第22話 ホームセンターへ
午前九時過ぎ。
藤堂家の庭に、朝倉英樹の作業車が停まっていた。
エンジンはまだ掛けていない。
ただでさえ静かな住宅街だ。
必要もないのにエンジン音を響かせれば、何が寄ってくるか分からない。
悠真は荷室の扉を開け、中を確認していた。
昨日まで大量に積まれていた工具や資材のほとんどは、すでに藤堂家の庭や物置へ運び込んである。
今は最低限の道具だけが残されていた。
バール。
ハンマー。
ロープ。
ブルーシート。
大型の懐中電灯。
工具箱。
それから、もしもの時に使うための救急箱。
「こんなもんか。」
英樹が荷室を覗き込む。
「積めるだけ空けました。」
「よし。」
英樹は満足そうに頷いた。
「ホームセンターに物が残ってるなら、帰りは満載になるかもしれねぇからな。」
「残ってれば、ですけどね。」
悠真はそう答えながら、胸の奥に生まれた不安を押し込んだ。
あの日。
最後にホームセンターを見た時。
店内はまだ無事だった。
佐伯店長もいた。
だが、それから何日も経っている。
今の街では、一日で状況が大きく変わる。
昨日まで無事だった家が、今日は壊れている。
昨日まで助け合っていた人間が、今日は食料を奪い合っている。
ホームセンターだけが無事だという保証はない。
「悠真。」
声を掛けられ、振り返る。
玄関前に美咲が立っていた。
その手には小さな布袋が握られている。
「これ。」
「何?」
「お昼。」
「……昼?」
「帰ってくるまで食べないつもりだったの?」
悠真は少し考えた。
考えてから、自分が昼食のことをまったく考えていなかったことに気付いた。
「忘れてた。」
「でしょうね。」
美咲は呆れたようにため息をついた。
「おにぎり。」
「三人分入ってるから。」
「水は?」
「持った。」
「本当に?」
「持ったって。」
悠真がリュックの中から水筒を見せると、美咲はようやく納得したらしい。
「ならいいけど。」
「お前、俺の母親みたいになってきたな。」
「誰のせいよ。」
「俺?」
「他に誰がいるの。」
昔と変わらないやり取りだった。
ほんの数日前までなら、何でもない会話。
だが今は、そんな何でもない会話が妙に心に残る。
美咲も同じことを思ったのか。
少しだけ表情を曇らせた。
「……気を付けてね。」
「ああ。」
「絶対に無理しないで。」
「分かってる。」
「昨日もそう言ってた。」
「昨日?」
「あの大きな化け物から逃げた時。」
「あれは無理してないだろ。」
「十分危なかったでしょ。」
「でも全員帰ってきた。」
「結果論。」
「はいはい。」
「はいは一回。」
「……はい。」
思わず二人で笑う。
その時。
「悠真。」
運転席から誠の声がした。
「そろそろ行くぞ。」
「今行く!」
悠真は作業車へ向かおうとする。
その背中へ、美咲の声が届いた。
「悠真。」
もう一度振り返る。
「何?」
美咲は何かを言おうとした。
だが。
「……ううん。」
「何でもない。」
そう言って、小さく笑う。
「行ってらっしゃい。」
悠真も少しだけ笑った。
「行ってきます。」
◇
今回、ホームセンターへ向かうのは三人。
運転は英樹。
助手席に誠。
悠真は後部座席。
藤堂家には、真由美、彩乃、美咲、由紀。
そして高熱が続く恒一が残った。
戦力だけを考えれば、彩乃を連れてきた方がいい。
今の悠真より、よほど戦える。
だが。
家を無人にはできない。
昨日、門の向こうに人影を見た。
それが偶然通りかかった住民なのか。
それとも、物資を狙って様子を見ていた誰かなのか。
まだ分からない。
だからこそ、彩乃には家に残ってもらった。
何より。
悠真には、もう一つ気になることがあった。
恒一だ。
昨夜。
皆が寝静まった後。
悠真はこっそり恒一を《鑑定》した。
⸻
【朝倉 恒一】
状態:
・高熱
・魔素侵食
・身体能力上昇
・理性維持
侵食率:14%
⸻
十三パーセントだった侵食率が、一パーセント上がっていた。
たった一パーセント。
そう考えることもできる。
だが。
何もしていないのに上がった。
その事実が、悠真には恐ろしかった。
時間が経つだけで進むのか。
能力を使えば進むのか。
それとも、別の原因があるのか。
何も分からない。
今の悠真にできるのは、数字を見ることだけだった。
「悠真。」
「え?」
「どうした。」
前から誠の声がする。
「さっきから黙ってるぞ。」
「……ちょっと考え事。」
「恒一君のことか?」
悠真は一瞬、言葉に詰まった。
「まあ……。」
「母さんが見てる。」
誠は前を向いたまま言った。
「今は任せよう。」
「うん。」
それ以上は何も言えなかった。
◇
作業車がゆっくりと走り出す。
住宅街は静まり返っていた。
窓を閉め切った家。
カーテンの隙間から外を覗く人影。
門の前に置かれた空のポリタンク。
道路には、昨日までなかったゴミが増えている。
コンビニの袋。
空のペットボトル。
破られた段ボール。
誰かが食料を探した跡だ。
「酷くなってるな。」
英樹がハンドルを握りながら呟く。
「ああ。」
誠も窓の外を見る。
「昨日より人が外に出ていない。」
「出られないんだろ。」
英樹が答えた。
「食い物がなくなっても、外にはあんな化け物がいる。」
