第14話 「大都会の孤独」
地下鉄の薄暗いホームに、電車が大きな音を立てて滑り込んできた。
アナウンスが流れ、ドアが開く。
降りてきた人の流れに押されながら、ゆかりは重い足を動かし、駅の長い階段を上っていった。
周囲の人たちは前だけを見て、急ぐように歩いていく。
肩がぶつかっても、振り返る人はほとんどいない。
こんなに大勢の人がいるのに、ゆかりのことを気に留めて、名前を呼んでくれる人は一人もいない。
そのことが、かえって孤独を強く感じさせた。
地上に出ると、コンクリートのビルが並び、ネオンの光が夜空を明るく照らしていた。
尾道で感じていた潮風の匂いはない。
代わりに、排気ガスと冷えたアスファルトの匂いがした。
人の多い通りの真ん中で、ゆかりはひどく孤独だった。
すれ違う人たちが楽しそうに笑っているのを見ると、自分だけがこの街から取り残されたような気がした。
東京へ来てから、数か月が過ぎていた。
堂島が用意してくれたクラブの環境は、これまでとは比べものにならないほど整っていた。
空調もきちんと管理され、床には質の高いスプリングマットが敷かれている。
体育館には埃一つなかった。
けれど、その整った環境は、ゆかりにとって大きなプレッシャーでもあった。
クラブに集まる子供たちや同世代の選手たちは、全国から集まった実力のある選手ばかりだった。
ゆかりは彼らの手本になろうと、毎日の練習に加えて後輩の指導も続けていた。
自分の練習だけでも精いっぱいなのに、誰かに教える立場になったことで、気を抜ける時間はさらに少なくなった。
「ゆかりさん、手首の角度が甘い! 感情が指先まで届いていない。ただリボンを動かしているだけに見える。もう一度!」
フロアの端から、堂島の厳しい声が飛んできた。
堂島はゆかりの才能を高く評価し、生活のことまで気にかけてくれていた。
落ち着いた振る舞いや、芸術についての知識にも、ゆかりは素直に尊敬していた。
ただ、フロアに立てば、堂島は一切の妥協を許さなかった。
少しでも気を抜けば、すぐに周りとの差が開いていく。
ゆかりは、その緊張を抱えたまま毎日の練習を続けていた。
白くきれいだったゆかりの手には、重い手具を何度も受け止めた跡が残っていた。
血豆ができ、タコも増え、擦り傷も絶えない。
それでも痛みを隠して笑い、フロアに立ち続けた。
そんな毎日は、思っていた以上に孤独だった。
深夜、くたくたになって六畳一間のアパートに帰ると、ゆかりは蛍光灯をつける気力もなく、着替えもしないままベッドに倒れ込んだ。
部屋は静かだった。
窓の外では、幹線道路を走る大型トラックの音が続いている。
それでも部屋の中はひどく静かで、ゆかりには余計に広く感じられた。
故郷の家で、家族の気配を感じながら眠った夜を思い出す。
涙が込み上げてきたが、ゆかりは目を閉じてこらえた。
ゆかりは重い身体を起こし、カバンの中から一つだけ、大切に持ち歩いているものを取り出した。
高校時代からずっと愛用している、あの柑橘系のハンドクリーム。
チューブから少しだけクリームを絞り出し、新しくできた痛むマメを避けるようにして、両手にゆっくりと馴染ませる。
甘酸っぱく、少し懐かしい香りが部屋に広がった。
その瞬間、張りつめていた気持ちが崩れ、ゆかりの目から涙がこぼれた。
「洋平・・」
誰もいない部屋で呟いた名前は、返事もなく消えていった。
会いたい。
今すぐ、彼の声が聞きたい。
この香りを嗅ぐと、あの日のことがはっきりと思い出される。
激しい夕立の後、水道場で泥を落としていた彼。
マメが潰れて痛む不器用な手をとって、クリームを塗り込んであげた時の、少し照れたような優しい笑顔。
あの頃、洋平の手は大きくて温かかった。
少しざらついた厚い掌を握ると、それだけで安心できた。
どんなに不安な時でも、洋平の手があれば大丈夫だと自然に思えた。
今、この東京の狭い部屋で手を伸ばしても、あの温もりには届かない。
指の間を通り抜けるのは、東京の冷たい空気だけだった。
ゆかりはベッドの脇にある小さな固定電話を見つめた。
東京に来たばかりの頃は、週末になると必ず洋平の家に電話をかけていた。
受話器の向こうから聞こえる洋平の声が、慣れない東京で頑張るための支えだった。
けれど、電話をするたびに、洋平の声は疲れていった。
話し方も少しずつよそよそしくなった。
『・・ああ、俺は元気だ。工場? まあ、ぼちぼちやってる。ゆかりは練習、頑張れよ』
いつも短い会話で終わった。
声も低く、前のような明るさは消えていた。
無理をして電話に出ているようだった。
これ以上は踏み込まないでほしいと言われているように感じた。
ここ最近、夜に電話をかけても、洋平の母親が『洋平は工場に泊まり込んでるの』と申し訳なさそうに出るばかりだった。
洋平本人と話すこともできなくなっていた。
電話を切ったあと、ゆかりはいつもしばらく受話器を手にしたままだった。
「じゃあ、また週末に電話するね」
そう言っても、洋平は以前のように「待ってる」とは言わない。
「うん。練習、無理するなよ」
