第15話 「父の遺言」
線香の煙が、部屋の中をゆっくり漂っている。
尾道駅の裏手にある、古い町内会館。
健一の通夜は、まもなく終わろうとしていた。
祭壇の横に並べられたパイプ椅子。
その一番端の喪主席に、洋平は座っている。
着ている黒いスーツは、高校の卒業式のときに買ったものだった。
肩が少し窮屈で、生地もところどころ擦れている。
防虫剤の匂いも、まだ少し残っていた。
白いシャツの襟が首に当たっていたが、ネクタイを緩める気力もなかった。
読経が終わり、僧侶が立ち上がって部屋を出ていく。
黒い服を着た弔問客が、順番に焼香台へ向かっていった。
鉄工所の職人たち。
近所の弁当屋の主人。
浩一と、その両親。
洋平は立ち上がるたびに、頭を下げた。
「このたびは、ご愁傷様です」
何度も同じ言葉が聞こえてくる。
「ありがとうございます」
洋平も、そのたびに同じ言葉を返した。
自分の声なのに、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
誰の顔を見ても、ぼんやりしている。
浩一が肩を叩いて何か話していたことは覚えている。
でも、何を言われたのかは思い出せなかった。
健一が死んだ。
数日前の午後、工場のコンクリートの床で血を吐いて倒れた。
そのまま救急車で病院へ運ばれ、二度と目を覚ますことはなかった。
医師から聞いた死因は心不全だった。
病院で聞いた説明も、役所で死亡診断書を受け取ったことも、今となっては遠い出来事のように感じる。
涙は出なかった。
ただ、体が重い。
少し動くだけでも、ひどく疲れる。
午後九時を過ぎると、弔問客もほとんどいなくなった。
親戚の何人かが、別室の畳の部屋でビールを飲んでいる。
低い話し声と、グラスを置く音が壁越しに聞こえてくる。
洋平は椅子に座ったまま、祭壇の中央に飾られた遺影を見た。
五年ほど前の慰安旅行で撮った写真だった。
少し日焼けした顔で、健一が無愛想に笑っている。
あの顔で、もう怒鳴ることはない。
工場で鉄を叩く音も、もう聞こえない。
線香の火が少しずつ短くなり、灰が香炉に落ちた。
明日から、どうすればいいのだろう。
葬儀が終われば、火葬場へ行く。
その後には、借金と、止まったままの鉄工所が残る。
考えなければならないことは、いくらでもある。
それなのに、頭の中には何も浮かばなかった。
ストーブの熱で部屋は少し暑いくらいなのに、洋平は寒気がするような気がした。
小さく息を吐き、もう一度、遺影を見る。
親戚の叔父が一人、部屋に入ってきた。
「洋平、香典返しのことなんだけどな。明日の分は、どうする?」
「・・はい。あとで確認します」
「親族の弁当は二十個でいいか?」
「はい。・・たぶん」
「たぶんって、お前な・・」
叔父は困ったように洋平を見た。
「誰に聞けばいいのかも、まだ分からないんです」
洋平がそう言うと、叔父は一瞬黙った。
「そうか。じゃあ、こっちでも確認しておく」
「すみません」
叔父が部屋を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、洋平は、自分が何一つ判断できなくなっていることに気づいた。
しばらくして、別の足音が近づいてきた。
「洋平さん」
振り向くと、志穂が立っていた。
黒い飾りのない喪服を着ている。
化粧は普段より薄く、髪もきちんとまとめていた。
手には、受付で使っていた香典帳と、茶色の封筒を何枚か持っている。
「これ、ここで整理しても大丈夫ですか?」
「・・ああ。お願いします」
志穂は洋平の隣に座った。
膝の上に帳簿を開き、香典袋を一つずつ取り出していく。
『御霊前』と書かれた袋には、筆で書かれたものもあれば、サインペンで書かれたものもある。
志穂は黒いボールペンを手に取り、名前と金額を書き込んでいった。
カリカリ、と小さな音がする。
洋平は、少し背中を丸めて作業を続ける志穂を見ていた。
志穂は泣いていなかった。
顔色は少し悪い。
それでも、何も言わずに手を動かしている。
誰がいくら包んだのか。
明日の受付を誰に頼むのか。
弁当はいくつ必要なのか。
昨日から、志穂はそうした細かなことを一つずつ引き受けてくれていた。
「早坂さん」
洋平が呼ぶと、志穂が顔を上げた。
「遅くまで、すみません。もう帰って休んでください」
「まだ終わってないので」
「でも・・」
「明日の朝に残すより、今やっておいたほうが楽ですから」
志穂はそう言って、また帳簿に目を落とした。
慰める言葉はなかった。
「大丈夫ですか」とも、「しっかりしてください」とも言わない。
それが、洋平にはありがたかった。
「つらいですね」と言われたら、何かが崩れてしまいそうだった。
志穂のペンの音だけが、一定の間隔で続いている。
その音を聞いていると、少しだけ息がしやすくなった。
三十分ほどして、志穂が立ち上がった。
「お茶、飲みます?」
「・・はい」
部屋の隅にある給茶機から、紙コップにお茶を注ぐ。
ブーンという低い音がして、志穂は二つの紙コップを持って戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
