第10話 約束
停電から四日。
断水から一日。
世界は終わってしまった――そんな実感は、まだなかった。
それでも、元の日常には戻れないことだけは誰もが理解していた。
朝六時。
いつもならスマートフォンのアラームで目を覚ます時間だ。
今はスマホの電源すら切ったまま、節電のため机の上に置かれている。
俺は自然と目を覚ました。
眠りが浅い。
夜中も何度も目が覚める。
遠くで聞こえる魔獣の咆哮や、暴走族のバイクの音が、頭から離れなかった。
寝袋から体を起こし、左腕を見る。
包帯を巻いていた傷は、驚くほど塞がっていた。
赤みは残っているが、昨日まであった熱はほとんどない。
「……早すぎる」
普通なら、こんな傷が四日でここまで回復するはずがない。
母さんも昨夜、不思議そうな顔をしていた。
それでも俺は少しだけ安心していた。
少なくとも悪化はしていない。
腕を軽く握る。
力を入れてみる。
違和感はない。
むしろ、以前より身体が軽かった。
試しに部屋の隅に置いてあるキャンプ用品のコンテナを持ち上げる。
二十キロ近くある収納ケースだ。
以前なら「よいしょ」と気合いを入れて持ち上げていた。
だが今日は違った。
「……軽い?」
思わず声が漏れる。
まるで中身が半分になったような感覚だった。
俺は慌ててケースを下ろした。
身体強化。
あの時頭に浮かんだ言葉が蘇る。
ゲームや漫画のような能力。
そんなものが、本当に自分の身に起きているのだろうか。
考えていると、一階から母さんの声が聞こえた。
「悠真、ご飯できたわよ」
「今行く!」
俺は一度深呼吸をしてから階段を下りた。
まだ誰にも、この変化は言わない。
もう少し確信が持てるまでは。
◇
朝食はレトルトのお粥と缶詰、それに賞味期限が近いヨーグルトだった。
冷蔵庫はもう完全に役目を終えている。
冷気はなく、中の食品は急いで消費しなければならない。
食卓では父さんがノートを開いていた。
毎朝の日課になっている。
「飲み水、残り五十七リットル」
「生活用水は風呂の残りで何とか三日くらい」
母さんがメモを見ながら答える。
「ガスは?」
「今のところ問題なし。でも止まる前提で考えた方がいい」
父さんは静かに頷き、ノートへ書き込んでいく。
会社員だった父さんらしい。
数字で状況を整理しているのだ。
彩乃は缶詰を食べながら、不満そうに口を尖らせる。
「お風呂入りたい……」
「私も入りたいわ」
母さんが苦笑する。
「でも今は我慢ね」
「分かってるけどさぁ……」
彩乃はため息をついた。
ほんの数日前まで、当たり前だった生活。
蛇口をひねれば水が出る。
スイッチを押せば電気がつく。
コンビニは二十四時間営業。
そんな世界が、一瞬で消えてしまった。
食事を終えた頃、父さんが口を開く。
「今日は自治会で情報交換がある」
「また?」
彩乃が顔をしかめる。
「人が集まるのは危なくない?」
「危ない。でも情報がない方がもっと危ない」
父さんの言葉に誰も反論できなかった。
この状況では、正しい情報こそが命を左右する。
俺は味噌汁代わりのインスタントスープを飲み干してから、小さく呟いた。
「……美咲は大丈夫かな」
その一言で、食卓の空気が止まった。
しまった。
思わず口に出してしまった。
父さんは俺を見た。
「気になるか」
「……うん」
「連絡も取れないものね」
母さんも心配そうな顔をする。
美咲とは幼い頃から家族ぐるみの付き合いだ。
両親同士も仲が良い。
心配するのは当然だった。
でも。
「様子を見に行きたい」
俺がそう言うと、父さんは首を横に振った。
「駄目だ」
即答だった。
「まだ危険すぎる」
「でも、自転車なら十分くらいだ」
「十分でも危険だ」
「昼間なら……」
「昼間でも魔獣はいる」
父さんの声は静かだった。
