第21話 「志穂の告白」
坂口鉄工所の事務所には、機械油よりも、ほこりと古い紙の匂いがこもっていた。
壁のカレンダーは外され、親方が使っていた取引先の名簿も段ボール箱に詰められている。
工場の機械は債権者に引き取られ、鉄工所は片付けを終えればいよいよ閉まることになっていた。
志穂はデスクの引き出しから私物を取り出し、小さな紙袋に入れていた。
ボールペン、長年使ったマグカップ、それから、洋平が工場の裏で拾ってきてくれた小さなサボテン。
窓の外を見ると、何もなくなった工場で洋平が床を掃いていた。
借金を返すため、今は解体現場で働いている。
休みの日には、こうして片付けに来ていた。
志穂は窓枠に手を置き、その背中を見つめた。
床を掃く音が、がらんとした工場に響いていた。
以前なら機械の音にかき消されていたような小さな音。
壁際には、もう動かない機械が置かれていた場所だけ、四角くほこりの色が違っている。
ここで働いてきた年月が、少しずつ片付けられていく。
志穂は紙袋を握り直した。
通夜の晩、親方を亡くした洋平は、何もかも失ったような顔をしていた。
今にも倒れてしまいそうで、志穂は一人にしておけなかった。
何を言えばいいのかもわからず、ただそばに座り彼が落ち着くのを待った。
あの時、洋平を支えられるのは自分かもしれないと思った。
できることなら、これからもそばにいたい。そう願っていた。
ガラッと、事務所の引き戸が開いた。
「早坂さん、片付け終わりました?」
首にタオルを巻いた洋平が入ってきた。
手は真っ黒で、髪にも白いほこりがついている。
「ええ、ほとんど。少し休みませんか?」
志穂はポットに残っていたお湯で、インスタントコーヒーを二つ淹れた。
「すみません。いただきます」
洋平はパイプ椅子に腰を下ろし、紙コップを受け取った。
ひと口飲んで、ほっと息をつく。
その横顔を見て、志穂の胸が少し痛んだ。
通夜の晩とは違う。
まだ疲れた顔ではあるけれど、あの時のように何もかも諦めた目ではなかった。
「何か、いいことでもあったんですか?」
何でもないふうを装って、志穂は尋ねた。
「え?」
「お葬式の時より、顔つきが変わった気がして。少し、前を向けるようになったのかなって」
洋平は紙コップに目を落とし、照れくさそうに笑った。
「・・この前、ゆかりがこっちに帰ってきてたんです」
ゆかり。
その名前を聞いた途端、志穂の胸がきゅっと縮んだ。
高校時代から洋平と付き合っていた、新体操の上手な女の子。
今は東京のクラブで練習を続けている。
志穂は、ゆかりのことを知っている。
洋平が彼女をどれほど大切に思っているかも、知っているつもりだった。
「妹が倒れて、ゆかり、東京を辞めてこっちに戻るって言い出したんです」
「そうだったんですか」
志穂は、紙コップの縁に指を添えた。
ゆかりが帰ってきたと聞いて、洋平はどんな顔をしていたのだろう。
目の前の洋平は、思い出すだけで少し表情がやわらいでいる。
「だから、俺、怒鳴っちまって。帰ってきたら、俺がここで必死にやってる意味がなくなるだろって。そしたら、泣きながら東京に戻っていきました。絶対に一番になるから、俺も死ぬなって」
洋平は、その時のことを大切な思い出のように話した。
自分は借金を抱え、解体現場で働いている。
それでも、東京でゆかりが頑張っている。
そのことが、今の自分を支えてくれているのだと、表情から伝わってきた。
志穂は膝の上で手を握りしめた。
嫉妬がこみ上げてきた。
そんな自分が嫌だった。
それでも、気持ちを押さえられなかった。
ゆかりは、洋平がどんな思いで父親を見送ったのか、どれほど落ち込んでいたのかを、全部知っているわけではない。
通夜の晩、彼のそばにいたのは自分だ。
洋平にハンカチを渡し、何も言わずに隣に座っていたのも自分だ。
それなのに、洋平の心を支えているのは、遠く東京にいるゆかりだった。
どうしてだろう。
自分はそばにいて、少しでも力になりたいと思っているのに。
洋平は、離れている彼女のことを思うだけで、あんなふうに笑えるのだ。
「ずるいですね、その子」
気づけば、口に出していた。
「え?」
洋平が不思議そうに顔を上げた。
言わないほうがいい。
困らせるだけだ。
そう思っても、いったん出た言葉を引っ込めることはできなかった。
