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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第3章 すれ違う想いと絶対的な喪失

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第18話 「スランプと罪悪感」

 パーン、と乾いた音が体育館に響いた。

 ゆかりが投げ上げたクラブが、伸ばした指先をすり抜け、フロアに落ちた。

 音楽が止まり、広い体育館にゆかりの荒い息だけが残った。


「・・またタイミングが遅れている。手首の返しも硬い。ゆかりさん、今日だけで三回目だ」

 フロアの端から、堂島が声をかけた。

 怒鳴ってはいない。

 いつもと変わらない落ち着いた声だった。

 それだけに、ゆかりにはこたえた。


 堂島は、妹の遥が重い病気で倒れたことを知っている。

 気を遣ってくれているのもわかっていた。

 だからこそ、失敗を責められるより、自分が気を遣わせていることのほうが苦しかった。

「すみません。もう一度、最初からお願いします」

 ゆかりはクラブを拾い、姿勢を整えた。

 けれど、何度やり直しても同じだった。

 技の手順は頭に入っている。

 ジャンプの高さも、ステップの位置も、どう動けばいいのかはわかっている。

 それなのに、身体が思うようについてこない。

 演技に集中しようとするほど、別の光景が頭に浮かんでしまう。


 病室のベッドで、腕に管をつけたまま眠る遥の顔。

 そして、尾道の病院で会った洋平の姿。

 汚れた作業着に、包帯を巻いた右手。

 以前より頬がこけ、疲れた顔をしていた。

 二人がそれぞれの場所で苦しんでいるのに、自分は空調の効いた体育館で踊っている。

 そのことを考えると、足が重くなった。

 練習を休まず、演技を磨いたところで、遥の病気が治るわけではない。

 洋平の借金が減るわけでもない。

 そう考えるたびに、ゆかりは目の前の演技から気持ちが離れていった。

 堂島の声が聞こえても、音楽が流れても、心のどこかが別の場所に取り残されている。

 集中しなければと焦るほど、遥の寝顔や洋平の包帯がはっきり浮かんだ。

 忘れようとする自分を責め、そのせいでまた動きが乱れる。

 そんな繰り返しだった。


 夜、六畳一間のアパートに戻ると、ゆかりは明かりもつけずに床へ座り込んだ。

 スポーツバッグから、使い古した柑橘系のハンドクリームを取り出す。

 キャップを開けると、甘酸っぱい香りが広がった。

 いつもなら、この香りを嗅ぐと尾道で過ごした日々を思い出し、少しだけ気持ちが落ち着いた。

 けれど、今夜は違った。

 遥のことも、包帯を巻いた洋平の手も、次々と頭に浮かんでくる。

 ゆかりはハンドクリームを床に置き、両手で顔を覆った。

「私、何やってるんだろう・・」


 新体操は、見る人に夢や感動を届けるものだ。

 そう信じて練習してきた。

 けれど、遥が病院で眠り続けている今、どれほどきれいに踊っても、妹の病気を治すことはできない。

 洋平も、借金を返すために慣れない現場で働いている。

 あの手を傷つけながら働いているのに、自分が大会で優勝したところで、洋平の暮らしが楽になるわけではない。

 だったら、私は何のために踊っているんだろう。

 安全な場所で夢を追いかけている自分が、ひどく身勝手に思えた。

 大切な人たちが苦しんでいるのに、自分だけが何もせず、きれいな世界にいるような気がする。


 ゆかりは自分の手を見つめた。

 傷ひとつない指先が、急に落ち着かないものに見えた。

 洋平の手は、傷だらけだった。

 遥の小さな手には、管がつながれていた。

 自分も同じように苦しまなければ、二人の気持ちはわからないのだろうか。

 そんな考えが浮かんでは、頭から離れなくなった。

 ハンドクリームの蓋を閉めようとして、ゆかりは指を止めた。

 洋平が以前、自分の手をそっと包んでくれたことを思い出す。

 あの時は、傷だらけの手を恥じる洋平に、そんなことは気にしなくていいと思った。

 なのに今、自分は傷ひとつない手を恥じている。

 何が違うのか、答えは出なかった。


 週末、尾道の母から電話があった。

『ゆかり、遥のことは心配しすぎないでね。先生も、今は状態が落ち着いているって言ってくれたから。お父さんも私も、そばにいるからね』

 母は明るく話そうとしていた。

 けれど、無理をしていることは声を聞けばわかった。

 電話の向こうから、病院の機械音がかすかに聞こえてくる。

「うん・・。遥、苦しそうにしてない?」

『今は落ち着いているわ。それより、ゆかりは大会が近いんでしょう?』

