第12話 「父の喀血」
ゆかりを波止場の冷たい風の中に置き去りにしてから、ひと月が経とうとしていた。
尾道の街には木枯らしが吹き始め、海からの冷たい風が、古い鉄工所の錆びたトタン壁を一日中ガタガタと揺らしていた。
洋平は、余計なことを考えないようにして、ただ鉄を削る仕事だけを続けていた。
右手の傷はあらかた塞がり、包帯も取れたが、重いハンマーを力任せに振るうたびに、手首から肘にかけて鈍い痛みが走る。
それでも、その痛みは今の洋平にとって、気を紛らわせる唯一のものだった。
身体の痛みに意識を向け、体力を使い切ることでしか、防波堤で見たゆかりの涙を頭から追い払えなかった。
「・・なあ、洋平。本当なのか?」
昼休み、工場の薄暗い隅で、冷え切って固くなった弁当を味もわからずかき込んでいた洋平の元へ、非番の浩一が顔を出した。
「何がだ」
「ゆかり、来月には短大を辞めて東京に行くってよ。広島の寮も引き払う準備をしてるらしい。お前、本当に別れたのか?」
洋平の箸が、ほんの一瞬だけ、空中で止まった。
しかし、すぐにまた卵焼きを口に運んだ。
「ああ、別れたよ。ゆかりにはゆかりの世界がある。俺には俺の世界がある。それだけだ。もう何も言うことはねえ」
言葉にしてしまうと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれど、その痛みを顔に出すわけにはいかなかった。
ここで迷えば、せっかく離れたゆかりを、また自分のところへ引き戻してしまう気がした。
「それだけって、どういうことだよ! あんなに仲良かったじゃないか。俺には信じられねえよ」
浩一は洋平の作業着の胸ぐらを掴みかけたが、何も映していないような洋平の目を見て、ふと手を止めた。
「・・後悔しないんだな。もう、ゆかりの手は届かなくなるぞ。東京に行ったら、簡単には会えなくなる」
浩一の言葉が胸に刺さった。
洋平は一度だけ顔を上げたが、すぐに視線を弁当に戻した。
何か答えれば、今まで押し込めていた気持ちがこぼれそうだった。
「しないよ。これでいいんだ。ゆかりにとっても、俺にとっても」
浩一はしばらく洋平を見つめたあと、舌打ちした。
「勝手にしろ、馬鹿野郎」
そう言い残して、工場を出て行った。
浩一にさえ、本当の理由を話すことはできなかった。
すべてを一人で抱え、誰にも頼らずに生きていく。
それが、ゆかりを傷つける嘘をついた自分への罰なのだと思っていた。
洋平が守ろうとしていた日常も、少しずつ崩れ始めていた。
最近、工場の中がひどく静かなのだ。
例年なら、年末に向けて発注が重なり、何台もの機械が動き、職人たちが忙しく走り回る時期だった。
今年は、旋盤や切断機の多くが電源を落とされ、冷たい鉄の塊になっていた。
「洋平さん、少し、いいですか」
午後、事務所から出てきた志穂に声をかけられた。
志穂の顔色は青白く、手には分厚い経理の帳簿を抱えていた。
ストーブの匂いがする事務所に入ると、志穂は重い帳簿を洋平の前に開いた。
そこに並んでいた数字を見て、洋平は言葉を失った。
赤字が、何ページにもわたって並んでいた。
売上の数字だけを見れば、まだ何とかなるようにも思えた。
だが、入ってくるはずの金が入ってこない。
その事実の重さが、洋平にも少しずつ分かってきた。
「なんだよ、これ。どういうことだ」
「社長から、洋平さんには黙っておけって言われてたんですが・・先月、一番大きな元請けが突然倒産したんです。その影響で、うちの売掛金も数千万円分、回収できなくなって・・」
志穂の声が、恐怖で細かく震えていた。
「親父は、知ってたのか?」
「毎日、作業着のまま銀行を回って、頭を下げて融資を頼んでいます。でも、どこも貸してくれなくて。このままだと、年を越す前に手形が不渡りになります。・・会社が、潰れます」
洋平は息を呑んだ。
父がそこまで追い詰められていたことを、自分は何も知らなかった。
毎朝同じ工場へ出てきて、いつも通り仕事をしているように見えた。
その裏で、父は一人で銀行を回っていた。
父の健一は、昔気質の無口で不器用な職人だ。
経営の苦しさを家族にも見せず、一人で抱えていたのか。
洋平がゆかりのことで悩んでいる間、父は会社を守るために、銀行を回って頭を下げ続けていた。
洋平は事務所の窓から、工場の隅で一人、背中を丸めて金属部品にグラインダーをかけている父の姿を見た。
昔は何があっても揺るがないように見えた背中が、今は小さく、頼りなく見えた。
「親父・・」
その背中を見た瞬間、洋平の胸がざわついた。
帳簿を見たときには、まだ遠い話のように感じていた。
だが、父が一人で機械に向かっている姿を見れば、もう他人事ではいられなかった。
洋平は帳簿を机に置き、事務所を飛び出し、父の元へ駆け寄ろうとした。
その時。
グラインダーの金属音に混じって、重く湿った咳の音が響いた。
「ゴホッ、ゴホォッ・・」
健一の身体が、突然くの字に折れ曲がった。
「親父!?」
洋平が駆け寄るより早く、健一は握っていた工具を床に落とし、そのままコンクリートの床に崩れ落ちた。
激しい咳で、健一の身体が震えた。
苦しそうに胸元を押さえ、口を覆った両手の指の隙間から、赤黒い血が流れ出した。
