~Episode of Spring XII~
土曜日の朝は惰眠と共にあるのが、本来、三鳥栖志智の日常である。
「……おは」
「わぁっ! お、おにいちゃんがこんな時間に起きてるっ!
なに? どうしたの? 風邪? 悪い夢でも見たの!?」
「……普通の時間に起きただけで、どうしてそこまで言われるんだかな……」
広々とはとても言いがたいキッチンとの共用スペースへ顔を出すと、洗濯の途中だったらしい千歳が、世界の終わりを目撃してしまったような顔でむかえてくれた。
「えっと、それでおにいちゃん。
本当にどうしたの? あんまり寝てないでしょ? 体調わるいの? 添い寝してあげた方がいい?」
「中学生の頃のお前じゃあるまいし
10時にティックの奴と待ち合わせているんだよ」
「へえ~、いいなあ。
そっか。ティックくんもバイク乗ってるんだもんね。ツーリングにいくの? 亞璃須さんもそうだけど、一緒っていいなあ。
わたしもバイクの免許とろうかなあ」
「………………いや、それはダメだ」
きっと心の底からそう思っているのだろう。無邪気な千歳の笑顔に、志智はどこか暗い瞳で首を振った。
そして、仏壇の方向へちらりと視線を投げる。
「俺はともかく、お前に何かあったら、父さんと母さんに申し訳が立たないからな」
「あ……うん。それじゃあ、おにいちゃんの後ろがいいな。
おにいちゃんのスパーダって二人乗りできるんでしょ」
「いや、それは━━」
「別にティックくんのバイクでもいいんだけど」
「━━あいつのはダメだ125ccしかないから二人乗りしたらエンストするぞあと亞璃須のやつもレーサーだから一人乗り登録とか言ってたなとにかくダメだどうしてもっていうなら俺の後ろに乗せてやるから一週間前に予約しろいいな千歳」
その反応はカリカリにチューニングされたエンジンの吹け上がりより早く、言葉をつむぎだす速度はどんなドラッグレーサーよりも鋭い。
「ぜぇ……ぜぇ……」
「う、うん、わかった。おにいちゃん、息切れてるけど、大丈夫?」
「と、とにかくタンデムはダメだからな。
どうしても。本当ぉぉぉぉぉぉぉぉに、どうしても乗らないとまずいときは俺に言うんだぞ。いいな」
「くすっ」
きっと三鳥栖千歳はなぜこんなに兄が慌てているのか、気づいていない。
彼女は邪推しないから。この世の悪意や敵意といった感情は、彼女に決して近づこうとしないから。
ゆえに、千歳は善意と愛情をもって、志智の行動を解釈した。
「おにいちゃんがわたしに危ないことをさせたくないって思ってくれるの、とっても嬉しい」
「……千歳」
「でも、わたしね、おにいちゃん。
おにいちゃんがそう思ってくれてるのと同じくらい……ううん、きっとそれ以上、おにいちゃんに危ないことをしてほしくないの」
「………………」
「だからね」
細い指がお湯で濡らしたタオルを絞る。
眠たげな、そして沈痛な志智の顔がぬくもりで包まれる。
「えへへ、おにいちゃん気持ちいい?」
「あ、ああ……」
「うん、よかった。
……だからね。もしどうしても危ないことをしなくちゃいけないときは……わたし、おにいちゃんと一緒がいいな……」
「千歳……あのな、俺は━━」
「安全運転でいってらっしゃい、おにいちゃん」
「……ああ、いってくるよ」
時計の針は午前9時を回ったところだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「あっ、おはようございますお兄さん」
「ティックか。悪いな、ちょっと遅刻した」
「いえ、ぜんぜん平気ですから」
地方であれば国道沿いに呆れるほどつらなっている道の駅は、しかし東京都に限ると、一つだけしか存在しない。
道の駅・八王子滝山。
国道を走り疲れたトラックの運転手がのんびりと休める場所でもなければ、首都圏からの旅行者が集う場所でもなく、中央道八王子ICや国道16号、同20号の至近ということもあって、どちらかと言えば待ち合わせや小休止に適したスポットと言えるだろう。
地元産の野菜や土産物をもとめる行列も、『遠くまで旅行にいくほどの時間がない都民が、観光気分を味わいたくてあつまっている』といった雰囲気である。
「ここはバイクがいっぱい並んでますし、見てるだけで飽きないです」
「そうだな。休日のこの時間だからな……お前のグロムも結構注目されてるみたいだぞ」
「あはは、さっきおじいさんに「軽くて楽しそうだね」って言われました」
「そうか……本当は、そういうもんだよな」
志智自身、見るからに軽くてコンパクトなグロムの車体をみていると、これに乗ったらどんな走り方ができるだろうかと思ってしまう。
(まあ、スパーダでも結構窮屈なくらいだし、シフトも一苦労かもしれないけどな……)
すくなくとも両足ベタつきどころの話でないことは、確実だった。
「それじゃあ、行くか。お前が先行していいぞ。
道はわかるか?」
「あっ、はい。姉さんに聞いてきました。ここを出て、右に曲がって……バイパスが新しく出来たから、圏央道のあきる野インターまでいけるって」
「そうだ」
「慣らしも終わったので、できるだけ邪魔にならないようにきびきび走りますね」
「ああ……」
半分に切りとった輪のようなチンガードのついた、ジェットヘルメットをかぶるティックにうなずき返しつつも、志智はどこかほっとしていた。
