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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第3章 すれ違う想いと絶対的な喪失

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第16話 「浩一の鉄拳」

 親父の葬儀が終わってから、数日が経っていた。

 尾道の海から吹く冬の風が、シャッターの隙間から工場の中へ入り込んでくる。

 暖房のない工場は、朝からずっと冷えたままだった。

 電源を落とした旋盤やプレス機が、暗い工場の中に並んでいる。

 いつもなら親父の声や機械の音が響いていた場所なのに、今は何も聞こえない。


 洋平は一人、機械の油汚れをボロ布で拭いていた。

 機械を動かすためじゃない。

  少しでもきれいにしておけば、債権者に引き取られたとき、少しでも値がつくかもしれない。

 ただ、それだけだった。

 指先は凍えるように冷たい。

 ひび割れた皮膚に黒い油が入り込んでいる。

 それでも洋平は手を止めなかった。


 胸のポケットには、親父が残した薄いノートが入っている。

『俺が倒れたら、工場は畳む。洋平には、絶対に借金を背負わせるな』

『あいつの手は、まだ若い。違う仕事ができる』

 あの乱暴な文字を思い出すたび、胸の奥が痛んだ。

 ノートを閉じたときも、しばらく手を離せなかった。

 紙の上に残った親父の字は、もう二度と書き足されることがない。

 そう思うと、ページをめくることさえ怖くなった。


 親父は最後まで、自分を借金から遠ざけようとしていた。

 けれど洋平には、親父の気持ちに甘えて、自分だけ逃げることができなかった。

 ゆかりには、あれほどひどい嘘をついた。

 自分を嫌いになるような言葉まで口にして、東京へ行かせた。

 それなのに、自分だけがここを離れてしまったら、あの決断は何だったのか。

 自分が泥まみれになって、この工場に残る。

 ゆかりを突き放した自分には、それしか残されていない。

 洋平は、そう思い込んでいた。


 ガラガラ、と音がして、工場脇の小さな潜り戸が開いた。

 冷たい外気と一緒に、人影が入ってくる。

 振り返ると、学生服の上に厚手のコートを着た浩一が立っていた。

 手にはコンビニのビニール袋をぶら下げている。

「・・こんなところで、何やってんだよ」

「見ればわかるだろ。掃除だ。機械を少しでもきれいにしとかないと、引き取られるときに値がつかないからな」

 洋平は手を止めず、ボロ布で鉄の表面を擦り続けた。

 浩一は何も言わずに近づき、ビニール袋を作業台に置いた。

  袋の中から、温かい肉まんと缶コーヒーの匂いがする。

「食えよ。早坂さんから聞いたぞ。葬式が終わってから、ほとんど何も食ってないんだって?」

「・・そんなに食ってないか?」

「自分でわかってねえのかよ」

 浩一は肉まんの袋を洋平の前へ押し出した。

「冷めるぞ。肉まんくらい食えるだろ」


 洋平は袋を見た。

 湯気はもう少なくなっていたが、まだ温かそうだった。

「腹、減ってないんだ。悪いな」

「意地張ってんじゃねえよ」

 浩一の声に、少し苛立ちが混じった。

「親方のノート、読んだんだろ。早坂さんが言ってた。親方、お前に工場も借金も残さずに、自由に生きろって書いてたんだろ?」

 洋平の手が止まった。

「・・俺は、逃げない」

「逃げる逃げないの話じゃねえだろ!」

 浩一の声が工場に響いた。

「親方は、お前を守りたかったんだよ!」

「うるさい!」

 洋平は怒鳴り返し、油まみれのボロ布を床に叩きつけた。

「逃げられるわけないだろ! 親父が命懸けで守ろうとしたもんを、はい、そうですかって捨てられるかよ! 借金だって、俺が働いて、少しずつでも返して・・」

「馬鹿野郎。現実見ろよ!」

 浩一の怒声が、高い天井に響いた。


「数千万だぞ! 高卒のお前が朝から晩まで働いたって、利子を払うだけで一生かかるような金だ。親方は、お前にそんな人生を送らせたくなくて、全部自分で背負おうとしたんだろ!」

