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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第4章 究極の手放す愛

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第24話 「東京へ戻る決意」

 遥の葬儀が終わってから、宮下家の中は静かになった。

 いつもなら、学校から帰った遥が「お腹すいた!」と声を上げ、階段を駆け上がってくる。

 夕飯の時間には、テレビを見ながら家族で笑うこともあった。


 葬儀のあと、母は台所に立っていても手を止めることが増えた。

 父も新聞を開いたまま、同じページを長いこと見ている。

 誰かが遥の名前を口にすれば、家族の間に短い沈黙が落ちた。

 今は、誰もが必要なことだけを話し、食卓でも会話が続かない。

 廊下を歩く足音や、食器が触れ合う小さな音まで、以前より大きく聞こえた。


 ゆかりは自分の部屋のベッドに腰を下ろし、足元のスポーツバッグを見つめていた。

 東京へ戻るための荷物は、着替えや練習着を詰めれば、ほとんど準備できている。

 けれど、赤いリボンだけはケースから出したままだった。

 リボンを手に取れば、また練習に戻ることを認めるような気がした。

 これまで積み重ねてきた時間も、目指してきた舞台も、今のゆかりには遠いものに思えた。


 東京を離れる前は、早く練習に戻りたいと思っていた。

 今は、戻ると決めたはずなのに、荷物をまとめる手が何度も止まる。

 玄関を出たら、遥がいた家をしばらく離れることになる。

 そのことが、ゆかりには思いのほかつらかった。


 雨の降る斎場の裏で、洋平は「俺のために踊れ」と言った。

 自分を責めて、何もかも投げ出しそうになっていたゆかりを、彼は必死に引き止めてくれた。

 不器用な言葉だった。

 それでも、洋平が本気で自分を案じてくれていることは伝わった。

 あの言葉がなければ、ゆかりは悲しみの中で、東京へ戻る決心さえできなかったかもしれない。


 それでも、気持ちがすぐに変わるわけではない。

 東京で練習を続け、いつか舞台に立ったとき、遥のいない客席を思い出すのではないか。

 自分だけが夢を追いかけていいのかと、また迷うのではないか。

 机の上には、東京行きの新幹線の切符が置かれていた。

 出発まで、あと数時間しかない。


 コンコン、とドアがノックされた。

「ゆかり、入ってもいい?」

「うん」

 母が小さな段ボール箱を抱えて入ってきた。

 目のまわりは赤く、疲れも隠せていない。

「それ、どうしたの?」

 母はスケッチブックの角を指でなぞった。

 娘に渡せば、何が書かれているか自分も知りたくなる。

 遥が姉に宛てて残したものなら、最初に読むのはゆかりでないといけない。


「さっき、お父さんが病院から持ち帰ってきたの。遥が使っていたパジャマや、読んでいた本を片づけていたら、これが出てきたのよ」

 母は箱から一冊の薄いスケッチブックを取り出し、ゆかりに渡した。

 表紙には、遥の好きだったアニメのキャラクターのシールが、少し曲がりながら何枚も貼られていた。

「遥ね、ゆかりが東京に行っている間、病室でずっと何か書いていたの。お母さんが見ようとすると、『お姉ちゃんへの秘密だから、絶対にダメ』って隠していたのよ」

 母は少しだけ笑おうとしたが、すぐに口元を引き結んだ。


「ゆかり。つらいと思うけど、東京に戻るんでしょう?」

 ゆかりは答えられず、スケッチブックの表紙に目を落とした。

「洋平くんが言っていた通りだと思うの。ここで新体操までやめてしまったら、遥はきっと悲しむわ。お父さんもお母さんも、ゆかりが舞台で踊る姿を、また見たいと思っているのよ」

