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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第2章 夢と現実の分断

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第13話 「新幹線のプラットホーム」

  新幹線の高架ホームを、冬の冷たい風が吹き抜けていた。

  身体の芯まで冷えるような寒さだった。

  福山駅の上りホーム。

  頭上の電光掲示板には、東京行きの「のぞみ」の到着時刻が、オレンジ色の文字で表示されている。


  足元に真新しいボストンバッグを置いたゆかりは、見送りに来てくれた両親と話をしながらも、何度もエスカレーターの降り口へ目を向けていた。

  来るはずがない。

  頭では分かっていた。

  あの防波堤で、洋平は自分を拒んだ。

  もう会わないつもりなのだと、何度も自分に言い聞かせた。

  それでも、ゆかりの目はエスカレーターの降り口を探した。

  ひょっとしたら、という気持ちだけが消えてくれなかった。

  あの日、尾道の海風が吹きすさぶ防波堤で、「重い」「同情だ」「息苦しい」と、氷のように冷酷な言葉で突き放された。

  二人の関係は、あそこで完全に終わっている。


  それでも、ゆかりの胸には消せない未練が残っていた。

  何度自分に言い聞かせても、洋平が来るかもしれないという期待を捨てきれなかった。

  だから、エスカレーターの降り口から目を離せなかった。

  つい先日、尾道の浩一から電話があり、洋平の父が工場で血を吐いて倒れ、坂口鉄工所が多額の借金を抱えて倒産寸前だと知らされた。

  洋平があのとき、自分を突き放した本当の理由も分かった。

  ゆかりが東京へ行く決心を変えないように、洋平は一人で苦しみ、嫌われる役を引き受けたのだ。

  そのことを知ったゆかりは、受話器を握ったまま泣いた。

  今すぐ東京行きの切符を捨てて、尾道へ戻りたかった。

  洋平の隣で借金を返す手伝いをして、苦しんでいる洋平を支えたい。

  それが、ゆかりの本心だった。

  それでも、堂島が用意してくれた東京での環境と、応援してくれる両親の期待を無駄にはできない。

  何より、洋平が自分を突き放してまで守ろうとしてくれた「夢」を、自分の迷いで捨てるわけにはいかなかった。


『まもなく、一番線に、東京行きが到着します。黄色い線の内側までお下がりください』

  事務的なアナウンスがホームに響き、遠くから新幹線のヘッドライトが近づいてきた。

  時間だった。

  ゆかりが息を吐き、両親に向き直ろうとした、

  そのときだった。

「ゆかりっ!」

  階段を駆け上がってくる足音と、かすれた叫び声が聞こえた。

  振り返ると、洋平が立っていた。

  息を切らし、肩を大きく上下させている。

  いつもの油まみれの作業着ではなく、高校時代によく着ていた、少し色あせたダウンジャケットを着ていた。

  顔色は悪く、目の下には濃い隈がある。

  頬も痩せていた。

  父が倒れてから、まともに眠れていないのだとすぐに分かった。


「洋平・・」

  両親は二人の様子を察したようだった。

「先に乗って、荷物を置いておくから」と言って、ボストンバッグを持って車内へ向かった。

  新幹線がホームに入り、ドアがプシューッと音を立てて開いた。

  発車までの数分間、二人は冷たいホームに残された。

「・・来て、くれたんだ」

  それだけ言うのが精いっぱいだった。

  来てほしいと思っていた。

  でも、本当に来てくれるとは思っていなかった。

  ゆかりは目の前に立つ洋平を見つめたまま、何を言えばいいのか分からなくなった。

  ゆかりの声は震えていた。

  寒さのせいではない。

