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~Episode of Spring XI~

「だっせえライトだな! それに見ろよ、このマフラー!

 海苔でも入れてんのか!?」

「……くくっ。

 おいおい、やめとけよ……大型みたいなサイレンサーに憧れる奴が乗るバイクなんだよ……」

「ありえねえええええええええええええ!!」

 そのホンダ製モーターサイクルは海外名をMSX125。そして、国内仕様をグロムという。

 日本では今月になって発売されたばかりという最新モデルを、しかし嫉妬でもなく、羨望の裏返しでもなく、心の底から馬鹿にした表情で囲んでいるのは、4ミニ集団の中でも二人の男だった。

「こんなに重くてよう、止まるもんも止まらねーだろ、おい!」

 一人は特に大きな罵倒の声をはりあげている小太りの青年。

 おそらく30にならないといった年の頃だろうか。銀縁のメガネが汗にぬれて、気味の悪い輝きを放っていた。

「だからやめとけよう……くくく。こういうのはな、下りのブレーキングで慌ててスリップダウンするような奴向けに、もともとブレーキも弱くしてあるんだよ。

 止まらないのは重さだけのせいじゃないぜ……」

 もう一人は痩身の男。小太りのメガネと同年代だろう。やや背が高く、無造作に伸ばした髪を適当に背中でしばっている。

 その語る言葉こそ穏やかではあるものの、口元には薄暗い侮蔑の笑みが常に浮かんでいる。

 4ミニ集団は他にも七、八名ほどいるものの、二人を止めようとする様子はない。

 消極的な同意、という雰囲気で眺めているだけだ。

「あはは……」

 そして、悪意の矢面に立つ少年は、がっくりと肩を落としながらうつむいている。

「ティック……言いたい放題言われてるが、いいのか?」

「い、いいんですよ。あんまり走らないバイクなのは事実ですし、まだ慣らし終わってないですし」

「んなことねーだろ。最新モデルなんだろ。なあ、おやっさん?」

「志智……ヨ」

 志智の問いかけに、しかし『おやっさん』の顔色は渋かった。

「そいつはお前さんが生まれる前の常識だな」

「なんだって?」

「今は……ヨ。

 排ガス規制に騒音規制……いろいろめんどくさい世の中だ。新型が出るたびに重くなって、パワーも落ちるって相場が決まってるんだ……ヨ。

 特に小排気量はなあ」

「そういうものかもしれないけど、バイクの速さを決めるのは腕じゃないか」

「とはいえ……ヨ」

『おやっさん』は小太りのメガネと痩身の男――二人が駆るマシンへと目を向ける。

 一台はホンダのゴリラ。そしてもう一台はカワサキのKSR110。

「ありゃあ、相当いじってるぜ」

「だから腕だって」

「それにしたって、あの感じじゃ……重さは100を大きく切ってる。

 90とか80とか……もっと軽いかもしれないな。

 エンジンもばっちり手を入れてるだろうから、加速もパンチがあるだろうし……ヨ」

「よく分からないけど、加速なんて排気量次第じゃないか。

 4ミニっていうことは、2stじゃないんだろう?」

「志智、おめえ……ヨ」

 祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。

 わびさびすら含んだ表情で『おやっさん』はゆっくり首を振ると、志智の肩に手を置く。

「なんつーか、マジでバイクのこと、知らねえんだな……ヨ」

「まあ、それは否定しないけど」

「え、えっと、お義兄さん。

 あのお気遣いは嬉しいですけど、あの二台はどっちもボアアップもしてると思いますし、パワーも僕のグロムよりずっと上なんですよ」

「ボアアップっていうのが何なのかは知らないが、その発言は許されないからな」

「あ゛い゛だだだだだだだだだだだー!!」

 沙羅双樹の花の色。妹に言い寄る男必衰の理をあらわす。