「うん。でも、最近うまくいかなくて・・」

 口にしかけて、ゆかりは言葉を飲み込んだ。

 母にまで心配をかけたくなかった。

『遥ね、昨日、少しだけ目を覚ましたのよ。その時にね、「お姉ちゃんのリボン、また見たいな」って言ってた』

「・・本当?」

『ええ。だから、ゆかりは東京で思い切り踊って。遥もきっと、それを楽しみにしているから』

 涙がこぼれた。

『洋平くんも、お見舞いに来てくれたのよ。作業着のまま、少しだけね。遥に「お前のお姉ちゃんはすげえんだぞ」って話しかけてくれていたわ』

「洋平が・・?」

『そう。ゆかりが頑張っていることを、ちゃんとわかってくれているのね』


 電話を切っても、ゆかりはしばらく受話器を手放せなかった。

 やがて、こらえていた涙があふれ、声を上げて泣いた。

 みんなが自分を応援してくれている。

 遥も、両親も、洋平も、自分が東京で踊り続けることを願ってくれている。

 その思いがありがたい一方で、今のゆかりには重かった。

 もし、このままスランプから抜け出せなかったら。

 期待に応えられず、納得のいく演技ができなかったら。

 応援してくれる人たちを、がっかりさせてしまう。

 そう考えるほど怖くなった。

 いつの間にか、ゆかりは踊ることを楽しめなくなっていた。

 以前は、音楽が鳴ると自然に身体が動いた。

 リボンが空に描く線を思い浮かべるだけで、胸が弾んだ。

 今は一つひとつの動きを間違えないように考えるばかりで、次の動作に移るのさえ怖かった。

 踊りたいという気持ちまで、どこかへ隠れてしまったようだった。


 翌週になっても状態は変わらなかった。

 むしろ、練習を重ねるほど身体がこわばっていった。

 フロアに立つと、足がすくむ。

 音楽が始まると呼吸が浅くなり、投げ上げた手具を受け取る瞬間には、指先に力が入りすぎた。

 堂島の指導も、次第に厳しくなっていった。

「ゆかりさん。今の演技は、振り付けをなぞっているだけだ。見ている人に何を伝えたいのか、まったく見えてこない」

 ゆかりは唇を噛んだ。

「すみません。もう一度やらせてください」

「何度やっても同じことを繰り返している。練習を続ければ何とかなる、という段階ではないよ」

 堂島は少し間を置いてから、ゆかりをまっすぐ見た。

「今のままでは、大会に出しても君の力を出せない。何が君を止めているのか、自分で考えなさい。ここで踊り続けたいなら、目をそらさずに向き合うんだ」

 普段は穏やかな堂島の厳しい言葉に、周囲の部員たちも口を閉ざした。

 ゆかりは返事をしようとしたが、声が出なかった。

 うつむくと、涙がフロアに落ちた。


 その日の深夜、ゆかりは誰もいない体育館に戻った。

 暗いフロアの中央に立ち、赤いリボンを手にする。

 窓から差し込む月明かりが、床の一角を白く照らしていた。

 ゆかりは目を閉じ、深く息を吸った。

 頭の中で音楽を思い浮かべ、右腕を振り上げる。

 けれど、リボンは思うように動かなかった。

 床を這い、端がマットに触れて止まる。

「お願いだから、動いて・・」

 ゆかりは右腕を左手で握りしめた。

 無理にでも動かそうとしたが、肩に力が入るばかりで、腕は思うように上がらない。

 頭に浮かぶのは、包帯を巻いた洋平の手と、病室で眠る遥の顔だった。


 二人を尾道に残して、自分だけが舞台に立つことへの後ろめたさ。

 応援してくれる人たちの期待に応えられないかもしれないという恐怖。

 どちらも消せず、ゆかりはその場に立ち尽くした。

 膝から力が抜け、フロアにしゃがみ込んだ。

 両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。

 誰か、助けて。

 どうしたらいいのかわからない。


 東京の夜は静かだった。

 尾道の坂道で感じた人の気配も、家族の声も、ここにはない。

 自分で立ち上がらなければ、誰も代わりに立ってはくれない。

 ゆかりは涙を拭い、暗い天井を見上げた。

 目の前はぼやけて、何も見えなかった。

 

 踊りたい。

 けれど、踊ろうとするたびに、遥と洋平のことが頭をよぎる。

 頑張りたいのに、頑張るほど苦しくなる。

 尾道に帰れば、遥のそばにいられる。

 けれど、東京で踊ることを諦めたら、遥が見たいと言ってくれた演技まで手放すことになる。

 どちらを選んでも、誰かを裏切るような気がした。

 ゆかりには、まだその考えから抜け出す道が見えなかった。

 ゆかりは赤いリボンを握ったまま、しばらく動けずにいた。

 スランプから抜け出す方法は、まだ見つからなかった。

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