~Episode of Autumn VIII~
「どうも、こんにちは」
真っ先に会釈した志智を見つめる亞璃須の、『おやっさん』の、そしてちょうどトイレから戻ってきたティックの表情が示すところは、すべて等しく「なぜこんな老人と知り合いなのか?」であった。
「うん、いい挨拶だ。
とはいえ、私の頃は礼儀知らずなくらいフランクな奴の方が多かったがね」
奥原一征はニヤリと笑いながら、アライ製のヘルメットをRVFのタンクに置く。
そして、自分に集まっている好奇の視線へ気づくと、様子をうかがうように辺りを見回し、こう言った。
「三鳥栖くん……だったか。
そこのお嬢さんは━━『コレ』かい?」
奥原は志智にむかって小指を立ててみせると、胸元からタバコを取り出した。
「………………?」
思わず首を捻る志智。奥原の仕草がなにを意味するのか分からなかったのだ。
もっとも、疑問を声に出すよりも、亞璃須が隣に並ぶ方が早かった。
「もちろん、わたくしと志智は『そういう』関係ですわ!!」
「げ」
見せつけるように志智の腕へ抱きつく亞璃須。ようやく志智も状況を悟ったのか、慌てて首を振る。
「い、いや、これはその……あの……おい、亞璃須。こういうところでな━━」
「なんです? 志智は何か後ろめたいことでもあります?」
「そ、そういう問題じゃなくて━━」
「ほっほー」
カチリ、という音がして、奥原が手にしたジッポーライターへ灯がともる。
「ずいぶんと身長差のあるカップルもいたものだ。面白いじゃないか。
しかし、不思議なお嬢さんだな……そんな格好で、彼とタンデムしてきたわけでもないだろうに。
それでいて、向こうの車には、どうもバイク一台が入ってるみたいじゃないか」
「あら。
喫煙者のおじいさん。どうしてそれが分かりますの?」
「ハイエースはトランポの王様だよ。
川野にそんな車で乗り付けるのは工事関係者か、大人げないバイクを載せてきた奴だけだ。
運転手もきっちりいるみたいだしね」
奥原が視線をむけた先では、執事の吉脇が悠然と一礼していた。
「それで、見てくれだけはずいぶんときらびやかなお嬢さん。
君は乗るのかい? それとも愛しの彼を追いかけているご令嬢気取りかい?」
「……その質問に答えてもいいですが」
奥原のくわえたシガレットの先から、紫煙がふわりと立ち上る。
気まぐれな風は不意に方向を変え、副流煙を亞璃須の鼻先へ運んだ。
「とりあえずわたくしの近くで、タバコを吸うのをやめてもらえます? 煙たいんですけど」
「………………」
「聞こえましたか、おじいさん。
煙たい。臭い。不快だと申し上げています」
「はっはっはっ!!」
刺々しいにも程がある亞璃須の言葉。
そのどこが琴線に触れたのか、奥原は愉快そうに笑い出した。
「いやあ、威勢がいいもんだ!
そうそう……まったくな。若い女の子はそうでないとな!! ははははっ!」
「……志智。
わたくし、このタバコジジイがそこのバツイチおやじと同じくらい気に入りません」
「そ、そりゃあないぜ、モタロリちゃん……ヨ」
「お前って、基本的に年配の人が嫌いだよな……」
忌々しげに吐き捨てる亞璃須に、突然巻き込まれて困惑する『おやっさん』と、呆れたように肩をすくめる志智。
「あ~……その、えっと。
奥原さん。こいつは━━亞璃須は失礼な奴かもしれませんけど、いちおうバイクには乗ってるんですよ」
「一応とはなんですか、一応とはっ。
わたくしの方が志智よりずっとバイク歴は長いんですからね」
「……頼むからすこし黙っててくれよ……。
まあ、とにかくそういうことです。あの車にはXR650Rっていうバイクが入っていて……ちなみに、あそこにいるのがこいつの弟です」
すこし離れた場所で様子をうかがってるティックを志智が指さすと、金髪の美少年は人当たりのいい笑顔でぺこりと頭を下げた。
「ふ~む、なるほどそうか」
奥原はどこか納得したように腕組みする。
「いや、見た目で判断しようとしてすまなかった。
それにしても、姉弟おそろいで髪を染めているのは珍しいね」
「あ、いや、こいつらの髪は……その自前です」
「自前?」
「ハーフですから当然ですわ。
ついでに言いますと、わたくしもティックも帰国子女ですから」
なぜかやたらと誇らしげに胸を張ってみる亞璃須。
別に帰国子女であることは、どうでもいいことではないかと志智は思ったが、きっと亞璃須の中では重要なのだろうとも察する。
「なるほど、それはそれは。
いや、ずいぶんと変わった事情があるのだね……驚かされたよ」
「理解が早くて助かります」
「なあに、実を言うと私も帰国子女なんだ。幼い頃は欧州にいてね。
お嬢さん、君と同じだね」
「……同じではありませんわ、タバコおじいさん。
わたくしはアメリカですし、その気になれば英語ぺらぺらですし」
「それは結構なことだ。
私はドイツとイギリスでね。どちらも日常会話くらいしか喋れないから、君の方がすごいな。はっはっはっ」
「うぐっ……し、志智! わたくし、いじめられています!」
「どこがだ。
……いや、頼るような目で見られても困るんだが」
実はラテン語が喋れますとでも言ってほしいのか、すがりついてくる亞璃須をぐりぐりと引きはがしながら、志智は改めて奥原一征を見た。
(この人、実はすごい人なのかもな……)
思えば━━三鳥栖志智は、彼がRVFというバイクの乗り手であること以外、何も知らない。
なぜ、RVFなのか。最後のレーサーレプリカだからか。
収入は? 仕事は? 整備は自分でしているのか。家族は何人いるのだろうか。
(なんだろう……な。