 洋平は言葉を失った。

 そんなことは、自分でもわかっている。

 どれだけ働いたところで、簡単にどうにかできる額じゃない。

 それでも、手放せなかった。

 工場の中にいる間だけは、親父がまだすぐそばにいるような気がした。

 機械に触れれば、油の匂いがすれば、昨日までの時間に戻れる気がした。

 ここを離れたら、本当に親父を見捨てることになるような気がした。

 工場を畳むことと、親父との時間まで終わらせることが、洋平の中では同じことになっていた。


「ゆかりも、東京に行ったぞ」

 浩一が、少し声を落とした。

 その名前を聞いた瞬間、洋平の肩がわずかに揺れた。

「見送りに行った奴から聞いた。新幹線の中で、ずっと泣いてたってよ」

 洋平は何も言わなかった。

「お前、本当はゆかりのこと、嫌いになったわけじゃないんだろ」

 浩一が一歩近づいた。

「家がこんなことになって、ゆかりを巻き込みたくなくて、わざと嫌われるようなこと言って突き放した。違うか?」

「違う。ゆかりが重くなっただけだ。同情されるのが、しんどくなったんだ」

「嘘つけ!」


 浩一は洋平の作業着の胸ぐらを両手で掴んだ。

「マウンドから、どんな顔でゆかりのいるスタンドを見てたか、ずっとボールを受けてた俺が一番よく知ってるんだよ!」

 浩一の手に力が入る。

「ゆかりの手を握るときだって、すごく大事そうに触ってたじゃねえか。あれを見て、嫌いになったなんて誰が信じるんだよ!」

 胸ぐらを掴む浩一の手が、小刻みに震えていた。

「親方も、ゆかりも、自分の気持ちを抑えて、お前のために離れたんだぞ。それなのに、お前は全部一人で抱えて、自分を罰してるだけじゃねえか!」

「お前に何がわかる!」

 洋平は浩一の腕を振り払い、強く突き飛ばした。

 浩一がよろめき、背後の工具箱にぶつかる。 ガシャーン、と金属音が工場に響いた。


「俺だって、俺だって、ゆかりと一緒にいたかったに決まってんだろ!」

 洋平の声が震えた。

「でも、無理なんだよ! 俺のこの手じゃ、もうゆかりのいる世界には届かない! 親父が死んで、借金しか残ってない俺が、ゆかりの未来まで泥まみれにして、どうすんだよ!」

