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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第2章 夢と現実の分断

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第9話 「志穂のハンカチ」

 梅雨明けの気配が色濃くなってきた尾道の空の下、坂口鉄工所の内部は、逃げ場のない熱気と、まとわりつく湿気に包まれていた。


 洋平は、大型の高速切断機の前に立っていた。

 火花除けの分厚いエプロンを着けて、重さ数十キロの分厚い鋼材を次々と指定の寸法に切り出していた。

 グラインダーの刃が金属を削る甲高い音と、あちこちに飛び散るオレンジ色の火花。

 普段なら、鉄の焼ける匂いを感じながら、全神経を指先に集中させる危険な作業も、今日はどこか上の空だった。

 機械の振動が腕から全身に伝わってくるが、洋平の意識は目の前の鉄から遠く離れていた。


 数日前、広島でゆかりと会ったときの記憶が、洋平の頭の中で何度も蘇っていた。

 自分のポケットの奥深くに逃げ込んだ、機械油で黒ずんだ左手。

 空を切って行き場を失い、宙で震えていたゆかりの細く白い指先。

 そして帰り際、こちらを振り返ることなく遠ざかっていった彼女の、泣き出しそうな顔。

(俺はあいつを傷つけた。でも、どうしようもなかったんだ)

 ゆかりのいる世界は、自分にはまったく縁のない、きれいで洗練された世界だ。

 新しいデザインの服を着て、あの柑橘系の香りをまとった彼女は、高校時代よりもずっと大人びて、ひどく綺麗だった。

 それに比べて、自分はどうだ。

 毎日、泥と油にまみれ、埃っぽい工場で鉄と向き合っている。


 あの日、彼女のきれいな手が自分の汚れた手に触れそうになった瞬間、洋平は強い恐怖を感じた。

 この黒い汚れが、光の中を歩いている彼女の人生まで汚してしまうような気がした。

 頭では考えすぎだと分かっている。

 それでも、あの日からその考えが離れなかった。

『洋平の手だもん、汚れてたって、平気だよ』

 彼女の優しい言葉が、洋平の劣等感を強く刺激した。

 あの言葉を思い出すたびに、嬉しいより先に、自分にはその言葉を受け取る資格がないような気持ちになった。

 優しくされればされるほど、二人の間にできてしまった距離を思い知らされる気がした。


「洋平! 何やってんだ、危ねえっ!」

 背後から、健一の怒鳴り声が工場に響いた。

 洋平がはっとして目の前の機械に意識を戻した時には、もう遅かった。

 鋼材を送るタイミングがほんのわずかにずれ、切断機の振動で弾き飛ばされた金属片が洋平の右手を直撃した。

「ぐあっ!」

 分厚い革手袋があっさりと引き裂かれた。

 右手の甲から手首にかけて、鋭い痛みが走った。

 咄嗟に左手で右手首を強く掴むと、裂けた革手袋の隙間から血が流れ、コンクリートの床に赤い染みが広がっていった。

「馬鹿野郎! 何ボーッとしてんだ! 機械止めろ! 電源落とせ!」

 周囲の職人たちが慌てて作業を止め駆け寄ってきた。

 激しい痛みに顔を歪めながら、洋平は心の中で自分自身に毒づいた。

 かつてマウンドでチームを救い、甲子園を目指してボールを投げ続けた右手。

 自分のくだらない感傷と不注意のせいで、こんなにあっさりと切り裂かれている。

 痛みに耐える自分が情けなくなり、傷の痛みとは別の自己嫌悪が込み上げてきた。

 また自分は、大事なものを守れなかった。そんな思いが胸の中に重く残った。


 事務所のドアが乱暴に開き、飛び出してきた志穂が悲鳴を上げた。

「洋平さん!」

 だが、洋平の腕から血が流れているのを見ても、彼女はほかの職人たちのように立ち尽くしたりはしなかった。

 一直線に駆け寄ると、事務服のポケットから自分のハンカチを取り出した。

 それは、淡いピンク色の生地に、白いレースの刺繍が入った、彼女の大切なハンカチだった。