ちょっと不思議な人だな。亞璃須がめちゃくちゃ失礼なこと言っても、ぜんぜん気にしていないみたいだし……)
この人から━━何かを学んでみたい。
志智の中にそんな願いが芽生えたのは、ある意味で自然だったのかもしれない。
「奥原さん、お願いがあるんですが……」
「待ちたまえ」
そして、志智がその言葉を切り出そうとしたとき、奥原は制止するように手のひらをむけた。
「君が何を言いたいかは大体、わかっている。
そういえば、初めて会ったときも……私を追いかけていたね」
「……そうですね」
「昔から君のような目をした奴は、そうだった。
速さを求めて、速さに憧れて……そして、時に速さのせいで破滅していった」
「それはっ━━」
「まあ、最後まで聞きたまえ」
逸る志智をなだめるように。
あるいは、焦らすように奥原は首を振った。
「速さなどというのは、いつも相対的なものだ。
峠でいくら速くなったつもりでも、サーキットでは初心者レベルに等しいし、たとえコースレコードを出したとしても、荒れた林道では亀の歩みよりも遅い……」
「………………」
「たとえ二輪でワールドチャンピオンになったとしても、同じコースではF1レーサーにかなわないだろう。
……いや、地上をタイヤで走る乗り物が出せるスピードなどは、たかが知れている。
パイロットたちからすれば、私たちは等しく蟻のようなものだ。
そして、飛行機乗りですらも宇宙飛行士からすれば、シミ粒ほど小さな存在だろうね……」
そう言いながら、奥原は空を見上げると、続いて愛機RVFへ視線を移した。
さらに、VT250スパーダを眺め、最後に志智を見つめる。
「君はとても若い。
だから、バイクで速くなりたいという気持ちが強いのは、よく分かる。本能のようなものだからな。
しかし━━それが何になる? 速く走って、何の利益がある?
その事を考えてみたことはあるかね。その答えは……君の中で出ているのかね?」
「………………それは」
老人の問いかけは、志智にとって難解なものだった。
だが、その本質は何となくわかる。
論理でも知性でもなく、感覚で━━三鳥栖志智は奥原一征の言おうとしていることを理解していた。
(この人は……ただ速くなりたくて、そのためだけに走っても……危ないだけだって……何も得ることはできないって……警告してくれているんだな……)
なぜ、すんなりとその答えへ至ることが出来たのか。
それは二ヶ月前━━難西のVTRと競り合ったからだ。
(あの時も……一緒だ……コークスクリューを抜けて……そのあと、無茶苦茶に攻め込んで……。
今にも転けて、ガードレールにぶち当たって死ぬかもしれないって……怖くてたまらないのに、それでも俺は止まれなくて……走り終わってから、一発殴られて……)
あの時感じた恐怖の生々しさと、背中に張り付くような死の気配は、今でも忘れていない。
(だから、俺なりの答えは出ている)
ゆえに志智は淡々と。
しかし……堂々と答えた。
「俺はお金とか名誉とか、そういうものが欲しいわけじゃない。
自分が━━ただの自分じゃない。
『バイクに乗った自分が』どこまでいけるのか、知りたいだけなんです」
「そうだな。若いうちはそうしたものだ。
限界を試したくなる。しかし、公道を走る限り、限界を超えた先にあるものは……死だ」
「それは分かっています」
「本当かね?」
「ええ、本当です」
「………………」
奥原は志智の決意を試すように、目を見る。
志智は自らの決意を示すように、目を見つめ返す。
「では、約束してほしい。
私と一緒に走っても……どんな状況でも……一線を越えないこと」
「………………はい、分かりました」
「ならばよろしい」
口元を笑わせる奥原に、志智は安堵のため息をもらした。
そんな二人を見守る周囲はといえば、『おやっさん』とティックは何を話しているのか分からないといった疑問の表情で顔を見合わせ。
そして亞璃須は、志智が奥原へ向ける視線の間に割り込もうとして、割り込もうとして、しかし果たせずに━━そっぽを向くと、足音も荒くハイエースへと戻っていった。
「さて、勝負のやり方だが、君から申し込まれた以上、私が指定させてもらおうか。
何しろ、こちらは年なものでね……出来るだけ有利な条件でやらせてもらいたいんだが」
「俺はそれで構いません」
「それじゃあ……耐久だね」
「……耐久?」
奥原の言葉に、志智は今度こそ首を捻り、疑問の言葉を口にした。
「このRVFはホンダが生み出した最後のレーサーレプリカだ。
そして君にも話したが、このプロアームが示す通り、狙うフィールドは耐久レースでね」
「えっと、つまり耐久レースみたいな勝負をする……ってことですか」
「そうとも。
もちろん、本番のレースじゃないからね。『一線』は越えないでくれよ」
奥原は念を押すようにそう言い、志智は再確認するように頷いた。
「では、ここから周遊をあがって……都民の森は遠いか。月夜見第一で折り返すとしよう。
そして、この川野駐車場まで下ってくる。こいつが一周相当だ。
それを丸一時間続ける」
「一時間、ですか……」
「その一時間経過したタイミングで前にいた方が勝ちというわけだ。
これでどうだね」
「━━それは」
志智はそう言いながら、まず空を見上げた。
既に夕闇が迫ってきている。大多磨周遊道路がクローズする午後六時までには、たっぷり余裕があるとしても、今から一時間後となれば辺りは真っ暗だろう。
「これから……ってことですよね。
ちょうど午後四時になるところですから━━」
「まあ、最後の15分くらいは夜間走行になるかな?