(まあ、安全運転で……な。
こいつを前で走らせれば、大丈夫だろう……)
セルの音につづいて、あわせて三気筒分のエギゾーストノート。
高架が連続する新滝山街道をティックのグロムと志智のスパーダが走る。休日であるにも関わらず、二人の目に映る交通量は決して多くない。
もともとは狭苦しい国道411号のパイパスとしてつくられたこの道路だが、なんといってもその利点は、信号がすくないことだった。くわえて片側二車線の高規格となれば、モーターサイクルにとっては飛ばし放題にも近い道である。
(そうそう……普通に走るっていうのは、こんなもんだよ、な)
メーターの示す針はゼロと60の間をのんびりと往復している。
しばしば車にも追い越される。途中で白馬に補足されている犠牲者がいたが、いまの志智達には無縁と言えた。速度計測の光電管を道のわきに見つけても、平然と通り抜けられるだろう。
戸吹のトンネルをぬけると、左手には東京サマーランド。そのまま直進して、左折。睦橋通りに入る。
五日市の駅前で左へ曲がれば、その先は檜原村だった。住宅地がどこまでも続くような東京都下の匂いは一気にうすれ、地方の山中とほとんど変わらないたたずまいが見られるようになる。
檜原村役場の先にあるT字路をいったん右折して、豆腐屋のおから入りドーナツで腹ごしらえをする。
「おいしいですね、これ」
「だろ。
コンビニで売ってる大多磨わさび入りのおにぎりもいいんだが……こいつが一番かな」
ケータイのカメラにドーナツをおさめているティックを見て、そういえばこういう使い方もするんだよなと、志智は思う。
(千歳のやつにも1台くらい持たせてやった方がいいのかな……)
バイク便の仕事中にしかケータイというものを使ったことのない志智にとっては、その便利さも楽しさもどこか遠い世界のものに見える。
「……バイクみたいなもん、か」
「はい?」
「いや、実際に使ってみたり乗ってみないと分からないことってあるよな」
出発。道を折り返して、先ほど曲がったT字路を直進。いよいよ檜原街道の本番だった。
見通しの比較的よい直進区間が思い出したようにあるかと思えば、厳しいコーナーが連続しつつ、集落を貫いている。
いきおい発生するのは、ファミリーカーやバスを先頭にした渋滞だった。
渋滞といっても、それなりの速度は出ているのだが、見通しのききにくい檜原街道で体感するいらだちは相当なものだ。
(さて……ここからは我慢だな)
志智の脳裏にはまだ、千歳の「安全運転で」という声がこびりついている。
が、そのときティックが何かを確認するように、後ろを振り向いた。
志智は手のひらを上へむけてみせる。先が詰まっているからお手上げだな。そんな思いを込めたつもりだった。
━━しかし、ティックから返ってきたのは、親指と人差し指でつくられた『○』。
「ちょ……!?」
左手に蕎麦屋がみえる直線。数台の車とバスを一気に追い越そうとするティックのグロム。
125ccなりの加速ではあるものの、乗り手の軽さも効いているのだろうか。意外な機敏さで先頭へ出る。
志智もスパーダのスロットルをひねり、あわやというところで追従する。
「なんだなんだ……おい」
ハンドサインの意味を知らない志智は、自分の仕草が『もっとペースを上げろ』だったことなど想像だにしない。
コーナーが続く狭隘区間を、驚くほどのクイックさでグロムが駆け抜ける。しかし、そのバンク角は大したものではない。志智はティックに続きながら、自分がスパーダを想像以上に深く傾けていることに驚く。
ずいぶんエンジンが回っているな、と思いながらメーターを一瞥して、志智はさらに驚愕した。
(80km!? あいつ、こんなスピードで走れるのか?)
完全なブラインドコーナーと厳しい登りでは速度が落ちるものの、ティックのグロムは普段、志智が走るペースとほとんど変わらないレベルで、檜原街道を駆け抜けていく。
大多磨周遊道路へ入り、都民の森へ到着した時間は予定よりかなり早かった。
「お前……結構うまいな……」
「そうですか?」
ヘルメットを脱いだティックの表情には汗一つない。
ライディングウェアの常として、地味めなデザインで固められたジャケットもパンツも、要所要所にプロテクターが入っていることに志智は初めて気づく。
(どうにもこなれてると思ったら……意外に本格的というか)
対して、志智の髪の毛はぐっしょりとぬれている。
「お兄さんすごい汗ですね。体調でも悪いんですか?」
「い、いや、お前がいつ転けたりしないかと冷や汗がな……。
まさかあんなに走るとは思わなかったぜ」
「アメリカにいた頃は、姉さんと一緒にモトクロスをやっていたんです。
あと、家の近くに山とかダートがあって……よく走り回っていたんですよ」
「そ、そうか。いつ頃からなんだ」
「えっと、僕がはじめたのは、姉さんが10歳の時だから……8歳の時ですね」
「……それからずっとか?」
「ええ。趣味レベルですけど、たまにキッズレースに出たりもしました」
「………………そうか」
その時、三鳥栖志智はなぜこのモーターサイクルなどに全く縁がなさそうな少年が、自分よりよほどマシンの種別やカスタムに詳しいのか、ようやく納得できた。
「あ、あのっ、もしかして高得点ですか?」
「何がだ?」
「僕っ、いま言ったみたいにバイクの経験は結構あるんです。8年くらい!
