第8話 「週末の爪痕と接触の躊躇」
広島市内にある体育系短大の、広々と張り詰めた空気が漂う第二体育館。
高い天井に反響するグランドピアノの繊細な伴奏に乗せて、ゆかりは燃えるような赤いリボンを自由自在に操っていた。
宙を舞う六メートルのリボンは、空気を切るかすかな音を立てながら、途切れることなく美しい螺旋を描く。
高校時代よりも無駄がなくなり、動きはさらに洗練されていた。
指先からつま先、そしてリボンの先まで、意識が一本につながっているようだった。
その圧倒的な演技は、厳しい選抜を勝ち抜いて集まった同級生たちの中でも、頭一つ抜けて目を惹いていた。
「はい、そこまで。ゆかりさん、今のターンの後の指先の余韻、とても綺麗だったわよ。その感覚、忘れないで」
「ありがとうございます!」
厳しいことで有名な指導教官の滅多に出ない褒め言葉に、ゆかりは肩で大きく息を弾ませて、嬉しそうに応えた。
短大での練習は、高校時代の部活とは比べものにならないほど厳しかった。
ミリ単位の細かな動きまで、絶えず高い精度を求められる。
少しでも体重が増えたり、動きが鈍ったりすれば、すぐにレギュラーから外される。
そんな息の詰まるようなプレッシャーが、いつもあった。
その重圧に押しつぶされそうになり、夜、一人でベッドの中で泣きたくなることもあった。
それでも、そんな日々を支えてくれたのが、月に一度だけ尾道に帰り、洋平に会える週末だった。
厳しい練習を終え、更衣室で熱いシャワーを浴びたゆかりは、ドレッサーの鏡の前に座り、自分の両手をじっと見つめた。
新体操で美しい演技を見せるため。
そして何より、彼に会うときは綺麗な手でいたい。
その思いから、毎日の手入れにも気を使っていた。
高校時代に手具の摩擦でできていた小さなマメや無数の擦り傷はすっかり消え、今は白く滑らかで、透明感のある肌が保たれている。
仕上げに、高校の頃から愛用している柑橘系のハンドクリームをチューブから絞り出し、ゆっくりと両手になじませていく。
甘酸っぱく、少し懐かしい爽やかな香りが、シャンプーの匂いと混ざって更衣室に広がった。
明日は、待ちに待った週末だ。
彼と会える。
ゆかりの心は、遠足を明日に控えた子供のように弾んでいた。
別々の街で暮らすようになって、数ヶ月が過ぎていた。
毎日のように手紙を書き、週末の夜には長電話もしている。
それでも、直接顔を見て、あの大きくて温かい手に触れられる時間の代わりにはならなかった。
鏡の前で濡れた黒髪を櫛でとかしながら、ゆかりは自然と頬を緩ませた。
離れていても、二人の心はつながっている。
ゆかりはそう信じていた。
翌日の夕方。
待ち合わせ場所である尾道駅前の広場。
約束の時間より少し早く着いたゆかりは、海からの冷たい潮風に吹かれながら、フェリー乗り場から出てくる人の中に洋平の姿を探した。
やがて、少し背中を丸め、ポケットに両手を突っ込んで歩くシルエットを見つけ、ゆかりは花が咲いたように顔を輝かせた。
「洋平!」
小走りで駆け寄るゆかりの声に気づき、洋平も顔を上げた。
「おう、ゆかり。ごめん、待たせたか?」
「ううん、私も今来たとこ。・・洋平、なんか少し痩せた?」
「そうか? まぁ、夏場の工場は熱気がすごいからな。ちょっとバテ気味なのかも」
洋平は苦笑いしながら、首の後ろを少しぎこちなく掻いた。
数ヶ月ぶりに間近で見る洋平の顔は、高校時代の野球部でついた健康的な日焼けとは違っていた。
浅黒い肌には、疲れがにじんでいる。
目の下には、薄く隈ができていた。
ゆかりは、思わず小さく息を吸った。
久しぶりに会った嬉しさの中に、知らない洋平を見つけたような戸惑いが混じった。
そして、風に乗って、かすかに匂いが届いた。
かつての土と汗の爽やかな匂いではなく、鉄の切り粉と、重く濁った機械油が混ざったような労働者の匂い。
「そっか。あんまり無理しないでね。・・でも、会えて嬉しい」
ゆかりが笑うと、洋平も一瞬だけ、高校時代と変わらない無邪気な笑顔を見せた。
しかし、すぐに何かを誤魔化すようにぎこちなく視線を逸らした。
「・・おう。とりあえず、飯、食いに行くか」
二人は駅前の少しレトロな喫茶店に入り、窓際の席に向かい合って座った。
ゆかりは、短大の寮生活や、指導教官の厳しい指導のこと、秋に控えた大きな大会への意気込みなど、これまで話したかったことを次々と口にした。
洋平はアイスコーヒーのストローをくわえながら相槌を打ち、ときどき笑って聞いていた。
しかし、その様子はどこか上の空というか、分厚いガラス越しにこちらの世界を見ているように感じられる瞬間が何度かあった。
ゆかりは言葉に詰まった。
自分の話が、彼にとってひどく遠いものになっている気がしたからだ。
毎日、朝早くから泥と油にまみれて働いている彼に、レオタードの新しいデザインの話や、選抜メンバーに選ばれるプレッシャーの話は、お嬢様の贅沢な悩みのように聞こえるのではないか・・。
ゆかりが少し口ごもり視線を下げた時、洋平の不自然な動作に強い違和感を覚えた。
喫茶店に入ってからずっと、コーヒーカップを持つほんの一瞬を除いて、彼は両手をテーブルの下の膝の上に隠しているか、ジーンズのポケットに深く突っ込んでいる。