いよいよもって耐久レースらしいだろう。鈴鹿エイトアワーズの1/8縮小版だ」
「……一つ訊きたいんですけど。
まる一時間ぶっ続けて走って、しかも最後は夜になって。
そんな条件が……奥原さんにとって、『出来るだけ有利な条件』なんですか?」
「くくくっ」
愚問。あるいは、答えるまでもない。
奥原のシニカルな笑いが示すものは、そうした種類の何かだった。
「調子こくんじゃねーぞ、若造。
こちとらお前さんが生まれる前からバイクに乗ってるんだぜ? んん?」
「………………」
あくまでも笑顔で、奥原はそう言った。
志智は無言で頷く。そして、二人のライダーはそれぞれの愛車にまたがった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
川野駐車場から本線上に出たのは、奥原の方が先だったがストレートに入ると、突然アクセルを緩める。
(250ccの俺が先に行け、ってことか……)
一瞬だけ点灯した左ウインカーを、志智はそのように解釈した。
VT250スパーダのハンドルに巻き付けた、100円均一の腕時計は午後四時ぴったりを表示している。
果たして、スパーダが前に出た瞬間、後方ではV4の排気音が一気に大きくなった。
甲高い直4のエキゾーストノートとは、本質的に異なるRVFのV4エンジン。重厚な成分を含みつつも、回転数が上昇するごとにその質は透明な高音へと変貌していく。
「ドドドって音から……バーン、って感じかな……いい音だよな……」
スパーダのスロットルを全開にしつつ、志智はそんなギャラリーのような感想を抱いてしまう。
冷たい夕方の空気を切り裂きながら、最初の左コーナーへ向かう。まだ心もとないフロントタイヤのグリップを探るように、志智は抑え気味のブレーキングから立ち上がり重視のラインを取った。
ミラーを一瞥すると、RVFの二眼ヘッドライトが点灯している。
びっくりするほど至近距離だ。コーナリングスピードは軽量なこちらの方が上のはずだが、どうやら向こうはいきなり全開に近い走り方をしているようだ。
(向こうの方がいいタイヤ履いてるのかな……いきなりこんなスピードで曲がれるんだもんな……)
驚きながら志智がコーナーを立ち上がろうとしてると、いきなりRVFが真横に並んできた。
ぎょっとしながら志智は右を見る。ヘルメットの中で、奥原は目を笑わせていた。
目の裏側が熱くなり、なにくそと排気量差も忘れてスロットルを握りしめる。どうやら追い抜くまでには至らなかったようで、第二コーナーが近づくと、RVFはスパーダの後方へ戻っていく。
(そうだろ……いきなり抜かれてたまるかってんだ……これならどうだ!!)
第二コーナー。ブレーキングもそこそこに、100km近い高速を維持したままで、志智のスパーダは右へとバンクする。
フロントのグリップ感がやや怪しいが、志智は十分いけると判断していた。
その感覚は正しい。バイアスながらもプロダクションレースですら使用される、スパーダのフロントタイヤは二回のブレーキングによって路面と摩擦し、押しつぶされ、しっかりと発熱していたのだ。
フルバンク。耳元で風がうずまいては、流れ去る。
その冷たさにベンチレーションを閉め忘れたことを後悔する。だが、激しい熱を帯びた脳内の麻薬物質が、すぐに気温のことなど忘れさせてくれる。
(……ちっ!!)
理想的な高速コーナリング。しかし、アクセルを全開にしながら志智がミラーをみると、RVFの姿は同じ距離にあった。
ぞくり、と嫌な感覚が背中を這う。コーナーの進入から脱出までずっと張り付かれている。
(ってことは……つまり……!!)
