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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第3章 すれ違う想いと絶対的な喪失

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第22話 「遥の旅立ち」

 東京の空は、雲ひとつない青空だった。

 あの日、尾道の病院で遥と交わした「一番綺麗な金メダルを持って帰る」という約束。

 洋平からも「安心して飛んでこい」と背中を押された。

 二つの言葉を胸に、東京へ戻ったゆかりは、少しずつ本来の演技を取り戻していた。

 長く続いたスランプが嘘のように、動きに迷いがなくなっていた。

 高く投げたクラブを、ゆかりは狙った位置で受け止めた。

 ジャンプも軽く、つま先まできれいに伸びている。

 堂島は演技を見届けると、満足そうにうなずいた。

「ようやく、いつものゆかりに戻ってきたな」

 全国大会まであとわずかだった。

 ゆかりは、もう一度この場所で踊る意味を見つけられた気がしていた。


 練習が終わると、遥に電話をかけて、その日の出来を報告するつもりだった。

 どんな小さなことでも、遥ならきっと喜んで聞いてくれる。

 そう思うと次の練習にも力が入った。

 けれど、その気持ちは長く続かなかった。

 練習の合間、体育館の隅に置いたスポーツバッグの中で、携帯電話が鳴った。

 画面には「母」の文字。

 胸騒ぎを覚えながら、ゆかりは震える指で通話ボタンを押した。


『ゆかりっ、ゆかりっ・・!』

 電話の向こうで、母は泣いていた。

 何かを伝えようとしているのに、嗚咽が先に立って言葉にならない。

 母は、すぐには何も言えなかった。

 電話の向こうで、何度も息を吸い直している。

「お母さん? 遥は? 何があったの?」

 返事を待つ数秒が、ひどく長く感じられた。

 その声を聞いた瞬間、ゆかりの顔から血の気が引いた。

 手にしていたタオルが床に落ちた。

 体育館では、仲間たちがいつも通り練習を続けていた。

 ゆかりにはその音が遠く感じられた。

 母の泣き声だけが、耳に残っていた。


 新幹線を乗り継いで尾道に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。

 駅から病院へ向かう道の景色は見慣れているはずなのに、その夜は何も頭に入ってこなかった。

 母の声を思い返すたび、足を速めずにはいられなかった。


 病院の霊安室。

 霊安室の扉を開けると、白いシーツを胸まで掛けられた遥が横たわっていた。

 目を閉じた顔は、眠っているようにも見えた。

 いつも聞こえていた機械の音は、もうしなかった。

 静かだった。


「遥・・?」

 ゆかりは、ふらふらとした足取りでベッドに近づいた。

「お姉ちゃん、お帰り」と、いつものように笑ってくれる気がした。

 名前を呼べば目を開けるかもしれない。

 けれど、頬に触れた指先に返ってきたのは、思いがけない冷たさだった。

「冷たい」

「嘘、嘘だよ、遥・・っ」

 ゆかりは、シーツの下から遥の細い手を取り出した。

 あの日、微かに握り返してくれた小さな手。

 ゆかりは、その手を両手で包み、何度もさすった。

 温めれば、少しは戻ってくるかもしれない。

 そんなことを考えながら、ただ手を動かした。

「遥、お願い・・。もう一回だけ、お姉ちゃんって呼んでよ」

 返事のない部屋で、自分の声だけがかすかに震えていた。

「起きてよ! お姉ちゃん、帰ってきたよ! 一番綺麗なリボン、見せてあげるって約束したじゃない! 遥っ、遥ぁぁぁっ!!」

 ゆかりの声が、霊安室に響いた。

 どれだけ手をさすっても、遥の指先は冷たいままだった。

 ゆかりはベッドのそばに崩れ落ち、何度も妹の名前を呼んだ。

 返事はなかった・・。


 数日後。

 尾道の町外れにある小さな斎場には、朝から冬の雨が降っていた。

 参列者たちは黒い傘をたたみ、濡れた足元を気にしながら建物へ入っていった。

 線香の匂いが漂う中、読経の声が静かに続いていた。

 祭壇の中央には、ゆかりの大会の応援に来た時に撮った、満面の笑みを浮かべる遥の遺影が飾られている。

 喪主席の両親は、疲れ切った様子でうつむいていた。

 ゆかりも黒い喪服を着て、遺影の前に座っていた。

 泣き腫らした目は赤く、顔色も悪かった。


 斎場の一番後ろの席。

 洋平は、親父の葬儀で着た、肩のきつい安物の喪服を着て、静かに手を合わせていた。

 祭壇で笑う遥の写真を見るたび洋平の胸は痛んだ。

 親父が死んだ日のことを思い出す。

 何を考えればいいのかも分からず、ただ目の前の現実を受け止められなかった。

 今のゆかりも、きっと同じ思いをしている。

 洋平は、前の席でじっとうつむいているゆかりの背中を、何度も見つめた。

 何か声をかけたくても、今は何を言っても届かない気がした。

