第25話 「志穂への返答」
解体現場での仕事を終えた洋平は、アパートには帰らず、錆びついた自転車を漕いで隣町へ向かっていた。
疲れた足は重かったが、今日はどうしても寄りたい場所があった。
夕暮れの冷たい風が、汗と土埃の染みついた作業着の隙間から入り込み、火照った体を冷やしていく。
今の洋平には、その冷たさがありがたかった。
風に吹かれていると、頭の中でずっと晴れなかった迷いが、少しずつ薄れていく気がした。
自転車の車輪が路面の小さな段差を越えるたび、胸ポケットの封筒がかすかに揺れた。
今日こそ、曖昧なままにしてきたことに区切りをつけようと思った。
向かっているのは、志穂が新しくパートとして働き始めたスーパーだった。
作業着の胸ポケットには、工場をたたむときに見つかった古い書類と、親方の机の奥に残されていた茶封筒が入っていた。
封筒には、以前、志穂が立て替えてくれた備品代が入っている。
郵送で返すことも、浩一に頼むこともできた。
でも、洋平は自分で志穂に会いきちんと話をしたかった。
伝えるべきことを今度こそ自分の口で伝えたかった。
あの日、埃っぽい事務所で志穂から思いを打ち明けられたとき、洋平は「俺が守りたいのはゆかりだ」と告げて、志穂を突き放してしまった。
父親が亡くなり、借金を抱え、何もかも嫌になっていた洋平に、誰より早く寄り添ってくれたのは志穂だった。
何も言わずにハンカチを差し出し、夜通し香典の計算まで手伝ってくれた。
志穂がそばにいてくれなかったら、洋平は孤独に耐えられず、どうなっていたか分からない。
それほど助けてもらったのに、あのときの返事はあまりにも一方的だった。
志穂の気持ちを受け止めたうえで、自分の思いを伝えることができていなかった。
謝れば済む話ではない。
それでも、何も言わずに離れたままでは、志穂の優しさに甘えたことまで忘れてしまいそうだった。
洋平はスーパーの駐輪場に自転車を停め、自動ドアをくぐった。
夕方のタイムセールで、店内は買い物客でにぎわっていた。
洋平は泥のついた安全靴で床を汚さないよう気をつけながら、レジの向こうに志穂の姿を探した。
浩一の話の通り志穂は三番レジに立っていた。
地味なエプロン姿で、商品を手際よくスキャンし、買い物かごに収めている。
以前、鉄工所の事務所で見せていた影のある表情とは違い、今の志穂は生き生きとして見えた。
新しい仕事にもなじんでいるようだった。
その姿を見て、洋平の胸につかえていたものが、ほんの少し軽くなった。
洋平は声をかけるのをためらい、しばらくその場から動けなかった。
けれど、志穂が客に「ありがとうございました」と笑顔で頭を下げるのを見て、ようやく一歩を踏み出す気になった。
洋平は店の外にある自動販売機のそばで、志穂の仕事が終わるのを待った。
冷たい風が吹いていたが、帰る気にはなれなかった。
四十分ほどして、従業員用の裏口から、コートを着た志穂が出てきた。
「早坂さん」
洋平が声をかけると、志穂は肩をびくりと震わせ、驚いた顔で振り返った。
「洋平さん・・? どうしてここに。現場の帰りですか?」
「急にすみません。仕事が終わるのを待ってしまって。これ、親父の机から出てきたんです。前に早坂さんが立て替えてくれた備品代と領収書です。返すのが遅くなって、本当にすみませんでした」
洋平が茶封筒を差し出すと、志穂は戸惑った様子で受け取った。
突然の再会に、志穂はまだ驚いているようだった。
「そんなの、もう気にしなくてよかったのに・・。わざわざ返しに来てくれたんですか?」
「それだけじゃないんです」
洋平は目をそらさず、志穂を見た。
「少しだけ、話す時間をもらえませんか」
二人はスーパーの裏にある小さな児童公園へ移り、ベンチに並んで座った。
日はすっかり沈み、街灯のオレンジ色の光が足元を照らしていた。
遠くの国道から、車の走る音が聞こえてくる。
