第10話 「東京からの誘いと堂島の存在」
広島市内にある、格式のある老舗ホテルのティーラウンジ。
洋平にとってそこは、これまでの人生で一番息苦しく、どうにも落ち着かない場所だった。
足音がまったく響かないふかふかの厚い絨毯。
高い天井から下がる大きなシャンデリア。
フロアの隅で優雅に響くグランドピアノの生演奏。
周りのテーブルでは、仕立ての良いスーツを着たビジネスマンや、上品なワンピースを着た女性たちが、静かに談笑している。
よれよれのTシャツに洗いざらしたチノパンという格好で足を踏み入れた洋平は、自分がこの空間の調和を完全に乱す、ひどく場違いな異物のように思えてならなかった。
出かける前に、何度も石鹸で体を洗い、シャンプーをしてきた。
それでも、鉄の錆びた匂いや重い機械油の匂いが自分から漂っている気がして、この洗練された空間を汚してしまいそうで落ち着かなかった。
何度洗っても消えない気がするその匂いが、今の自分とこの場所との距離を思い知らせていた。
右手には、先日工場の機械で切った深い傷を覆う包帯が巻かれ、白い三角巾で首から吊られている。
周囲から「なぜあんな格好の少年がここにいるのか」と見られている気がして、洋平は背中を丸めながら、ホテルのスタッフに案内されて奥の窓際のテーブルへ向かった。
「洋平、こっちだよ」
窓際の席から、ゆかりが小さく手を振った。
彼女は、このラウンジによく似合う、清楚な真っ白のワンピースを着ていた。
いつものゆかりとは少し違って見えた。
髪もきちんと整えられ、姿勢もまっすぐで、この場所にいることが少しも不自然ではない。
その隣には、仕立ての良いスーツを着た初老の男性が静かに座っていた。
「遅れてすまん」
「うん、私たちも今来たところだから大丈夫。・・洋平、その手、どうしたの!?」
洋平の吊られた右腕を見て、ゆかりが顔色を変えて立ち上がりかけた。
「あ、いや、工場でちょっとヘマしてさ。数針縫っただけで、大したことないんだ」
洋平が努めて明るく笑うと、隣の男性がゆっくり立ち上がり、ゆかりを落ち着かせるように軽く手を上げた。
「初めまして。堂島と申します。ゆかりさんから、あなたのお話はいつも伺っていますよ」
堂島誠。
東京で有名な新体操クラブを経営し、これまで多くの日本代表選手を育ててきた、全国的に知られた指導者だった。
彼がわざわざ東京から広島まで足を運んだ理由は他でもない。
ゆかりを自分のクラブへスカウトするためだ。
「坂口、です。初めまして」
差し出された堂島の手を見て、洋平は小さく息を呑んだ。
それは、洋平の無骨な手とはずいぶん違っていた。
白く、指が長く、爪の先まできれいに手入れされている。
それでいて、ただきれいなだけではなかった。
長年、多くの人を導き、自分の道を切り開いてきた人らしい、落ち着いた力強さがその手にはあった。
洋平はちょっと躊躇し、怪我をしている右手の代わりに左手を差し出して、ひどくぎこちなく握手を返した。
「怪我をされているのに、申し訳ない。どうぞ、お掛けください」
堂島の声は低く、穏やかだった。
若く、場慣れしていない洋平を見下すような響きはまったくなかった。
相手を尊重する、大人らしい落ち着いた物腰だった。
しかし、その優しさと洗練された雰囲気が、かえって洋平の劣等感を強く刺激した。
堂島を前にすると、自分がひどく幼く、何も知らない人間に思えてならなかった。
洋平が席に着くと、音もなくギャルソンが近づき、コーヒーと紅茶を置いていった。
カップから立ち上るアールグレイの香りと、堂島のスーツからかすかに漂う香水の香り。
その二つの香りが、自分の泥と汗にまみれた日常を、嫌でも意識させるように感じられた。
工場にいる時は、それが当たり前だった。
仲間たちも同じ匂いをまとっている。
誰も気にしない。
なのに、この場所では、その匂いさえ自分の弱さを表しているように思えた。
テーブルの上のコーヒーカップの縁を、堂島の長い指先が静かになぞる。
「率直に申し上げましょう、坂口君。私は、ゆかりさんの新体操の才能に惚れ込みました」
堂島の言葉は静かだったが、迷いはなかった。
「彼女のしなやかな表現力と、指先まで意識の行き届いた演技は、地方の短大だけで終わらせてしまうには惜しい。東京の私のクラブで専門的な指導を受ければ、日本を代表する選手を目指せるでしょう。将来は一流の指導者になる道もあります」」
これまで多くの才能を見てきた指導者だけに、その言葉には説得力があった。
ゆかりを見ると、東京という未知の場所に戸惑いながらも、その目には新しい世界への期待が浮かんでいた。
「「東京の施設は、ここよりずっと整っています。世界基準のフロアマット、海外から招いた振付師、そして同じように高い目標を持つ仲間たちもいる。彼女の才能を伸ばすには、そういう環境が必要なんです」」
芸術。
世界基準。
堂島の口から出てくる言葉は、洋平の日常にはない、遠い世界の話のように聞こえた。
洋平の日常にあるのは、油にまみれたコンクリートの床、鉄の焼ける匂い、月末の資金繰り、親父の怒声、そして体を酷使する毎日だけだった。
洋平はテーブルの下で、左手で右手の痛む包帯を強く握りしめていた。
爪が食い込み、縫ったばかりの傷口がズキズキと痛む。
だが、胸の奥にある痛みに比べれば、右手の傷などどうでもよかった。
痛む手を見れば、数日前の事故を思い出す。
あの時から、自分の中で何かが少しずつ変わってしまったような気がしていた。
(俺は、こいつに何を言ってやれる?)