「おい、早坂さん、そんな綺麗なハンカチ・・」

「黙って!」

 構わず、志穂はそのハンカチを洋平の右手にきつく巻きつけ、止血のために全体重をかけて強く縛り上げた。

 白いレースが、洋平の血と手にこびりついた機械油を吸い、みるみる赤黒く汚れていく。

「親方、私が病院に付き添います! すぐに軽トラ出して!」

 普段は控えめな志穂が、迷うことなく動いた。

 健一が急いで運転する軽トラの後部座席で、志穂は洋平の右腕を心臓より高く持ち上げ、ハンカチの結び目を指が白くなるほど強く押さえ続けていた。


 狭い車内に、鉄の錆びた匂いと、生臭い血の匂いが充満する。

「わりぃな、早坂さん。こんなに汚しちまって。そのハンカチ、弁償するわ。・・仕事中に考え事してて怪我するなんて、まだまだ半人前のガキだな」

 洋平は、右腕の痛みをごまかすように、わざと軽口を叩いて笑ってみせた。

 高校時代、厳しいインコース攻めでデッドボールを与えても、平気な顔でマウンドに立ち続けたように。

 しかし、隣に座る志穂は全く笑わなかった。

 彼女の顔は青ざめ、噛み締めた唇がかすかに震えている。

 洋平の太い右腕を握る彼女の小さな両手は、洋平の血でべっとりと汚れていた。

 彼女はそれを拭おうとも、嫌がる素振りも見せなかった。

 ただひたすらに、洋平の血がこれ以上流れないように腕を強く抱え込んでいる。

 志穂の必死な様子を見て、洋平はもう冗談を言えなかった。

 二人は重い沈黙のまま病院へ向かった。


 救急外来での処置は、麻酔を含めて一時間ほどで終わった。

 幸い、金属片は腱の手前で止まっていて、神経の損傷や後遺症はなかった。

 ただ、傷は想像以上に深く、十針以上縫うことになった。

 医者からは「最低でも三週間は、重いものを持ったり工具を握ったりしないように」と言われた。

 分厚いガーゼと真っ白な包帯で巻かれた右手首を三角巾で吊り、洋平が重い足取りで処置室から出てくると、人の少ない待合室の長椅子で、志穂が一人うつむいて座っていた。

 健一は保険の手続きと支払いのために電話ボックスの方へ向かっている。


「早坂さん」

 洋平が申し訳なさそうに声をかけると、志穂は弾かれたように顔を上げた。

「洋平さん! 手、大丈夫だったんですか? 神経は・・」

「ああ。腱は無事だった。ちょっと縫ったから大げさに見えるけど、何週間かおとなしくしてれば元通りになるって。・・ほんと、迷惑かけて、すまなかった」

 洋平は深く頭を下げた。

 そして、立ち上がった志穂のブラウスの袖口や、薄青い事務服のスカートに、自分の血が点々とついていることに気づいた。

「服まで汚しちまって・・それに、ハンカチ、高かったんじゃないのか?」

 洋平が、重い空気を変えようと苦笑しながらそう言った瞬間。

 ポタッ、と。

 志穂の膝の上に置かれた両手に大粒の涙が落ちた。

「・・え?」


 洋平が驚いて顔を覗き込むと、志穂は両手で顔を覆い、華奢な肩を激しく震わせて泣き始めた。

 工場で健一に怒鳴られても、業者から無理な注文を受けても、笑顔を絶やさず裏方を支えていた彼女が、洋平の前で初めて声を上げて泣いていた。

「お願いだから・・」

 志穂は、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を洋平に向けた。

 小刻みに震える両手で、洋平の左腕の作業着の袖口をきつくすがるように握りしめた。

「お願いだから、自分の手を・・自分の身体を、そんな風に粗末に扱わないで・・!」

 祈るような声が、静かな待合室に響いた。


「・・早坂さん?」

「洋平さんが、毎日工場でどれだけ頑張ってるか・・どれだけ我慢して働いてるか、私が一番知ってるのに。指先がマメだらけになって、油が落ちなくなって、誰も見てないところで一人で機械の掃除までして・・。私、洋平さんのその手が、傷だらけで真っ黒なその手が・・誰の手よりも、どれだけ誇らしくて、かっこいいと思ってるか・・!」