 部屋には時計の針の音だけが聞こえていた。

 ゆかりはすぐには表紙を開けられなかった。

 遥が書いたものを読むのが怖いのか、読みたいのか、自分でもわからなかった。

「・・お母さん」

「無理に元気にならなくていいの。寂しいときは寂しいって言っていい。でも、ゆかりが頑張ってきたことまで、なくさないでほしいの」

 母はゆかりの肩にそっと手を置いた。

 しばらくそのまま寄り添ってから、「一人で読んでみて」と言い、部屋を出ていった。


 ドアが閉まると、ゆかりは膝の上のスケッチブックを開いた。

 表紙の端は少し折れ曲がっている。

 病院の消毒液の匂いが、遥の使っていた甘い香りと一緒にかすかによみがえった気がした。


 最初のページには、クレヨンで描いた尾道の海や花、動物の絵が並んでいた。

 上手とは言えないけれど、どの絵にも、遥が一生懸命に描いた跡が残っている。

 絵の隅には、丸い字で「おねえちゃん」と書かれたページもあった。

 海の絵には青いクレヨンが何度も重ねられ、花の茎は途中で紙からはみ出している。

 病室のベッドの上で、遥がどんな顔をして描いていたのか、ゆかりは想像した。


 ページをめくると、絵の代わりに鉛筆の文字が現れた。

 遥の字だった。

 病気のせいか、線は細く、ところどころ途切れている。

 文字も少し曲がっていた。

 ゆかりは、ひとつひとつの言葉をゆっくり目で追った。

『今日は、注射とお薬がすごく痛かった。でも、泣かないで我慢したよ』

『お姉ちゃん、いまごろ東京で、練習してるかな。お姉ちゃんのリボンは、いつもキラキラしてて、すごくかっこいいから』

『お姉ちゃんがテレビに出たら、クラスのみんなに絶対自慢するんだ』

『あのね、お姉ちゃん。わたし、早く病気をなおして、またあの坂道を一番下まで走りたい』

 ゆかりはページの端をそっと押さえ、続きを読んだ。

 最後のほうのページには、ほかより大きな字で、何度も書き直したような跡があった。


『お姉ちゃん。東京は、淋しくない?』

 文字を追ううちに、ゆかりの胸の奥で、懐かしい声が少しずつ形になった。

 遥は痛い注射のあとでも、電話では明るく話そうとしていた。

 ゆかりが練習の話をすると、いつも「もっと聞かせて」とせがんだ。

 笑顔の裏で、遥がどれほどつらい思いをしていたのか、ゆかりは知らなかった。


『洋平くんが来てくれて、お姉ちゃんは世界一だって言ってたよ』

『だから、淋しくても、我慢してね』

『私も、我慢して、病気と戦うから』

『お姉ちゃんは、東京で、金メダルを取るために戦ってね』

『わたし、お姉ちゃんの新体操が、世界で一番大好きだよ』

『はるかより』


 一度読んだ言葉を、ゆかりはもう一度読み返した。

 金メダルという言葉は、遥にとって遠い夢の話ではなかった。

 自分が毎日練習していることを、遥も自分のことのように受け止めてくれていた。

 ゆかりの頬を伝った涙が、ページの上に落ちた。

 あわてて拭おうとしたが、鉛筆の文字が少しにじんでしまった。

「遥・・」

 声にならない声が漏れた。

 ゆかりはスケッチブックを胸に抱き、ベッドの上で身を丸めた。


 私は、何をしていたんだろう。

 遥のそばにいて、看病してあげられなかった。

 そのことばかりを悔やんできた。

 自分が夢を追いかけたせいで、遥を病室に一人きりにしてしまったのだと思っていた。

 自分だけが夢を追い、舞台で輝こうとするのは、家族を置き去りにすることなのだと。

 だから、東京へ戻ることにも、どこか後ろめたさを感じていた。


 窓の外では、雲の切れ間から午後の光が差し始めていた。

 部屋の中はまだ薄暗い。

 それでも、ページに落ちる光の筋を見ていると、ゆかりはほんの少しだけ呼吸がしやすくなった。

 スケッチブックに残された言葉は違っていた。

 遥は、姉が夢を諦めることなど望んでいなかった。

 病室から出られなくても、遥はゆかりが舞台で踊る姿を思い描いていた。

 その日を楽しみにしながら、痛い治療にも向き合っていた。


 お姉ちゃんが東京で練習を頑張っているから、わたしも治療を頑張ろう。

 遥はそんなふうに考えていたのかもしれない。

 離れていても、二人はそれぞれの場所で頑張っていた。

 ゆかりは、遥が残した言葉をもう一度見つめた。

 寂しさも、後悔も、すぐになくなるわけではない。

 それでも、罪悪感だけを理由に夢を手放したら、遥が願ってくれたことから自分で背を向けることになる。


「わかったよ、遥・・」

 涙はまだ止まらなかった。

 それでも、ゆかりはスケッチブックを閉じ、顔を上げた。

 カーテンの隙間から、尾道の町並みと、その向こうに広がる海が見えた。

 東京へ戻れば、何事もなかったように練習できるわけではない。

 音楽が流れれば遥のことを思い出すだろう。

 大会の日には客席を探してしまうかもしれない。

 悲しみを忘れることと、悲しみを抱えたまま進むことは違う。

 ゆかりは、その違いをようやく考え始めていた。


 海沿いのどこかで、今ごろ洋平は仕事をしているはずだ。

 雨の中で聞いた言葉が、ふいによみがえった。

『遥が見れないなら、俺が見る。お前が世界で一番きれいなリボンを投げるのを、俺が一番前で、一生見ててやる』


 洋平も、遥と同じように、ゆかりが夢を追い続けることを願ってくれている。

 自分が苦しいときでも、ゆかりには前を向いてほしい。

 二人の思いを、今なら少し受け止められる気がした。

 ゆかりはスケッチブックをスポーツバッグのサイドポケットにしまった。

 それから、机の上の新幹線の切符を手に取り、赤いリボンのケースを開けた。

 リボンを丁寧に巻き取り、バッグのいちばん上にそっと収めた。

 ファスナーを閉めると、部屋の中をもう一度見渡した。


 悲しみが消えたわけではない。

 遥に会いたい気持ちも、看病できなかった悔いも、この先ふとした瞬間に戻ってくるだろう。

 けれど、もうその気持ちだけに足を止められたくはなかった。

 ゆかりは柑橘系のハンドクリームをバッグのサイドポケットに入れた。

 手に取るたび、洋平のことを思い出す。

 小さく息を吸って、部屋の明かりを消した。


 廊下に出ると、両親が玄関のそばで待っていた。

 玄関のたたきには、父がそろえてくれた靴が置かれていた。

 母はゆかりの顔を見て、何か言いかけてから、いつものように声をかけた。

「気をつけてね。ご飯、ちゃんと食べるのよ」

「うん」

 父は大きなバッグに目をやり、短く言った。

「がんばれよ」

 その一言に、ゆかりはまた涙がこみ上げるのを感じた。

 袖で目元を拭い、両親に向かってうなずいた。

「行ってきます」


 バッグには、着替えや手具だけでなく、遥の願いと両親の思い、そして洋平の言葉も入っている。

 それは、少し重くなったようにも、背中を押してくれるようにも感じられた。

 バッグを肩にかけ、玄関を出た。

 悲しみも後悔も、置いていけるわけではない。

 それでも、遥が見たいと言ってくれた舞台へ、もう一度向かう。

 東京へ戻る一歩を、ゆかりは自分の足で踏み出した。

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