「洋平? どうかした? お腹でも痛いの?」
「えっ? いや、なんでもないよ。ゆかりの話おもしろいなって聞いてただけ。続けて」
洋平は慌てて笑顔を作ったが、決して両手をテーブルの上には出さなかった。
かつては、向かい合って座ると、自然にテーブルの上で指先を触れ合わせたり、大きな掌でふざけるように包み込んでくれたりしたのに。
ゆかりの胸の奥に、説明のつかない寂しさが落ちた。
大好きな人が目の前にいるのに、なぜか心だけが少しずつ冷えていくようだった。
喫茶店を出た後、二人は海岸通りを歩いた。
夕暮れが近づき、オレンジ色の光が尾道水道の波を照らしていた。
高校時代、部活帰りに何度も並んで歩いた石畳の道。
フェリーの甲板で「この手はずっと離さない」と固く誓い合った海岸。
周囲には、楽しそうに寄り添って歩くカップルや、手を繋いで無邪気に笑う子供たちの姿があった。
ゆかりは、洋平の少し後ろを歩きながら、彼の強張った横顔とポケットに突っ込まれたままの腕を見つめた。
一緒にいるのに、触れられない。
距離はほんの数十センチ。
手を伸ばせば届くはずなのに、二人の間には見えない壁があるように感じた。
洋平は、ゆかりの戸惑うような視線に気づかないふりをしているようだった。
高校時代は、いつも洋平の方から不器用に、力強く手を伸ばしてくれた。
彼が慣れない仕事で心身ともに疲れ切っているなら、私から優しく手を引いてあげたい。
ゆかりは小さく深呼吸をして歩調を速め、洋平のすぐ隣に並んだ。
そして、自分の右手を洋平の左手に向かってそっと伸ばした。
柑橘系の香りをまとったゆかりの指先が、ポケットの中にある洋平の手の甲に、ほんの少し触れた。
その瞬間。
ビクッ、と。 洋平の肩が不自然なほど大きく跳ねた。
まるで熱い鉄に触れたかのように、洋平は反射的に手を引いた。
「・・」
ゆかりの右手は行き場をなくし、宙に取り残された。
振り返った洋平の顔には一瞬、激しい焦燥と、自分の内側の何かを恥じるような、痛々しい色がはっきりと浮かんでいた。
「あ、わりぃ」
洋平は視線を泳がせ、引いた左手をさらに深くポケットに突っ込んだ。
「・・え?」
ゆかりは息を呑み、瞬きをした。
「いや、・・手、汚れてるからさ。洗っても洗っても、油が奥まで染み込んでて落ちなくて・・ゆかりの、その綺麗な白い服、汚しちまうかもしれないから」
洋平は、とってつけたような言い訳をした。
彼の声はかすかに震え、決してゆかりと目を合わせようとはしなかった。
「そんなの・・気にしないよ。洋平の手だもん、汚れてたって、平気だよ」
ゆかりは泣きそうな声で、もう一度手を伸ばしかけた。
洋平はポケットの中で拳を握り、肩をこわばらせた。
そして、一歩後ろへ下がった。ゆかりとの距離を取るように。
「ごめん。俺、親父から早く帰ってこいって言われてたの忘れてた。今日はこの辺で解散にしよ。わりぃ」
その言葉は、これ以上、自分の世界に入ってこないでくれ・・そう言われているようだった。
ゆかりは、震える自分の手を、まるでそれが罪深いものであるかのようにゆっくりと下ろした。
「・・うん。わかった。また、連絡する」
「おう。気をつけて帰れよ。じゃあな」
洋平は逃げるように駅へ向かって歩き出した。
一度も振り返らなかった。
ゆかりは、冷たい風の吹く海岸通りに一人で立っていた。
遠ざかっていく彼の背中を、ただ見送ることしかできなかった。
広島へ向かう帰りの電車。
窓枠に寄りかかり、ゆかりは夕闇に深く沈んでいく景色を虚ろな目で見つめていた。
暗い車内の窓ガラスに映る自分の顔は今にも声を上げて泣き出しそうだった。
膝の上に置いた両手を見る。
新体操のために手入れを欠かさず、白く滑らかに保ってきた手。
彼に会う前に丁寧に塗り込んだ、柑橘系のハンドクリームの香りが、今はただひどく虚しく、残酷なものに感じられた。
彼が手を引いた瞬間のあの顔。
まるで、汚いものに触れられたかのような、自分の不格好さをひどく恥じているような痛ましい顔。
彼の手が油で汚れていることなんて私は少しも気にならないのに・・。
家族のために、鉄工所を守るために必死に働いている証だから、誰の手よりも誇らしいと思うのに・・。
しかし、洋平はそうは思っていなかった。
私の「洗練された綺麗な手」と、彼の「油で黒ずんだ労働者の手」。
その違いが、彼の中に大きな劣等感を生み、二人の間に壁を作っているのではないか。
ゆかりは、少しずつそう考え始めた。
彼はきっと、自分と並んで歩くことを、惨めで不釣り合いだと感じているのかもしれない。
愛している人に触れたいのに触れられない。
彼のために自分を磨けば磨くほど、かえって彼の劣等感を刺激してしまう。
そんな自分が恨めしかった。
新体操への努力が彼との心の距離を広げてしまうのだとしたら、私は一体何のために頑張っているのだろう。
ガタンゴトンという電車の揺れに合わせて、ゆかりの心は出口のない迷路の中で激しく揺れ動いていた。
あんなに固く結ばれたはずの二人の間に、決して越えることのできない残酷な距離が刻まれ始めているのを感じた。
窓枠をつかむゆかりの白い指先に力がこもった。
こらえていた涙が、頬を伝って次々にこぼれ落ちた。




