第17話 「妹・遥の病魔と一時帰郷」
東京の空は、今日も高く晴れていた。
けれど、ゆかりには、その青ささえどこか冷たく見えた。
クラブの体育館には、リボンが空気を切る音と、堂島の指示する声が響いていた。
ゆかりはフロアの中央で、何度目かわからないジャンプの着地を決めた。
足首に鈍い痛みが走ったが、それを顔には出さず、最後のポーズで静止した。
「よし。今日はそこまでにしておこう」
堂島の声で、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
ゆかりがタオルで汗を拭おうとしたその時、事務室から慌てた様子でスタッフが駆け寄ってきた。
「宮下さん、ご実家からお電話です。お母様、ひどく取り乱していらっしゃって・・」
嫌な予感が走った。
急いで事務室へ行き、受話器を耳に当てる。
『ゆかりっ、遥が、遥が、学校で倒れて・・』
電話の向こうで、母が泣き叫んでいた。
遥。
坂道を元気に駆け回り、ゆかりの大会には手作りの応援うちわを持ってきてくれた、大切な妹。
急性重症筋無力症。
その病名を聞いただけで、ゆかりの頭の中は真っ白になった。
数時間後、ゆかりは西へ向かう新幹線の窓から、流れていく景色を見つめていた。
あの日、洋平と窓ガラス越しに手を合わせたのと同じ路線だった。
あの時とは違い、今は景色が後ろへ流れていくのを、ただ黙って見ていた。
窓ガラスに映る自分の顔は青白く、血の気が完全に引いていた。
(遥、お願いだから無事でいて。お願い・・)
祈るように両手を強く握りしめる。
東京でどれだけ練習しても、堂島に褒められても、今は何の意味もないように思えた。
自分が追いかけてきたものが、ひどく遠いものに感じられた。
尾道総合病院の長い廊下には、消毒液の匂いが漂っていた。
白い蛍光灯が、廊下を明るく照らしている。
病室のドアをそっと開けると、ベッドの上に遥が横たわっていた。
いつも元気に走り回っていた姿とは別人のように、小さく見えた。
鼻や腕には何本もの管がつながれ、電子音が一定の間隔で鳴っている。
ベッドのそばでは、両親が疲れ切った顔で椅子に座っていた。
「お母さん、お父さん・・」
ゆかりの声を聞くと、母が立ち上がった。
「ゆかり・・来てくれたのね」
母はゆかりの胸にすがりつき、声を上げて泣いた。
医師の説明では、すぐに意識が戻るとは限らず、歩くことが難しくなる可能性もあるという。
説明を聞いている間、ゆかりは何度も息を飲んだ。
何を聞いても、うまく頭に入ってこなかった。
眠り続ける遥の、白く細い手をそっと握る。
驚くほど冷たく、軽かった。
あの交差点で「お姉ちゃん、リボン綺麗だったよ」と笑っていた時の手とは、別の手のようだった。
ゆかりは涙を堪えきれず、遥の小さな手を自分の両手で包み込むようにして、声を出さずに泣き続けた。
夜の九時を回った頃。
「少し、外の空気吸ってくるね」
ゆかりは両親にそう告げて、病室を後にした。
息が詰まりそうだった。
病室にいると、電子音を聞くたびに遥のことが怖くなった。
誰もいない薄暗い廊下を歩き、自動販売機が並ぶ小さな休憩コーナーへと向かう。
財布から小銭を取り出そうとした時、指先が震え、百円玉が床に落ちた。
チャリン、という軽い音を立てて、銀色の硬貨が廊下を転がっていく。
それを追いかけようと屈み込んだゆかりの目の前で、不意に大きな手がスッと伸びてきて、その百円玉を押さえた。
「落としたぞ」
低く、少し掠れた、聞き慣れた声。
ゆかりは弾かれたように顔を上げた。
「洋平?」
そこに立っていたのは、洋平だった。
けれど、ゆかりの知っている洋平とは、ずいぶん違って見えた。
かつて着ていた鉄工所の名前が入った作業着ではなく、あちこちにペンキや泥がこびりついた、安物の土木作業用のドカジャンを着ている。
頬はひどくこけ、目の下には深い疲労の隈が刻まれていた。
そして何より、彼が百円玉を拾い上げたその右手には、指先から手首にかけて、分厚く生々しい白い包帯がぐるぐると巻き付けられていた。
ゆかりは言葉を失った。
会いたかったのか、会うのが怖かったのか、自分でもわからない。
ただ、目の前にいる洋平を見ていると、東京へ行ってから胸の奥に押し込めていたものが次々に浮かんできた。
「その手、どうしたの!?」
ゆかりが思わず声を上げると、洋平は少しだけ気まずそうに、百円玉をゆかりに差し出しながら包帯の手を後ろへ隠した。
「ああ、これか。解体現場で、ちょっと鉄骨に挟んだだけだ。大したことねえよ。今日が抜糸だったから、寄っただけだ」
鉄工所がなくなり、親父を亡くした洋平が、どんな生活をしているのか。
服と包帯を見れば、それだけで苦労が伝わってきた。
「ゆかりこそ、なんでここにいるんだ。東京にいるはずだろ?」
洋平が、自動販売機に硬貨を入れながら聞いた。
「遥が、学校で倒れたの・・」
ゆかりの声が、限界を超えて細く震えた。
