第11話 「手放すための嘘」
尾道水道の海面を夕陽が赤く染めていた。
高校を引退した直後、フェリー乗り場で二人が未来を誓い合ったあの日と同じように、海の向こうで燃えていた。
海から吹きつける風には、本格的な秋の冷たさが混じっている。
薄着の肌に触れるたび、身体が小さく震える。
人気のない波止場で、潮風にさらされた冷たいコンクリートの防波堤に背を預け、洋平は一人、波が打ち寄せる音を聞いていた。
首から吊った右手の包帯は、まだ白い。
左手で無意識にジーンズのポケットの中の煙草を探ろうとして、手を止めた。
ゆかりは煙草の煙や匂いを嫌がるかもしれない。
いや、どうせもうすぐ、嫌われなければならないのだ。
そんなことを気にしている場合じゃない。
頭では分かっている。
それでも、ゆかりに嫌われたくないという気持ちは消えてくれない。
洋平は長く息を吐き、機械油と煙草の匂いが染みついた指先を冷たい海風にさらしたまま、じっと彼女を待っていた。
数日前の、高級ホテルでの出来事が何度も頭に浮かんだ。
堂島という男がまとっていた、洗練された雰囲気。
落ち着いた話し方と、仕事のできる人間だけが持つような余裕。
そして堂島が語った、ゆかりの才能と、東京で待っている未来。
何より洋平の胸に残ったのは、その話を聞いているゆかりの目だった。
あんな目をするゆかりを、洋平は高校時代にも見たことがある。
難しい新体操の技を初めて成功させたときの、あの嬉しそうな顔だ。
ゆかりはもう、この町の外へ出る準備ができている。
東京の舞台で、自分の力を試したいと思っている。
ただ一つ、その前にあるのが自分なのだと、洋平には分かっていた。
(俺のこの汚れた手じゃ・・ゆかりの夢を支えられない)
ホテルのラウンジで堂島の隣に座っていたゆかりは、洋平の知っている彼女とは少し違って見えた。
きれいだった。
自信があって、これから先へ進もうとしていた。
それに比べて自分は、機械に手を巻き込まれて大怪我をし、油まみれになって働いている。
そんな自分が、ゆかりのこれからの人生に並んでいる姿を想像すると、どうしても釣り合わないと思ってしまう。
俺にできることは、一つだけだ。
ゆかりが東京へ行くのを邪魔しないこと。
そして、俺のことで迷わないようにすること。
そのためには、自分が嫌われるしかない。
それが、洋平にできる精いっぱいのことだった。
そう決めたはずなのに、胸の奥では別の声が何度も聞こえていた。
行くな。
ここにいてくれ。
俺が何とかするから。
けれど、今の自分に何ができるのかと考えると、その言葉を口にする勇気はなかった。
父のことも、鉄工所のことも、怪我をした右手のことも、まだ何一つ片づいていない。
そんな自分が、ゆかりの夢まで自分のそばに縛りつけていいはずがない。
洋平は一度目を閉じた。
今だけは、自分の気持ちを優先してはいけない。
防波堤の冷たいコンクリートを左手で強く握る。
指先に力を入れても、胸の奥の痛みは消えなかった。
「・・洋平」
背後から、風に消えそうな小さな声がした。
振り返ると、薄手のカーディガンを羽織ったゆかりが、少し離れたところに立っていた。
顔には、不安と戸惑いが浮かんでいる。
最近の洋平の電話でのよそよそしい態度。
海岸通りで触れようとした手を、強く引かれて拒まれたこと。
ホテルのラウンジでの、重い沈黙。
ゆかりには、二人の間に何が起きているのか分からなかった。
それでも、まだ少しだけ期待していた。
洋平が「行くな」と言ってくれるかもしれない。
昔のように笑って、「頑張ってこい」と背中を押してくれるかもしれない。
そんな期待を捨てきれないまま、ゆかりは洋平を見つめた。
「遅れてごめん。・・海風、寒くない?」
「・・ああ。大丈夫だ」
