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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第3章 すれ違う想いと絶対的な喪失

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第19話 「愛ゆえの激しい口論」

 ICU(集中治療室)の扉の向こうは、外の世界とは切り離されたような場所だった。

 数日前、遥の容態が急変した。

 自分で呼吸することが難しくなり、今は人工呼吸器につながれている。

 ガラス越しに見える妹の顔は、いつもよりずっと小さく見えた。

 心電図の電子音が、静かな病室に規則正しく響いている。


 ゆかりは、ただ妹を見つめていた。

 ガラスの向こうにいる遥に、声は届かない。

 それでも、目を離すことができなかった。

 小さいころ、熱を出した遥の額を何度も確かめたことを思い出す。

 あのころは、そばにいて手を握っていれば、いつか目を開けてくれた。

 今は、何をしてやればいいのかさえわからない。


 スランプが続いていた。

 堂島からかけられる言葉も、以前のように素直には受け止められない。

 そこへ、遥の容態が悪化したという知らせが届いた。

 もう、何も考えられなかった。

 自分だけが東京で踊り続けていていいのだろうか。

 家族が苦しんでいるのに、自分だけ夢を追いかけている。

 そのことを考えるたび、胸の奥が重くなった。

 フロアに立っても、気持ちは少しも前を向かなかった。


 午後。

 ゆかりは、病院の屋上にあるベンチに座っていた。

 人影はほとんどない。

 尾道の海から吹きつける冬の風が、薄い上着の隙間から入り込んでくる。

 空は低い雲に覆われ、今にもみぞれが降りそうだった。

 背後の鉄扉が開いた。


「ゆかり」

 息を切らした声に振り返ると、作業着姿の洋平が立っていた。

 仕事を抜けて駆けつけてくれたのだろう。

 安全靴には泥がつき、首に巻いたタオルも汗と土埃で汚れている。

 右手の包帯は取れていたが、傷跡はまだ赤黒く残っていた。


「遥、どうなんだ」

 洋平は、ゆかりの隣に少し間を空けて座った。

「人工呼吸器をつけたの。先生は、今夜が峠かもしれないって」

 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

 泣きすぎて、もう涙も出ない。

「そうか・・」

 洋平は息を吐き、膝の上で傷だらけの手を組んだ。


 二人の間に沈黙が落ちた。

 遠くの造船所から、クレーンの動く鈍い音が聞こえてくる。

 ゆかりはその音を聞きながら、しばらく言葉を探していた。

 洋平が来てくれたことは、うれしかった。

 けれど、顔を見た途端、胸の奥に押し込めていた思いがまた膨らんだ。

 何か言えば、もう後戻りできなくなる。

 そんな気がして、なかなか口を開けなかった。


「洋平」

「ん?」

「私、堂島先生に電話したの」

「なんて?」

「少し休ませてもらえませんか、って。本当は、もう東京には戻りませんって言おうと思った」

 洋平の手に、ぎゅっと力が入った。

「私、もう踊れない。フロアに立っても、遥の顔が浮かぶの。洋平の傷だらけの手も浮かんでくる。私がリボンを回したって、遥の病気が治るわけじゃない。洋平の借金が減るわけでもない。だったら、私が踊る意味って何なの?」

 ゆかりは顔を上げ、洋平の横顔を見た。

「東京のクラブは辞めて、こっちに帰ってくる。ここで働いて、お母さんたちと一緒に遥を看病する。洋平の借金だって、少しずつでも返すのを手伝いたい。一緒に・・」


「ふざけんな!」

 洋平の怒鳴り声が、屋上に響いた。

 ゆかりが肩を震わせると、洋平は勢いよく立ち上がり、そばの金網を蹴った。

 ガシャン、と大きな音がして、金網が揺れた。

「洋平・・」

「お前、自分が何を言ってるのかわかってんのか?」

 振り返った洋平の顔には、怒りだけでなく、今にも何かが崩れそうな苦しさが浮かんでいた。

「こっちに帰ってきて、何ができるんだよ。ゆかりが看病したら、遥の病気が治るのか? アルバイトで稼いだ金で、あの借金を返すのに何年かかると思ってんだ」

「そんなの、わからないよ。でも・・」

「でもじゃねえよ!」

 洋平はゆかりの前まで歩み寄り、両肩をつかんだ。

 作業着から、油と土の匂いがした。

「俺と一緒に苦労して、それで誰が喜ぶんだよ。遥か? あいつが、お前が自分のために新体操を辞めたって知ったら、きっと自分を責めるぞ。親父だってそうだ。お前に借金を背負わせるために、工場を畳んだわけじゃねえ!」

「・・」


 ゆかりは唇をかみしめた。

 言い返したいのに、言葉が出てこない。

 けれど、黙って引き下がることもできなかった。

「私だって、こんなの嫌だよ!」

 ゆかりは洋平の腕を振りほどいた。

 こらえていた涙があふれた。

「私だけが安全なところにいて、好きなことをしてる。みんなが苦しんでるのに、何もできない。そんなの、ひとりで生きてるのと同じだよ。寂しいし、苦しいよ! 私はただ、大好きな人たちのそばにいたいだけなのに・・どうして、それじゃ駄目なの?」