洋平は紙コップを受け取った。
一口飲む。
ぬるかった。
味も、ほとんど分からない。
「明日の葬儀場への移動は、九時半です」
志穂が帳簿を確認しながら言った。
「車の手配は済んでいます」
「分かりました」
「それから・・」
志穂が少し迷ってから、顔を上げた。
「お父さんの棺に、何か入れたいものはありますか?」
洋平は紙コップを見つめた。
「・・安全靴かな」
「安全靴ですか?」
「親父、あれを三回も修理して履いてたんです。新しいのを買えって言っても、足に馴染んでるからって」
洋平は少しだけ笑った。
「もうボロボロなのに」
「分かりました。明日の朝、工場から持ってきます」
「お願いします」
志穂は帳簿の端に小さくメモをした。
会話は、それだけだった。
でも、その短いやり取りをしている間だけ、洋平は自分が何をすればいいのかを考えることができた。
明日は九時半。
安全靴を持ってくる。
葬儀に行く。
今は、それだけでいい。
志穂は再び香典の計算に戻った。
洋平も、ぬるいお茶をもう一口飲んだ。
今度は、少しだけ渋みが分かった。
夜中の十二時を回った頃、浩一の父親が部屋に入ってきた。
坂口鉄工所に長く出入りしている職人で、健一とは昔から付き合いがある。
作業着のまま、少し困ったような顔をしている。
「洋平」
浩一の父親は、洋平の前に小さなノートを置いた。
油と手垢で表紙が黒くなり、角も丸く擦れている。
「親方の机の引き出しにあった」
浩一の父親は一度ノートを見た。
「・・洋平、読んどけ」
「これ、親父のですか?」
「ああ。仕事のことが書いてある」
「ありがとうございます」
浩一の父親は、それ以上何も言わなかった。
洋平の肩を一度だけ叩いて、部屋を出ていく。
洋平はノートを手に取った。
健一がいつも作業着の胸ポケットに入れていた、仕事用のメモ帳だった。
ページをめくる。
日付。
発注元の会社名。
SUS304、SS400といった鋼材の記号や寸法。
納期の予定。
乱暴で読みにくい字が並んでいる。
ページをめくっていくうちに、指が止まった。
最後から数ページ前。
日付は、健一が倒れる三日前だった。
そこには、いつもの寸法や納期とは違う、少し長い文章が書かれていた。
『洋平の溶接。ビードの幅は揃ってきた。だが、まだ焦りがある。周りが見えていない。』
仕事の評価だった。
直接褒められた記憶はない。
いつも、
「下手くそ」
「やり直せ」
「ちゃんと見ろ」
そんな言葉ばかりだった。
だから、余計に、その短い文章が胸に残った。
ページをめくる。
『今月の手形、また待ってもらった。銀行ももう限界だろう。』
『俺が倒れたら、工場は畳む。』
洋平の指が止まる。
さらに、その下に続いていた。
『洋平には、絶対に借金を背負わせるな。あいつは真面目すぎる。逃げない。だから、周りが逃がしてやってくれ。』
『あいつの手は、まだ若い。違う仕事ができる。』
洋平は、しばらくその文字から目を離せなかった。
健一は、分かっていた。
工場がもう長くは続かないことも。
自分の体が限界に近づいていることも。
それでも、洋平には何も言わなかった。
ノートの文字が、少しずつ滲んでいく。
瞬きをすると、紙の上に涙が一滴落ちた。
油で汚れた紙が、そこだけ丸く濡れた。
「親父」
声に出した。
その声を聞いて、洋平は初めて、自分が泣きそうになっていることに気づいた。
喉の奥が詰まる。
ノートを両手で握る。
「親父・・」
もう一度、呼んだ。
返事はない。
当たり前なのに、その当たり前が、今になって胸に重くのしかかった。
健一は、洋平を工場の借金から遠ざけようとしていた。
自分が工場の問題を抱えたまま、最後まで息子には別の道を残そうとしていた。
怒鳴ってばかりだった父親が、そんなことを考えていた。
そのことが分かった瞬間、洋平の目から涙がこぼれた。
声を出さないように唇を噛んだ。
それでも、肩が震えた。
パイプ椅子に座ったまま、ノートを胸に抱える。
しばらく、顔を上げられなかった。
隣で、カリカリというペンの音が止まった。
志穂は何も言わなかった。
洋平の顔を見たあと、黒いバッグを開ける。
そこから白いハンカチを取り出した。
そして、洋平の膝の上にそっと置く。
洋平は何も言わず、そのハンカチを手に取った。
顔を覆う。
線香の匂い。
ノートに残った鉄と油の匂い。
その二つが混ざった空気の中で、洋平は声を殺して泣いた。
志穂は何も言わず、再び帳簿に目を戻した。
少しして、カリカリというペンの音が戻ってくる。
洋平の泣き声は、しばらく途切れなかった。
志穂も急かさなかった。
何かを言う代わりに、ただそこにいた。
やがて、町内会館の時計が午前一時を告げた。
明日の朝になれば、またやることがある。
葬儀に行く。
父親を見送る。
その先には、鉄工所と借金が残っている。
まだ、どうすればいいのか分からない。
父親の残したノートを胸に抱えたまま、洋平は泣いていた。
隣では、志穂のペンが静かに動き続けていた。




