第27話 「解かないリボンの結び目 尾道の夜の海」
全国大会を翌日に控えた、東京の冷たい夜。
ゆかりが宿泊しているホテルの高層階の部屋からは、まるでひっくり返した宝石箱のように、眩いばかりの大都会の夜景が眼下にどこまでも広がっていた。
数え切れないほどの車のライトが静かな光の川のように絶え間なく流れ、幾重にも連なる高層ビル群の無数の窓が、冷たく、そして圧倒的な人工的な光を放っている。
上京したばかりの頃、ゆかりはこの窓から見下ろす完璧すぎる景色に、いつも得体の知れない恐怖と息の詰まるような孤独を感じていた。
誰も自分のことなど知らない、感情を持たない巨大な機械のような街。
しかし今夜は違った。
ゆかりの心は、自分でも驚くほど静かに、そして深く澄み切っていた。
ゆかりは窓際に置かれた小さなテーブルに座り、明日、世界一をかけて踊るための「真っ赤なリボン」の手入れをしていた。
専用のアイロンを丁寧にあて、生地のわずかなほつれや歪みがないか、指の腹でゆっくりと、神経を尖らせて感触を確かめていく。
作業を終えた後、ゆかりはスポーツバッグの一番奥から、もう一本の古いリボンを取り出した。
尾道にいた頃、毎日夕暮れの体育館で汗とホコリにまみれながら、無我夢中で振り続けていた、使い古しの練習用リボンだった。
生地はすっかり色褪せ、端の方は床との摩擦で少し擦り切れている。
そして、そのリボンの中間あたりに、小さな、石のように固く締まった「結び目」があった。
ゆかりは、その小さな結び目を両手で包み込むようにしてそっと撫でた。
あれは、高校一年の夏の終わりのことだった。
激しい夕立が降った日の放課後。
グラウンドからの湿った熱気が流れ込む体育館の隅で、ゆかりは練習中に絡まって結び目ができてしまったリボンを、泣きそうになりながら必死に解こうとしていた。
大会が近く焦っていた。
指先を赤くしながら力任せに生地を引っ張っていた。
そこへ、部活を終えた洋平が、泥だらけのユニフォーム姿でふらりとやってきた。
『そんな力任せに引っ張ったら、余計に固くなるぞ。貸してみろ』
洋平はそう言って、ゆかりの手からリボンをひょいと取り上げた。
そして、ボールの縫い目で硬くタコができた、自分の大きくてゴツゴツとした指先で、結び目をどうにか解こうと悪戦苦闘した。
しかし、不器用な彼の手でも、ゆかりが焦って固く締めすぎてしまった結び目は、どうしても解けなかった。
『あー、こりゃダメだ。芯までガチガチに固まっちまってる』
十分ほど格闘した後、洋平は降参したように笑い、額の汗を拭ってリボンをゆかりに返した。
『ハサミで切って、縫い合わせるしかないかな・・』
ゆかりが沈んだ声で聞くと、洋平は首を横に振った。
『切ったら、もう今までお前が振ってきた一本のリボンじゃなくなるだろ。・・無理に解こうとして生地をボロボロに引き裂くくらいなら、いっそ、解かないままにしとけばいいじゃん』
『え? でも、結び目があったら、回した時に空中で引っかかって、綺麗な円が描けないよ』
『その結び目ごと、力いっぱい回せばいいんだよ。ちょっとくらい不格好でも、お前が思いっきり回せば、絶対に綺麗に見えるからさ。・・俺は、お前の回すリボンが世界で一番綺麗だと思ってるし』
洋平が少し照れくさそうに笑いながら言ってくれた言葉。
結局、ゆかりはそのリボンの結び目を解かないまま、尾道での練習をずっと続けていた。
結び目があることで、確かにコントロールは難しくなった。
しかし、その結び目を見るたびに、洋平の不器用な優しさを思い出した。
不思議といつも以上の力が湧いてきた。
ゆかりは、ホテルの冷たい窓ガラスに額を押し当て、遠くの暗い夜空を見つめた。
「・・そっか。そういうこと、だったんだね、洋平」
ぽつりと独り言が口からこぼれた。
あの日の洋平の言葉は、今の二人の関係をそのまま予言していたかのようだった。
夢を追って純白の世界へ向かうゆかり。
父親の死と莫大な借金によって絶望の泥沼に突き落とされた洋平。