 東京のアパートで、ゆかりは何度も同じことを考えていた。

 誰にも話せず、胸の中に押し込めてきた気持ちだった。

 夢を追いかけるより、愛する人たちのそばで一緒に苦労するほうが、今の自分には大切に思えた。

 遠くで成功を目指すより、すぐそばにいて支えたい。

 そうすれば、少なくとも何もできずにいる苦しさからは逃れられる気がした。


 洋平は首を横に振った。

 奥歯をかみしめ、ゆかりの右手を取る。

「やめて」

「ちゃんと見ろ」

 洋平は、ゆかりの白い手を自分の手の隣に並べた。

 黒い汚れが染みつき、いくつもの傷が残る手だった。

「お前の手は、俺たちみたいに鉄くずを拾って、泥まみれになるためだけの手じゃねえ。あのフロアで、誰より高くリボンを投げるための手だろ」

 洋平の声は震えていた。

「俺が、どんな思いで新幹線のホームからお前を送り出したと思ってる。親父が、どんな思いで工場を畳んだと思うんだよ。お前がここで夢を諦めたら・・俺たちが必死でこらえてきたことまで、全部無駄だったみたいじゃねえか」

 その言葉が、ゆかりの胸に刺さった。

 ここで東京へ戻るのをやめれば、家族を支えるためだと言いながら、スランプや孤独から逃げることにもなるのかもしれない。

 そして何より、洋平は自分を送り出すために、野球への夢も、父と守ってきた工場も手放した。

 その決意を、ゆかりは自分の苦しさだけを理由に無かったことにしてしまおうとしていた。

「洋平」

 涙が頬を伝い、冷たい床に落ちた。

 洋平は、ゆかりの手を握る力を少し緩めた。

 しばらく何も言わず、やがて苦しそうに息を吐いた。


「頼むから、俺から最後の希望まで取らないでくれ」

 さっきまでの怒鳴り声とは違い、その声はかすれていた。

「俺にはもう、野球もねえ。親父もいない。残ってるのは、どうやって返せばいいのかもわからない借金と、この傷だらけの体だけだ。毎日、解体現場でほこりまみれになって働いてると、何のために生きてるんだろうって思うこともある」

 洋平は、ゆかりの手を両手で包んだ。

 大きくて、硬くて、傷だらけの手。

 それでも、触れたところから温かさが伝わってきた。

 指先はかすかに震えていた。

「それでも、お前が東京で頑張ってると思えば、もう一日やってみようって思えるんだ。いつか表彰台の真ん中で笑うお前を見たい。それが、俺の支えなんだよ」


「ああ・・」

 嗚咽をこらえきれず、ゆかりは洋平の胸に顔をうずめた。

 洋平は、ゆかりの夢に、自分の生きる意味まで重ねている。

 その重さが、ゆかりには痛いほどわかった。

 自分が輝けなければ、洋平は明日を信じていけなくなるのだろうか。

 そう思うと、胸が押しつぶされそうだった。

 けれど、どれほどの思いで彼が自分を送り出してくれたのかも、痛いほど伝わってきた。


「わかった」

 ゆかりは洋平の作業着を握りしめ、何度も息をつぎながら言った。

「東京に戻る。・・もう一度、ちゃんと踊るよ。いつか、絶対に一番になってみせる」

「ああ」

「だから、洋平も・・お願いだから、死なないで。借金があるからって、いなくならないでよ・・」

 洋平は一瞬、何かを言いかけて、やめた。

 ゆかりを安心させるような約束はできない。

 借金も、仕事も、明日になれば何ひとつ変わらず待っている。

 それでも、簡単に投げ出すつもりはなかった。


 ゆかりの背中を不器用に撫でた。

「当たり前だろ。俺を誰だと思ってんだ」

 冬の風が、二人の間を吹き抜けていった。

 また離れて暮らすことになる。

 ゆかりは東京へ戻り、洋平は尾道で借金と向き合い続ける。

 二人が同じ場所で過ごせる日は、まだ遠い。

 それでも、互いが何を抱え、何を願っているのかを知ることができた。

 泥にまみれて働く洋平と、フロアで踊るゆかり。

 暮らす場所も、目の前にある現実も違う。

 それでも、お互いが明日を生きる支えになっていることは同じだった。


 ゆかりは涙でぼやけた目で、鉛色の空を見上げた。

 もう迷わない。

 洋平のためだけではない。

 遥のためだけでもない。

 自分自身が、もう一度踊りたいと思える日を取り戻すために。

 ゆかりは、まだ震えている手をぎゅっと握った。

 あのフロアに戻るのは、簡単なことではない。

 スランプがすぐに消えるわけでもない。

 それでも、今度は逃げるためではなく、もう一度前を向くために戻ろう。


 胸の奥に、小さな決意が灯った。

 冷たい風の中でも、その火を消さずにいようと思った。

 すぐに答えが見つかるわけではない。

 遥の病状も、洋平の借金も、ゆかり自身のスランプも、これから向き合わなければならない。

 それでも、今はもう、何もできない自分を責めるだけではいたくなかった。

 東京へ戻り、もう一度フロアに立つ。

 その一歩を、自分の足で踏み出そうと決めた。

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