第26話 変わっていく背中
同じ頃。
藤堂悠真と朝倉美咲が暗い部屋で住宅街を見張っていた夜。
街外れの廃工場では、相沢直人が神崎蓮司を見ていた。
――見ないようにしながら。
視線を逸らしているはずなのに、どうしても意識が引き寄せられる。まるで、見てはいけないものほど目に焼き付くように。胸の奥で何かがざわつく。嫌な予感が、冷たい水のようにじわじわと広がっていく。
「……足りねぇ。」
低い声が響く。
「え?」
「飯だよ。これだけか?」
蓮司の前には空の缶詰が転がっていた。すでに三人分以上は食べている。
「まだ腹減ってんだよ。何かねぇのか。」
「総長、今日の分はこれで終わりです。食料も減ってて……人数も多いですし。」
「だから?」
空気が凍る。
その一言で、場の温度が一気に下がった気がした。息を吸うのもためらうほどの圧迫感。直人の喉がひりつく。
「俺に食うなって言ってんのか?」
「違います!」
「じゃあどういう意味だ。」
男は答えられない。
直人は唾を飲み込んだ。
喉を通るそれがやけに重い。まるで、飲み込んだのが唾じゃなくて、言葉にできない恐怖そのものみたいだった。
以前の蓮司は違った。
『腹減ってる奴から食え。俺は後でいい。』
年下や怪我人を優先し、最後に自分が食べる男だった。
あの背中は、どんな時でも揺るがなかった。嵐の中でも立ち続ける柱みたいに、そこにあるだけで安心できた。
だが今は。
その柱に、ひびが入っている気がする。いや、ひびどころじゃない。中から何か別のものが滲み出しているような――そんな違和感。
「チッ。」
缶を蹴り飛ばす。
「使えねぇな。」
誰も何も言えない。
直人の胸の奥で、何かが軋む。信じていたものが、少しずつ形を変えていく音がする。
◇
相沢直人、十七歳。
問題児と呼ばれてきた少年だ。
遅刻、欠席、喧嘩。
教師に何度も言われた。
『将来困るぞ。』
――うるせぇよ。
今日の飯も分からない奴に、将来なんて語るな。
◇
父は酒に溺れ、働かず、金もなくても酒を買い、機嫌が悪ければ直人を殴った。
母は小学生の頃に家を出て戻らなかった。
冷蔵庫は空。
それが日常だった。
◇
中二の冬、酷く殴られた直人は家を飛び出した。
寒い公園のベンチで、腹を空かせていた時。
『腹減ってるか?』
声をかけてきたのが蓮司だった。
直人は強がったが腹が鳴る。
『嘘下手だな。』
その夜、牛丼を奢ってもらった。
人生で一番美味い飯だった。
あの時の温かさは、今でも体の奥に残っている。凍えきった心に差し込んだ、たった一つの灯みたいに。
◇
「直人。」
呼ばれて我に返る。
段ボールを運ぶが、中身はほとんどない。
食料も水も減っている。
六日で状況は変わった。
蓮司がいれば大丈夫だと思っていた。
だが今は、その姿に違和感が残る。
――本当に、あの人なのか。
そんな考えが頭をよぎるたび、慌てて打ち消す。疑うなんて、裏切りみたいで。
でも、胸の奥のざらつきは消えない。信じたい気持ちと、目の前の現実が噛み合わない。歯車がずれて、嫌な音を立てている。
◇
「おい!」
怒鳴り声。
若い構成員が缶詰を落としただけだった。
「すみません!」
「謝って済むなら戻ってくんのか?」
次の瞬間。
「謝ってんじゃねぇよ!」
ドンッ!!
男が吹き飛び、資材に叩きつけられる。
誰も動けない。
直人が駆け寄る。
「大丈夫か!」
息はあるが血を吐いている。
蓮司は拳を見つめていた。
「……悪ぃ。力加減、まだ分かんねぇんだ。」
誰も笑わない。
「死んでねぇだろ。」
その一言に、直人の胸が冷えた。
氷を直接押し当てられたみたいに、心臓がぎゅっと縮む。
以前なら絶対に言わなかった。
――違う。
そう思いたいのに、否定する材料が見つからない。
目の前にいるのは、確かに蓮司の顔をした誰かだ。
◇
昔、蓮司は直人の父親の前に現れた。
『もう一回こいつに手ぇ出してみろ。俺に来い。』
殴らずに圧倒し、それ以来父は手を上げなくなった。
あの人は自分を守ってくれた。
だから今の姿が、同じ人間だと思えない。
思いたくない。
もし同じだと認めてしまったら、自分が信じてきたもの全部が崩れてしまう気がするから。
◇
「総長。」
偵察組が戻る。
「例の家、動きがありました。ホームセンターから大量に資材を運んでます。」
木材、炭、ポリタンク。
「人数は?」
「八人ほど。男四人くらい。」
「女は?」
直人はその問いに引っかかった。
胸の奥で、小さな警鐘が鳴る。
――なんで、そこを先に聞く。
「若い女もいます。」
「そうか。」
蓮司が笑う。
その笑みが、どこか湿って見えた。昔のような軽さがない。何か別の欲が混じっているような、そんな気配。
以前なら最初に聞くことではなかった。
◇
「場所はここです。」
地図を覗く。
「表札は?」
「藤堂。」
直人の指が止まる。
心臓が一瞬だけ強く跳ねた。
「知ってんのか。」