この平坦な区間ではブレーキング、コーナリング、立ち上がり加速━━すべての要素において、奥原のRVFはスパーダと同レベルにある。
「……いや。それ以上かも、な……」
川野駐車場からふるさと村信号までの通称『大人区間』。
RVFのヘッドライトがハイビームへ切り替わった。志智のスパーダをあおり立てるように、背後数メートルから猛烈なプッシュが続く。
もちろんプッシュといっても、前方にいる志智にはいかなる物理的影響も及ぼしてはいない。
だが、レーシングマシンと異なり、公道用のモーターサイクルにはミラーがある。常に左右のミラーからヘッドライトの反射を浴びせられるストレスは、相当なものだ。
「……くっ!!」
ふるさと村信号を抜け、登り傾斜が厳しくなると、いよいよ志智は苦しくなる。
そして、ヘリポート手前の直線区間で、奥原のRVFはいともあっさりとスパーダを抜き去った。
品の良いV4の排気音が、後方からではなく、前から聞こえるようなった。
追い越された志智の方がため息をついてしまうほどのパワー差。たった150ccの違いとは、とても思えないほどにRVFは鋭い加速を見せる。
(何馬力出てるんだ、あれ……パワー競争じゃとても勝ち目はないな……)
刹那、さすがに無謀な勝負を挑んでしまったかな、という後悔が脳裏をよぎった。
だが、その先。
左手のヘリポートをゆるやかになめていく高速コーナーの進入で、志智は意外な事実に気がついた。
(……なんだ?)
奥原のライディングフォームが違う。
ハングオンスタイルであることは志智と同様だが、そのモーションが意外なほど小さいのだ。
リーンインと言ってしまってもいいほどの、ささやかな姿勢変化。尻を軽くずらして、上体をイン側へ向ける。
しかし、それだけだ。大きく膝を突き出すでもなく、RVFはゆるやかに車体を傾けていく。
そのバンクも妙に遅いが、絶対スピードはもっと遅い。
時速70kmも出ているかどうか。危うく追突しそうになった志智が、軽くリアブレーキを踏んでしまったほどである。
「な、なんだ? 何かミスったのか……?」
ブレーキングミスだろうか。それとも、こちらは気がつかなかったが、路面が少し湿っているのだろうか……。
(でも、それにしたって……コーナーが遅すぎないか……?)
次の右コーナーでも、RVFはやたらとのんびりコーナーを回っている。
しかしそれでいて、奥原は立ち上がりでしっかりアクセルを開けてくる。そのたびにパワーの差が出る。スパーダとの車間は大きく離れてしまうのだ。
(……間違いない、な。
遅い━━コーナーが遅いんだ……理由はわからないけど……!!)
三回。奥原のコーナリングを見つめて、志智はそう判断した。おそらく自分の後ろについていた時は、冷や汗ものの限界走行だったのではないか。
(俺が曲がれるコーナーなら、同じスピードで曲がれる……そう思って突っ込んできたのか!?
なにかっこつけて無理してるんだよ……!)
これならいける。いけるはずだ。
そんな思いを胸に、志智はコーナーで差を詰める。
しかし、立ち上がりで再び離される……またコーナーで詰めては離される……そんな繰り返しが、幾度も幾度も続く。
「な、なんなんだ!?
遅いなら遅いで、さっさと譲れよ! くそっ……!!」
志智が奥原に抱いていた尊敬は侮蔑へと。
そして期待は失望へと、急速に変化していく。
あの男は敬意を抱くべきベテランではなく、諦めの悪い老人なのだ……退く気がないなら、抜いてやればいい!
だが、三鳥栖志智はこのとき、気づいていなかった。
奥原は遅い。自分の方が速い。
━━それなのに、なぜRVFはスパーダの前にいるのだ?
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「もうずいぶん暗くなってきましたけど……お兄さん、大丈夫ですかね」
「まあ志智のことだから、そう簡単に転けたりはしないと思うけど……ヨ。
いくつか心配があるわな」
「?」
午後四時のスタートからおよそ10分後。
志智と奥原がもつれあいながら、月夜見第一駐車場を折り返すころ、川野駐車場では『おやっさん』が目を丸くするティックに対して、講釈顔で人差し指を立てていた。
「まず……ヨ。モタロリちゃんの弟くんよ。
志智のスパーダとあのじーさんのRVF。
マシンの性能は負けてる。エンジンから、何から何まで……全面的に、ヨ」
「向こうは本格的なレーサーレプリカですもんね」
「軽さだけはスパーダが上だが、それにしたってどうかな……RVFはよく曲がるからな……ヨ」
過去に競り合った経験でもあるのか、『おやっさん』の言葉は妙に実感がこもっていると、ティックは感じていた。
「あっ、でもお兄さんはいつも格上のバイクに勝ってるじゃないですか」
「そうだよなあ。志智の奴はそこがすげーよなあ……ヨ」
「はいっ、そこが格好いいと僕も思います」
きらきらと目を輝かせながらティックは言う。
『おやっさん』はまぶしすぎるライトを見てしまったときのように、顔の前へ手をかざして、一歩後ずさった。
「へ? なんです?」
「い、いや、なんでもねえ……ヨ。
弟君はこんなに素直でいい奴なのに、若い女の子ってのはどうしてああかなあ……」
「はあ」
別れた妻や子供に思うところでもあるのか、『おやっさん』の言葉は妙に実感がこもっていると、またしてもティックは感じていた。
「……けどな、弟君、ヨ」
「はい?」
「もう一つまずいポイントがあるんだあなあ……こいつがヨ」