「あ」
父の口から吐き出された血が、冷たいコンクリートの床に広がった。
「親父! しっかりしろ! 親父ッ!」洋平は駆け寄り、健一の身体を抱き起こした。
軽い。
あれほど大きく感じていた父の身体が、驚くほど軽く、冷たかった。
「ごほっ、ようへい・・」
健一の血塗れの口から、空気の漏れるような掠れた声が漏れる。
洋平の作業着も、父の血で赤く染まっていった。
「しゃべるな、親父! 早坂さん、救急車を呼んでくれ! 早く!」
「分かりました! すぐ呼びます!」
洋平の声が工場に響いた。
志穂が泣きながら事務所の電話に駆け寄る音が聞こえた。
病院の手術室の前。
消毒液の匂いと白い蛍光灯の光の中で、洋平はぼんやりと椅子に座っていた。
洋平の左手には、父の血が赤黒く乾いていた。
洗いに行く気にもなれず、洋平は自分の掌をじっと見つめていた。
ゆかりと歩むはずだった未来を捨てて、俺が選んだ現実。
俺がこの手で守りたかった世界。
それが、こんなにも簡単に崩れてしまうのか。
数時間後、手術室のランプが消え、疲れた顔の医師が出てきた。
「一命は取り留めました。ただ・・長年の過労とストレスで、心臓にかなり負担がかかっています。もう工場で力仕事をするのは無理です。次に同じような発作が起きたら、命に関わります。しばらくは、絶対に安静にしてください」
洋平は返事ができなかった。
助かったという安心より先に、父がもうあの工場で働けないという事実が頭に浮かんだ。
今まで父がやってきた仕事を、自分が代わらなければ。
そう思った瞬間、足元が急に不安定になったような気がした。
洋平には、それが坂口鉄工所の終わりを告げる言葉に聞こえた。
父が工場に戻れない。
借金は残る。
今まで父が一人で支えてきたものを、自分が引き受けなければならない。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
残されたのは、倒産の危機と大きな借金、そして、まだ一人前とは言えない洋平だった。
その日の深夜。
洋平は一人、誰もいない真っ暗な工場に戻ってきた。
裸電球を一つだけつけると、大きな機械が、暗闇の中に黙って並んでいた。
床には、父が昼間に吐いた血の跡が、黒く乾いて残っていた。
洋平はフラフラと歩み寄り、傍にあったボロ布を手に取ると、その床の血の痕を無言で拭き始めた。
力を込めて何度もこする。
けれど、コンクリートの細かい目に入り込んだ血の跡は、なかなか落ちなかった。
機械油で汚れた洋平の指先にも、その赤黒い色が残った。
「あ・・」
洋平の手から、真っ黒になったボロ布が滑り落ちた。
そこでようやく、すべてを失ったような気がした。
ゆかりを自分から手放し、一人で生きていくことを選んだ。
それでも、親父と一緒にこの油まみれの工場を守っていく。
その思いだけが、崩れそうな洋平を支えていた。
だが今、その支えさえなくなった。
大きな借金まで残され、洋平には何をどうすればいいのか分からなかった。
どこへ行けばいいのかさえ、分からなかった。
「洋平さん」
背後から、声がした。
振り返ると、薄いコートを着た志穂が、湯気の立つ紙コップを持って立っていた。
「・・帰れよ、早坂さん」
志穂が心配そうに立っているのが分かった。
昼間から何も食べていないこと、こんな時間まで工場にいることも、きっと気にしている。
それでも今は、その優しさを受け止める余裕がなかった。
洋平の声には、力がなかった。
「洋平さん、お昼から何も食べてないでしょう。せめて、このお茶だけでも飲んでください」
「帰れって言ってるだろ!」
洋平が怒鳴り声を上げ、傍にあった空のドラム缶を力任せに蹴り飛ばした。
ガシャァァン! という轟音が夜の工場に響き渡り、志穂がビクッと肩をすくめた。
「俺に関わるな。ここにはもう、未来なんてねえんだよ。親父は倒れた。借金は絶対に返せねえ。工場は終わりだ! あんたも早く、別のまともな仕事探せよ!!」
八つ当たりなのは、自分でも分かっていた。
心配してくれる志穂の優しささえ、今の洋平にはつらかった。
志穂は泣きそうな顔をしたが、何も言わなかった。
紙コップを作業台に置き、洋平を一度だけ見て、静かに工場を出て行った。
扉が閉まる音がしても、洋平は顔を上げなかった。
作業台に置かれた紙コップから温かい湯気が立っている。
その湯気を見ていると、余計に胸が苦しくなった。
一人になった洋平は、床に座り込み、父の血の跡のそばでうずくまった。
何も考えられないまま、洋平は頭を抱え、小さく震えた。
助けて。
誰か、助けて。
心の中でどれだけ叫んでも、助けてくれる人は、もういないように思えた。
冷たいコンクリートが、洋平の身体を冷やしていく。
声を上げる力も残っていなかった。
こらえていた嗚咽が、誰もいない工場の中に小さく漏れた。
洋平は何度も顔を上げようとした。
だが、立ち上がるだけの力が、今は残っていなかった。
洋平はしばらく動かなかった。
父の血の跡も、止まった機械も、今は何ひとつ答えてくれない。
海から吹き込む風がトタン壁を揺らし、誰もいない工場に低い音を残していた。