「昔、同じ名字の奴がいただけです。」
だが頭に浮かぶのは一人の少女。
忘れたはずなのに、こんな時に限って鮮明に蘇る。
◇
藤堂彩乃。
中学の同級生。
真っ直ぐで、強くて、眩しい存在だった。
恵まれた環境にいる彼女に、直人は苛立ちながらも目を離せなかった。自分とは違う世界にいるはずなのに、なぜか視界の端に入るたびに意識が引き寄せられる。鬱陶しいほどに。
最初はただの反発だった。綺麗事ばかり言う奴だと思っていたし、そういう人間が一番信用できないと決めつけていた。
けれど、彼女は違った。
誰に対しても態度を変えず、損をしても曲げない。弱い奴を見捨てない。その姿勢が、直人の中の何かを刺激した。
――なんでそんなことができるんだよ。
理解できないからこそ、目が離せなかった。
ある日、盗難の疑いをかけられた時。
『相沢じゃないと思います。』
彼女はそう言った。
理由は「ずっと寝てたから」。
最悪の庇い方だったが、直人は笑った。
結局犯人は別だった。
彼女は覚えていないだろう。
だが直人は忘れない。
あの時、自分を信じると言った声が、どれだけ救いだったか。
誰にも期待されず、どうせ疑われる側だと思っていた自分に、何の打算もなく向けられた言葉。
それが、胸の奥にずっと残っている。
感謝なんて言葉じゃ足りない。
でも、それを認めるのが妙に気恥ずかしくて、ずっと「ムカつく奴」で片付けてきた。
――本当は、違うくせに。
思い出すたびに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
同時に、どうしようもなく遠い存在だとも思い知らされる。
自分みたいな奴が関わっていい相手じゃない。
だから距離を取った。
関わらないようにした。
それでも、完全に切り離すことはできなかった。
名前を聞くだけで、こんなにも心臓が反応するくらいには。
◇
「直人。」
蓮司の声。
「藤堂って奴、本当に知らねぇのか。」
「同級生にいただけです。」
「女か。可愛いのか?」
冗談のはずなのに、笑えない。
喉の奥がひりつく。何か言い返したいのに、言葉が出てこない。
――なんでだよ。
昔なら、こんなこと聞く人じゃなかっただろ。
それ以上に、胸の奥に浮かんだ感情に戸惑う。
嫌な予感と一緒に、はっきりとした拒絶が湧き上がる。
――あいつに、変なこと考えんな。
口には出せない。
出した瞬間、自分の中の何かを認めてしまいそうで。
ただ、無意識に拳が強く握られていた。
「まあいい。物資か……欲しいな。」
その声に、また違和感が走る。
欲しいのは、本当に物資だけか。
そんな疑念が、頭の隅にこびりつく。
振り払おうとしても、しつこく残る。
◇
⸻
《欲望増強を確認》
《精神汚染が進行しました》
現在侵食率 5%
⸻
「……五パーセント。」
「総長?」
「何でもねぇ。たった五パーセントだ。」
意味は分からない。
だが怖かった。
数字の意味なんて理解できないのに、その響きだけで嫌な予感がする。
まるで、見えない何かに少しずつ侵されているみたいで。
――もし、それが本当なら。
どこまで行ったら、元に戻れなくなるんだ。
◇
その夜、直人は外で空を見上げていた。
電気の消えた街は、皮肉なほど星が綺麗だった。
「……藤堂。」
あの家に彩乃がいるのか。
分からない。
だが、もしそうなら。
こんな世界でも真っ直ぐに生きているのだろうか。
あいつなら、きっとそうだ。
そう思える自分がいることに、少しだけ苦笑する。
「……ムカつく。」
そう思いながら、生きていてほしいとも思う。
ただ生きているだけじゃなく、あのままの顔で、あのままのやり方で。
誰にも折られずにいてほしいと、強く願ってしまう。
もし蓮司があの家に向かうなら。
もし、あいつに手を出そうとするなら。
――その時、自分はどうする。
考えた瞬間、胸がざわつく。
答えは出したくないのに、ぼんやりとした輪郭だけが浮かび上がる。
守りたい、という感情。
それを認めるのが怖い。
でも、否定しきれない。
胸の中で、相反する感情がぶつかり合う。羨ましさと苛立ちと、ほんの少しの安堵。そして、それ以上に強くなり始めている何か。
工場から蓮司の笑い声が聞こえる。
その音が、やけに遠く感じた。
昔、自分を救ってくれた人。
「総長は、俺を救ってくれた人だ。」
繰り返す。
言葉にしないと、崩れてしまいそうで。
なぜ一度で信じられないのか。
答えは分かっている気がするのに、認めたくない。
もし疑ってしまったら、もう戻れない気がするから。
考えないことにした。
逃げるみたいに、思考を止める。
暗闇の中、蓮司は魔獣の肉を見つめていた。
一方、藤堂家では朝倉恒一が高熱に苦しみながら衝動を抑えていた。
同じ夜、同じ侵食。
だが二人の道は、確実に離れ始めていた。
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