二人の生きる世界は、残酷なまでに完全に分断されてしまった。
一緒にいようとすれば、どちらかが無理をして、自分の人生を犠牲にしなければならない。
彼は、自ら悪者になって突き放そうとした。
関係を断ち切ろうとした。
それでも二人の奥底にある「結び目」は、決して解けることはなかった。
離れれば離れるほど、その結び目は強く固く締まっていった。
洋平は、無理に結び目を解いて関係を終わらせるのではなく、無理に一緒にいてお互いの未来を引き裂くのでもなく、「完全に手放す」という別の道を選んだのだ。
結び目は、そのままにしておく。
お互いがお互いを世界で一番愛しているというその確かな結び目だけを心に残したままで。
手は完全に手放し、それぞれが別の空の下で力いっぱい生きていく。
それこそ、彼が泥水の底で血を流しながら辿り着いた究極の愛情の形だった。
ゆかりは、使い古したリボンの結び目にそっと唇を押し当てた。
いつか彼が塗り込んでくれた、あの柑橘系のハンドクリームの香りがふわりと蘇る。
一人で戦っているという恐怖や寂しさはない。
この「解かない結び目」がある限り、明日、あの純白のフロアで誰よりも高く美しく舞う。
ゆかりの目に、迷いのない強い光が宿っていた。
同じ時刻。
尾道。
真夜中の海沿いの防波堤。
浩一とのグラウンドでの「最後の一球」を終えた洋平は、アパートには帰らず、一人で自転車を押して暗い海辺へとやってきた。
潮の香りと、造船所の古い機械油の匂いが混じった、尾道特有の冷たい夜風が吹き抜けている。
足元では、黒い波が防波堤にぶつかり、ザバーンと低い音を立てて砕け散っている。
洋平が座っているこの場所。
あの日、東京へ行こうとするゆかりに「重いんだよ」と残酷な嘘をついた。
彼女の心を粉々に砕いて冷たく突き放したその防波堤だった。
あの日、彼女はこの場所で泣き崩れた。
俺は・・最低の嘘つきだった。
彼女を傷つけることで、足首に絡みつく泥まみれの鎖を断ち切り、光の当たる場所へ逃がす唯一の方法だと思い込んでいた。
洋平は、自分の泥だらけの右手を、冷たい月の光にかざした。
浩一のミットに過去のすべてを乗せて全力でボールを投げ込んだ。
指先はまだ微かに痺れ、手のひらには血が滲むような新しいマメができている。
「・・解けねえよな。こんなに固く結ばれちまったら」
洋平は、波の音にかき消されるような低い声で、誰に言うともなく呟いた。
彼女への強烈な未練。
彼女への愛。
借金まみれで泥水をすすって生きる俺には過ぎた感情だった。
何度も鋭いナイフで切り裂こうとした。
しかし、ゆかりと過ごしたあの坂道での記憶は心の奥底に固く結びついて離れることはなかった。
だから、もう切ることは完全に諦めた。
俺は一生、この結び目を抱えたまま、この泥まみれの尾道の街で生きていく。
彼女が東京の空でどれだけ眩しく輝こうとも、決して自分の惨めな存在でその光を汚すような真似はしない。
完全に手放し、ただ遠くから、彼女が世界一になることだけを祈り続ける。
それが、俺が彼女に捧げられる最大の愛だ。
チャプン、と、足元で少し大きな波が跳ねた。
洋平は防波堤の上に立ち上がり、大きく、深く息を吸い込んだ。
冷たい夜の空気が、肺の奥まで入り込んだ。
これまでのすべての痛みと迷いを、洗い流して浄化していくように感じられた。
明日は、いよいよ全国大会だ。
彼女が、あの純白のフロアに立つ。
洋平は、遠く真っ暗な海の向こう、東京がある東の空に向けて、ゆっくりと目を閉じた。
俺の声はここからじゃ届かない。
俺の姿も見えない。
それでいい。
お前はただ、前だけを見て、世界で一番綺麗なリボンを、思い切り回してくれ。
東京の高層ホテルで古い結び目を愛おしむ少女。
尾道の暗い海で消えない結び目を抱きしめる少年。
遠く離れた二人の心は、決して交わらない平行線の上にありながら、それでも過去のどの瞬間より深く、強く、ひとつの結び目でつながっていた。
見上げた空には、冷たく澄んだ冬の月が、二人のいる場所を静かに照らしていた。