そう言いながら、『おやっさん』は再び人差し指を立てる。ただし、それが意味するのは注目ではなく、数字だった。
「それは、一時間。
長いことえんえん走り続けるってことだ……ヨ。
志智の奴、そんなに長く攻め続けた経験はないはずだからヨ」
「えっと、長時間走行で集中力が続かないってことですか?」
「いや、それだけじゃねえんだ、ヨ。
長い間競り合うとな……格上のマシンの方が有利なんだ……ヨ。
つまり、どういうことかって言うと━━」
「志智はスパーダの軽さに賭けて、限られた領域で戦うしかありません。
けれど、RVFはパワーの差でいくらでも突き放すポイントがありますわ」
不満げに『おやっさん』の言葉を遮ったのは亞璃須だった。いつの間にかゴシックロリータは脱ぎ捨てて、レーシングスーツをまとっている。
「おおっ!? モタロリちゃん、どうしたんだヨ。
今から走るつもりなのか?」
「その呼び方、やめてほしいんですけど……志智にもしものことがあったら、わたくしがあのベテラン風吹かせたクソタバコジジイを撃墜しなくてはなりませんから。
その準備ですわ」
「ベテラン風っていうけど、姉さん、あの人は本物のベテランだと思うんだけど」
「だ・ま・り・な・さ・い」
「……はい」
口を挟むな、とばかりに亞璃須から睨みつけられて縮こまるティック。
「ううう、姉さんいつにも増して怖い……」
「おいおい弟君よ……さっきから何でモタロリちゃんはあんなに荒れてるんだ……あの日か?」
「そ、そんなの知りませんよ……千歳ちゃんならともかく……」
「何をこそこそ言ってますの!?」
「い、いやあいやあ、何でもねえ、何でもねえ……ヨ」
「あはは……姉さんは、あの人が気に入らない……み、みたいだね」
「……当たり前ですっ」
鼻を鳴らして亞璃須は山の方角を見た。
今、このときも川野駐車場をめざして駆け下りて来ているはずのスパーダとRVFを透視するかのように。
日原院亞璃須の青と黒の瞳が、秋から冬へと装いを変えつつある、大多磨の山を見つめていた。
「まったく志智ったら、わたくしというものがありながら、あんなロートルに……!!」
「で、でも、よくわからないけど、先輩ライダーから何か学ぼうとしているのは、悪いことじゃないと思うけど」
「黙ってなさいって言ったでしょ!! たとえ理屈はそうでも、気に入りませんわっ!!」
「あひいっ!!」
亞璃須は力任せにティックの尻を蹴り上げ、本来プロテクションのために仕込まれているトゥーガードが、少年の柔らかな臀部へ食いこんだ。
「まったく! まったく志智ったら!!
わたくしというものがありながらぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「ひいいいい!
ね、姉さん、痛い! ほんとに痛いっ! お願いだから手加減してっ!」
「きぃぃぃぃぃぃぃぃっ!
あんなに情熱的にキスしたばっかりなのに! 志智のばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ひぃぃん! あぃぃん!!
ね、姉さん、そこは……は、入っちゃう……もう蹴らないでぇぇぇ!!」
「こぇぇ……こぇぇ……ヨ……女は……こぇぇ……」
ティックの尻を全力で蹴りまくる亞璃須を眺めながら、『おやっさん』は別れた妻のヒステリーを思い出していた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
午後4時のスタートから、20分後とほんの少し。
(……ははは。何やってんだ、あいつら……)
最初に川野駐車場を折り返すとき。
志智は尻から煙をあげるティックを踏みつけながら、亞璃須が何か叫んでいるのを見た。
それは驚くべき状況ではあったが、クスリと笑える光景でもあった。しかし同時に、『おやっさん』の妙に心配げな表情も印象に残った。
そして、さらに20分後。
(……っ、まさか……ひょっとして)
正確には午後4時43分。再び川野駐車場へ戻ってきたとき、尻を押さえながらうずまくるティックの傍らに立つ亞璃須の表情をみつめる余裕は、志智に残っていなかった。
もちろん『おやっさん』の表情も判然とはしない。
けれど、最初と変わっていないはずだと、今の志智には言い切れる。
(これって……そういうことか!?)
依然として、前を走り続ける奥原のRVFを睨みつけながら、志智は愕然とした。
ああ、声が届くなら。『おやっさん』に一言いってもらえていたなら。いくらでも対策を立てられたはずだった。
しかし、スパーダのセパレートハンドルに巻き付けられた腕時計は、既にスタートから40分以上が経過したことを示している。次に川野駐車場へ戻ってくるのは、もう勝負がついたあとなのだ。
「くそっ……あのじいさん……遅く走ってるんじゃなくて、こっちをブロックしていたのか……!!」
第一コーナーの立ち上がりで、志智はまざまざと奥原の意図を思い知らされる。
わずかにヘルメットが動き、奥原はミラーを見た。
そして、こちらの位置を確認すると、立ち上がりの加速ラインをふさぐように、ほんのかすかな右方向への移動をおこなう。
それは注意していなければ、コーナーの立ち上がりに際して、ごくごく自然にマシンがスライドしているようにしか見えない。
(信じられない……よく知らないけど、ブロックって、もっと露骨にやるもんじゃないのか……あんなやり方もあるのか……!?)