これってお義兄さん的には高得点ですよね!? 千歳ちゃんと清く正しいおつきあいをするのに、十分な━━」
「お・ま・え・みたいな、バイクに染まりまくった男にそんなことを許すかあああああああああああああああ!!」
「いひぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!! お、お兄さん、骨っ……頭の骨がきしんで大変なことにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
無数のモーターサイクルがあふれかえる都民の森に、少年の断末魔が響き渡る。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
ティックが頭の痛みを感じなくなるまで休憩すると、都民の森を出て、大多磨周遊道路を片道一本。
まだ約束の時間には余裕がある。もっと、夕方を待たなくても、思いのほか交通量はすくなく、勝負に支障はなさそうだった。
「あれ」
「ごきげんよう、志智」
小河内湖側へ出て、川野駐車場へ到着すると、そこにいたのは何かをやり遂げたような顔の亞璃須と、ぐったりとうなだれている男達の集団だった。
「何があったんだ……ツナギ着てるところ見ると、走ってたのか」
「選別を済ませておきましたわ」
「……選別?」
「4ミニと一口にいっても、それを速く走らせることのできる技量を持っている者は、決して多くありません。
志智と競い合う資格のない方は、そもそも走るべきではありませんから」
「よくわからないが、そんなことを頼んだ覚えはないぞ」
半眼の志智が男達の集団へ視線をうつすと、どうやら彼らは先週も来ていた4ミニの乗り手達らしかった。
誰もが「こんなはずじゃなかった」とでも言うように、プライドを打ち砕かれたような顔で、うなだれている。
そして、その集団から少し離れた場所に、引きつった顔で立っている男が二人。
小太りのメガネと、痩身の男━━原牧と細木である。
「……亞璃須、お前何やったんだ?」
「ですから選別ですわ。
まあ、この方達なりに練習のつもりだったのでしょうね。
朝から走り込んでいらしたので、後ろから煽りに煽ったり、ブレーキングでインをついたり、いろいろと」
「お前なあ……」
「もちろん、志智の獲物であるそこの二人には手を出していませんわよ」
にっこりと笑って、亞璃須は原牧と細木を指さした。
その瞬間、金髪ツインテールの少女に対して、びくりと体を震わせる男二人。
なんとも情けない構図だが、亞璃須がやったのはそれほどの事なのだろう。
(そりゃまあ、こいつが本気でいじめにかかったら、手がつけられないだろうけどさ)
自分がつけようとしていた落とし前を、横からかすめとられたような気がして、志智としては面白くない。
「まあ、いいや。原牧『さん』に細木『さん』。
時間は少し早いけど、準備はいいか?」
「おっ……おおおっ、おおおらあああああ!
や、やってやるからなっ! お前なっ! お前なんか、大型でもねーマシンなんざ、怖くもっ……怖くもなっ……えと、お前なんてーんだっけ?」
「三鳥栖志智だ。別に覚えなくてもいいよ。
こっちは日原院ティック」
「えっ、え? 僕……ですか?」
自分を紹介されたことが予想外だったように、志智は辺りをみまわすと、最終的に姉へ視線をむけた。
「ね、姉さぁーん」
「当たり前のことですわ。
これは確かに志智の勝負ですけど、あなたも日原院の男なら、自分のバイクを馬鹿にされて引き下がるようなことは……ありませんわよね?」
「そ、そんな……僕、公道でレースなんてしたことないよっ……」
「かるーくちぎってあげればいいんです。
言っておきますが、志智以外に負けたら、明日の朝まで食事抜きですわよ」
「ひ、ひどいよー!!」
「言い訳は認めません。スタート時間はケータイで連絡するように」
「ね、姉さん……ううう」
「……まあ、そこの二人はともかくとして、基本的には俺達だけの勝負だ」
じろり、と。
一際鋭い志智の視線が、原牧と細木を射貫いた。たじろいだように一歩後ずさる原牧。プライドが邪魔でもするのか、唇をかみしめてじっと耐える顔の細木。
「月夜見第一からの下り勝負だから、いったん上……だな。
さあ、はやくあがろうぜ」
「あっ……ああ……おまっ、お前なんかっ……ミ、ミラーの点だ!
すぐにだからな!!」
「……くっ、くくく。言っておくが、お前に勝ちはない……俺達に勝ったとしても……」
「?」
どこか虚ろな目で笑う細木に、おもわず志智は眉をひそめる。
「……勝負に参加するのは……俺達ふたりだけじゃない……くっ、くく」
「ああ、そうだな。
もともと、そのつもりだ。助太刀でも何でも大歓迎だぜ。なんなら、そこでやる気をなくしてる連中、全員引きずってきてもいい」
「悪いが……くくっ。
もう一人……いる。そいつはもう上で待機している……」
「ふうん」
その時、志智はいかなる警戒も覚えていなかった。
(たった三人か)
本来ならば、まとめて十人ばかり相手にするつもりだったのだ。それを亞璃須が勝手に削ってしまって、むしろ不満があるくらいだった。
(誰が相手だろうと、ぶっちぎってやる)
もう一人の相手はすでに上で━━つまり、月夜見第一駐車場で待機しているという。
どんな奴だろう。こいつらのようにいけ好かない性格なのか。それともそうでないのか。
(まあ、いいや。すぐに分かる)
無言で志智はスパーダのセルを回す。走り出したスパーダのあとを、三つの単気筒サウンドが追いかける。
「行きましたわね」
「そうですね」
「もうわたくしが走ることもないでしょうから、着替えます。
吉脇、アイスティーを用意しておいて」
「かしこまりました。お嬢様」
ハイエースの中へ入り、カーテンを閉める亞璃須へ一礼しつつ、執事・吉脇秀護は携帯電話を耳にヘ当てた。
「ええ、そうです。今、あがっていきました。ざっと10分後くらいでしょうか。
始まったら、ワンコールします。」
その言葉に月夜見『第二』駐車場にいる男は、にんまりと笑った。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「……あんたか。俺は太多泰輝だ。よろしくたのむ」
月夜見第一駐車場は大多磨周遊道路一の景観をほこり、小河内湖全体を見下ろすことができる観光スポットである。
志智たちが到着すると、そこには小柄だが、がっしりとした体つきの男が待っていた。年の頃は原牧や細木と変わらないように見えるが、とにかく筋肉質な体つきである。
薄汚れた無塗装の白カウルをまとったマシンは、間違いなく4ミニの眷属なのだろうが、モーターサイクルの知識に乏しい志智には、車名がわかるはずもない。
「三鳥栖志智。とりあえずよろしく」
「若いな。学生か。
先にいっとくが、俺はそこの原牧と細木とはネットで軽いつきあいがあるってだけだ。
公道での勝負に手を貸すほどの義理があるわけじゃない」
「そ、そんな太多さぁーん!」
「こんな若造、かるく捻ってやってくださいよぉー!!」
「……てな具合にな。土下座しそうな勢いで頼まれたから、仕方なく来てやっただけだ」
男が猫撫で声を出すと、こんな具合になるのだろうか。
気持ち悪いにも程がある、いやらしさ全開の高音に、太多は嫌悪感を隠そうともせず、そう言った。
「それにまあ、実際のところ下りだったら、俺はSSにも負けないつもりなんでな……ニーハンなんぞでどこまでやれるか、ちょっと興味があったのも事実だ。
お前さん、ずいぶん粋がってるんだって?」
「いや、俺は━━」
それは、かなり挑発的といってよい言葉のはずだった。
おそらく原牧と細木の両名は、志智のことをよほど歪曲して伝えたのだろう。
「………………そう、ですね。
粋がってますよ。俺は」
だが、今の三鳥栖志智にとっては、どこか心地いい。
挑発が。敵対心が。闘志が。憎しみや殺意ですらも。きっとこの身には心地よい。
(なんだが、今のお兄さん……怖いなあ)
傍らで僅かな怯えを見せているティックの存在も、いまや志智の眼中にはない。
「フン。正直なやつだ。
軽く教育してやるぜ……世の中ってもんをな」
「楽しみに、してます、よ。
スタートは五分後でいいですか、太多さん」
「俺はいつでもかまわない。好きに決めろ」
「……おっ、おお! おおおおおお!
