第26話 「涙のノクターンと最後の呼び出し」
スーパーでの短い再会だった。
洋平を見送った後、志穂は自分の小さなアパートの部屋に帰り着いた。
パートの立ち仕事でひどく疲れた足を休めるために、いつもならすぐに小さなソファに横たわってテレビをつけるのだが、今夜はそんな気になれなかった。
コートを脱ぎ、鞄を床に置いた志穂は、部屋の片隅に置かれた、古いアップライトピアノの前に静かに腰を下ろした。
実家から運び込み、もう何年もまともに弾いていなかったそのピアノ。
木枠の色が少し褪せ、鍵盤の上には薄っすらとホコリが積もっている。
志穂は蓋を開け、少し黄ばんだ鍵盤の上に、白く細い指をそっと置いた。
ふう、と。
小さな、ため息のような呼吸が部屋に落ちる。
ゆっくりと、右手の小指が鍵盤を押し込んだ。
ショパンの『ノクターン』
静寂な夜の湖を思わせるような、深く、沈み込むような旋律が、狭いアパートの部屋に響き始めた。
志穂は目を閉じ、指先の感覚だけに意識を集中させた。
流れるようなアルペジオ。
その指先はわずかに震え、時折、次の和音へと移る瞬間に、わずかな「間」が生まれた。
技術的な拙さではなく、彼女の心の躊躇いや行き場のない感情が指先の戸惑いとなって表れていた。
打鍵の強弱、ペダルを踏むつま先の微かな震え。
公園のベンチで見た、洋平の深く頭を下げる姿。
彼の傷だらけで無骨な手。
純白の空へ飛び立とうとする少女を、自分のすべてを犠牲にして泥沼の底から見守り続けようとする真っ直ぐな瞳。
ポロン、と、高音の響きが空気に溶けていく。
志穂の唇が微かに震え、再び、深く静かな呼吸が漏れた。
言葉にする必要などなかった。
愛していた」「悲しい」「悔しい」
そんな陳腐な言葉では到底表せない、どうしようもなく美しく、残酷な愛の形を見せつけられた。
深い喪失感と静かな哀悼だった。
志穂の目から一滴の涙がこぼれ落ちた。
涙は頬を伝い、黄ばんだ鍵盤の上に落ちた。
弾くのを止めなかった。
涙で鍵盤が滲んでも、震える指先で、別れを受け入れるための夜の独白を紡ぎ続けた。
尾道の静かな夜の空へ、切なくも美しいノクターンは祈りのように高く吸い込まれていった。
同じ夜の空の下。
洋平は、薄暗い四畳半のアパートで、冷たい畳の上に寝転がって天井のシミをぼんやりと見つめていた。
少し離れた別の家では、浩一が自分の部屋のベッドに腰掛け、使い込まれたキャッチャーミットにオイルを塗り込みながら、黙々と手入れをしていた。
二人の脳裏には、先日のグラウンドでのキャッチボールをきっかけに、高校時代の圧倒的な過去の記憶が、まるで昨日のことのように生々しく蘇っていた。
肌を焦がすような、真夏のうだるような太陽。
グラウンドの土の匂い。
汗と泥にまみれ、洗っても決して落ちないユニフォームの重さ。
洋平と浩一は、中学の頃からずっとバッテリーを組んできた。
洋平の投げる、火を吹くように重く、鋭いストレート。
浩一は、その球をミットのど真ん中で受け止めることだけを誇りにしてきた。
甲子園に行く。
ただそれだけを目標に、尾道の長い坂道を毎日息が切れるまで走り込んだ。
口の中に広がる血の味も、足の筋肉が悲鳴を上げる痛みも、二人は笑って耐えた。
洋平が投げ、浩一が捕る。
絶対的な信頼関係は、ただの友人という言葉では到底括りきれない、血よりも濃い泥と汗で結ばれた「兄弟」のような絆だった。
その圧倒的な青春の記憶は、あの一瞬の出来事で永遠に砕け散った。
夏の県大会、準決勝。
マウンドに立つ洋平。
サインを出す浩一。
限界が来ているのはわかっていた。
連投に次ぐ連投で、洋平の右手の指先は悲鳴を上げていた。
マメが潰れ、指先からは赤い血が滲み出していた。
それでも浩一は、「洋平のストレートなら絶対に打たれない」と信じ、ストレートを要求した。
洋平が大きく腕を振り下ろした瞬間。
潰れたマメの激痛で、指先にかかるはずの最後のひと押しがわずかに甘くなった。
失速したストレートは、相手の4番バッターのバットに完璧に捉えられバックスクリーンへと吸い込まれていった。
マウンドで膝から崩れ落ち、血の滲む右手を抱えて天を仰ぐ洋平。
キャッチャーマスク越しにその打球の行方を見送った浩一の全身から一瞬にして血の気が引き、心臓が凍りついた。
ストレートのサインを出したせいだ。
自分が洋平の指の異変にもっと早く気づき、変化球のサインを出していれば、洋平の夢を終わらせることはなかったかもしれない。
試合後のロッカーで、浩一は泣き崩れながら洋平に何度も謝った。
しかし洋平は、血の滲む指を隠しながら、一切彼を責めなかった。
『お前のせいじゃない。俺が、全力で投げたかったからだ。・・誰のせいでもねえよ』
洋平は、自分の夢が完全に絶たれた絶望の底にありながら、真っ先に浩一の心を救おうとした。
その日から、浩一は洋平に対して、一生返しきれない重い十字架を背負った。
洋平の父親が亡くなり、洋平が絶望の泥沼に突き落とされた時も。
彼がゆかりのために自らを犠牲にして泥水をすすっている時も、浩一はただ黙ってそれを見守るしかなかった。
彼が「手放す」という究極の愛を選んだ時も、本気で怒りながらも、最終的には口を挟むことはできなかった。
あの夏の日、マウンドで洋平の夢を終わらせてしまった自分には、彼の新しい「生きる理由」を止める権利など、どこにもないと思っていたから。
ジリリリリリッ!