「ずっと意識が戻らなくて、お医者さんにも、歩けなくなるかもしれないって言われて・・私、どうしたらいいか・・」
こらえていた涙がこぼれた。
東京では、弱音を吐かないようにしていた。
両親の前でも、長女らしくしっかりしていなければと思っていた。
けれど、洋平の顔を見た瞬間、その我慢が切れた。
洋平は何も言わず、自販機から出てきた温かいミルクティーを、ゆかりに差し出した。
包帯に巻かれた手が、ゆかりの指先にわずかに触れた。
包帯の隙間から見える手は、ゴツゴツしていた。
それでも、その手の温かさは、あの日、坂道で助けてもらった時と変わらなかった。
「遥、お前の大会の時、いつも一番前で大きな声出してたな・・」
洋平が、廊下の窓の外、真っ暗な尾道の街を見下ろしながらポツリと言った。
「あの坂道も、ランドセル背負ってすげえ勢いで駆け下りてた。あんな元気な遥が、簡単に負けるわけねえよ」
医学的な根拠のある言葉ではない。
ただの気休めかもしれない。
それでも、洋平の低く落ち着いた声を聞いていると、ゆかりの張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。
「うん。そうだよね、遥、強いもんね・・」
ゆかりは缶のミルクティーを両手で包み込み、声を押し殺して泣き続けた。
洋平は、ゆかりの背中に手を伸ばさなかった。
抱きしめようともしなかった。
ただ、彼女が泣き止むまで、少しだけ距離を置いて、無言で横に立ち続けてくれた。
その距離が、今のゆかりにはありがたかった。
しばらくして、ゆかりの涙が少しだけ落ち着いた。
「ごめんね・・変なとこ見せちゃって」
「ゆかりが泣き虫なのは、昔から知ってるよ」
洋平が、微かに口角を上げて笑った。
その笑顔を見て、ゆかりは少し驚いた。
防波堤で見せた、すべてを拒むような冷たい表情。
新幹線のホームで見せた、無理に突き放そうとする顔。
今の洋平からは、その頃の硬さが消えていた。
もちろん、現実が楽になったわけではない。
服は汚れ、右手には包帯が巻かれている。
借金も、父を失った悲しみも、なくなったわけではない。
それでも、目の奥には以前とは違う落ち着きがあった。
何かを決めた人の目に見えた。
「手、痛い?」
「痛くねえよ。浩一に殴られた時のほうが、よっぽど痛かったけどな」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
洋平は照れくさそうに頭を掻いた。
「東京に戻らなくていいのか。練習、厳しいんだろ?」
「うん。でも、今は遥のそばにいたい。堂島先生にも、しばらく休みをもらうように頼んでみる」
「そうか。遥のそばにいてやれよ」
洋平はそれだけ言うと、背を向けて廊下を歩き出そうとした。
「待って!」 ゆかりは思わず、洋平のドカジャンの袖を掴んだ。
洋平が立ち止まり、静かに振り返る。
「私、東京で、一人でずっと泣いてたの」
ゆかりは俯いたまま、絞り出すように言った。
「リボンを回してても、毎日毎日、洋平のことばっかり考えてた。私、やっぱり、洋平のいない世界なんて・・」
「ゆかり」
洋平が、静かに、けれど強い声でゆかりの言葉を遮った。
「今は、遥のことだけ考えろ」
「・・」
「俺は、どこにも行かねえよ。借金返すまで、尾道で泥水すすってでも、しぶとく生きてやるって決めたからな」
それは、洋平なりの、不器用な約束だった。
もう、一人で勝手にすべてを背負って、ゆかりの前から消えたりはしない。
借金からも逃げず、この尾道で生きていく。
そんな決意が、その言葉には込められていた。
ゆかりは、ゆっくりと洋平の袖から手を離した。
「わかった」
洋平は小さく頷くと、振り返ることなく深夜の病院の廊下を歩いていった。
背中を丸め、少し足を引きずるように歩いていく洋平。
でも、ゆかりの目には、その背中が、かつてマウンドに立っていた時と同じように頼もしく見えた。
ゆかりは病室へ戻る前に、廊下の窓から外を見た。
尾道の夜は静かだった。
東京のように車の音が絶え間なく聞こえるわけでもない。
遠くで船の音が一度聞こえ、それきりだった。
静けさの中で、ゆかりはさっきの洋平の言葉を思い返した。
「簡単に負けるわけねえよ」
根拠なんてない。
それでも、洋平がそう言ってくれたことがありがたかった。
病室のドアの前で一度だけ深呼吸した。
怖い。
遥の目が覚めなかったらどうしよう。
それでも、今は母の隣に座って、遥の手を握っていたかった。
手の中のミルクティーは、まだ温かかった。
ゆかりは深く息を吸い込んだ。
東京で感じていた、あの息苦しい孤独は、少しだけ薄れていた。
洋平が、この街で泥まみれになりながら生きている。
そのことが、ゆかりには心強かった。
それだけで、遥の病気と向き合うための勇気が、ほんの少し戻ってきた。
ゆかりは涙の跡を手の甲で拭った。
そして、遥の待つ病室へ入った。