志智にとって、ブロックされていること自体に、土壇場まで気がつけなかったのはショックだった。
そして、集中の糸が切れたかのように、疲労感が押し寄せてくる。
これまでの二周分、志智はしゃかりきになってRVFを抜き去ろうとし、幾度か車体を並べるところまで迫っている。
だが、それでも前へ出ることはかなわなかったのだ。どれだけの集中力と体力を浪費したことか。
しかし、追われているはずの奥原といえば、ろくにハングオンもせず、体を痛めつけるような走り方はまったくしていないのだ。
「向こうが有利……そうか……確かに今の状況だと、そうなのかもな……」
四肢が突然、重しをつけられたかのように動きにくくなる。フロントブレーキを握りしめる、ただそれだけの動作が億劫で仕方がない。
腰をずらして、地面へ膝を突き出すと、今にもふくらはぎの筋肉がつりそうだ。
スロットルをワイドオープンするたびに、これほど殆ど感じたことのなかったVTエンジンの震動すらも、不快なインプットとして伝わってくる。
「くそっ……! ちくしょう……! やりやがったな、くっそジジイめ!!」
知らない間に詐欺の被害者になっていたかのような、やり場のない怒りだけが志智を駆り立てていた。
だが、登りの間は勝負にならない。
何しろ立ち上がりは、RVFが完全にふさいでいるのだ。スパーダはパワーで明確に劣っており、いくらブレーキングとコーナリングで差を詰めようとも、脱出時のラインをすこし調整されるだけで、理想的な加速を封じられてしまう。
対して、RVFの側はというと、排気量の差で少々いい加減なアクセル操作であろうとも、スパーダを一気に突き放すことができる。
(前……前にさえいなければ……ちょろちょろと……くそっ!!)
『鉄溝渡り』の区間へさしかかる頃には、夜のとばりが視界を支配していた。
ヘッドライトで照らされるわずかな領域以外は、ライダーにとってただの闇。そこに何があろうと、確認することもかなわない暗黒の世界。
ならば、前方にだけ集中できるだろうか。
そうではない。見えない領域が圧倒的に多いということは、高速で走り続けるライダーの神経を、想像以上に苛むのだ。
「前が見えない……ぜんぜん見えないのに、なんであんなに突っ込んでいけるんだ……ヘッドライトが二つあるから、平気なのか!?」
速度120km。月夜見第一駐車場へ駆け上がっていく直線区間で、RVFが猛然と加速する。スパーダは一歩どころか二歩も、三歩も出遅れている。
だが、コーナーで追いつけるはずだ。
志智はまだ楽観していた。これまで二度もそうだったのだ。
今度も同じ━━そんな甘い考えにすがったのは、彼を痛めつけている疲労と無関係ではなかっただろう。
(………………!!)
されど、現実は非情だった。
三鳥栖志智はその時、はじめて奥原一征が本気で走るときのコーナリングフォームを見た。
マシンにまたがっているのではなく、ただ、ぶらさがっているような限界ぎりぎりのハングオン。
そのコーナリングスピードは、志智を抑え込み、コントロールし、ブロックし続けた時のそれとは、一線を画していた。
「速い……何がなんだか……もう、とにかく速い……なんなんだ……!?」
登りがほとんど終わろうとするタイミングで、奥原が本気になったことは、志智にとってほんの僅かではあっても、有利な要素だった。
なぜなら、登りで徹底的に差をひろげられていた場合、月夜見第一駐車場を折りかえして、下りになったとしても到底、追いつけないからである。
下りならば。軽いスパーダが有利な下りなら。
今や志智は、その考えにすがるしかなかった。
疲労という過電圧で焼き切れそうな脳神経の回路を、必死でつなぎとめながらフルブレーキングと高速のコーナリングを続けていく。
傾斜がキツく、コーナーのRが厳しい『鉄溝渡り』では確かに差が詰まっていった。
そして、『52段のどん詰まり』。
減速帯を乗り越えるたびに突き上げるような振動が、今は恐ろしくてたまらない。
(ここだ……いけっ……!!)
それでも志智は右手に意識を集中させて、理想的な急制動に成功する。スパーダの標準よりわずかに小さい丸目ヘッドライトが、RVFのテールへ接触しそうなほど接近した。
ハイビームが照らす奥原の背中と、左に突きでたサイレンサーが笑っている。
立ち上がりの直線でまた差が開く。
抜けない。このままでは前に出るポイントがない。ハンドルに巻き付けた腕時計の時刻は、もはや暗くて読み取れない。
(今、何時だよ……50分くらいか……もっとか!?
もう5時になってるんじゃないのか……!?)
本当は既に勝負がついているのではないか。
さもなくば、今このときにも。数分後にも。
自分の負けが決まってしまうのではないか。
「くそっ……!!」
志智の両肩で二つの力がせめぎあう。
天使は言う。やめてしまえ。がっくりと肩を落としてしまえ。そして負けを認めるのだ。そうすれば、楽になる。
悪魔は言う。いいや、まだだ。残された力を振り絞るのだ。勝負はついていない。こんな負け方ほど惨めなものは、ないではないか。
(……そう、だ、な)
三鳥栖志智はその時、悪魔を崇拝した。
「負けるにしても……負けてもいいけど……せめて一矢報いないと……な!