おおっ、おー、お、太多さんにかかればなあ! お前なんて、お前なんてなあ!!」
「くくく……すぐに吠え面……せいぜい敗戦の弁でも考えるべき……すぐにするべき……」
「ぷっ」
志智の口から笑い混じりの息が吹き出す。
それでいて、瞳はまったく口元に追従していない。
「たまには━━黙れよ、デブとガリ」
「………………なっ!」
「………………くっ」
「ん、なにか?」
さすがに怒りをこめて向けられた原牧と細木の視線も、燃える氷のような表情で志智は受け止めている。
(………………フン)
その黒い瞳にある匂いを、太多泰輝はなぜか知っていた。
それは彼が31という年齢でありながら、フリーのジャーナリストとしてアフリカ諸国を渡り歩いた経験を持っているゆえかもしれない。
その匂いは飢えた国でよく嗅いだ。戦乱の土地でも充満にしていた。薬物におぼれ果てた者には、必ずといっていいほどつきまとっていた。
(なんなんだろうな、こいつ……年はまだまだガキのはずだが……)
そのとき太多泰輝は━━三鳥栖志智の瞳に、確かな死の匂いを感じ取っていたのである。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
走り出したのは、原牧のホンダ・ゴリラが最初だった。
特に順番を決めていたわけではない。なんとなく車格の小さな順番から先に出ただけである。
細木のKSR110が機敏なダッシュで続き、ティックのグロムがそれを追いかけると、太多は白カウルのマシンに愛機にまたがったまま、志智を見た。
「お前が先に出てもいいぞ。
もし、俺が先行すれば……すぐに見えなくなって、そのまま終了だからな」
「それはどうかな。さんざんケツに張り付かれて、ひどい思いをするかもしれませんよ」
「フン……大型のXRなんぞにいびり倒されてた奴らと、こいつを一緒にしてほしくないね」
野太いゴリラとKSRの排気音はすでに消え失せようとしている。
大きなアドバンテージがつくりあげられようとしている中、太多と志智は睨み合ったまま動かなかった。
「三鳥栖とか言ったな。
公道登録して走れるレーサーがエンデューロマシンだけだと思ったら、大間違いだぜ」
「あいにくと、俺、そういうの全然分からないんですよ」
「なら御託は不要だ。たっぷりとその目で拝むといい━━俺のNSF100がどれだけ速いのか!」
その言葉と共に、太多泰輝はスロットルを全開。
(うぉっ)
4stのそれとは思えない高音質な色を含んだ、パンチのある排気音が響き渡る。
NSF100が走り出す。クラッチミートが異常にクイックだった。軽くフロントをウィリーさせながら、白い車体が月夜見第一駐車場を飛び出していく。
「速い……こいつは、かなり……」
ぞくぞくと。
志智の背筋へ冷水を垂らしたような感覚が走る。
VT250スパーダのタコメーターが跳ね上がり、赤いマシンが動き出す。
しかし、乗っている志智自身がよくわかる。太多の━━NSF100のスタートダッシュは、あきらかにスパーダよりも速い。
「こいつは……かなり……面白い!!」
三鳥栖志智が恍惚にも似た感覚を味わっている頃。
およそ2km遠く、標高にして150m高い月夜見『第二』駐車場からは、一台のモーターサイクルが彼らすべてを上回るほどのロケットスタートで、発進していた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
(わっ……!!)
