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『世界が大変だけど、念のため備えていたら家族と生き残れました ~通信障害から始まる終末サバイバル~』  作者: バックドロップ
第三章 黒牙

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第26話 変わっていく背中



 同じ頃。


 藤堂悠真と朝倉美咲が暗い部屋で住宅街を見張っていた夜。


 街外れの廃工場では、相沢直人が神崎蓮司を見ていた。


 ――見ないようにしながら。


 視線を逸らしているはずなのに、どうしても意識が引き寄せられる。まるで、見てはいけないものほど目に焼き付くように。胸の奥で何かがざわつく。嫌な予感が、冷たい水のようにじわじわと広がっていく。


「……足りねぇ。」


 低い声が響く。


「え?」


「飯だよ。これだけか?」


 蓮司の前には空の缶詰が転がっていた。すでに三人分以上は食べている。


「まだ腹減ってんだよ。何かねぇのか。」


「総長、今日の分はこれで終わりです。食料も減ってて……人数も多いですし。」


「だから?」


 空気が凍る。


 その一言で、場の温度が一気に下がった気がした。息を吸うのもためらうほどの圧迫感。直人の喉がひりつく。


「俺に食うなって言ってんのか?」


「違います!」


「じゃあどういう意味だ。」


 男は答えられない。


 直人は唾を飲み込んだ。


 喉を通るそれがやけに重い。まるで、飲み込んだのが唾じゃなくて、言葉にできない恐怖そのものみたいだった。


 以前の蓮司は違った。


『腹減ってる奴から食え。俺は後でいい。』


 年下や怪我人を優先し、最後に自分が食べる男だった。


 あの背中は、どんな時でも揺るがなかった。嵐の中でも立ち続ける柱みたいに、そこにあるだけで安心できた。


 だが今は。


 その柱に、ひびが入っている気がする。いや、ひびどころじゃない。中から何か別のものが滲み出しているような――そんな違和感。


「チッ。」


 缶を蹴り飛ばす。


「使えねぇな。」


 誰も何も言えない。


 直人の胸の奥で、何かが軋む。信じていたものが、少しずつ形を変えていく音がする。



 相沢直人、十七歳。


 問題児と呼ばれてきた少年だ。


 遅刻、欠席、喧嘩。


 教師に何度も言われた。


『将来困るぞ。』


 ――うるせぇよ。


 今日の飯も分からない奴に、将来なんて語るな。



 父は酒に溺れ、働かず、金もなくても酒を買い、機嫌が悪ければ直人を殴った。


 母は小学生の頃に家を出て戻らなかった。


 冷蔵庫は空。


 それが日常だった。



 中二の冬、酷く殴られた直人は家を飛び出した。


 寒い公園のベンチで、腹を空かせていた時。


『腹減ってるか?』


 声をかけてきたのが蓮司だった。


 直人は強がったが腹が鳴る。


『嘘下手だな。』


 その夜、牛丼を奢ってもらった。


 人生で一番美味い飯だった。


 あの時の温かさは、今でも体の奥に残っている。凍えきった心に差し込んだ、たった一つの灯みたいに。



「直人。」


 呼ばれて我に返る。


 段ボールを運ぶが、中身はほとんどない。


 食料も水も減っている。


 六日で状況は変わった。


 蓮司がいれば大丈夫だと思っていた。


 だが今は、その姿に違和感が残る。


 ――本当に、あの人なのか。


 そんな考えが頭をよぎるたび、慌てて打ち消す。疑うなんて、裏切りみたいで。


 でも、胸の奥のざらつきは消えない。信じたい気持ちと、目の前の現実が噛み合わない。歯車がずれて、嫌な音を立てている。



「おい!」


 怒鳴り声。


 若い構成員が缶詰を落としただけだった。


「すみません!」


「謝って済むなら戻ってくんのか?」


 次の瞬間。


「謝ってんじゃねぇよ!」


 ドンッ!!


 男が吹き飛び、資材に叩きつけられる。


 誰も動けない。


 直人が駆け寄る。


「大丈夫か!」


 息はあるが血を吐いている。


 蓮司は拳を見つめていた。


「……悪ぃ。力加減、まだ分かんねぇんだ。」


 誰も笑わない。


「死んでねぇだろ。」


 その一言に、直人の胸が冷えた。


 氷を直接押し当てられたみたいに、心臓がぎゅっと縮む。


 以前なら絶対に言わなかった。


 ――違う。


 そう思いたいのに、否定する材料が見つからない。


 目の前にいるのは、確かに蓮司の顔をした誰かだ。



 昔、蓮司は直人の父親の前に現れた。


『もう一回こいつに手ぇ出してみろ。俺に来い。』


 殴らずに圧倒し、それ以来父は手を上げなくなった。


 あの人は自分を守ってくれた。


 だから今の姿が、同じ人間だと思えない。


 思いたくない。


 もし同じだと認めてしまったら、自分が信じてきたもの全部が崩れてしまう気がするから。



「総長。」


 偵察組が戻る。


「例の家、動きがありました。ホームセンターから大量に資材を運んでます。」


 木材、炭、ポリタンク。


「人数は?」


「八人ほど。男四人くらい。」


「女は?」


 直人はその問いに引っかかった。


 胸の奥で、小さな警鐘が鳴る。


 ――なんで、そこを先に聞く。


「若い女もいます。」


「そうか。」


 蓮司が笑う。


 その笑みが、どこか湿って見えた。昔のような軽さがない。何か別の欲が混じっているような、そんな気配。


 以前なら最初に聞くことではなかった。



「場所はここです。」


 地図を覗く。


「表札は?」


「藤堂。」


 直人の指が止まる。


 心臓が一瞬だけ強く跳ねた。


「知ってんのか。」


「昔、同じ名字の奴がいただけです。」


 だが頭に浮かぶのは一人の少女。


 忘れたはずなのに、こんな時に限って鮮明に蘇る。



 藤堂彩乃。


 中学の同級生。


 真っ直ぐで、強くて、眩しい存在だった。


 恵まれた環境にいる彼女に、直人は苛立ちながらも目を離せなかった。自分とは違う世界にいるはずなのに、なぜか視界の端に入るたびに意識が引き寄せられる。鬱陶しいほどに。