怒っているわけではない。
だからこそ、その言葉には重みがあった。
「それに昨日は暴走族も出た」
「……」
「お前一人を危険な場所へ行かせるわけにはいかない」
分かっている。
全部正しい。
でも、胸の中の不安は消えなかった。
◇
父さんが自治会へ向かった後、俺は玄関でクロスバイクを整備していた。
タイヤの空気圧を確認する。
チェーンへ注油する。
ブレーキを握る。
何度も確認する。
行くと決めたわけじゃない。
それでも、身体は勝手に準備を始めていた。
「やっぱり行きたい?」
振り返ると、母さんが立っていた。
「……うん」
「好きなんでしょう?」
「違うって」
「美咲ちゃんのこと」
「幼馴染だよ」
母さんは少し笑う。
「その幼馴染を四日も心配してるのは誰かしら?」
「それは……」
「昔から優しいものね、悠真は」
優しい。
そんな大層なものじゃない。
ただ、後悔したくないだけだ。
もし何かあって、それを知らないまま家に閉じこもっていたら。
きっと一生後悔する。
母さんはクロスバイクを見つめた。
「ちゃんと整備してるのね」
「ホームセンターでバイトしてるから」
「そうだったわね」
母さんは少し考えてから言った。
「お父さんが帰ってきたら、もう一度話しましょう」
「……うん」
◇
昼過ぎ。
父さんが帰ってきた。
表情は暗い。
嫌な予感がした。
「何かあった?」
父さんはリュックを下ろしながら答える。
「駅前で自衛隊が魔獣と交戦したらしい」
リビングが静まり返る。
「勝ったの?」
彩乃が聞く。
「分からない」
「分からない?」
「住民は近付けないそうだ。道路も封鎖された」
父さんはノートを開く。
「それと、自治会で聞いた話だが……」
俺は身を乗り出した。
「美咲の家は?」
「近所の人が一昨日見たそうだ」
思わず息を飲む。
「お父さんが物資を運んでいたらしい」
「じゃあ!」
「少なくとも一昨日の時点では無事だった可能性が高い」
胸を撫で下ろす。
生きている。
まだ希望はある。
父さんは続ける。
「ただ、それ以降は誰も見ていない」
また不安が戻ってきた。
世界は一日で大きく変わる。
一昨日無事でも、今日無事とは限らない。
◇
夕方。
俺は二階の窓から住宅街を見ていた。
相変わらず静かだ。
人の姿は少ない。
その代わり、遠くで煙が上がっている。
どこかで火災が起きているのだろう。
サイレンは聞こえない。
消防車も来ない。
助けを呼ぶ方法すらない。
その時だった。
視界の端に何かが映る。
向かいの空き家の庭。
一匹のカラスが降り立つ。
いや、違う。
「……でかい」
普通のカラスより一回り大きい。
羽には黒ではなく紫色の光沢が混じっている。
その目が、こちらを見た。
瞬間、頭の中へ情報が流れ込んできた。
【レイブンクロウ】
【危険度:E】
【魔素変異体】
【雑食】
【群れ行動】
【現在:索敵中】
俺は思わず息を呑んだ。
鑑定だ。
本当に発動している。
そのカラスは数秒こちらを見たあと、大きく羽ばたいて空へ飛び去った。
同時に、遠くから数羽の鳴き声が聞こえた。
「まさか……仲間を呼んでる?」
嫌な予感がする。
俺は急いで一階へ降りた。
「父さん!」
「どうした!」
「魔物だ!」
父さんが立ち上がる。
「どこだ!」
「カラスみたいなやつ!」
その時だった。
ガンッ!!
家の屋根に何かが落ちる音が響いた。
続いて。
ガリ……ガリガリ……。
鋭い爪が屋根を引っ掻く音。
彩乃が青ざめる。
「うそ……」
母さんは息を殺した。
俺の頭の中に再び情報が浮かぶ。
【個体数:四】
【包囲行動】
【食料探索】
【危険度:上昇】
俺は包丁ではなく、玄関に立て掛けてあったキャンプ用の鉈へ手を伸ばいた。
ついに。
魔獣が、俺たちの家を見つけた。