白い車体が、コーナーの途中でティックが乗るグロムの真横をかすめていく。
そして、あっという間に立ち上がりで遠くなり、次のコーナーへ消えていった。
日原院ティックはモトクロスコースの経験が長いだけに、公道走行前提の市販車とレーサーの間に、絶対的な性能差があることはよく承知している。
オンロードレースの経験がないとはいえ、無塗装の白カウルがサーキット走行を前提としたレーサーの標準装備であることも理解している。
それでも、日本の公道を走ることを許された状態で、そんなマシンがピンクのナンバーをぶらさげている光景は、じつに異様だった。
(本当に公道登録したレーサーなんだ……姉さんのXRみたいな大型以外にも登録できるんだなあ……)
まだ道は半ばにも至っていない。標高1000m弱の地点から一気に小河内湖の湖畔へくだっていく大多磨周遊道路の下りは、そこを速く走ろうとすればするほど、クレイジーの一言に尽きる。
「姉さんは全員抜けなんて言ってたけど……ちょっと難しいんじゃないかな……っ!!」
まだ劣化らしい劣化もみられないフロントブレーキの感触に満足を覚えつつも、コーナー入り口で教科書通りの制動。
だが、その効率の良さは峠の走り屋レベルを軽く凌駕している。
ティックからすれば、大多磨周遊道路の路面はミニサーキットとほとんど変わらない極上のターマックである。
オフロードコースで瓦礫と砂と石粒を相手にして、飛んではアクセルを全開にし、後輪をスライドさせながらコーナーを曲がっていたことを思い出せば、ティックがふつうに行う制動は自称・上級者のフルブレーキングにも匹敵すると言ってよい。
(二気筒の排気音……お兄さんのスパーダかな)
コーナーの先をにらんだまま、視界の隅でミラーを確認する。ティックの感覚からすると、公道では達してはいけない次元のバンク角で、志智のスパーダがすぐ背後に張り付いている。
(すごい……)
コーナー立ち上がりでグロムの走行ラインを左端に寄せる。
先を譲ろうというティックの意志は、おそらく志智に伝わっていなかった。センターラインをかすめながら猛然と加速するVT250スパーダ。重力の助けを借りているとはいえ、その加速力は最高馬力を大きく削られたノーマルのホンダ・グロムでは決して望み得ないものだった。
(すごいな……あんなふうに走られたら……確かに姉さんも惚れちゃうのかも……)
右へ大きく回り込むコーナーの直前でスパーダのブレーキランプが点灯する。そのままフロントがジャックナイフして、前転してしまうのではないかという超急制動を、三鳥栖志智はハングオンに備えて、シートから腰をずらしたままの姿勢で当然のようにこなしている。
コーナーの半ばからアクセルオン。前へぐっと飛び出すタイミングが明らかに早い。
そんなに早くアクセルを開けてしまって曲がりきれるのかと、反射的にティックは危惧する。しかし、志智がそうしているのなら曲がれるのだ。コースを知るということは、そういうことである。
そして、大多磨周遊道路をせいぜい片手で数えられるほどしか走ったことのない、日原院ティックには決して出来ない所行である。
「あはは……ダメだな……姉さんがお兄さん『以外』って言ってたわけがよく分かったかも……」
━━ほんの僅かに。本当に少しだけ。
誰よりも早く川野駐車場に飛び込んで。姉の賞賛を受け。志智に認めてもらって。
(千歳ちゃん……まだ遠いみたい……)
そんな願望は早くも崩れ去ったとはいえ、それでも彼には、明日の朝までの食事を確保する戦いが残っていた。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「うぐうううううううううううっ!! こ、こここっ……こいつぅぅぅ!!」
すでに細木のKSR110はおろか、太多のNSF100もまた、彼の前方へ去って久しい。
原牧のホンダ・ゴリラは徹底的に金を注いだカスタムを施しているとはいえ、どちらかといえばドレスアップが主目的であった。
モンキーよりハンドル周りに余裕があり、APEよりコンパクトなミニバイクがホンダ・ゴリラである。
おそらく、いかなる身長の人間でも『乗るだけなら何とかなる』最下限のマシンであるゴリラは、モンキーと共に無数の改造パーツがリリースされており、高性能をめざすこともできれば、原牧のように外見を重視してカスタムすることも、自由自在だった。
「こっ……この、俺が……VTなんかにっ……ぐぐぐっ!!」
だからといって、原牧のゴリラが下りで遅いというわけではない。
━━では、なぜ走り出して数分も経たないというのに、自分は250ccの鈍重なマシンに張り付かれているのだろうか。、
性能が負けているわけではないはずだ。
前後のサスペンションは当然のようにリプレイス。125ccまでボアアップされたエンジンに残っているオリジナルパーツは、クランクケースくらいなものだった。
3速全開。85kmを指すメーターとグリップに伝わる振動。そして、奈落の底へ落ちていくようなGが恐怖を運んでくる。
ブレーキレバーを握りしめた。ウェーブロータータイプのディスクブレーキにパッドが食い込み、高熱と発すると共に減速がはじまる。
同時にスロットルを全閉。マフラーからパン!とアフターファイヤーの音が鳴る。この音を周囲に誇示したいがために、ダウンドラフトタイプのFCRキャブレターはスロージェットを薄めにセットしてあるのだ。
(どうだ、これで!!)
ついてこられまい。所詮、100kg以上もあるような重すぎるマシンには、決して出来ない制動を自分は見せつけている。今にも奴の距離は開いていく。
否。
「うっ……嘘だあああああああああああああっ!?」
刹那、原牧の前に出現したのは、VT250スパーダのテールランプ。
すぐ右サイドをかすめるように、ブレーキングでゴリラを追い越したスパーダは、そのままフルバンク。バックステップも接地せんばかりの勢いで、等間隔に並んだセンターポールの至近をなめていく。
「なあっ……なっ……なんだっ……なんでだあああああああっ!?」
なるほど、確かに自分は細木や太多に比べれば遅いかもしれない。
けれど、それでも原牧は4ミニという車種が持つ優位性を確信していた。信仰していたと言ってもよい。だが、それが目の前で完膚無きまでに打ち破られたのは、ショックだった。
「はっ……はは……はっ、はあ……」
コーナーの立ち上がりを加速し損ねて、縁石にタイヤをこすってしまう。
あわててシフトダウン。再加速しようとする側を、ティックのグロムが追い越していく。
「あっ、あんな……ドノーマルにまで……」
最新の騒音規制にも適合するグロムのエギゾーストノートは、あっという間に聞こえなくなる。
プライドがずたずたに打ち砕かれたその刹那。
しかし、原牧は紫の閃光を目撃した。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「こいつ、意外と走るな……」
原牧のホンダ・ゴリラを抜き去った志智は、『鉄溝渡り』の区間で細木のカワサキ・KSR110をとらえていた。
志智にとって意外なことに、細木の技量は原牧とは比較にならないほど上だった。
ライムグリーンのミニモタードマシン。ジムカーナやミニサーキットで定番マシンの一つであるKSR110を、細木は快調に走らせている。
その軽量と前後のハイグリップタイヤをうまくいかしたブレーキングは、さすがの志智もなかなか割り込む余地を見いだせない。
「コーナーもくいくい曲がるし……小さいバイクって、あんなに違うもんなのかな……?」
小径タイヤがコーナリングにどれだけ寄与するか知らない志智は、100km近い領域でも平然とタイトコーナーを駆け抜けるKSR110の姿が意外に映る。
━━もっとも、それをなしているライダーは。
(……く、くくくっ……くぅっ……ううううううう!!)