深夜の静寂を切り裂いて、洋平のアパートの黒電話がけたたましく鳴った。
洋平はゆっくりと体を起こし、受話器を取った。
「・・もしもし」
『俺だ』
受話器の向こうから、浩一の低く、押し殺したような声が聞こえた。
「浩一か。こんな夜更けにどうした」
『明日から、全国大会だな』
その言葉に、洋平の心臓がドクンと大きく跳ねた。
ゆかりが出場する、新体操の全国大会。
彼女が世界一に向けて、純白のフロアに立つ日だ。
「ああ。そうだな」
『洋平。今すぐ、グラウンドに来い』
「は? 今からか? 外は真っ暗だぞ」
『いいから来い。グローブ持って、走ってこい』
浩一の声には、有無を言わせない凄みがあった。
洋平は少しの間沈黙し、そして短く「わかった」とだけ答えて受話器を置いた。
押し入れから、ボロボロになった古いグローブを引っ張り出した。
深夜の尾道の街は、冷たい海風が吹き抜け、不気味なほどに静まり返っていた。
洋平は自転車を使わず、あえてあの長い坂道を、息を切らしながら走って登った。
高校時代の、あの地獄のような走り込みの記憶が、肺の焼けるような痛みとともに蘇る。
坂を登りきり、母校のグラウンドのフェンスを越える。
月明かりだけが照らす真っ暗なグラウンドのホームベースに、浩一が立っていた。
手には、あの使い込まれたキャッチャーミットがはめられている。
「遅えよ」
浩一が、闇の中から声をかけた。
「悪い。毎日鉄骨担いでるのに、走る筋肉は別みたいでな」
洋平は、ゆっくりとマウンドに向かった。
月明かりに照らされた浩一の顔は、ひどく真剣だった。
「・・最後だ、洋平」
「最後?」
「明日、あいつが頂点に立ったら、お前はあいつの手を完全に手放すんだろ。あいつの記憶から消えるつもりなんだろ」
浩一は、足元の土をスパイクで鳴らしながら言った。
「だったら、高校時代からずっとお前を縛り付けてた『過去』も、今日ここで完全に終わりにしろ。俺がお前を終わらせてやる」
浩一が、キャッチャーの位置に深くしゃがみ込み、ミットをど真ん中に構えた。
「お前があいつのために『生きる理由』を見つけたように、俺もずっと、あの夏の最後の一球の十字架を背負って生きてきた。お前の指にできたマメのタコを見るたびに、俺のサインのせいで夢を終わらせたんだって、一生後悔しなきゃいけないと思ってた。でも、もう終わりにしたい」
浩一の声が、夜のグラウンドに震えて響いた。
「お前があいつを手放して新しい道を歩き出すなら、俺も、お前のキャッチャーをこれで引退する。俺からのサインに縛られるのは、これが最後だ」
浩一の言葉の裏にある痛切な覚悟だった。
洋平がゆかりへの愛のために過去のすべてを捨てようとしているのを見た。
浩一は、洋平との「バッテリー」という過去の記憶と罪悪感に決着をつけようとしていた。
「浩一。お前は、ずっと最高のキャッチャーだったよ。高校の時も、今もな」
洋平は、グローブの中でボールを深く握り直した。
真っ暗なグラウンド。
ナイター設備もない、月明かりだけの孤独なマウンド。
洋平の目には、ホームベースでミットを構える親友の姿が、かつてないほどはっきりと見えていた。
これが、最後の一球だ。
洋平は、あの夏の最後の一球を投げた時と同じように右腕を大きく振りかぶった。
過去のすべての痛み、後悔、泥まみれの記憶、浩一への深い感謝を、この一球にすべて込めるように。
洋平の指先から放たれたボールは、闇を切り裂き、白い尾を引いて真っ直ぐに浩一のミットへと吸い込まれていった。
パーァァァンッ!!
静まり返った夜の尾道の空に、過去のすべての呪縛を完全に打ち砕くような凄まじいミットの轟音が鳴り響いた。
それは、遠く離れたアパートで志穂が奏でていたノクターンの静かな旋律と重なり合うように、激しく、そして美しく、夜の闇へと消えていった。