かっこ悪すぎるよな!!」
『一線』を越えない、と。
この勝負を始める前に、三鳥栖志智は奥原一征と約束した。
(……それは)
一線を越えず。巨大な危険を冒さず。
(VTRの時みたいな……ことはしないで)
それでいて、奥原のRVFを撃墜できるチャンスはあるのか?
「あるとしたら……あそこだけだ……あの場所で、勝負だ!!」
前を。
奥原の背中と、その先に流れているはずの━━記憶にある大多磨周遊道路の景色だけを、志智は睨みつける。
(80点……いや、90点つけても、いいかもしれないな)
この時まで、勝負のすべては奥原一征の思い通りに推移していると言ってよかった。
長時間のライディングは無理だろうと侮っている若者に、経験というものの恐ろしさを見せつける。
マシンの優位を徹底的に生かし、悟られぬようブロックラインを維持しながら、自らの疲労は抑え、相手の消耗を誘う。
(それでも……さすがに限界だ)
だが、充実感と一体になって奥原を襲っているのは、今この瞬間にも破裂しそうな悪心━━気持ち悪さだった。
かつては鈴鹿の耐久レースにも出場したことのある自分が、たった一時間ほど峠を走り続けただけで、こんな状態になってしまうとは、ショックだった。
(三半規管がGでやられているのか、内臓から来ているのか……筋肉も苦しいが、こっちが来てしまうとはな……)
そもそもツーリングにおいては、一時間以上休憩なしで走り続けることなど、日常の域だ。
まして奥原のようなバイクブームの全盛期を知っている世代ともなれば、『攻める』状態で何時間も走った経験も決して希ではない。
夜間走行についても同じことだった。
むしろ、奥原が峠に通っていた時間は夜の方が多いくらいで、昼間は取り締まりも一般車も多いと、敬遠していたほどなのだ。
「メンツは保ったが、内実はひどいものだな……これからは少し自重した方がいい……か」
既に勝利を確信し、反省へと思いを馳せていた奥原には、その時、油断があった。
まもなくふるさと村の信号という区間。厳しい下り傾斜と連続するコーナーがやっと落ち着き、なだらかな直線が出現した━━そのタイミング。
(……うっ!!)
ミラーを見た。まだ、コーナーの進入までには距離があるというのに、いつの間にかスパーダのヘッドライトが間近に迫っている。
(ここで来たか……!?
確かに、ここは下りでも特にスピードが乗る……そしてフルブレーキングで飛び込んでいくS字と低速コーナーの組み合わせだ……制動勝負というわけか!)
慢心だった。こみ上げそうになる気持ち悪さをもてあましかねている間に、後ろのスパーダはよほど強烈なプッシュをしていたのだろう。
これほど距離を詰められているとは、まったくの予想外だった。
「しかし……抜けんよ。これで終わりだ!!」
ブレーキングへ入る。皺だらけの右手に力をこめながら、奥原はスピードメーターのパネルへ貼り付けた時計を見る。
自己発光式のそれは、スパーダのハンドルへ巻き付けられた安物腕時計と違って、夜間であっても正確に時刻を確認できた。
「………………ふっ」
満足げに、そして慈しむように微笑むと、奥原はギアを一速落とした。
フロントブレーキの減速に、シフトダウンによるエンブレがくわわり、RVFは必要以上に速度を落とした━━いや、失った。
ミラーの中でスパーダが大きくなり、そして消える。
「いい……走りだな。若いの……」
ブレーキングで奥原のインを差す形で、志智のスパーダは前へ出た。
遠ざかっていく赤いテールランプを眺めつつ、奥原一征はアクセルを緩め、もう一度時計を見た。
表示は━━午後5時1分。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「はっはっはっ! いやあ、年は取るもんじゃないな!
最後の最後で差されてしまったよ……何しろもう腕に力が入らなくてな!!」
「は、はあ……どうも」
川野駐車場へ戻ってくるなり、やたらと上機嫌で背中を叩いてくる奥原に、異様なものを感じつつも、志智はひとまずの安堵に身をゆだねていた。
(俺は勝った……んだよな。
やりたい放題やられちゃったけど……土壇場で逆転……できたんだよな……?)
