奈川。


 首都圏を中心に。


 被害が集中している。


 他の地域でも。


 同じような報告はある。


 だが。


 数が違う。


 規模が違う。


 何より。


 首都圏では。


 魔獣。


 停電。


 物流停止。


 通信障害。


 交通麻痺。


 避難民。


 犯罪。


 すべてが。


 同時に起きている。


「戦力が足りない。」


 誰かが言った。


「人はいる。」


 別の者が答える。


「だが。」


「運べない。」


 道路。


 塞がれている。


 高速道路。


 事故車。


 放置車両。


 避難民。


 崩落。


 大型車両が。


 通れない場所も多い。


 燃料も。


 無限ではない。


 弾薬も。


 無限ではない。


 自衛隊には。


 魔獣を倒す火力がある。


 だが。


 必要な場所へ。


 必要な戦力を。


 届けられない。


 そして。


 被害は。


 一ヶ所ではなかった。



「高橋三曹。」


「はい。」


 呼ばれる。


「これを見ろ。」


 タブレット端末。


 映像。


 高橋は。


 画面を覗き込んだ。


 上空から。


 住宅街を撮影している。


「……。」


 巨大な。


 黒い影。


「また。」


「熊ですか。」


「ああ。」


 体長。


 推定。


 九・六メートル。


 四足歩行。


 異常な筋肉量。


 銃撃による損傷。


 確認できず。


 攻撃性。


 極めて高い。


 画面の端に。


 文字が表示されている。


 そして。


 赤い文字。


【接触禁止】


【発見時、即時報告】


【普通科部隊による交戦を禁止】


「……これ。」


 高橋が聞く。


「倒せるんですか。」


 指揮官は。


 少し黙った。


「倒せる。」


 その答えに。


 高橋は。


 少しだけ安心した。


「本当ですか。」


「ああ。」


「必要な火力を。」


「必要な位置へ。」


「準備できればな。」


 高橋は。


 もう一度。


 映像を見る。


 戦車。


 大口径火器。


 対戦車火器。


 重火器。


 そういうものを。


 準備できれば。


 勝てる。


 だが。


「準備できなかったら。」


 高橋が聞く。


「逃げろ。」


 指揮官は。


 即答した。


「普通科の小銃で。」


「あれと戦うな。」


「発見したら。」


「住民を逃がせ。」


「位置を報告しろ。」


「生き残れ。」


 画面の中で。


 巨大な熊が。


 道路を歩いている。


 放置された乗用車。


 前脚。


 踏みつける。


 車体が。


 潰れた。


 高橋は。


 何も言えなかった。



 夜。


 高橋は。


 装備の点検をしていた。


 今日。


 何発撃った。


 思い出せない。


 弾薬の消費。


 報告。


 装備確認。


 明日の任務。


 眠い。


 身体が重い。


 それでも。


 眠れない。


「パパ。」


 娘の声が。


 頭に浮かぶ。


 三歳。


 出発前。


 泣いていた。


『パパ、お仕事?』


『そうだよ。』


『いつ帰る?』


『すぐ帰るよ。』


 嘘をついた。


 いや。


 その時は。


 嘘になると思っていなかった。


 災害派遣。


 何度も経験した。


 大変だ。


 危険もある。


 それでも。


 終わりはある。


 地震なら。


 余震はある。


 だが。


 いつか収まる。


 台風なら。


 いつか過ぎ去る。


 火災なら。


 消火できる。


 洪水なら。


 水は引く。


 でも。


 これは。


 何だ。


 いつ。


 終わる。


「三曹。」


 声。


 顔を上げる。


 若い隊員。


「何だ。」


「聞きました?」


「何を。」


「噂です。」


「また魔獣か。」


「違います。」


 隊員が。


 周囲を見る。


 声を小さくする。


「人間です。」


「人間?」


「別の部隊で。」


「変な奴が出たって。」


 高橋は。


 顔をしかめる。


「暴動か。」


「違います。」


「じゃあ何だ。」


「負傷した隊員。」


「魔獣に襲われたらしいんですけど。」


「……。」


「その後。」


「傷が。」


「すぐ塞がったって。」


 高橋は。


 隊員を見る。


「何言ってる。」


「俺も。」


「嘘だと思ってます。」


「でも。」


「他にもあるらしいです。」


「素手で。」


「車のドアを曲げた奴。」


「何十メートルも跳んだ奴。」


「火を出した奴がいるって話も。」


「馬鹿馬鹿しい。」


 高橋は。


 そう言った。


 だが。


 声に。


 力がなかった。


 数日前なら。


 笑っていた。


 そんなもの。


 漫画か。


 ゲームだと。


 でも。


 今日。


 体長三メートルを超える猪と戦った。


 数日前。


 巨大な犬を見た。


 十メートル近い熊の映像を見た。


 今さら。


 何を。


 馬鹿馬鹿しいと言える。


「その話。」


「どこで聞いた。」


「すみません。」


「それは言えないです。」


「お前。」


「でも。」


 若い隊員は。


 真剣だった。


「本当らしいです。」


 高橋は。


 何も答えなかった。