 ゆかりが妹のために無理をして笑っていた顔を思い出した。

 今は泣くことさえ、我慢しているのかもしれない。

 せめて今日だけは、そばにいようと決めた。


 出棺が終わり、参列者たちがまばらに帰り始めた頃。

 斎場の裏手の軒下で、洋平はゆかりを見つけた。

 ゆかりは傘もささず、雨を見つめていた。

 軒下にいても風に乗った雨粒が届き、喪服の肩を濡らしていた。


「ゆかり」

 洋平が声をかけると、ゆかりはビクッと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。

 その目からは、東京へ戻る時に見せた決意が消えていた。

 何も考えられないほど、疲れ切っているように見えた。

「・・洋平」

 ゆかりの声は、ひどく掠れていた。

「私・・遥が亡くなる時、そばにいられなかった」

「・・」

「お母さんが言ってたの。遥、最期に『お姉ちゃん』って呼んでたって・・。その時、私は東京で笑ってリボンを投げてた。遥が苦しんでた時に、私は自分のことばかり考えてた」

 ゆかりは両手で顔を覆い、しゃくり上げた。

「私がいけないの。東京になんか行かなければ、ずっとそばにいて、手を握ってあげられたのに・・。私のせい。私が遥を置いていったから・・!」


 悲しみの行き場がなくなり、ゆかりは自分を責めることしかできなくなっていた。

 夢を追いかけたことまで、間違いだったと思い始めていた。

「違う!」

 洋平は思わず声を上げ、一歩近づいてゆかりの肩をつかんだ。

「ゆかりのせいじゃない! 遥は、ゆかりに東京で頑張ってほしかったんだろ。だから、あいつの願いをかなえるために戻ったんじゃないのか!」

「でも! 遥はもういないの! 私が金メダルを獲ったって、遥はもう二度と見てくれないんだよ!」

 ゆかりが、洋平の胸を両手で激しく叩いた。

「何のために踊るの? 誰のために頑張ればいいの? 遥がいないのに・・もう、何の意味もないよ!」

 ゴン、ゴンと、ゆかりの拳が洋平の胸に当たる。

 胸は痛くなかった。

 ゆかりがどれほど悲しんでいるかが伝わって、洋平は何も言えなかった。


 洋平にも罪悪感があった。

 俺が、あの日病院の廊下で「安心して飛んでこい」と背中を押したからだ。

 俺の言葉が、ゆかりから妹の最期を看取る時間を奪ってしまったのだ。

 自分がゆかりを東京へ送り出さなければ、遥の最期に立ち会えたかもしれない。

 そう考えずにはいられなかった。

 それでも、今は謝るわけにはいかなかった。

「俺が悪かった」と言えば、ゆかりが東京で頑張ってきた日々も、遥が最後に託した願いも、間違いだったと思わせてしまう気がした。

 洋平は謝る代わりに、胸を叩き続けるゆかりの手を、傷だらけの両手で包んだ。

 ゆかりの指は冷たく、力が入っていた。

 手を握ることしかできない自分がもどかしかった。

 しかし、今はその手を離したくなかった。


「離して! 洋平のせいだよ! 洋平が私を東京に行かせたから・・っ!」

 ゆかりが泣き叫び、もがく。

 洋平はゆかりの手を離さず、そっと抱き寄せた。

 冷えた背中を両腕で包み込んだ。

「・・っ!」

「全部、俺のせいだ」

 洋平は、ゆかりの耳元で低く言った。

「俺がゆかりを東京に行かせた。遥の最期に間に合わなかったのは、俺のせいだと思ってる。・・だから、俺を恨んでいい。殴りたければ、気が済むまで殴れ」

「う、ああああっ・・」

「でもな、ゆかり」

 洋平は、しがみついて泣くゆかりの背中を抱きしめたまま、言葉を探した。

「もう踊る意味がないって思うなら・・俺のために踊ってくれ」

「え?」

「遥が見られないなら、俺が見る。ゆかりが一番きれいにリボンを投げるところを、俺が一番近くで見てる。だから・・今は無理でも、踊ることをやめないでくれ」

 自分のために踊れというのは、身勝手な言葉かもしれない。

 妹を亡くしたばかりのゆかりに、今すぐ前を向けと言うこともできない。

 それでも、洋平は何かを伝えずにはいられなかった。

 今は先のことなど考えられなくても、いつかまた踊りたいと思える日が来るまで、ゆかりを一人にしたくなかった。

「洋平っ、洋平ぁっ・・」

 ゆかりは洋平の喪服の背中を強く掴み、彼の胸の中で子供のように泣きじゃくった。


 二人とも何も言わなかった。

 ゆかりの呼吸が少し落ち着いても、涙は止まらなかった。

 洋平の喪服の胸元には、涙がじわりと染みていった。

 雨が二人の足元を濡らしていた。

 ゆかりは洋平の胸に顔を押しつけ、声を上げて泣いた。

 洋平は何も言わず、その背中を抱きしめていた。

 慰めの言葉で悲しみが消えるわけではない。

 今は、泣きたいだけ泣かせてやるしかなかった。


 雨音の向こうで、斎場の扉が閉まる音がした。

 遥がいなくなった現実は、明日になっても変わらない。

 それでも、洋平はゆかりの手を離さなかった。

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