 言葉が止まらなくなった。

「俺はもう、這い上がれないんだ! だから・・せめてゆかりだけは、東京で笑っててほしいんだよ!」

 洋平は拳を握りしめた。

「そのためなら、俺がここで一生苦しんだっていい!」

「この、大馬鹿野郎!」

 ドゴッ。

 鈍く、重い音が響いた。

 浩一の右拳が、洋平の頬を打った。

 キャッチャーとして鍛えた、分厚い拳だった。

 洋平の身体がよろめき、そのまま冷たいコンクリートの床に倒れ込んだ。


「・・っ」

 口の中に鉄の味が広がった。 切れた唇から血がにじむ。

 頭が揺れ、視界がぼやけた。

 浩一は倒れた洋平のそばにしゃがみ、胸ぐらを掴んだ。

 殴った拳を見れば、拳の節が赤くなっている。

 それでも浩一は手を下ろさなかった。

「痛えかよ。・・これが現実だ、洋平」

 浩一の顔には怒りだけではなく、悲しさも浮かんでいた。

 目には涙が溜まっている。

「お前が勝手に全部背負って、勝手に自分を罰して、それで誰が喜ぶんだよ!」

 浩一の声が震えた。

「親方が喜ぶか? ゆかりが喜ぶか? 違うだろ!」

 洋平は答えられなかった。

「ゆかりは、東京のきれいなフロアで踊ることだけを望んでたんじゃねえよ。泥まみれでも、お前の隣にいたかったんだろ!」

「・・」

「親方だって、工場を守れってノートを残したんじゃない。お前に笑って生きてほしかったんだよ!」

 その言葉が、洋平の胸に刺さった。

 ずっと目を背けてきたことだった。

 自分は、ゆかりや親父のためだと思っていた。

 けれど、本当は違うのかもしれない。

 ゆかりと一緒に、このどん底を乗り越える勇気がなかった。

 親父の死を受け入れて、自分の人生を一から始める覚悟もなかった。

 だから、自分から全部を遠ざけてしまった。


「あ・・ああ・・」

 洋平の目から、涙がこぼれた。

「浩一、俺・・どうしたらいいか、わかんねえよ・・」

 もう強がる気力も残っていなかった。

「野球もできなくなって・・親父も死んで・・ゆかりも、俺の手から離れて・・」

 声が詰まる。

「俺には、もう何も残ってない・・。何をしたらいいのか、真っ暗でわかんねえんだよ・・」

 子どものように泣く洋平を、浩一はしばらく黙って見ていた。

 やがて胸ぐらを掴んでいた手を離し、洋平の横にどっかりと腰を下ろした。

 二人の背中に、冷たいコンクリートの感触が伝わる。

 高い天井の向こうから、冬の薄い光が差し込んでいた。

「何もないわけ、ねえだろ」

 浩一が、深く息を吐いた。

「お前が残ってんだろ」

 洋平は顔を上げた。

「お前の手も残ってる。まだ動くだろ」


 洋平は自分の右手を見た。

 ボールを投げ、工場の機械に触れ、何度も傷ついてきた手。

 今は黒い油にまみれて、ひび割れている。

「ゆかりは、お前が突き放したくらいで、お前を嫌いになるような女じゃねえよ」

 浩一は続けた。

「どれだけ泥まみれになったって、東京でお前のことを忘れたりしねえだろ」

 洋平は黙って聞いていた。

「親方も同じだ。お前がここで一人で腐っていくために、あのノートを残したんじゃねえ」

 浩一は、洋平の手を見た。

「その手で何ができるかは、これから考えりゃいい。今すぐ答えを出せなんて言ってねえよ」

 洋平は何も言わず、自分の手を見つめた。

「重いもんを残さないようにしてくれたんだろ。だから、お前はこれから、自分の人生を考えればいいんだよ」


 少しの沈黙があった。

 工場のどこかで、冷えた金属が小さく鳴った。

 二人とも、しばらく何も言わなかった。

 浩一は立ち上がらず、そのまま洋平に右手を差し出した。

「立てよ、エース」

 洋平が浩一を見る。

「試合はまだ終わってねえぞ。勝手にゲームセットにすんな」

 洋平は、涙で滲む視界の中で、その手を見つめた。

 長年、自分の球を受け続けてくれたキャッチャーの手。

 厚くて、節が太くて、頼りになる手。

 洋平は鼻をすすり、唇からにじんだ血を手の甲で拭った。

 そして、浩一の手を握った。

 強い力で引っ張られ、洋平は冷たい床から立ち上がった。

 頬は殴られた痛みで熱を持っている。

 身体のあちこちも痛かった。

 それでも、さっきまで胸を塞いでいた息苦しさが、ほんの少しだけ軽くなっていた。


「痛えな、お前のパンチ」

 洋平がかすれた声で言うと、浩一は少し笑った。

「当たり前だろ。毎日、お前の暴投を体張って止めてきたんだからな」

 浩一は作業台に置いたビニール袋から、すっかりぬるくなった缶コーヒーを取り出した。

「ほら」

 洋平が受け取り、プルタブを開ける。

 一口飲んだ。

 苦かった。

 でも、少し甘かった。

 久しぶりに、味をちゃんと感じた気がした。

「ありがとな、浩一」

「バーカ。俺はお前のお守りじゃねえぞ」

 浩一は照れたように顔をそむけた。

 洋平は、その横顔を見てから、工場の中を見回した。


 鉄の匂い。

 機械油の匂い。

 親父がずっと働いてきた場所。

 自分もここで育ってきた。

 すべてを失ったと思っていた。

 でも、本当に何も残っていないわけじゃない。

 自分を殴ってでも、立ち上がらせようとしてくれる親友がいる。

 遠く東京にいるゆかりも、きっと自分のことを忘れてはいない。

 そして親父は、最後に自分へ借金ではなく、これからを選ぶ余地を残してくれた。

 

 ここから、もう一度始める。

 何から始めればいいのかは、まだわからない。

 工場をどうするのか、借金をどうするのか、ゆかりとこれからどう向き合うのか。

 答えは一つも出ていない。

 それでも、立ち止まったままでは何も変わらない。

 逃げるためでもない。

 自分を罰するためでもない。

 いつかまた、あの大切な手に触れられる自分になるために。

 少しだけ開いたシャッターの隙間から、冬の淡い光が差し込んでいた。

 細い光は、暗いコンクリートの床をまっすぐ照らしていた。

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