 最初はただの反発だった。綺麗事ばかり言う奴だと思っていたし、そういう人間が一番信用できないと決めつけていた。


 けれど、彼女は違った。


 誰に対しても態度を変えず、損をしても曲げない。弱い奴を見捨てない。その姿勢が、直人の中の何かを刺激した。


 ――なんでそんなことができるんだよ。


 理解できないからこそ、目が離せなかった。


 ある日、盗難の疑いをかけられた時。


『相沢じゃないと思います。』


 彼女はそう言った。


 理由は「ずっと寝てたから」。


 最悪の庇い方だったが、直人は笑った。


 結局犯人は別だった。


 彼女は覚えていないだろう。


 だが直人は忘れない。


 あの時、自分を信じると言った声が、どれだけ救いだったか。


 誰にも期待されず、どうせ疑われる側だと思っていた自分に、何の打算もなく向けられた言葉。


 それが、胸の奥にずっと残っている。


 感謝なんて言葉じゃ足りない。


 でも、それを認めるのが妙に気恥ずかしくて、ずっと「ムカつく奴」で片付けてきた。


 ――本当は、違うくせに。


 思い出すたびに、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 同時に、どうしようもなく遠い存在だとも思い知らされる。


 自分みたいな奴が関わっていい相手じゃない。


 だから距離を取った。


 関わらないようにした。


 それでも、完全に切り離すことはできなかった。


 名前を聞くだけで、こんなにも心臓が反応するくらいには。



「直人。」


 蓮司の声。


「藤堂って奴、本当に知らねぇのか。」


「同級生にいただけです。」


「女か。可愛いのか?」


 冗談のはずなのに、笑えない。


 喉の奥がひりつく。何か言い返したいのに、言葉が出てこない。


 ――なんでだよ。


 昔なら、こんなこと聞く人じゃなかっただろ。


 それ以上に、胸の奥に浮かんだ感情に戸惑う。


 嫌な予感と一緒に、はっきりとした拒絶が湧き上がる。


 ――あいつに、変なこと考えんな。


 口には出せない。


 出した瞬間、自分の中の何かを認めてしまいそうで。


 ただ、無意識に拳が強く握られていた。


「まあいい。物資か……欲しいな。」


 その声に、また違和感が走る。


 欲しいのは、本当に物資だけか。


 そんな疑念が、頭の隅にこびりつく。


 振り払おうとしても、しつこく残る。




《欲望増強を確認》


《精神汚染が進行しました》


現在侵食率 5%



「……五パーセント。」


「総長?」


「何でもねぇ。たった五パーセントだ。」


 意味は分からない。


 だが怖かった。


 数字の意味なんて理解できないのに、その響きだけで嫌な予感がする。


 まるで、見えない何かに少しずつ侵されているみたいで。


 ――もし、それが本当なら。


 どこまで行ったら、元に戻れなくなるんだ。



 その夜、直人は外で空を見上げていた。


 電気の消えた街は、皮肉なほど星が綺麗だった。


「……藤堂。」


 あの家に彩乃がいるのか。


 分からない。


 だが、もしそうなら。


 こんな世界でも真っ直ぐに生きているのだろうか。


 あいつなら、きっとそうだ。


 そう思える自分がいることに、少しだけ苦笑する。


「……ムカつく。」


 そう思いながら、生きていてほしいとも思う。


 ただ生きているだけじゃなく、あのままの顔で、あのままのやり方で。


 誰にも折られずにいてほしいと、強く願ってしまう。


 もし蓮司があの家に向かうなら。


 もし、あいつに手を出そうとするなら。


 ――その時、自分はどうする。


 考えた瞬間、胸がざわつく。


 答えは出したくないのに、ぼんやりとした輪郭だけが浮かび上がる。


 守りたい、という感情。


 それを認めるのが怖い。


 でも、否定しきれない。


 胸の中で、相反する感情がぶつかり合う。羨ましさと苛立ちと、ほんの少しの安堵。そして、それ以上に強くなり始めている何か。


 工場から蓮司の笑い声が聞こえる。


 その音が、やけに遠く感じた。


 昔、自分を救ってくれた人。


「総長は、俺を救ってくれた人だ。」


 繰り返す。


 言葉にしないと、崩れてしまいそうで。


 なぜ一度で信じられないのか。


 答えは分かっている気がするのに、認めたくない。


 もし疑ってしまったら、もう戻れない気がするから。


 考えないことにした。


 逃げるみたいに、思考を止める。


 暗闇の中、蓮司は魔獣の肉を見つめていた。


 一方、藤堂家では朝倉恒一が高熱に苦しみながら衝動を抑えていた。


 同じ夜、同じ侵食。


 だが二人の道は、確実に離れ始めていた。

たくさんのPV、ブックマーク、評価、リアクション、本当にありがとうございます。


おかげさまで総合評価150ptを超えることができました。

続きを楽しんでいただけるよう頑張りますので、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

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