細木の心臓は今にも喉から飛び出しそうだった。
たった数回参加しただけのミニサーキット走行会を「そもそもサーキットでは……」と自慢げに語る材料としている彼だったが、その卑小な精神性に比して、腕は確かである。
志智が感心するブレーキングも、安定したコーナリングも、それがいかんなく発揮されていると言ってよい。
「はぁっ……!! はあ……! はあっ! はあああああ……!!」
とはいえ、腕がどれだけ確かでも、体力が万全でも。
(こ、こわ……怖いっ……キツい……!!)
持久力は、心にも存在する。
ガードレールに立てられたポールがあり得ない速度で流れていく。路面の凹凸が読み取れなくなる。
三桁の速度で減速帯を一つ超えるたびに、経験したことのない突き上げが襲う。
「こっ……これが……来た……!!」
細木の眼前には長い下りのストレートと、無数につらなった赤い減速帯。そして、続く右コーナーがある。
『52段のどん詰まり』である。がくがくと上下に鳴動するKSR110。
強化されたサスペンションも、小径タイヤの悲しさで連続する減速帯を安定して乗り越えるには至らない。
「ほげっ……!!」
タイヤの接地感が薄れる。じんわりとブレーキレバーを握りつつ、乱暴にシフトダウン。尻を振りながら、速度が落ちてくれるのを待つしかない数秒が、拷問のように長い。
━━その様子は、後方から隙をうかがっていた志智にとっては、この上ない好機だった。
(チャンス!!)
『52段のどん詰まり』が悪路であることは、志智のスパーダにとっても代わりはない。
しかし、路面に対する熟練度が違う。タイヤの大きさが違う。
さらには、ブレーキの技術は志智の方が圧倒的に上だった。
タイヤがロックするギリギリのタイミングを、減速帯という荒れ狂う路面の上で完璧につかむ。たった一つのコーナーの進入で実に二車体ぶんものを差をつけ、右へバンクすれば、あとは排気量の差でさらに差を広げる。
「お先っ!!」
「う、ううっ……!! くっ……ほ、ほぅ……!!」
よろめくように立ち上がるKSR110。細木は弾丸のように加速するVT250スパーダを見た。
大多磨周遊道路でも数少ないロングストレート。その速度は120kmにも達する。
シケイン状になった左コーナーをほとんどブレーキングせずにクリアする。細木の目にはそのライディングが、サーキットランとほとんど変わらない次元の攻め方に見える。
(あ、あいつは……おかしい……あんな狂った奴に……負けても……恥じゃない……俺が正気なだけ……間違ってない……)
『52段のどん詰まり』をクリアしても、アクセルを開けることも忘れたまま、そんなことを考えてしまうほどに、三鳥栖志智の走りは細木にとって常軌を逸したものだった。
が、瞬間。
(大型……四気筒の……音?)
何か近づいてきたようだ。
必死で競り合っている自分たちに追いつける奴がいるはずもないのだから、これはおそらく対向車線から━━
「━━うしろ?」
振り向こうとした瞬間、細木はシールドごしに猛烈な風圧を感じる。
そして深い紫色をした『何か』は彼を追い越し、消え去った。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「あと……一人!!」
全力で駆け抜ける志智のスパーダが、太多のNSF100に追いついたのは、しかし、ふるさと村の信号からすこし上がったヘリポート脇でのことだった。
すでに残すところは半分以下の距離であり、あれほど激しかった下りの勾配も、まもなく終わろうかという地点である。
(こいつはちょっとやそっとじゃ抜けそうにないな……)
後方から見ると、太多の走りはゴリラやKSR110とはレベルが違う。
そもそもライダーのポジションが違う。ゴリラもKSR110もほとんど直立した状態でシートに腰掛けていたが、太多はNSF100のタンクの上へ覆い被さるようにして、セパレートハンドルをつかんでいる。
その利点はモーターサイクルの技術には詳しくない志智にも一目瞭然だった。
ブレーキをかけるにしても、アクセルを開けるにしても、ライダーの姿勢が安定する。また、コーナリング中のハングオンも、どこかやりやすいように見える。
(へぇ……俺のスパーダもハンドルもっと下げたら、ああなるのかな……)
減速・加速・そしてコーナリング中の横Gを、恵まれた五体の筋力だけで押さえ込んでしまっている志智には、小兵ゆえに太多泰輝がかかえる困難はわからない。
(フン。追いついて来やがったか……原牧と細木を抜くかもしれないとは思っていたが、こいつ相当な腕だな……)
腕がちぎれるのではないかというほど筋肉がきしむ中━━発止!と一念をこめてコーナーを切り返す。タンクを膝で挟み込む。
ジャーナリストとして海外をまわっていた頃に、現地のミニバイクレースを見学したことが、太多にとって4ミニとの出会いだった。
ヨハネスブルク郊外のおもちゃのようなミニレース場。そこで走っているマシンは雑多であったが、共通しているのはすべて日本メーカー製の中古マシンということだった。
XR100、APE、YSRもいればドン亀のように遅いスズキのGAGもいた。カワサキの2stマシンであるKSR-2が、彼の見たレースでは優勝だった。
ここで走っているバイクはみんな日本製なのに、日本人のお前が知らないのは意外だ。現地のコーディネーターにそう言われて興味を持ったのがはじまりだった。
まとまった金を手にして日本へ戻ったとき、彼は埼玉県に居を構えた。荒川のほとりをサイクリングしていたとき、ホンダが経営する小さな飛行場に隣接して、小さなサーキットを見つけた。
両手で簡単に抱えられてしまいそうなミニバイクに、彼が乗ってみたいと思ったのは「これなら自分にも乗りこなせるだろう」という、いささか消極的な理由だった。
(それが今もって乗りこなせずにいるけどな……)
NSF100。
ホンダ製エントリーレーシングマシンを公道登録できるショップを紹介してもらえたのは、偶然のことだった。
もともと125cc以下のいわゆる『原付』を登録するかしないかの判断は、市町村の役所単位にゆだねられており、担当者とのつきあいや申請のためにそろえる書類にコツがあるという。
これが250cc以上マシンになると、そうはいかないのだ。
厳正な証明や型式データが必要であり、特に近年のマシンでは排ガス検査と騒音検査という、レーシングマシンにとってほとんど通過不可能な関門が待ち構えている。
「……ふっ!!」
気合い一発。目もくらむようなヘリポート脇の右コーナーを、全開で駆け抜ける。
ダイナミックに描かれる曲線は、先月に走った筑波サーキットの最終コーナーを連想させたが、あいにくと大多磨周遊道路にはエスケープゾーンなどない。
(何かあればジエンド、ってわけだ……!)