 その時。


「高橋三曹。」


 別の隊員が。


 走ってきた。


「何だ。」


「指揮所へ。」


「今ですか。」


「今です。」


「命令が来ました。」


「何の。」


 隊員が。


 少しだけ。


 言葉に詰まる。


「特殊事案です。」



 指揮所。


 数人の隊員。


 高橋。


 村上。


 指揮官。


 机の上。


 一枚の資料。


「これから話すことは。」


「現時点で。」


「部外秘だ。」


 誰も喋らない。


「我々の担当区域内で。」


「民間人一名を。」


「確保する。」


 高橋は。


 指揮官を見る。


「犯罪者ですか。」


「違う。」


「避難者?」


「違う。」


「では。」


 指揮官は。


 少し黙った。


「特殊事案対象者だ。」


 その言葉。


 高橋は。


 初めて聞いた。


「何ですか。」


「それ。」


「詳細は。」


「現場で確認する。」


「抵抗した場合は。」


「どうします。」


 指揮官が。


 高橋を見る。


「刺激するな。」


「……。」


「攻撃するな。」


「……。」


「通常の人間として。」


「考えるな。」


 部屋の空気が。


 変わった。


「対象者は。」


 指揮官が。


 資料を見る。


「昨日。」


「大型犬型生物に襲われた。」


「重傷。」


「死亡が確認された。」


 高橋の眉が動く。


「死亡?」


「ああ。」


「では。」


「その確保って。」


「その後。」


 指揮官が言った。


「生き返った。」


 誰も。


 喋らなかった。


「……は?」


 高橋の口から。


 声が漏れた。


「対象者は。」


「現在。」


「通常の人間を大きく上回る身体能力を示している。」


「そして。」


「周囲の人間を。」


「襲っている、」


 高橋の頭に。


 さっきの噂が蘇った。


 傷が塞がった。


 車のドアを曲げた。


 何十メートルも跳んだ。


 火を出した。


「人間まで、」


 高橋は。


 呟いた。


「変わってるってことですか?」


 誰も。


 答えなかった。


 答えられなかった。



 指揮所を出た後。


 高橋は。


 夜空を見上げた。


 星が。


 よく見えた。


 街の明かりが。


 消えているから。


 皮肉なほど。


 綺麗だった。


「一曹。」


「何だ。」


 隣に。


 村上がいた。


「これ。」


「災害派遣ですよね。」


 村上は。


 答えなかった。


「俺たち。」


「災害派遣に来たんですよね。」


「……そうだ。」


「でも。」


 高橋は。


 遠くを見る。


 暗い街。


 どこかで。


 火が燃えている。


 黒い煙。


 遠く。


 何かの。


 鳴き声。


 犬ではない。


 熊でもない。


 知らない。


 何か。


「地震なら。」


 高橋が言う。


「いつか止まります。」


「台風なら。」


「いつか過ぎます。」


「火事なら。」


「消せます。」


 村上は。


 黙っている。


「でも。」


「あいつらは。」


 高橋は。


 今日。


 戦った猪を思い出した。


 銃弾を受けても。


 逃げなかった。


 傷だらけになっても。


 こちらを見ていた。


 そして。


 襲ってきた。


「俺たちを見てました。」


「ああ。」


「俺たちを。」


「殺そうとしてた。」


「ああ。」


 村上が答えた。


 高橋は。


 暗い街を見つめる。


 そして。


 ようやく。


 認めた。


 これは。


 地震ではない。


 台風ではない。


 事故ではない。


 ただの。


 大規模災害ではない。


 何かが。


 この世界に。


 現れた。


 何かが。


 生き物を変え。


 人間まで。


 変え始めている。


「一曹」


「何だ。」


「これ、、、」


 高橋は。


 小さく聞いた。


「何なんですか?」


 村上は。


 しばらく。


 答えなかった。


 やがて。


 低い声で。


 言った。


「分からん。」


「……。」


「だから。」


 村上は。


 暗闇の向こうを見る。


「生きて帰るぞ!。」


「何が起きてるのか。」


「分かるまでな。」


 その夜。


 首都圏各地で。


 自衛隊は。


 魔獣と呼ばれ始めた生物との。


 戦闘を続けていた。


 警察は。


 崩れ始めた治安を。


 必死に支えていた。


 消防は。


 消しても。


 消しても。


 新たに発生する火災へ向かっていた。


 医療従事者は。


 原因不明の負傷と。


 変異に。


 向き合い始めていた。


 政府は。


 情報を集めていた。


 研究者は。


 説明できない現象を。


 説明しようとしていた。


 そして。


 誰も。


 まだ。


 知らなかった。


 これは。


 終わりではない。


 始まりにすぎない。


 世界は。


 静かに。


 だが。


 確実に。


 変わり始めていた。


 これは。


 災害ではない。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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