そう考えた途端、胸の奥が重くなった。
高校時代、マウンドの上から見た景色。
ゆかりはいつもスタンドの前の方で、誰よりも大きな声で自分を応援してくれていた。
あの頃は、二人とも同じ場所にいた。
同じ目線で、それぞれの目標に向かって必死に頑張っていた。
しかし、今は違う。
ゆかりは、堂島という経験豊かな指導者に導かれて、自分には想像もできない場所へ進もうとしている。
その横顔を見ていると、洋平は嬉しいはずなのに、素直に喜べない自分が情けなくなった。
それに比べて、自分はどうだ。
野球を失い、工場の機械に手を巻き込まれて大怪我までした。
油汚れの残る体で、こんな立派なラウンジに座って縮こまっている。
(住む世界が・・違いすぎる。月とすっぽんどころじゃない)
冷たい劣等感が、洋平の胸を覆っていった。
堂島はゆかりの才能を「芸術」として見て、その才能を伸ばすための道も、人脈も持っている。
洋平には、彼女のリボンの動きが綺麗だということくらいしか分からない。
彼女の才能を伸ばせるのは、油まみれの鉄工所で働く自分ではなく、堂島のように新体操の世界を知る人なのだ。
そう思うと、洋平は息が苦しくなった。
「私からのお話は、以上です。坂口君」
堂島がティーカップを音を立てずに置き、洋平に真っ直ぐな視線を向けた。
「ゆかりさんは、あなたの意見をとても大切にしている。彼女が迷いなく東京へ来られるよう、あなたからも、彼女の背中を力強く押してやってはくれないだろうか」
洋平には、それがお願いというより、逆らえない大人からの静かな言葉のように聞こえた。
「それでは、私はこれで失礼します。ゆかりさん、良いお返事をお待ちしていますよ」
堂島はテーブルの伝票を手に取り、二人に軽く会釈をすると、ラウンジを出ていった。
洋平が支払いのことを口にしても、堂島は気にする様子もなかった。
堂島が去ると、テーブルには重い沈黙が残った。
遠くで奏でられるピアノの旋律だけが、二人の間を冷たく通り抜けていく。
「洋平」
ゆかりが、不安そうに洋平の顔を覗き込んだ。
「私、どうしよう。東京に行くなんて、今まで考えたこともなかった。でも、クラブのビデオを見せてもらって・・すごく、胸がドキドキしたの。私にも、あんな風に踊れるのかなって」
その言葉からは、新しい舞台への強い憧れが伝わってきた。
ゆかりは、洋平に「行っておいで」と背中を押してほしいのだろう。
高校時代、自分が彼をエースとしてマウンドへ送り出した時のように。
「すごいじゃないか」
洋平の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「世界的な指導者に認められたんだ。お前は、やっぱりすごいよ」
「洋平?」
「でも、東京か、遠くなるな」
洋平は笑おうとしたが、顔がこわばり、ぎこちない笑顔にしかならなかった。
テーブルの上で、ゆかりが心配そうに、洋平の左手に自分の手を重ねようと指先を伸ばしてきた。
しかし洋平は、肩をビクッと震わせ、反射的にその手をテーブルの下へと隠してしまった。
先日、海岸通りで彼女の手を拒絶した時のように。
「・・」
ゆかりの顔に、はっきりと傷ついたような、泣き出しそうな表情が浮かぶ。
洋平の中で、これまで二人で積み上げてきたものが、少しずつ崩れていく気がした。
彼女を傷つけたくない。世界中の誰よりも大切に思っている。
けれど、この傷だらけで油にまみれた手で、彼女の未来を汚し、足を引っ張るようなことだけはしたくない。
堂島が堂々と立ち去った姿と、怪我をして縮こまっている自分の姿が、洋平の頭から離れなかった。
(俺のこの手じゃ、お前の夢を支えることなんて、絶対にできない・・)
そう思った瞬間、海岸通りでゆかりの手を振り払ってしまった時のことが蘇った。
あの時も、ゆかりはただ自分に触れたかっただけだった。
洋平はピアノの旋律を聞きながら、何か言わなければと思った。
けれど、口から出てくる言葉はどれも、自分の弱さをさらけ出すように思えた。
結局、彼は黙ったまま、ゆかりの顔を見ることさえできなかった。
ホテルのラウンジに流れる旋律が、今の洋平には、二人の間に生まれた距離を知らせる曲のように聞こえた。
洋平は何も言えないまま、ただその音を聞いていた。