洋平は、できるだけ普通に答えた。
声を震わせないようにするだけで精いっぱいだった。
二人は防波堤のそばに並んで立った。
昔なら、肩が触れるくらい自然に近づいていた。
人目がなければ、指先を絡ませることもあった。
高校の帰り道、何でもない話をしながら歩いたことも、フェリー乗り場で夕陽を眺めたことも、洋平にとってはつい昨日のことのようだった。
けれど今は、手を伸ばせば届く距離なのに、その一歩が遠かった。
ゆかりのカーディガンの袖が風に揺れる。
その先にある手を見て、洋平は思わず右手を隠したくなった。
怪我をしているのは右手なのに、ゆかりに触れることが怖いのは左手だった。
波がコンクリートに砕ける音だけが、二人の沈黙を埋めていた。
「東京の話・・」
洋平が口を開いた。
「返事は、どうするつもりだ」
ゆかりは肩を震わせ、俯いた。
白く細い指で、カーディガンの裾を握っている。
「・・まだ、堂島さんには返事してない。決めてないの」
「そうか」
「私・・洋平に聞きたかったの」
「何を?」
「洋平が、どう思ってるのか。もし洋平が『行かないで』って言うなら・・私、ここに残るよ」
「行けよ」
短い言葉だった。
ゆかりが驚いたように顔を上げる。
「東京へ行け。・・そのほうがいい」
「・・洋平?」
ゆかりの声が震えた。
洋平は足元の波打ち際を見つめたまま、ゆかりの顔を見なかった。
目を合わせれば、決めたことを言えなくなる。
行かないでくれ。俺を一人にしないでくれ。
そんな言葉が口から出てしまいそうだった。
「堂島さんの言う通りだ。ゆかりの才能を、こんなところで眠らせるなよ」
「そんなこと・・。私、才能を眠らせるなんて思ってないよ。ここで、洋平と一緒に・・」
「鉄工所の仕事を手伝うのか?」
「そういう意味じゃないよ」
ゆかりはすぐに首を振った。
「ただ、洋平のそばにいたいの。怪我のことも、お父さんのことも、私にできることがあるなら一緒に考えたい」
その言葉を聞いた瞬間、洋平の胸が大きく揺れた。
本当なら、ありがとうと言いたかった。
俺も一緒にいたい、と言いたかった。
でも、それを言えば、ゆかりは東京へ行かなくなるかもしれない。
「俺は、嫌なんだ」
洋平は、ゆかりの言葉を遮った。
「え・・?」
「ゆかりがこれ以上、俺のそばにいるのが嫌なんだ」
大嘘だった。
ずっとそばにいてほしい。
一生その手を離したくない。
自分の腕の中で、安心したように笑っていてほしい。
その気持ちを押し込めながら、洋平は続けた。
「俺たちは・・もう、住む世界が違う」
「・・住む世界って何? そんなの、私には関係ないよ」
「関係ある」
洋平は左手をゆっくり持ち上げ、ゆかりの前に出した。
短い爪の奥や指のしわにまで入り込んだ、落ちない油汚れが残っている。
「俺の手は、もう真っ黒だ。一生、この鉄工所で油まみれになって働く。それが俺の現実だ。でも、ゆかりは違う。東京の舞台で、たくさんの人に見てもらえる場所へ行ける。・・堂島さんの隣に座っているゆかりを見て、そう思った」
「待って、洋平。私、そんなの気にしないよ。洋平の手が汚れてても、私はその手が好き。一緒にいられるなら、泥まみれになったっていい・・!」
ゆかりが涙をこぼしながら、洋平の左手に触れようと両手を伸ばした。
洋平は反射的に、その手を引いた。
「俺が気にするんだよ」
洋平の声は低かった。
「・・え?」
「ゆかりのきれいな手を見ると、俺は自分との差を考える。堂島さんが用意してくれる東京の未来を聞くと、俺はここにいる自分が嫌になる。ゆかりが俺のそばにいて、俺の仕事を見てる。それが・・もう、つらいんだ」
ゆかりの顔から、血の気が引いていく。
「そんな・・私、同情なんか・・」
「俺を、ゆかりの言い訳にするな」