GPS利用の小さなスピードメーターは99kmをさしたまま動かない。自転車用のため、二桁しか表示できないのだ。
フロントカウルの中では、もともと備わっているタコメーターだけが元気に上下し、サーキットではラップタイムを刻んでくれる計測器は沈黙したままである。
「……っとぉ!」
僅かな路面のギャップでリアタイヤが吹き飛びそうになる。ああ、ここにピットがあれば。サスペンションを調整して、タイヤの空気圧もすこし抜ければ。
そう思わざるをえない。それなのに。
「俺はぎりぎりまでプッシュしている……なぜお前はついてくる!?」
赤いネイキッド。三鳥栖志智のVT250スパーダは離れない。
その理由は皮肉にも、太多を苦しめている路面のギャップにあった。
志智はこの一年で大多磨周遊道路を常識では考えられないほど多く走り込んでいる。その脳にはどのラインを通れば、もっとも平坦な路面を走れるのか、それが体感レベルでインプットされている。
もし太多がミラーを見つめ続けていれば、志智のコーナリングラインが自分のそれと時々異なっていることに気づいたはずだった。
しかし、前後左右、いかなるタイミングでも警戒を怠れない公道では無理な話である。
(厳しいけど、いけそうだな……あそこで抜くか……前はパワーが負けるから、奇策で押さえ込んだけど……今度はこっちが!!)
ふるさと村の信号が黄色へ変わるタイミング。ほとんどテールトゥノーズで二台のマシンは走り抜ける。
右へ車体をバンク。続くロングストレートで志智はタイミングをはかるように、NSF100の前へ出ようとする。車体半分も顔を出したところで、しかしスパーダは早めの減速に入った。
その仕草を太多は、パッシングしきれなかったのだと判断したが、そうではない。
先に待つのは、大多磨周遊道路随一の難所、川野のコークスクリュー。
下りながら左、右、そして左!! まるで脇腹をえぐり撃つラッシュのようなコーナーが迫る!
(くぉ……キツいぜ!!)
(さっきの感覚なら……抜ける!)
ぞっとするような感覚を味わいながら、太多が一つ一つのコーナーを丁寧にクリアしていく中、志智は最後の左コーナーにすべての照準をあわせる。
右サイド。センターポールぎりぎりから理想的なアウトインアウト。
フルバンク状態のまま、2速でアクセル全開。荷重が抜け気味のリアタイヤが一瞬空転する。
「……な!!」
パワーの差を生かした勝利だった。
両者共に大きく速度を落とさざるをえないコークスクリューで、太多はコーナーそのものをクリアすることに執心し、そして志智はコーナーの先で抜くための立ち上がりにすべてを賭けていた。
スパーダが前へ出る。路面は一気に平坦となり、NSF100は重力の恩恵を受けられないぶん、不利さが増す。
(こいつ……ブレーキが……うまい!!)
そして、志智の真後ろで太多はVT250スパーダのフル制動を見せつけられる。減速帯があるにも関わらず、そのブレーキングは自分のそれよりも明らかに効率的だった。
(跳ねる路面でどうやったらそんなことができる!?
オフ車じゃねえんだぞ!?)
現にスパーダの車体は少なからず上下動している。それでも、明らかに止まっている。エネルギーが殺されている。
(ダメだ……)
三つ。太多が追撃をあきらめるまでに要したコーナーはそれだった。
ブレーキングで追いつけず、コーナリングはせいぜい互角。これではどうあがいても大排気量のマシンには勝てない。小排気量のメリットである軽さが生かせないからだ。
「なんなんだ、こいつは……フン。
たかが峠と思っていたが、とんでもない奴がいるもんだな……」
半ば感動と共に、遠ざかっていくスパーダのテールランプを見つめていると、耳に太い爆音が聞こえてきた。
そして、彼もまた紫色の『何か』を見た。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「勝った……かな?」
太多のNSF100を抜き去ったあとも、志智は気を緩めていたわけではない。
しかし、限界に近いプッシュと、そこから一歩引いたアクティヴさには、精神的負担という点で巨大な差がある。
進入で無理はしない。的確に速度を殺すことにつとめ、それでいて高いコーナリングスピードを維持。
アクセルを一秒でも速くあけることで、パワーの優位を生かす。これで負けない。太多のNSF100を後方から眺めていた数分間、志智が導き出したシンプルにして正解にもっとも近い結論だった。
(ラストのロングストレート二本まで引っ張れば、俺の勝ちだな……)
繰り返すが、そこに気の緩みはなかった。
ただ、すこし周囲への注意力は散漫になっていたかもしれない。
結果として━━志智は直後に迫ったリッター4気筒の排気音に気づくのが遅れた。
「うおっ……!?」
右手に小河内湖。左手にはきりたった法面。
なんでもないコーナーの立ち上がりで、志智のスパーダは一台のモーターサイクルに追い越された。
流麗なデザイン。そのフレームもスイングアームも、構造部材のほとんどはアルミで形づくられ、LEDテールランプの現代的なデザインが、スパーダとは違う21世紀のマシンなのだと主張している。
(あっ!!)
