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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第3章 すれ違う想いと絶対的な喪失

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第20話 「柑橘系のハンドクリーム」

 奇跡なんて、そう簡単に信じられるものではない。

 それでも、あの夜を境に、遥の容態は少しずつ落ち着いていった。


 二日後の朝。

 人工呼吸器が外され、酸素マスクをつけた遥が、ゆっくりと目を開けた。

「お姉ちゃん・・」

 かすれた声が聞こえた瞬間、ゆかりはベッドのそばへ駆け寄った。

 妹の細い手を、両手でそっと包む。

「遥! わかる?」

「うん。お姉ちゃん、泣いてるの?・・」

「泣いてないよ。遥が目を覚ましてくれて、うれしい・・」

 答えたそばから、涙が頬を伝った。

 白いシーツに、ぽつぽつと染みが広がっていく。

 遥は酸素マスクの向こうで、ほんの少し笑った。

「お姉ちゃん、東京に、戻らないと、だめだよ・・」

「遥・・」

「私、お姉ちゃんが、一番きれいなリボンを投げるところ、見たい・・」

 声を出すのもつらいはずなのに、遥は一生懸命に言葉をつないだ。

 ゆかりは妹の手を握ったまま、うなずいた。


 洋平は、尾道で苦しい現実と向き合いながら生きていくと言ってくれた。

 そして今、遥もまた、自分の夢を諦めないでと伝えてくれている。

「うん。お姉ちゃん、東京に戻るね。全国大会で優勝して、遥に金メダルを見せる」

 胸の中に少しだけ力が戻ってきた。

 もちろん、東京に戻ればすぐに何もかもうまくいくわけではない。

 スランプも、練習の厳しさも待っている。

 それでも、もう一度挑戦しよう。

 ゆかりは、妹の手をそっと握り直した。


 その日の午後。

 ゆかりは東京へ戻る支度をするため、病院のロビーの長椅子で荷物をまとめていた。

 自動ドアが開き、冬の風と一緒に洋平が小走りで入ってきた。

 解体現場の昼休みを抜けてきたのだろう。

 作業着には白い粉塵がつき、安全靴にも泥がこびりついていた。

「遥、目を覚ましたんだってな」

「うん。洋平のおかげだよ。ありがとう」

「何言ってんだよ。俺は何もしてねえ。遥が頑張ったんだ」


 洋平はゆかりの隣に少し間を空けて座った。

 ゆかりがスポーツバッグのファスナーを閉めようとすると、中の化粧ポーチが引っかかって床に落ちた。

 口が開き、中から二つのものが転がり出た。

 一つは、金色の飾りがついたガラスの香水瓶。

 堂島から誕生日にもらった、フランス製の高価な香水だった。

 もう一つは、ドラッグストアで買った柑橘系のハンドクリーム。

 使い込んだチューブはぺしゃんこで、商品名もほとんど読めなくなっている。


 洋平は二つを拾い上げ、香水瓶を見た。

「ずいぶん高そうだな」

「堂島先生が誕生日にくれたの。トップを目指すなら、身につける香りも一流のものを知りなさいって」

 洋平は瓶を光にかざした。

 封は切られていない。

 新品のまましまわれていた。

「へえ。東京の一流ってのは、どんな匂いがするんだろうな」

 少し自嘲するように笑ってから、洋平はもう片方の手にあるハンドクリームを見た。

「こっちは、もう空っぽじゃねえか。新しいの買えばいいのに」

 ゆかりはすぐには答えなかった。

 洋平の手から、ハンドクリームを受け取った。


「新しいのじゃ、だめなの」

 ゆかりは擦り切れたチューブを、両手で包むように持った。

「東京の部屋って、広くてきれいなんだけど、夜になると、冷蔵庫の音くらいしか聞こえないの。静かすぎて、かえって落ち着かなくなる」

 洋平は黙ってゆかりの話を聞いていた。

「周りにいるのは、全国から集まった上手な子ばかり。少しでも気を抜いたら、すぐに追い越されそうで。堂島先生の指導も厳しいし、弱音を吐くのも怖かった。毎日、ちゃんとやらなきゃって思うほど、何をしたらいいのかわからなくなって・・」

 ゆかりは、チューブの表面を指でなぞった。

「そんな夜、ベッドの中で泣きそうになると、いつもこのクリームを手に塗ってたの」


 キャップを開けると、残り少ないクリームから、甘酸っぱい柑橘の香りがかすかに漂った。

 消毒液の匂いがする病院のロビーで、その香りが二人の間に小さく広がった。

「この匂いを嗅ぐと、夕立のあとのグラウンドを思い出すの。土の匂いとか、水道場で水を流す音とか・・それから、洋平の大きな手の温かさも」

「ゆかり・・」

「堂島先生にもらった香水は、一度も使えなかった。あの香りをつけたら、少しずつ自分が変わって、洋平と過ごした時間まで遠くなってしまいそうで。そんなこと、あるわけないってわかってるんだけど、怖かった」