 抑えていた感情があふれ、涙が志穂の頬を伝って洋平の作業着の袖口に落ちた。

「今日だって、朝からずっと上の空みたいな顔してて・・見てるこっちまでつらかった。何か悩んでるなら、つらいことがあるなら、ちゃんと聞くから。私でできることなら何でもする。だから、もう無茶して怪我なんかしないで・・あんな痛い思い、もうしないでよ・・」

 志穂は立っていることもできなくなり、洋平の腕に額を押し付けるようにして泣き崩れた。


 洋平は、その場に立ち尽くしていた。

 頭の中が真っ白になり、どう受け止めればいいのかわからなかった。

 洋平にとって、志穂はあくまで気の利く職場の同僚であり、姉のような存在だった。

 彼女が自分に好意を持ってくれているかもしれないと、ほんの少し感じたことがなかったわけではない。

 しかし、今目の前で溢れているこの激しい感情はなんだ。

 単なる好意や、職場の同僚に対する親切心を超えている。

 自分の痛みを、自分のことのように悲しみ、涙を流している。

 その姿を見ているうちに、洋平の胸にこれまでとは違う戸惑いが広がっていった。


 俺のこの、機械油の匂いが染み付いた泥臭くて汚い手を・・誇らしくて、かっこいいと、彼女は涙ながらに言ってくれた。

 ゆかりの綺麗な服を汚してしまうのが怖くて、その手に触れることすらためらっていた。

 汚れているのは自分だと思い込み、目をそらし、隠してきたこの手を。

 ゆかりのいる明るい世界ばかりを見て、遠い未来のことばかり考えていた。

 その足元で、自分の傷だらけの努力を認め、ずっと見守ってくれていた人がいた。


 洋平は、すがりついて泣きじゃくる志穂の小刻みに震える細い肩を見下ろした。

 震える彼女の手に触れて安心させるべきか、それとも、ゆかりへの想いを守るために距離を置くべきか。

 包帯を巻かれた右手は、心臓の鼓動に合わせて鈍い痛みを放ち続け、動かすことはできない。

 残された左手は、宙で迷ったまま、行き場を失って震えていた。

(俺は・・なんて身勝手な馬鹿野郎なんだ)

 自分の劣等感に負けて、愛するゆかりを無残に傷つけ、遠ざけた。

 そして今度は、自分の不注意のために涙を流すこの目の前の女性に、どう報いればいいのか全く分からずにいる。


 右手首の傷口がズキンと熱を帯びて痛む。

 しかし、それ以上に洋平を苦しめていたのは、志穂の涙によって気づかされた自分の思い込みと、彼女の深い気持ちにどう向き合えばいいのかわからない戸惑いだった。

 冷たい消毒液の匂いが漂う待合室で、洋平は、泣き続ける志穂の小さな背中を、言葉を失ったまま見つめていた。


 洋平はすぐには答えを出せなかった。

 ただ、志穂の気持ちから目をそらすことだけは、もうできなかった。

 洋平は何も言えなかった。

 志穂が自分のことをどれだけ見ていたのか、その言葉を聞いて初めて気づいた。

 いつもそばにいることが当たり前すぎて、彼女の気持ちを考えようとしたことさえなかった。

 その事実が、洋平の胸に重く残った。

 それは、これまで見ようとしていなかったものを、真正面から見せられたような感覚だった。

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