「言い訳って・・」
「東京へ行かない理由を、俺のせいにするなよ」
「私は、洋平のせいにするつもりなんて・・」
「分かってる。でも、俺はそう思ってしまうんだ」
洋平は一度、言葉を止めた。
本当は、ゆかりに責められたほうが楽だった。
怒ってくれれば、自分もまだ何かを言えたかもしれない。
それでも、ここで優しくしてはいけない。
「俺のために夢を諦めるなんて、そんなこと言わないでくれ。・・そういうのは、俺には重いんだ」
重い。
その言葉を聞いたゆかりは、しばらく何も言えなかった。
高校時代から、お互いを一番の理解者だと思ってきた。
怪我をした洋平の力になりたくて、離れていても想い続けてきた。
洋平の大きくて温かい手が好きだった。
その気持ちまで、否定されたように感じた。
「・・それが、洋平の本当の気持ち・・?」
ゆかりの声はかすれていた。
頼むから、嘘だと言って。
昔みたいに笑って、「嘘だよ」と言ってほしい。
ゆかりの目が、そう訴えていた。
洋平は、ここで初めてゆかりの顔を正面から見た。
泣きそうになるのをこらえながら、できるだけ何も感じていないような顔を作った。
「・・ああ。本当の気持ちだ」
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
波が防波堤にぶつかる音だけが、やけに大きく聞こえた。
ゆかりの瞳から、大粒の涙がこぼれた。
夕陽を受けた涙が、頬を伝って落ちていく。
「・・わかった」
ゆかりは震える両手で顔を覆い、泣き声をこらえながら、一歩後ろへ下がった。
「ごめんなさい・・。私、洋平のこと、ずっと苦しめてたんだね」
「・・」
「今まで・・ありがとう。私、東京・・行くよ」
その言葉には、悲しさと諦め、それでも消えない気持ちが混じっていた。
ゆかりは踵を返し、足早に防波堤を去っていった。
一度も振り返らなかった。
何度も呼び止めたいと思った。
名前を呼べば、ゆかりは振り返るだろう。
振り返ってくれれば、まだ間に合う。
洋平の喉まで、その言葉が出かかった。
それでも、声にはしなかった。
白いカーディガンが、夕暮れの路地の向こうへ消えていく。
角を曲がったあとも、洋平はその先を見つめ続けた。
ゆかりが本当にいなくなったと分かるまで、目をそらすことができなかった。
洋平は、ゆかりの姿が見えなくなってからも、その場を動けなかった。
夕陽が向島の山の稜線に沈み、海風がさらに冷たくなる。
洋平はゆっくり左手を持ち上げ、じっと見つめた。
大切なゆかりを、自分の言葉で傷つけた手だった。
「・・っ・・ああああっ!」
我慢できなかった。
洋平は防波堤の前で膝をつき、頭を抱えた。
声を押し殺そうとしても、嗚咽が漏れる。
左手で胸元を押さえ、額をコンクリートにつけたまま、洋平は子供のように泣いた。
これでいい。
これで、ゆかりは東京へ行ける。
あの舞台で、自分の力を試せる。
堂島が言っていた場所で、ゆかりならきっとやれる。
高校のころ、何度失敗しても練習をやめなかった。
転んで膝を擦りむいても、泣いたあとにはまた立ち上がった。
洋平は、その姿を何度も見てきた。
だからこそ、こんな町で自分のそばにいるより、東京へ行ったほうがいいと思いたかった。
自分は、この町で鉄工所の仕事を続ける。
遠くから、ゆかりのことを応援すればいい。
そう思わなければ、今すぐ追いかけてしまいそうだった。
「行けよ・・。誰よりも、高く飛べよ・・ゆかり・・っ」
ゆかりを手放すためについた、残酷な嘘。
あの日、絶対に離さないと誓った二人の掌の温もりは、もう戻ってこない。
それでも、その温もりだけは、洋平の中から消えなかった。
夕闇が波止場を包み、二人が重ねた掌の記憶だけが、胸の奥に残っていた。