「ゆかりさんは、東京で夢を追いかけてるんですよね。洋平さんがこんなに苦労してるのに、離れたところにいて・・それでも、洋平さんの気持ちはゆかりさんのところにある。なんだか、ずるいなって思ってしまいました」
「早坂さん・・」
「私だったら、そんなふうにはしません」
志穂は立ち上がり、洋平の前に歩み寄った。
「私なら東京には行かない。夢を諦めてでも、洋平さんのそばにいる。一緒に働いて、借金だって返します。洋平さんが苦しい時には、絶対に一人にしません」
もう後戻りはできないと思った。
志穂は、ずっと洋平が好きだった。
親方に厳しく叱られても黙って仕事を続ける姿も、油で汚れた手も、ずっと見てきた。
通夜の晩、一人で泣いている洋平を見た時、この人を支えていきたいと強く思った。
「私・・洋平さんのことが、ずっと好きでした」
涙が頬を伝った。
「通夜の晩、洋平さんが一人で泣いてるのを見て、放っておけなかったんです。そばにいたいと思った。これからも、私が支えていきたいって・・本気で思ったんです」
視界が涙でにじむ。
洋平は驚いた顔で志穂を見ていた。
その表情に、戸惑いだけでなく、傷つけたくないという気持ちが浮かんでいるように見えた。
古い事務所に、沈黙が流れた。
洋平は立ち上がり、志穂の目をまっすぐ見た。
「ありがとうございます」
声は静かだった。
言葉を選んでいるのが伝わってきた。
「通夜の晩、そばにいてくれて、本当に助かりました。早坂さんが何も言わずにいてくれたから、少し落ち着けたんです。感謝してます。あの時は、誰かがそばにいてくれるだけで、ありがたかった」
志穂は何も答えられなかった。
「でも、俺が一緒にいたいのは、ゆかりなんです」
洋平は、汚れた自分の手を見つめた。
「俺には借金もあるし、これからどうなるかもわからない。だからこそ、ゆかりには自分の夢を追いかけてほしいんです。俺のことを気にして、やりたいことを諦めてほしくない。遠くにいても、頑張ってるゆかりを応援していたいんです」
洋平はゆっくりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
言い訳も、期待を持たせる言葉もなかった。
志穂には、それが答えなのだとわかった。
涙が頬を伝った。
自分のほうが洋平のそばにいられる。
自分なら一緒に苦労できる。
そう思っていた。
でも、洋平が求めているのは、そばにいてくれる人ではなかった。
ゆかりが夢を追い続けること、それ自体が洋平の支えになっている。
どれだけ近くにいても、気持ちを向けてもらえるとは限らない。
志穂は、そのことをようやく受け入れようとしていた。
「ばかですね、洋平さん」
志穂は涙を拭い、無理に笑った。
「そんなに一途だと、いつか疲れちゃいますよ」
「そうかもしれません。でも、ゆかりなら大丈夫だと思うんです」
洋平は顔を上げ、少し笑った。
その笑顔を見た時、志穂の胸にあった嫉妬が、少しずつ静まっていくのを感じた。
本当に好きなんだ。
洋平は、ゆかりのことが好きなのだ。
簡単に諦められるような気持ちではない。
その思いの強さがわかった。
「わかりました」
志穂はデスクの上の紙袋を手に取った。
「私、明日から隣町のスーパーでパートをするんです。もう、ここには来ません」
「そうですか・・今まで、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。いろいろお世話になりました」
声が少し裏返った。
志穂は咳払いをして、紙袋を持ち直した。
これ以上ここにいたら、また何か言ってしまいそうだった。
事務所の入り口まで歩き、最後に一度だけ振り返った。
何もなくなった事務所に、洋平が立っていた。
仕事で汚れた、不器用そうな手。
ずっと好きだったその手を、最後まで握ることはできなかった。
「洋平さん」
「はい」
「幸せになってくださいね。大変なことがあっても、絶対に幸せになって」
未練を断ち切ろうとする志穂の精いっぱいの言葉であり、心からの願いでもあった。
洋平が頭を下げた。
志穂は静かに引き戸を閉めた。
外に出ると、尾道の冬の風が熱くなった頬を冷やした。
涙が止まらなかった。
紙袋の中では、サボテンの鉢が傾いていた。
立ち止まり、袋の口からそっと手を入れて鉢を直した。
すぐに気持ちを切り替えられるわけではない。
志穂は振り返らず、坂道をゆっくりと下っていった。