 殊勝な表情のティックに、容赦のない志智の右手がつかみかかり、頭蓋がきしむ音と悲鳴が、倒錯的なハーモニーを奏でる。

「ううう……またバレた……」

「意外に抜け目のない奴だな。むしろ感心するぞ。

 で、ボアアップっていうのはなんだ?」

「えーっと、その、簡単に言うと排気量を増やすんです。パワーがあがります」

「ボアアップしたあいつらのバイクと、お前のグロムだと━━あいつらの方が速いんだな?」

「あ、はい。むしろボアアップしなくても、吸排気……えーとマフラー変えたりするだけで、速くなります」

「それじゃあ、俺のスパーダと比べたらどうだ」

「えっ」

 三鳥栖志智はおごれる人ではない。

 そして、日原院ティックが聞いた言葉も、春の世の夢ではなかった。

「もちろんVTの方がパワーはありますけど……」

「よくわかった。授業料代わりにちょっと行ってくる」

「え……えっ? え? あの、お兄さん?」

「おい、志智……ヨ?」

 ティックの戸惑う声も、制止するような『おやっさん』の言葉も聞こえていない様子で、三鳥栖志智はグロムを囲んだ二人に歩み寄っていく。

「よう、あんたら」

「な、なんだあ!? お、お前は! この、でかいなあ、おい!」

「……くっく。でかいだけじゃ、パ、パワーウエイトレシオが下がるんだけなんだけどなあ……」

「俺はそのバイクの持ち主の関係者だよ。

 さっきからずいぶん礼儀知らずなこと言ってくれるじゃないか。

 あんた達がどういう集まりか知らないが、そうやって他人のバイクをけなすのが趣味なのか?」

「はっ……はー!! なんだなんだそういうことか!

 ばっかでー! 俺達はなあ! せっかく4ミニ乗ってるのに、しょっぼいから悪いところを採点してやってるだけだよ!」

「……くっくっく。どんなバイクも乗り方が悪かったら、宝の持ち腐れ……もっとも、ふん詰まりマフラーのこいつじゃ、たかが知れてるけどな……」

「………………ふーん」

 この二人を志智から見て。

 その悪意の根にあるものをそれぞれ推測するならば、なんだろうか。

(なんていうか……さ)

 自意識の過剰。

 そして、他人を見下さずにいられない性分と言ったところだろうか。

(きめえ奴ら)

 その判断を下した瞬間、三鳥栖志智の中でわずか引っかかっていた『年上へ向けるべき敬意』は消滅した。

「そうか。ずいぶん自信があるんだな。

 あんたらきっと速いんだろうなあ……他人のバイクを、乗り手の腕も見極めずに馬鹿にしまくるくらいだもんなあ……すげえなあ……」

「そ、そりゃーそうよ!!

 大型だろうがなんだろうが、下りじゃ俺達にはついてこられねーんだよ! そいつを分かってない身の程知らずが多くてな、さっきも一台SSをかるーくぶっちぎって━━」

「そいつはすごい。じゃあ、250ccくらい相手にもならないよな?」

「……くく。どんなバイクでも同じ……こっちから見たら重すぎ、曲がらなすぎ、止まらなすぎだ……」

「へえ~?」

 志智はあえて挑発の感情を隠すこともなく、語尾をつりあげてみせた。

 嘘くさいな? 本当かなのか、信じられないな?

 そんなニュアンスを存分にこめて。

「な、なんだ今のは! 生意気だぞ、このっ……でかいのが!!」

「……くっく。見たところまだ学生みたいだけど……素人が大人をなめないほうがいい……忠告しておくよ……」

「生意気なのか、なめてるのかどうかは、実際に速さを比べてから言ってほしいな」

「お、お前、俺達とやる気か!?

 みのっ、みみみ、みのっほど知らずだな……どれだけ離されても知らないからな!」

「ああ、それでいいよ。

 あんたらの得意な下りで走ろうぜ。月夜見第一からここまで、さ。それだけ口にする速さを見せてくれよ。

 別に今からでもいいんだが、そっちも準備があるだろうし……今度の土曜日、この時間でどうだ?」

「……戦わずに逃げ出したら不戦敗……それを忘れてはいけない……戒め……くくくくくっ……」

「おっおおおー! や、やってやんよおー!!