  洋平は乱れた呼吸を整えながら、ゆかりを見つめた。

  防波堤で見せた冷たい目ではない。

  疲れ切ってはいたが、そこには、ゆかりが知っている洋平の優しさが残っていた。


「お父さんのこと、浩一くんから聞いた」

  ゆかりが言うと、洋平は苦笑した。

「あいつ、余計なことを。口止めしてたのに」

「なんで言ってくれなかったの? 言ってくれたら、私、東京になんか行かないで・・」

  言葉の続きが出てこなかった。

  洋平が苦しんでいると知って、黙って東京へ行くことなんてできない。

  そばにいたい。

  その気持ちは隠せなかった。


「馬鹿野郎」

  洋平の声は低かった。

  でも、迷いはなかった。

「ゆかりが尾道に残って、何ができる? 新体操しかしてこなかったゆかりが、油まみれの工場で鉄を削れるのか?」

「それは、できないかもしれない。でも、そばにいることくらい・・」

「それじゃ、ゆかりの才能も人生も無駄になる」

  洋平は言い切った。

  本当は、自分だってゆかりにそばにいてほしい。

  父が倒れ、工場まで失いそうになっている今だからこそ、その気持ちは強かった。

  だからこそ、言葉を変えるわけにはいかなかった。


  洋平は一歩、ゆかりに近づいた。

  ダウンジャケットの袖から見える洋平の手は、以前より荒れていた。

  傷の赤みが残り、いくつもの新しい絆創膏が貼られている。

「いいか、ゆかり。親父が倒れたことも、何千万の借金ができたことも、工場のことも、全部俺の問題だ。ゆかりには関係ない」

「関係ないわけないじゃない! 私たちは・・」

「関係ないんだよ」

  洋平はそう言ったものの、声の奥には苦しさがにじんでいた。

  ゆかりにも、それが分かった。

  関係ないと言いながら、洋平自身が一番つらそうだった。


  洋平は、ゆかりの言葉を遮った。

  声は強かったが、その目はつらそうだった。

「俺は、ゆかりが世界の舞台で踊るところが見たい。ゆかりが夢をかなえて、笑ってるところを見たい。それが今の俺の夢なんだ」

  発車のベルが鳴り始めた。

  その音を聞いた瞬間、ゆかりの目から涙がこぼれた。

「洋平、別れたくない。私、東京に行きたくない・・」

  ゆかりは首を横に振った。

  新幹線が待っている。

  両親も待っている。

  それでも、足が動かなかった。

  ここで洋平の手を離したら、本当に二人の時間が終わってしまう気がした。


  泣きじゃくるゆかりの肩に、洋平の手がそっと置かれた。

  洋平はゆかりを抱きしめなかった。

  ただ、開いた新幹線のドアへ、そっと肩を押した。

  強く押しているようには見えなかった。

  それでも、ゆかりには、その手に込められた洋平の決意が分かった。

  自分から離れようとしているのではない。

  自分を行かせようとしているのだ。


「行け。・・俺は、ゆかりの夢を邪魔したくない。だから、行け」

  言いながら、洋平自身の声も少し震えていた。

  洋平にとって、それが最後にできることだった。

  これ以上ここにいれば、ゆかりを手放せなくなる。

  洋平がそう思っていることが、肩に置かれた手から伝わってきた。

  ゆかりは涙でにじむ視界のまま、車内へ足を踏み入れた。

  プシューッという音とともに、二人の間を隔てる重いドアが閉まった。


  ゆかりは窓際の席に駆け寄り、ガラス越しにホームを見た。

  ホームには、洋平が一人、身動きもせずに立ち尽くしている。

  ガラスに遮られ、もう洋平の声は聞こえない。

  外の冷たい風も、工場の油の匂いも届かない。

  ただ、洋平がそこに立っていることだけが分かった。

  洋平の顔からは、防波堤で見せた強がりが消えていた。

  眉間を寄せ、唇を強く噛んでいる。

  泣くのをこらえているように見えた。

  その顔を見て、ゆかりは確信した。

  あのとき洋平が言った言葉は、本心ではなかった。