それだけだった。
短い言葉の中に何かを隠していることは、ゆかりにも分かった。
けれど、何を聞けばいいのか分からない。
問いかければ、洋平がさらに遠くへ行ってしまいそうで怖かった。
ときどき浩一からかかってくる電話で、鉄工所の厳しい状況を聞いていた。
洋平の父親が血を吐いて倒れ、借金も抱えていること。
洋平が一人で深夜まで働き、休む時間もほとんどないこと。
新幹線のホームで洋平が言った言葉も、何度も思い返した。
『俺はゆかりの夢を邪魔したくない』
その言葉の裏に、洋平がどれだけ自分を抑えていたのかを思うと、ゆかりは苦しくなった。
申し訳なさと悲しさが胸に重くのしかかった。
洋平が、あんなに一人で苦しんでいるのに。
本当なら、私がそばにいて洋平の手を握りたい。
傷だらけになった手にクリームを塗ってあげたい。
洋平が一人で苦しむ夜には、そばにいて話を聞いてあげたい。
私は東京で、自分のためにリボンを振っている。
洋平を故郷に残したまま、自分だけが新しい場所へ進もうとしている。
「何やってるんだろう・・。ごめんね、洋平・・」
両手で顔を覆い声を殺して泣いた。
洋平が恋しかった。
どんなに冷たく突き放されても、今すぐ新幹線に乗って、あの油の匂いがする洋平のそばへ帰りたい。
借金で苦しんでいるなら、一緒に働けばいい。
堂島が用意してくれた立派なフロアより、洋平のいる工場のほうが、ゆかりにはずっと身近で温かい場所に思えた。
翌日の練習でも、ゆかりの気持ちは晴れなかった。
ゆかりの動きには、いつもの勢いがなかった。
技術的には間違っていなくても、表情や動きに気持ちが乗らない。
自分でもそれは分かっていた。
練習が終わると、堂島はゆかりを誰もいないフロアの隅へ呼んだ。
「ゆかりさん。集中できていないね。・・故郷に、気持ちを置いてきたのかな」
図星だった。
ゆかりは俯いた。
言い訳をしても、堂島にはすぐ分かってしまう気がした。
堂島は責めるような口調ではなく、静かに話し始めた。
「洋平君を大切に思う気持ちは、否定しないよ。ホテルで会ったとき、彼が見せた顔も覚えている。けれど、ゆかりさん。あなたは東京へ来ることを選んだ。そして彼も、自分の気持ちを抑え、あなたを送り出した。彼がどんな思いで送り出したのか、あなたなら分かっているはずだ」
堂島の言葉は、ゆかりの胸に重く残った。
「ここで寂しさに負けて、東京を離れたらどうなる? 彼がゆかりさんを送り出した意味までなくなってしまう。彼の気持ちを無駄にしたくないならここで頑張ってみなさい」
「・・」
ゆかりは唇をかんだ。帰りたい気持ちが消えたわけではない。
それでも、ここで逃げることだけはしたくなかった。
堂島の言葉を聞いても、すぐに気持ちが切り替わったわけではなかった。
洋平の声を聞きたい。
顔を見たい。
あの手をもう一度握りたい。
そんな気持ちは、胸の奥に残ったままだ。
ゆかりはフロアを見渡した。
何人もの選手が汗を拭きながら次の練習の準備をしている。
ここで頑張ると決めたのなら、まずは目の前のことから逃げない。
それだけは自分にもできる。
ゆかりは一度だけ目を閉じた。
寂しさがなくなるわけではない。
けれど、寂しいからこそ、今できることを続けようと思った。
ゆかりは弾かれたように顔を上げた。
堂島の言う通りかもしれない。
あの日、洋平は新幹線の窓ガラス越しに、息を切らしながら走って見送ってくれた。
ゆかりを引き止めないように、洋平は嫌われるような言葉まで口にした。
あれは、ゆかりを東京へ送り出すための嘘だった。
洋平が涙をこらえていた顔が、今も忘れられない。
ここで逃げ帰れば、洋平のそばにいられる。
きっと安心できる。
でも、それでは洋平が自分が嫌われてまで送り出してくれた気持ちを無駄にしてしまう。
彼が送り出してくれた東京で、私ができることをやらなければならない。
いつか胸を張って洋平に会えるように結果を出したい、と思った。
その夜、アパートの狭いベランダに出て、ゆかりは東京の冷たい夜空を見上げた。
星はほとんど見えなかった。
ネオンとビルの明かりが夜空を照らしている。
眼下では、車の赤いテールランプが次々に流れていた。
ゆかりは、柑橘系の香りが残る両手を胸の前で組んだ。
(洋平・・)
今はまだ、帰れない。
会えない。
どれだけ洋平に会いたくても、今はここを離れるわけにはいかない。
洋平が「あのとき、ゆかりを東京へ送り出してよかった」と思えるような結果を出したい。
それが、今のゆかりにできることだった。
ゆかりの頬を涙が伝った。
それでも、涙の奥には新しい決意が生まれていた。
会いたい。
どうしようもなく、会いたい。
そんな気持ちを抱えたまま、ゆかりは明日も東京のフロアに立つ。
洋平に胸を張って会える日を思いながら、もう一度リボンを手に取る。
小さく息を吐いた。
涙を拭き、手のひらを開く。
そこには、何度も道具を握った跡が残っていた。
痛みも、まだ残っている。
それでも、明日はまた握る。
そう決めた。
今夜は、それだけでいい。