「家にいれば腹が減る。」
「外に出れば死ぬかもしれない。」
「最悪だな。」
誰も否定できなかった。
しばらく走ると、道路脇に放置された車が増えてきた。
ガス欠なのか。
故障なのか。
それとも、持ち主が逃げたのか。
理由は分からない。
「ここから速度を落としましょう。」
悠真が言う。
「どうした?」
「店に近付くほど、車が増えるはずです。」
「それに。」
悠真は窓を少しだけ開けた。
耳を澄ませる。
風の音。
遠くで何かが倒れる音。
それ以外は、何も聞こえない。
「魔犬は音に敏感です。」
「エンジン音に寄ってくる可能性があります。」
英樹がアクセルを緩めた。
「昨日言ってたやつか。」
「はい。」
「絶対じゃありません。」
「でも、俺が今まで見た魔犬は、大きな音に反応してました。」
「なら気を付けるに越したことはない。」
誠が言う。
「悠真。」
「他に分かってることは?」
「まだ少ないけど。」
悠真はこれまでの経験を思い返す。
「魔犬は群れで動きます。」
「一頭を見つけたら、近くに他の個体がいると思った方がいい。」
「レイブンクロウは鳴き声で仲間を呼ぶ。」
「あとは……。」
昨日の巨大な足音が脳裏をよぎる。
「俺たちが知らない魔獣が、まだいる。」
車内が静かになる。
「昨日の熊みたいな奴か。」
英樹が低い声で言う。
「はい。」
「たぶん。」
「たぶん?」
「俺の《鑑定》でも分からなかったんです。」
誠が振り返る。
「何も?」
「警告だけでした。」
悠真は左腕を押さえる。
「逃げろって。」
「何度も。」
「……そうか。」
誠はそれ以上聞かなかった。
英樹も黙ってハンドルを握る。
昨日。
悠真が青ざめながら「見るな」と叫んだ理由を、二人はようやく理解した。
「決めよう。」
誠が言った。
「何を?」
「今後の行動ルールだ。」
誠は指を一本立てる。
「一つ。」
「知らない魔獣を見たら近付かない。」
二本目。
「二つ。」
「一頭見つけても、一頭だけだと思わない。」
三本目。
「三つ。」
「日没前には必ず拠点へ戻る。」
英樹が頷く
◇
やがて。
見慣れた大きな看板が見えてきた。
悠真が何度も見てきたホームセンター。
アルバイトを始めてから、何百回と通った場所。
だが。
「……嘘だろ。」
思わず声が漏れた。
駐車場には大量の車が放置されていた。
入口付近には、倒れた自転車。
散乱した買い物かご。
割れた植木鉢。
地面には土が広がっている。
正面入口の自動ドアは閉まっていた。
ガラスには大きな紙が貼られている。
手書きだった。
⸻
【臨時休業】
本部指示により、明日から当面の間、休業いたします。
従業員は順次帰宅してください。
⸻
「明日から?」
英樹が眉をひそめる。
「今日までは営業するつもりだったのか?」
「たぶん。」
悠真は張り紙を見つめる。
「本部から指示が来たのが昨日か今日なんだと思います。」
「通信が一時的に戻ったから?」
「たぶん、それで。」
悠真は車から降りた。
「おい。」
誠が止める。
「一人で行くな。」
「大丈夫。」
「店長がいるかもしれない。」
「だから一人で行くなと言ってる。」
「……はい。」
三人で周囲を確認する。
駐車場に人影はない。
魔獣の姿もない。
だが。
静かすぎる。
悠真は無意識に左腕へ意識を向けた。
反応はない。
「行きましょう。」
三人はゆっくりと正面入口へ近付いた。
自動ドアは動かない。
停電している。
悠真がガラスを叩く。
「店長!」
返事はない。
「佐伯店長!」
もう一度。
「悠真です!」
静寂。
「いないのか?」
英樹が言う。
「そんな……。」
悠真はガラスへ顔を近付けた。
店内は暗い。
奥までは見えない。
「店長!」
ドンドン!
少し強く叩く。
その時だった。
「馬鹿野郎!」
店内から怒鳴り声が響いた。
「そんなに叩くな!」
「化け物が寄ってきたらどうする!」
悠真の動きが止まる。
聞き慣れた声だった。
暗い店内。
懐中電灯の光が近付いてくる。
そして。
手動で自動ドアが少しだけ開いた。
隙間から顔を出したのは。
「……店長。」
「悠真。」
佐伯隆だった。
髭は伸びている。
目の下には濃い隈。
いつも着ていた緑色の制服も汚れていた。
それでも。
間違いなく。
悠真が知っている店長だった。
「お前……。」
佐伯はしばらく悠真を見つめる。
そして。
大きく息を吐いた。
「無事みたいで良かった。」
その一言で。
悠真の胸に詰まっていたものが、少しだけほどけた。
「はい。」
悠真は笑った。
「店長も。」
「ああ。」
佐伯も、疲れた顔で笑う。
「しぶといのが取り柄だからね。」
だが次の瞬間。
佐伯の表情が険しくなった。
「とにかく入った方が良い。」
「話は中だ。」
「外で立ち話してる場合じゃない。」
悠真たちは急いで店内へ入る。
扉が閉められる。
鍵が掛けられる。
暗い店内。
ほとんどの商品が消えた食料品売り場。
空になった日用品棚。
そして。
その奥には。
誰にも見向きもされず残された、大量の建築資材と園芸用品。
キャンプ用品。
薪。
木炭。
ロープ。
工具。
悠真は店内を見渡した。
今まで何度も働いてきた場所。
だが今は。
その一つ一つが、生き残るための宝に見えた。