 けど、下りだからな! いいか、下りだぞおー!!」

 なぜ、志智が強気に出ているのか。

 そして、小太りのメガネと痩身の男が、どこか必死になって対応せざるを得ないのか。

「じゃあ、それで決まりだな」

 三鳥栖志智はうっすらと笑う。

 しかしそれは口元だけのことだ。

 その瞳には相手をその場に縫いつけるような鋭さがあり、長身からは闘志と怒気と、あるいは━━殺気にすら感じられるほど強烈な敵意を放つ。

(ありゃあこええよな……ヨ)

『おやっさん』はそんな志智を背中から見ているだけだったが、ゴリラとKSR110の乗り手にとって、どんな事態になっているのかは容易に想像がついた。

「あっ……」

 もっとも、傍らの少年は別の感情を持ったらしい。

「こっ、ここここっ、この学生ふぜいが調子に乗ってれりられれーっ!!」

「……くくくく。噛んでるぞ……落ち着くんだな、原牧……」

「ほっ、ほっとけよお、細木ー!!」

「原牧『さん』に細木『さん』ね。俺は三鳥栖志智だ。

 それじゃあ土曜日にな」

 敬称ではなく、蔑称をつけて呼ぶべき名前を一応、記憶しつつ、志智は踵をかえす。

 ティックと『おやっさん』はその時、ほんの残り香だけ志智の顔にのこった猛き感情を見た。

 しかしそれは、風の前の塵とおなじ速度で消え失せる。

「わぁ……わぁ……!

 お兄さん、すごいです!!」

「ん? 何がだ?」

「いえ、あの、なんていうか……かっこいいです!

 僕、ああいうことできないから、すっごく憧れます!」

「……そうか?

 別に俺達のいないところで何言っても勝手だと思うが、聞こえるところでバイクの悪口言われたらな……頭に来るだろ?」

「そ、それはそうですけど、すごいです!

 いいなあ……僕、わかりました!! 千歳ちゃんを振り向かせるには、さっきのお兄さんみたいな事が出来るようになればいいんですよね!!」

「やっぱりよくわからないが、とりあえず動機が邪なことは理解できたので、制裁しておくぞ」

「痛いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいー!!

 お、お兄さんどうしてぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

「それはそうと、志智……ヨ」

 先ほどに倍する頭蓋骨がきしむ音は、走り去っていく4ミニ集団の爆音にかき消される。

 残ったのは、空中にうかんだまま両手足をじたばたと動かすティックの叫び声と、深刻な表情の『おやっさん』のみ。

「お前、本当にあいつらとやるつもりか?」

「当たり前だよ。

 純粋にああいう奴らはむかつくんだ。別にぶん殴ってもよかったんだけど、喧嘩するのは千歳にとめられてるからな」

「バイク乗りらしい落とし前の付け方ではあるけど……ヨ。

 下り限定にしたのは失敗じゃねえかなあ」

「え? どういう意味だ?」

「いや、お前が好きでやるなら止めねえけど……ヨ」

「ああああああああああ、お兄さんんんんんんん、壊れるっ、壊れちゃいますううううううううう!

 僕の頭の骨がああああああああ!」

「………………」

 それ以上、詳しく語ろうとしない『おやっさん』の表情に、三鳥栖志智は少年の悲鳴も忘れて立ち尽くしていた。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「聞きましたわよ、志智」

「何がだよ」

 明けて翌日、月曜。

 四限目が終わり、昼休みがやってくるや否や、にやにやと笑いながら話しかけてきた日原院亞璃須に、志智は答えのわかりきった問いかけを投げつける。

 ねずみ色の空は時折、雨粒を落としてはふたたび黙りこくることを繰り返している。

 天気予報によると、台風が近づいているらしい。バイトのある夜に直撃すると困るな、と志智は思う。

「今度は下り限定でゴリラとKSRが相手ですって?