  自分を嫌いになったわけでも、愛情がなくなったわけでもない。

  今も、洋平は苦しんでいる。


  嘘つき。

  本当は、洋平だって別れたくないくせに。

  つらくて、寂しくて、一人で立っているのもやっとなのに。

  ゆかりは涙を拭わず、窓ガラスに右手をそっと押し当てた。

  高校時代、マウンドで戦う洋平に向けて、何度も祈るように握りしめた手。

  柑橘系のハンドクリームで手入れした、白く細い手。

  ガラスの向こうで、洋平がハッとしたように目を見開いた。

  洋平は少しためらい、ポケットから出した自分の黒ずんだ手を見つめた。

  それから、ゆっくりと左手を上げた。

  爪の間まで黒い油が入り、いくつもの傷跡が残る、仕事で荒れた手だった。

  洋平も窓ガラスの向こうから、ゆかりの手に重ねるように左手を当てた。

  ガラス越しに、二人の掌が重なった。

  温もりは伝わらない。

  冷たいガラスの感触だけが、ゆかりの指先に残った。

  それでも、ガラス越しに重なった二人の手を見ていると、あの日のことを思い出した。

  海辺の渡船の甲板で、「この手はずっと離さない」と言った日のこと。

  あのときは、本当にずっと一緒にいられると思っていた。

  今はガラス一枚を隔てて、触れているのに温もりは届かない。


  ゴトッ、と車体が揺れ、新幹線がゆっくり動き始めた。

  洋平が、ガラスに手を当てたまま、歩き出す。

  列車の速度が少しずつ上がる。

  洋平も早歩きになり、やがて白い息を吐きながら走り始めた。

  重なっていた二人の手が、列車の速度に合わせて少しずつずれていく。

  行かないで。

  離れないで。

  お願い。

  ゆかりは窓ガラスに手をついたまま、声を殺して泣いた。

  ガラスの向こうで、走る洋平の口が「がんばれ」と動いたように見えた。

  列車の速度がさらに上がり、とうとう洋平の足が追いつかなくなった。

  洋平の手が、冷たいガラスの上を滑るようにして、ゆかりの手から離れた。

  重なっていた掌が、離れた。

  ほんの数秒前まで触れ合っていたのに、その距離は一瞬で広がっていった。


  ゆかりは手を伸ばしたまま動けなかった。

  追いかけたい。

  でも、新幹線はもう止まらない。

  ガラスの向こうで洋平の姿が小さくなっていく。

  ゆかりの目の前を、洋平の姿が後ろへ流れていく。

  最後に見えたのは、ホームで膝に手をつき、それでもこちらを見つめている洋平の姿だった。

  新幹線は速度を上げ、尾道へ続く景色はあっという間に遠ざかっていった。

  窓ガラスにはゆかりの指の跡が残り、右手だけが行き場をなくしたように宙に残っていた。

  ゆかりは座席に座り込み、両手で顔を覆った。

  周囲の目も気にせず、声を上げて泣いた。

  離れてしまった。

  それは、ただ離れただけではなかった。

  洋平が背負う工場の現実と、ゆかりがこれから向かう東京での未来。

  その違いが、二人の間に大きな距離を作ってしまったように感じた。


  愛している。

  誰よりも大切なのに、もうあの大きな手に直接触れることはできない。

  東京へ向かう新幹線の中で、ゆかりは恋の終わりを感じていた。

  冷えた指先を見つめながら、洋平との距離が、もう簡単には埋まらないことを思い知らされていた。

  それでも、窓ガラスに残った自分の手の跡を見れば、洋平の手の感触を思い出す。

  離れてしまったからこそ、あの手を大切に覚えておこうと思った。

  ゆかりは目を閉じた。

  涙が頬を伝い、膝の上に落ちた。

  それでも、右手にはまだ、ガラスに触れていた感触が残っていた。

  洋平の手の形を思い出しながら、ゆかりは静かに顔を伏せた。

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