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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第4章 究極の手放す愛

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第23話 「浩一の忠告とミットの音」

 冬の終わりを感じさせる、少し湿った風が放課後のグラウンドを吹き抜けていた。

 夕暮れの空は薄い茜色で、遠くの尾道の海が光を返している。


「ほら、捕ってみろ」

 浩一が投げた硬球が、ゆるい弧を描いて飛んできた。

 バシッ。

 洋平の古いグローブにボールが収まった。

 久しぶりに握る硬球は、思ったより重い。

 指先に当たる赤い縫い目の感触が、昔マウンドに立っていた頃を思い出させた。


「なんだよ、ずいぶん球が軽くなったな。解体屋の仕事で鍛えてるんじゃないのか」

 少し離れたところでキャッチャーミットを構え、浩一が笑った。

「うるせえ。肩が温まってないだけだ」

 洋平はボールを握り直し、ゆっくり投げ返した。

 パーン、とミットが気持ちのいい音を立てた。


 遥の葬儀から、数週間が過ぎていた。

 あの日、洋平の胸で泣き崩れたゆかりは、再び東京へ戻った。

 全国大会に向けて練習に打ち込んでいるらしい。

 連絡を取っていない洋平の耳には、そんな話が風の便りに届くだけだった。

 洋平も借金を返すため、朝から晩まで解体現場で働いていた。

 今日は仕事が早く終わり、帰り道で偶然会った浩一に誘われてグラウンドに来た。


 言葉を交わす代わりに、ボールを投げては受ける。

 その繰り返しが今の洋平にはありがたかった。

 余計なことを考えずに済む時間だった。


 投げ返すたびグローブの革が小さく鳴った。

 昔は部活が終わっても、二人で暗くなるまでボールを追いかけた。

 あの頃は、先のことを深く考えなくても明日が来ると思っていた。

 今はそう思えない。


「こないだ、隣町のスーパーで早坂さんを見たぞ」

  返球を受け取りながら、浩一が言った。

「そうか」

「ずいぶんすっきりした顔でレジ打ってた。お前、振ったんだろ」

 洋平は答えず、ボールの縫い目に指をかけた。

 志穂が別れ際に残した「幸せになってね」という言葉が、胸の奥によみがえった。

 志穂は自分から身を引いてくれたのだ。


「早坂さん、本気でお前のこと心配してたのにな。もったいねえことしたな」

「ああ。俺にはもったいないくらい、いい人だったよ」

 洋平は左足を上げて、ボールを投げた。

 パーン。

 ミットの音が、さっきより少し低く響いた。

「ゆかりの妹さんが亡くなってから、お前の中で何か変わったんじゃないかって心配してたんだ」

 浩一の返球を受け取り、洋平はボールを見た。

「あいつが尾道に戻ってくるなら、もう邪魔するものはないだろ。工場のことも借金のことも、早坂さんのことも、自分なりに決着をつけた。これでやっと、ゆかりと普通の恋人同士に戻れるんじゃないかって思ってたんだ」

「・・」

「でも、お前はゆかりを東京に帰した。ゆかりが一番つらい時にそばにいる道を選ばなかった。どうしてだ?」

 責める口調ではなかった。

 ずっと洋平の球を受けてきた親友として、どうしても聞いておきたい。

 そんな声だった。


 洋平は手の中のボールを見つめた。

 泥と油で汚れ、あちこちに傷の残る自分の手。

 その手で、ゆかりの未来に触れていいのか。

 ずっと考えていたことだった。

 ゆかりの手を握った時のことが頭をよぎった。

 あの時は、離さないことが支えになると思った。

 けれど、支えることと、相手の行く先を決めてしまうことは違う。

 洋平はその違いを、何度も自分に言い聞かせていた。


「俺がそばにいたら、あいつは思い切り飛べなくなる」

 洋平はぽつりと言った。

「遥が死んで、あいつはまだ立ち直れてない。俺が手を引いて一緒に歩こうとしたら、俺に気を遣って、自分の気持ちを後回しにするかもしれない。俺が抱えてる泥まみれの現実に、あいつまで引きずり込みたくないんだ」