 わたくしのいないところで、そんな面白そうな勝手に勝負を決めるなんて、ひどいですわ」

「なんでお前の許可を求めなきゃいけないんだよ」

「それは━━あなたが! わたくしの運命の人だから!!」

「………………おい」

 両腕をひろげて亞璃須が宣言した瞬間、志智の頬杖から顎がおちた。

 周囲からは「またか……」という呆れ声や「なんで三鳥栖ばっかり」という恨みのこもった呟きが聞こえてくる。

「……お前な。そういうこと、教室で言うのやめろ。あまつさえ、大声で叫ぶの、もっとやめろ」

「どうしてです?

 わたくしは! ただ確定された事実を口にしたまでですわ!!

 それに、わたくしと志智の仲です。いまさら隠すことでもないでしょう?」

「……だからだな、『そういうこと』を大声で言うのやめろ」

「おことわり! ですわ!!」

 志智が半眼で制止をはかろうとしても、ますます事態は悪化し「今更ということは……!?」と言った女子の声や、「いつもは愛を込めたささやきを……おのれ三鳥栖!」という男どもの怨嗟も耳にする羽目になる。

(ティックの奴もそうだが、どうも海外帰りだと……なんていうか、こういうことをオープンにしすぎる感じだよな……)

 漏れる嘆息はどこまでも悩ましかった。

「で、それはそれはとして。

 志智、きょうのお昼ご飯はどうするんです?」

「そうだな、どこか体がすっぽり収まるところで膝を抱えて、孤独に食べたい気分だ」

「猫みたいなことを言いますのね」

「どうせお前に任せても、毎度毎度、同じ場所へ連れていくだろ」

「あなたが文句も言わず、来てくださるからでしょう?」

「……別にお前のためじゃない」

 教室を出る。廊下の中心を歩む。

 だが、肩を並べてという表現は、三鳥栖志智と日原院亞璃須のふたりにたいして適切なものではない。

 片や身長180cmを超え、片や150cmに満たない美男と美少女。

 それでいて、なぜか女の方は男をしたがえているような顔をしている。

 背丈の落差はおおきく。そして、男女の態度の差はなお激しいものだった。

「うふふ。なんだかとってもいい気分ですわ」

「……お前さ、俺を困らせているとき、やたらと楽しそうだよな」

「志智が喜んでいても、悩んでいても、わたくしが原因であるなら、それは素敵なことですから」

「さいっっってーな考え方だ」

「最っっっ高の褒め言葉ですわね」

 三年生用に割り当てられている校舎の三階から階段を下り、一階の購買前へむかう。

「あっ、お兄ちゃん~。ここだよ~」

「ど、どうもこんにちは、お兄さん」

「………………よう」

 混み合う昼時のレスト・スペースでは、すでにティックと千歳が席を確保していた。

「あー、よいしょっと」

「重っ!? あ、あのお兄さん、どうして僕の膝の上に乗るんですか?」

「ここは俺の席だ。俺が座る。お前は反対側へいけ」

「ううう……わ、わかりました」

「ん?」

 半泣きになりながら三鳥栖千歳の隣から退散する日原院ティックの右手は、やけに大きなビニールパックをつかんでいた。

「なんだそれ。無調整……濃厚牛乳?」

「あ、はいっ! 一リットルです! えっと、僕、背を伸ばしたくて。

 先週から毎日飲んでます! お兄さんくらい大きくなりたいです!」

「牛乳は健康にいいもんね。ティックくん、私も応援するね」

「ち、千歳ちゃんっ……ありがとう! ぼ、僕は嬉しい!!」

「………………ちっ」

「気が休まりませんわねえ、志智。わたくしの弟に身長抜かれたりしたら、どうします?」

「そんないきなり背が伸びるもんか。お前こそなんか持ってるな。無調整……豆乳?」

「イソフラボンたっぷりですわ」

「………………お、おう」

「………………姉さん」

 どや顔で胸を張る亞璃須を、いかなる大罪人をも救えそうな憐みの視線でみつめる志智とティック。

「豆乳も健康にいいんですよね。わたしも飲むようにしようかなあ~」

「……あ、いえ。妹さんはコーヒー牛乳あたりで十分だと思いますわ」

 そして、にっこり微笑む三鳥栖千歳へ、日原院亞璃須がむける視線の照準は、顔よりもずいぶん下よりだった。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