志穂は自動販売機で買った温かい缶コーヒーを、洋平にも一本渡した。
洋平は缶を手にしながら、通夜の晩に志穂が給茶機で入れてくれた、少しぬるいお茶を思い出した。
あの夜も、志穂は何も言わずにそばにいてくれた。
あの晩の志穂の静かな気遣いを、洋平はずっと覚えていた。
今夜もまた、温かい飲み物を手にして向かい合っている。
けれど、今日は伝えなければならないことがあった。
「新しい仕事は、どうですか?」
洋平に聞かれ、志穂は缶コーヒーを両手で包んだ。
温かさを確かめるようにして、小さく笑った。
「覚えることは多くて大変だけど、けっこう充実してます。鉄工所の事務所みたいにホコリっぽくないし、お客さんと話すのも思ったより楽しいんです。・・私にも、ちゃんと居場所があったんだなって思えて」
「そうですか。よかった。本当によかったです」
二人の間に少しぎこちない沈黙が流れた。
ベンチには一人分ほどの隙間が空いていた。
けれど、鉄工所の事務所で志穂に告白されたときのような、息が詰まるほどの緊張はなかった。
言葉が途切れても、気まずさだけが残るわけではない。
二人はしばらく、静かに缶コーヒーを手にしていた。
店の明かりは少しずつ遠くなり、通りを行き交う人もまばらになっていた。
洋平は、話を切り出すタイミングを何度も探していた。
「あの日、俺はちゃんと自分の気持ちを話せていなかったと思うんです。それで、今日来ました」
洋平は缶コーヒーを両手で包み、言葉を選びながら話し始めた。
「早坂さんが俺のためにしてくれたこと、絶対に忘れません。親父が死んだとき、情けない姿を見せても目をそらさず、ずっとそばにいてくれた。香典の計算まで手伝ってくれて・・本当に感謝しています。俺のことを好きだと言ってくれたのも、すごくうれしかったです」
志穂は口を挟まず、静かに聞いていた。
街灯に照らされた横顔には、少し緊張が残っていた。
「借金だらけで、毎日を何とかやり過ごすだけの俺と一緒にいたいって言ってくれた。あの言葉に、どれだけ救われたか分かりません」
洋平は顔を上げ、冬の夜空を見た。
「でも・・俺が一緒にいたいのは、やっぱりゆかりなんです」
声は静かだった。
けれど、洋平の気持ちはもう決まっていた。
「ゆかりは今、東京で一人、必死に頑張っています。遥を亡くして、心が折れそうになりながら、それでも世界一の選手を目指して練習している。俺が苦しい毎日を何とか乗り越えようと思えるのは、ゆかりが夢に向かって頑張っているからなんです」
志穂は黙ったまま洋平の言葉を聞いていた。
「俺には、ゆかりに何かしてやれる力がない。こんな汚れた手で、ゆかりの隣を歩く資格もないって思ってしまう。でも、だからこそ、ゆかりの未来を守りたいんです。俺が離れることで、ゆかりがもっと高く飛べるなら、俺は一人でも構わない。どんな暮らしになっても、ゆかりが夢をかなえるところを見届けたいんです」
洋平は、傷と油汚れの残る右手をベンチの上に置いた。
「これが、俺の正直な気持ちです。早坂さんの思いには応えられません。本当に、ごめんなさい」
洋平はベンチに座ったまま、深く頭を下げた。
志穂をただ拒むためにここへ来たわけではなかった。
自分を支えてくれた志穂への感謝と、恋人としては応えられないという気持ち。
その両方を、ようやく自分の言葉で伝えられた。
言い訳をして自分をよく見せるつもりはなかった。
志穂の気持ちを傷つけると分かっていても、曖昧な言葉で期待を残すほうが、もっと失礼だと思った。
志穂は、頭を下げたままの洋平をしばらく見つめていた。
あの日、鉄工所で告白したとき、志穂の胸には確かに嫉妬があった。
東京で夢を追うゆかりが、そばにいる自分にはかなわないほど洋平の心を占めている。
そのことが、悔しくてたまらなかった。
けれど今、洋平の口から思いを聞き、志穂の中にあった嫉妬は少しずつほどけていった。