 洋平はボールを投げた。

 ミットが強く鳴った。

「俺は、あいつの手を離す。全国大会で一番高い表彰台に立って、あいつが笑ってくれたら・・俺は、あいつの前からいなくなるつもりだ」


 ミットを構えたまま浩一が止まった。

「いなくなるって・・どういうことだよ」

「言ったとおりだ。電話もしないし、会いにも行かない。あいつが俺を探しても見つからないくらい、きっぱり縁を切る」

「ふざけんな!」

 浩一はミットを外し洋平に歩み寄った。

「お前ら、あんなにお互いを思ってるのに、なんでそこまでする必要があるんだよ! 遥ちゃんがいなくなって、ゆかりにはお前が必要なんじゃないのか!」

「だからだよ」

 洋平の声は落ち着いていた。

「俺があいつの生きる理由になっちゃいけないんだ。ゆかりには、自分の力で自分の人生を取り戻してほしい。俺がいるから頑張るんじゃなくて、ゆかり自身が踊りたいから踊る。俺が、あいつの足かせになっちゃだめなんだ」


 雨の降る斎場で「俺のために踊れ」と言ったのは、絶望の中にいたゆかりを、どうにか引き止めたかったからだ。

 けれど、あの言葉がこれから先もゆかりを縛り続けるのは、違う。

 いつか自分の足で前へ進めるようになった時には、洋平に縛られず、自分のために歩いてほしかった。


 ゆかりがいつか、遥のことを思い出して泣く日があってもいい。

 踊れない日があってもいい。

 洋平が望んでいるのは、悲しみを忘れることではなかった。

 悲しみを抱えたままでも、自分の人生を選べるようになってほしかった。

 それが、洋平の出した答えだった。


「・・本気で言ってんのか」

 浩一は、まだ納得できないという顔で洋平を見た。

「ゆかりが全国大会で一番になるのが、お前の夢だったんだろ。その夢がかなったら、ゆかりを手放すっていうのか」

「捨てるんじゃない。・・手放すんだよ」

 洋平はグラウンドの土に落ちていたボールを拾い、浩一の胸元へ軽く投げた。

「俺があいつの手を握って、一緒に歩けるのは、今の俺が知ってる道だけだ。でも、ゆかりにはもっと先がある。俺がそばにいることで、あいつが俺のことばかり気にするようになったら、前に進めなくなるかもしれない」

「洋平、それでいいのかよ。お前はどうなるんだ」

「俺はここで生きていくさ。借金を返して、いつか親父の鉄工所があった場所で、小さくても自分の手で何かを作り直す。ゆかりが笑って生きててくれれば・・それでいい」


 浩一は、返ってきたボールをしばらく見つめていた。

 長い付き合いだから、洋平の投げる球の違いは分かる。

 迷っている時は、投げる直前に一瞬ためらう。

 力が入りすぎている時は、球が思うように伸びない。

 けれど、さっきの一球には、迷いがなかった。

 ボールがミットに収まる音も、いつもよりまっすぐ響いた気がした。

 洋平がどれほどの覚悟で話しているのか、浩一には少しだけ分かった。


「わかったよ」

 浩一は息を吐き、もう一度キャッチャーミットを左手にはめた。

「お前がそこまで決めてるなら、俺はもう何も言わねえ。その代わり、最後までぶれるなよ。中途半端に距離を置いて、ゆかりを迷わせるようなことだけはするな」

「ああ、分かってる」

「ほら、来いよ!」

 浩一がミットを構えた。

 洋平は大きく息を吸い、夕暮れの空を見上げた。

 一番星が、薄暗くなり始めた空に小さく光っている。

 ゆかりも今ごろ、東京の空の下で同じ星を見ているだろうか。


 洋平は右腕を大きく振りかぶり、力を込めてボールを投げた。

 パァンッ!

 今日一番の澄んだミットの音が響いた。

「ナイス」

 浩一はミットの中のボールを握り、小さくつぶやいた。

 褒め言葉ではなかった。

 ゆかりの未来を守ろうとして、自分の気持ちを押し殺そうとしている洋平。

 その決意を浩一なりに受け止めた言葉だった。


 二人の影が、夕暮れのグラウンドに長く伸びていた。

 ボールを投げるたび、洋平の手には縫い目の感触が返ってくる。

 昔と同じ感触なのに、もう昔と同じ自分ではない。

 いつか、今日の決断を後悔するかもしれない。

 ゆかりの笑顔を遠くから想像するだけで、自分も平気でいられるとは思えなかった。

 それでも今は、寂しさを理由にゆかりのそばに居続けることだけはしたくなかった。


 ゆかりがどんな道を選ぶのか、これから先、何が待っているのかは分からない。

 それでも、洋平は願っていた。

 東京の空の下で、ゆかりが自分のために踊り、心から笑える日が来ることを。

 洋平はボールを握りしめ、祈るような気持ちで投げ込んだ。

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