 それから数日。ある夜のこと。

「……よう、ずいぶん久しぶりじゃないか」

「いやあどうもどうも」

 東京都八王子駅前。とあるビルの一角。

 それは『飲み屋』と称するにはいささか静かすぎ、しかし『バー』と表現するほど敷居が高いわけでもない。

 決して混み合っているわけでもなく、だからといって閑古鳥が鳴いているほどでもない。

 気心の知れた集まりには、おそらくこの上ないロケーションであろう小さな酒場である。

「夜とはいえ、お暇をいただくのはなかなか骨でして」

「執事なんて時代錯誤な商売してるからさ。

 バイク屋は水曜なら堂々休めるから……な。気楽なもんだぜ。ほいよ」

「ああ、これはどうも」

 亞璃須の前では決して見せないであろう、年齢なりの『おっさん』らしい格好をした吉脇よしわきに、ビールの瓶をさしだしたのは祇園田宗義ぎおんだ むねよしだった。

 ほどよく、くたびれたポロシャツに1000円も出せば手に入りそうなチノパン。

 ほころびが目立つ靴も、安っぽい腕時計も、亞璃須が知らない彼の私物だった。

 祇園田も祇園田で、安っぽい上下のジャージは深夜にコンビニへ買い出しにでた中年男性が、迷い込んできたと称しても通用しそうなほどだった。

 ━━もっとも、台風が近づいている大雨の夜という点も考慮すべき服装ではあるが。

「で、本日の主役は」

「ああ、もう来るはずなんだがな。何しろこの天気だ……電車が立ち往生していたりしなきゃいいが」

 心配そうに祇園田が入口の方をふりむいたそのときだった。

「おっと、噂をすれば」

「……どうも。ご無沙汰しています」

 カジュアルなモスグリーンのスーツ。そこかしこを雨のしずくで濡らしたまま一礼した男のその顔を。

 吉脇は知っている。祇園田も知っている。

 そして、ここにいない三鳥栖志智も、知っているはずの顔だった。

「久しいですね、我が盟友」

「よう! ははは、すっかり懐かしいなあ、おい」

「月日は過ぎても、お互い変わらないですね。

 吉脇さん、祇園田さん。お久しぶりです」

 そこに立っていたのは、大多磨周遊道路で志智に2stの弱点をアドバイスしたYZF-R1の男だった。

 酒場の暗い照明のもとでは、その中性的な顔立ちがいっそう強調されて見える。

 若々しい。すでにテーブルへついている吉脇と祇園田と異なって、その顔立ちは青年のそれだった。

「老けたな、谷川」

 しかし、祇園田は言う。第三者が見たら、首を捻るようなその言葉を。

「あの頃のあなたなら、女性といっても通じたかもしれませんが」

 吉脇も言う。遠い過去の彼を知っているから。

「僕も寄る年波には勝てませんよ」

「はっ、小垂水峠最速の『かっとび3MAサンマ』も年を取る……か」

「あの頃、あなたに憧れていた人たちは、そんな弱気なセリフを聞きたくないと思いますけどね」

「昔は昔。今は今です。

 人間もバイクも年をとるから、世代交代があり、進化があるわけですから」

 ━━彼の名を谷川淳たにがわ じゅんという。

(不思議なもんだ……)

 かつて、東京近郊のバイク乗りなら誰もがその名前を耳にした小垂水峠。

 幾多の蛮勇と無謀が峠をかけぬけた時代。TZR250後方排気を駆り、最速の名を欲しいままにした伝説的な走り屋が、祇園田の前にすわっている。

(確かに老けた。しかし『俺たち』に比べりゃ……)