 ゆかりの目から涙が一粒こぼれ、チューブの上に落ちた。


「東京でつらくなったとき、洋平との思い出が支えになってた。この匂いがすると、洋平がそばで『頑張れ』って言ってくれてる気がしたんだよ。だから、私にはこれじゃなきゃだめなの」

 洋平は、しばらく何も言えなかった。

 自分は、ゆかりを大切に思うあまり、わざと距離を置くことが彼女のためになると思い込んでいた。

 苦労を背負わせたくない。自分のことで夢を諦めてほしくない。

 そう考え、彼女の気持ちを聞こうともせず、遠ざけようとしていた。

 けれど、ゆかりは離れている間も、二人で過ごした日々を支えにしていた。

 自分が突き放したことで、彼女がどれだけ寂しい思いをしていたのか。

 洋平はようやく、そのことに気づいた。

 洋平は、ゆかりの手からハンドクリームを受け取った。


「手、出せよ」

「え?」

「いいから」

 ゆかりが戸惑いながら右手を差し出すと、洋平はチューブを押した。

 最後に残っていたクリームを、傷だらけの指先に取る。

 そして、ゆかりの手のひらに、ゆっくりと塗り広げていった。

「あっ」

 洋平の指は、以前よりもずっとごつごつしていた。

 仕事でできた傷も、硬くなった皮膚も、隠しようがない。

 それでも、その手つきは驚くほど慎重だった。


 あの雨の日、水道場で手を重ねたときと同じように、ゆかりはじっとしていた。

 柑橘の香りが二人の間に広がる。

 洋平の指先から伝わる温かさに、ゆかりのこわばっていた手が少しずつゆるんでいった。

 クリームを塗り終えると、洋平はゆかりの手を両手で包んだ。

「東京で一人にして、ごめんな」

 声が少しかすれていた。

「俺が間違ってた。ゆかりを遠ざけるのが優しさだと思ってたんだ。ゆかりが俺のことを、こんなに必要としてくれてるなんて、ちゃんと考えたこともなかった」

「洋平」

「もう、勝手に突き放したりしねえ。ゆかりが東京で頑張るなら、俺もこっちで頑張る。離れてたって、応援してる。だから、安心して自分の夢を追いかけてこい」

 ゆかりは、涙で濡れた顔のまま笑った。

「うん、約束だからね」

「約束だ」


 ゆかりは空になったハンドクリームのチューブを拾い、ポーチにしまった。

「これ、もうなくなっちゃったね。だから、全国大会で優勝して帰ってきたら、新しいのを買ってね。絶対だよ」

「わかった。駅前のドラッグストアにあるやつ、棚ごと買い占めてやる」

「ふふっ、ばか。一個でいいよ」

「遠慮すんなよ」

「ほんとに一個で十分だから」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 ほんの短い時間だったが、張り詰めていた気持ちが少しほどけた。


 駅へ向かう道で、ゆかりの足取りは、尾道に帰ってきたときよりもしっかりしていた。

 問題が消えたわけではない。

 遥の体調はまだ心配だし、洋平の借金も残っている。

 東京に戻ってからの練習も、簡単ではないだろう。

 それでも、ゆかりはもう、自分だけが離れた場所で夢を追うことを後ろめたく思わなくていいのだと感じていた。

 洋平も遥も、ゆかりが踊ることを望んでくれている。

 その思いを、今度は自分の力に変えていこう。


 右手には、洋平が塗ってくれたクリームの感触が残っていた。

 香りはすぐに消えてしまうかもしれない。

 それでも、手を包んでくれた温かさは忘れない。

 改札口で振り返り、ゆかりは大きく手を振った。

 洋平も、傷だらけの手を高く上げて応えた。

 二人は、これからも別々の場所で、それぞれの苦労を抱えて生きていく。

 洋平は借金を返すために働き、ゆかりは新体操の練習に戻る。

 すぐに一緒に暮らせるわけではないし、先のことがすべて決まったわけでもない。

 それでも、離れていることと、心が離れることは同じではない。

 ゆかりは右手を胸に当て、柑橘の香りをそっと確かめた。

「頑張ろう」

 小さくつぶやいて、ゆかりは東京行きの新幹線に乗り込んだ。


 新幹線が動き出すと、ゆかりは窓の外に流れていく尾道の景色を見つめた。

 次に戻ってくるとき、何が変わっているのかはわからない。

 思うように踊れず、また迷う日もあるだろう。

 それでも、ひとりで全部を抱え込む必要はない。

 大切な人たちの思いを胸に、今できることを一つずつ積み重ねていこう。

 ゆかりは、膝の上に置いた右手をそっと握りしめた。

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