洋平にとって、ゆかりはただ好きな相手というだけではない。
苦しい現実の中で、明日も生きていこうと思わせてくれる、大切な存在なのだ。
自分がどれほど苦しくても、ゆかりの未来を守ろうとしている。
その思いの強さを知り、志穂はようやく分かった。
二人の間に割って入ることはできない。
無理に気持ちを変えさせようとしても、誰も幸せにはなれない。
志穂は缶コーヒーを持つ手に少し力を入れた。
悔しさが完全になくなったわけではない。
それでも、洋平の言葉を聞くうちに、ゆかりへの嫉妬よりも、ここまで誰かを思い続ける洋平への驚きが大きくなっていた。
「顔を上げてください、洋平さん」
志穂の声は、思っていたより落ち着いていた。
洋平が顔を上げると、志穂は目に涙を浮かべながらも、穏やかに笑っていた。
「洋平さんに振られてから、ずっと考えていたんです。どうして、あんなに洋平さんのことばかり考えていたんだろうって」
志穂は手元の缶コーヒーに目を落とした。
「私、本当は洋平さんを助けたかったというより・・弱っている洋平さんを助けることで、自分の寂しさを埋めたかったのかもしれません。誰かに必要とされたかったんだと思います」
「早坂さん、そんなふうに思わなくても・・」
「でも、洋平さんは違うんですね。自分が一人になっても、何かを返してもらえなくても、ゆかりさんを守ろうとしている。参りました。私の完敗です」
志穂はベンチの端から少し身を寄せ、洋平の傷だらけの右手にそっと自分の手を重ねた。
ほんの一瞬、二人の手が重なった。
そこに、もう恋人になりたいという気持ちや、未練はなかった。
互いの痛みを知り、それぞれが選んだ道を認め合う。
そんな静かな気持ちが、二人の間に流れていた。
志穂の手が重なったのは、最後に伝えたいことがあったからだ。
恋をかなえるためではなく、これまで支え合った時間を、きちんと終わらせるためだった。
「洋平さんのまっすぐな気持ちは、きっとゆかりさんにも届いていますよ」
志穂の手は温かく、落ち着いていた。
「どんなに泥だらけになっていても、洋平さんの心まで汚れたわけじゃありません。だから、もう迷わずに、ゆかりさんを応援してあげてください。洋平さんなら、きっとできます」
洋平は志穂の手の温もりを感じながら、ゆっくりとうなずいた。
「・・ありがとうございます」
志穂はそっと手を離し、ベンチから立ち上がった。
冬の終わりの風が、二人の間を通り抜けた。
「じゃあ、私、そろそろ帰りますね。明日も朝から仕事なんです。タイムセールの時間は、なかなか大変なんですよ」
「そうですね。遅くまで引き止めてすみません。気をつけて帰ってください」
志穂は歩き出し、数歩進んだところで、振り返らずに右手を軽く上げた。
洋平も立ち上がり、志穂の後ろ姿に向かって頭を下げた。
志穂の姿が街角の向こうに見えなくなるまで、洋平はその場に立っていた。
胸の奥に残っていた、志穂への申し訳なさが少しずつ薄れていった。
志穂が自分の気持ちを受け止めてくれた。
洋平はようやく、伝えられずにいた思いに区切りをつけることができた。
志穂に許してもらえたからといって、過去の言葉や態度がなかったことになるわけではない。
それでも、感謝と謝罪を自分の口で伝えられたことは、洋平にとって大きかった。
洋平は顔を上げ、澄んだ冬の夜空を見上げた。
俺が進む道は決まった。
あとは、ゆかりが東京の舞台で、誰よりも高く飛ぶ日を見届けるだけだ。
洋平は缶コーヒーを飲み干し、自転車へ向かった。
ペダルを踏む足取りは、来るときよりも軽くなっていた。
迷いがすべて消えたわけではない。
それでも洋平の胸には、これから何をすべきかという思いが、はっきりと残っていた。
明日からも仕事は続く。
借金も、先の見えない暮らしも、すぐに変わるわけではない。
それでも、今夜は前を向いて帰れそうだった。