 その瞳も、肌も、そして発するオーラも。

『あの頃』から驚くほど劣化していないではないか。

「今でも……お前は走ってるんだよな」

「ええ、今でも。僕は走っています。

 もっとも、昔みたいな無茶はできなくなりましたよ。立場もありますしね」

「とぼけやがる」

「その割には、あの929は潰してしまったと聞きましたが……」

「吉脇さんには言ってませんでしたね。筑波のヘアピンでちょっと……ね」

「で、乗り換えたついでに、大多磨周遊道路最速の『深紫ディープ・パープルのYZF-R1』が生まれたわけだ」

 他人事のように語ってはいるものの、谷川の駆るYZF-R1を用意したのは祇園田の『ハング・オフ・モータース』である。

 遡れば、かつて谷川が乗っていたマシンを探してきたのは、いつも祇園田だった。バイクショップを開く前からそうだったのだ。

「最速だなんて、風が吹けば飛ぶような称号ですよ。

 バイクブームの頃とは違います」

「あの頃、無数の挑戦者から守り通した名前を、今のあなたが守れないとは考えにくいですがね」

「持ち上げないでください。

 きっと吉脇さんのところのお嬢様━━日原院社長の娘さんでしたか。彼女のXRにはかないませんよ」

「はははっ! ないない!

 周遊でSSの全開出せるやつが、エンデューロレーサーに負けるもんかって!」

「私も同意ですね」

 吉脇との関係はというと、谷川が峠の走り屋のみで終わることを惜しんだ日原院家の当主━━つまり、亞璃須の父親がレース活動のスポンサードをしたことに始まる。

 峠の走り屋出身でありながら、初レースをポールポジションで飾るという、信じがたいノービスクラスデビューにはじまって、国際級まで昇格した谷川のレーシングマシンを専門に整備していたのが、若き日の彼、吉脇秀護よしわき しゅうごであった。

「ところで吉脇さん、祇園田さん。

 日原院社長の娘さんといえば、面白い少年と付き合っていますね」

「ああ、志智のことか」

「面白い……確かに、我々のような生き残り組にとっては……そうですね。

 今時、あんなに面白い少年はなかなかいないと思えますね」

「僕もすこし話をしてみましたが、かなり見所があると思います。

 どうです、もう彼をどこかのコースで走らせたりしたんですか?」

「いえ、それが、亞璃須お嬢様から聞いたのですが━━」

 吉脇は週末に志智のスパーダが4ミニの集団と、大多磨周遊道路の下りで勝負することを伝える。

「あはははははははははっ! それはいいや!!」

 谷川は笑った。この世のどろどろしたものを何も知らない少年のように。

 あるいは、極上のチャンバーをつけた2stレーサーレプリカが、パワーバンドへ入った瞬間の排気音を響かせるときのように笑った。

「ますます面白いですね。この前は2stで、今度は下りで4ミニが相手ですか。

 彼は不利な条件で戦うのが好みなんですかね」

「さあ……そこまで考えているかどうか。R1-Zを相手にしたときは、亞璃須お嬢様も止めたそうですが」

「志智の奴、バイクの知識はさっぱりだからなあ。

 よくわかんねえまま、とりあえず競っちまうんだよ」

「彼━━三鳥栖志智くん、ですか。

 間近で走りを見てみたくなりましたよ。コーナーひとつでギャラリーするだけじゃなく、特等席でね」

「谷川ぁ……お前、まさか」

「……まあ、あなたが実際にそう考えて、走り出したなら、誰も止められませんが」

「誤解しないでくださいよ。

 無茶はしませんから。ええ、もうそんなことはできないですよ、僕は」

 サーモンを口元へ運び、白ワインで喉を洗う。

 肉が運ばれてきたら、赤も頼んでおこう。ここは日本酒もうまいから、腹が一息ついたあとに和食を追加で注文してもいいかもしれない。

「本当に。無茶なんてしませんよ」

 微笑む谷川の言葉を信じる者は、しかしこの場にいなかった。

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