そして、車体をおおう芸術的な曲線のカウルは、すべて深い紫でペイントされている。
「あのときの……!!」
志智が驚愕に目を見開いた瞬間、前方を走る谷川淳の2002年式YZF-R1はコーナー進入のための制動に入った。
猛烈な減速。そして、消えない。ブレーキランプの点灯が消えない。
フロントをぐっと沈め、ブレーキをかけ続けたまま、YZF-R1にまたがる谷川は大きく体をずらしてハングオン。
路面に膝のバンクセンサーをすりつけながら、コーナーを尋常でないスピードでクリアしていく。
「今っ……な、なんだ、それ!? なにやった!?」
ほとんど本能的に志智はそのテールを追いかけることを選んだ。コーナリング自体はついていけた。
だが、その後の加速は次元が違う。あっという間に差が開く。
そして、川野駐車場前。二本控えたロングストレート、一本目。
こちらが停止状態にあるのではないかと錯覚するほどの勢いで、谷川のYZF-R1は遠くなっていく。
「ふざけっ……こ、こんなに違うのかよ!?」
『おやっさん』のZRX1200と走ったときでも、これほどパワーの違いを味わったことはなかった。
右へ大きく旋回し、小河内湖にかかる香蘭橋を渡り終えるころ、YZF-R1の姿は志智の視界から消えていた。
「そんな……馬鹿……な……」
思わずスロットルから手を離す。
するするとエンジンブレーキで減速していくスパーダの車体が、エンジンが、まるで玩具のように頼りないものに思えた。
ォン、と。
YZF-R1が放つエンジン音の最大値が川野駐車場を駆け抜けたとき、日原院亞璃須はゴシックロリータ姿で、吉脇の用意したアイスティーのカップに口をつけたところだった。
「あの色……」
「ええ、見事な深紫でしたな、お嬢様」
「あなたが言っていたマシンですわね。志智とは何秒差がついたかしら」
「さあ、何しろスタートの時点で2kmほどの差がありますから……まあ、私が知る全盛期の彼であれば、1分は差をつけるでしょうな」
「わたくしの運命の人も、ずいぶん安く見積もられたものですわね」
「お嬢様、決して志智様を過小評価しているわけではありません」
姿勢を正してそう言った吉脇の目は、真摯そのものであった。
「たとえ才能があっても、彼はまだ若い……」
「………………」
「伝説という表現は、それにふさわしい実績を残した者に対して送られるのです。残念ながら、彼はまだ谷川淳と比べられるような存在ではありません」
「……一つ興味本位で聞きますけれど。
わたくしのXRとあのYZF-R1。今日みたいに下り限定なら、どう転ぶと思いますか?」
「その答えはお嬢様のご機嫌を損ねる恐れがありますな」
「正直に言いなさい。これは命令ですわ」
「では━━申し上げます」
谷川は笑った。
顔にはしわがあり、頭髪には白いものが混じっている。
しかし、その笑顔は少年のそれだった。
「到底、谷川淳に及ぶものではありませんな。手も足もでないと言ったところではないでしょうか」
「……素直でよろしい」
日原院亞璃須はそっぽを向く。
その表情は、程なくして川野駐車場へ戻ってきた三鳥栖志智が、ヘルメット脱いだときのそれと、驚くほどよく似ていた。
続いて太多のNSF100が、ティックのグロムが。かなり遅れてやってきたKSR110とゴリラは止まらずにそのまま通り過ぎていってしまった。
「なにやってんだあいつら……はは、負けたよ。
お前、大したもんだな。あーあ、ちょっとは自信あったんだがなあ……おい。もうちょっとうれしそうな顔していいんだぜ?」
「いや……俺は」
肩を叩かれても、志智の顔色は曇ったままだ。
「あなたの勝ちですわ、志智」
そして、亞璃須もまた同じ空の色を見せる。
「ま、あの二人に負けるとは思っていませんでしたけど……それにしてもレーサーを投入するなんて、ちょっとずるいんじゃありません?」
「なんだ、嬢ちゃん。……ああ、XRで走ってた金髪の子ってのはあんたか。
エンデューロレーサーだって十分反則だろ。ま、俺らまとめてSSの敵じゃなかったわけだけどな」
「………………っ」
ぎり、と鳴った歯の音は、しかし二つある。
理解しがたいほどの悔しさを全身から発散させている学生二人に、太多は不思議そうな顔で肩をすくめた。
「あの~……ね、姉さん」
「ティック! 明日の晩までごはん抜き!!」
「ええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!
よ、吉脇さんっ!」
「申し訳ありませんが、お嬢様の命令には……」
「そ、そんなっ……あの、お兄さん! 僕、健闘しましたよね! 結構頑張りましたよね!
そういうわけなので、明日までお兄さんの家に通いますから、千歳ちゃんの手作り料理を━━」
「死・ね」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!
か、かつてないほど痛いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!! ほっ、ほんとに僕の頭蓋骨ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
「お前ら……変な奴らだな……」
遠くから見るなら、その光景は。
少々乱暴ではあっても。ドン引きしている太多が異様ではあっても。
楽しく、愉快そうな日常の一ページであるかもしれない。
(くそっ……!!)
(忌々しい……ですわ!)
形の上では勝利があった。しかし、心には深い敗北感が刻まれた。
その曖昧模糊としたやりきれなさは、梅雨の空模様のごとく。
晴れ渡る夏空がやってくるまでには━━すこしく遠い。