だが、勝利の達成感はまったくわいてこない。
(どうしてだろう……)
未熟な少年は、自分が相手の作戦に翻弄されつづけ、疲労困憊状態だからだと、推測するしかなかった。
「でも……奥原さん、凄かったです。
あんな走り方もあるんですね。勉強になりました」
「それはそうさ。
大体、ここ一発のタイムなど峠で出しても意味がないんだ。
峠のテクニックってやつはな……もっと奥深いものだ。対向車や不意の障害物の処理……安全マージン……それも重要だ。
しかし一番大切なのは、疲労をコントロールすることさ。ずいぶん意地悪い教え方になってしまったが、よく分かっただろう?」
「はい、それはもう……本当に疲れました……」
口にしながら、志智は握手でもかわそうかと、一歩前へ右足を進めた。
「ぃっ……」
その時、ふくらはぎに激痛が走る。
「っ……ぐ……いっ痛ぇぇぇぇぇぇぇぇ……!!」
「おお、攣ったな。
あっはっはっ、鍛え方が足りんぞ、若いのになあ」
「うぐっ……い、痛い……くくっ、くぅぅぅ~……」
「屈伸だ、屈伸。そのあと、攣ったところをよく伸ばして……そう、力をかけないようにな」
激痛に苦悶する志智を見おろしながら、奥原は愉快そうにタバコを吹かしていた。
そして、どこか納得いかない顔でたたずむ亞璃須を見つけると、にんまりと笑ってみせる。
「なんだ、お嬢さん。いつの間に着替えたんだ。
やる気満々じゃないか。何ならこれからもう一戦いくかね?」
「……冗談でしょう? 志智が勝ちましたから、もうあなたに用事はありませんわ。
だ・い・た・い、400ccのマシンなんかに、大型で喧嘩を売るのは不公平というものですわ」
「ふふふ、そうかもなあ!
何しろ250ccに負けてしまった私だからな。そこにあるビッグシングルには、手も足も出ないだろうなあ。
恐ろしくてたまらないので、さっさと退散させてもらうよ」
そう言いながら、奥原はヘルメットをかぶるとRVFのエンジンを始動させる。
まるで怪我でもしているかのように、足をやや引きずりながら、マシンへまたがった奥原を見て、亞璃須は一言。
「……のらりくらりと。キツネみたいなおじいさんですわね」
「私みたいなのはタヌキというんだよ」
古狸の両玉がぶらさがるように、両足をステップへ載せないままで奥原は走り出し、そして去った。
排気音に混じって、亞璃須はなにか喉元まで出かかったものを押さえ込んだような声を、聞いたような気がしたがおそらく錯覚だろう。
「……はあ。それにしても、調子が狂いましたわ。
吉脇。あなたは今回の勝負、どう見ました?」
「そうですな。
志智様が手加減してもらったわけではないと思いますが、かといってあの老体が掛け値無しの全力だったかというと……疑問が残りますな」
亞璃須の問いに執事は淡々と答えると、出番を失ったXR650Rをハイエースへしまい始めた。
「志智のスパーダも載せてちょうだいな。
あと、足を冷やすものも何か用意しておいて」
「かしこまりました、お嬢様」
「あれっ、姉さんスパーダ載せちゃうの?
あ、あのさあ……もう真っ暗だし、僕、できれば車で帰りたいなあって思ってたんだけど……」
「あなたはグロムがあるでしょう?
さすがに三台は乗りません。暗いからなんだっていうんです。自走して帰りなさい」
「うううっ……さ、寒くて暗いのに……嫌だなあ……『おやっさん』は勝負が決まったら、すぐ帰っちゃったし……」
落胆しながらティックはヘルメットをかぶり、尻を押さえてさめざめとむせび泣いた。
そんな弟に冷酷な一瞥を向けると、亞璃須は地面に座り込んだ姿勢で、右足を伸ばしている志智に歩み寄る。
「まったく、そんなになるまで頑張るなんて。
志智らしくもないですわね」
「今回ばかりは……その忠告、真摯に受け止めるよ……いてて」
「……本当に。まったくもう」
膝をついて背中から志智を抱きしめると、亞璃須は耳元でささやくように言った。
「そんなに速くなりたいなら、もっとわたくしを頼ってくれればいいのに、どうしてです?」
「……どういう意味だよ」
「志智。
あなたがサーキットを走りたいというなら、わたくしが最新のSSも、ライセンス取得費用も、ぜんぶ用意してあげます。
オフロードコースでジャンプしたいというなら、新型のモトクロッサーと装備をそろえてあげます」
「………………そういうの、いやなんだよ」
「どうして? どうして、そんなことを言うんです?
あなたは━━三鳥栖志智は、わたくしの特別な人。
だから、あなたはわたくしに頼っていい。
ううん、命令したっていい。わたくしはあなたの言うことなら、何だって聞きますわ」
「……亞璃須」
「そのくらい……そのくらい、わたくしは。
日原院亞璃須は。
あなたに……三鳥栖志智に依存しているんですもの」
「………………」
「志智だって、もっとわたくしを頼ってくれないと………………いやです」
首筋に、雨粒が一つ落ちた。
「……わかったよ」
志智が右手をあげると、亞璃須は濡れた頬を押し当ててきた。
澄ました顔の吉脇がスパーダをハイエースへ押し込むのを見ながら、志智はこう言った。
「えっと……それじゃあ、とりあえず、な。
一緒に帰ろう。ああ、いや、違うな……一緒に帰って……これも違う。
おい、亞璃須。俺と一緒に━━帰れ」
「もちろん。喜んでっ」
日原院亞璃須はとびきりの笑顔で、三鳥栖志智の頬に口づけた。
見上げれば、彗星が輝くはずだった空には、ペガサスが翼を広げていた。
そして、季節が終わる。
モーターサイクルの季節が。大多磨周遊道路へ集うライダーたちの季節が終わろうとしていた。




