第28話 「決戦のフロア」
巨大なドーム型の天井から何十基もの強烈な水銀灯の光が降り注いでいた。
視界が白く飛ぶほどの圧倒的なその光量は、フロアの中央に敷かれた純白のマットを、逃げ場のない神聖な祭壇のように照らし出していた。
東京・有明アリーナ。
新体操の全国大会決勝戦の舞台。
ゆかりが汗とチョークの粉にまみれながら練習していた尾道の古びた市民体育館とは別世界だった。
すり鉢状に広がる巨大な観客席を埋め尽くす数万人の観衆。
彼らが発するざわめきは、一つの巨大な生き物の唸り声のように低い地鳴りとなって広大な空間の底を這い回り、張り詰めた空気をさらに重く息苦しいものにしている。
冷ややかな空調の風が吹き抜ける中、フロア特有の新しいワックスの匂いと、選手たちが発する極限の緊張感、そしてむせ返るような熱気が、巨大なすり鉢の中で渦巻いていた。
先ほどまでフロアで演技をしていた選手の点数が電光掲示板に表示された。
地響きのような歓声が沸き起こり、その直後にはまた、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの異様な静寂が訪れる。
一瞬のミスがすべての夢を粉々に砕く極限のプレッシャーが支配する空間だった。
アリーナの裏手、光の届かない薄暗い待機エリア。
ゆかりは、出番を待つ選手たちがひしめき合う通路の片隅で、パイプ椅子に深く腰掛け、静かに目を閉じていた。
周囲からは、ライバル選手たちが焦燥感に駆られてストレッチをする衣擦れの音や、コーチたちが早口で最終確認をする声、そして高級なヘアスプレーの匂いが漂ってくる。
ゆかりは純白のレオタードを着用していた。
胸元から背中にかけて、彼女の武器である「赤」を象徴する細いラインが、まるで脈打つ血潮のように美しく流れている。
「ゆかりさん。どうだ?」
堂島が革靴の静かな足音を立てて歩み寄ってきた。
彼はオーダーメイドの細身のスーツを完璧に着こなしていた。
東京の洗練された象徴であり、田舎娘だったゆかりをここまで引き上げてくれた恩人だ。
堂島の鋭い視線が、ゆかりの全身の筋肉の張り、わずかな指先の震え、そして呼吸の深さをくまなくチェックしている。
「完璧です。今までで一番身体が軽い」
ゆかりが静かに答えると、堂島はその瞳の奥にある異様なまでの凄みに気づき、満足そうに短く頷いた。
「いい表情だ。上京してきたばかりの頃の怯えた小鳥のような目じゃない。獲物を狙う鷹のような飢えと覚悟がある。絶対にやれる。フロアの魔物に呑み込まれるなよ」
「はい。」
堂島が離れた後、ゆかりは自分のスポーツバッグを引き寄せた。
極度の緊張で、指先が氷のように冷たくなっている。
胃の奥がぎゅっと締め付けられ、胸が激しく高鳴った。
震える手で、バッグのサイドポケットから小さなチューブを取り出した。
堂島から贈られた高級な香水ではない。
古びて少し凹み、印字も消えかかっている安価なハンドクリーム。
ほんの少しだけクリームを指先に絞り出し、両手でゆっくりと、体温で溶かすようにすり込んだ。
柑橘のような、少し不器用で懐かしい甘酸っぱい香り。
周囲の選手たちの人工的な化粧品の匂いにまじらず、その香りだけがゆかりの胸の奥までまっすぐ届いた。
氷のように冷え切っていた指先に、じんわりと温かい血が通っていくのを感じる。
雨の日の水道場、泥だらけの洋平の大きな手が自分の手に触れた時の、あの確かなぬくもりが蘇った。
ゆかりは、バッグの底に大切にしまってある使い古した練習用リボンに触れた。
昨日の夜、ホテルの部屋で自分で固く結んだ小さな結び目。
もうどうしようもないほど遠く離れてしまった。
彼の無骨な手を握ることはもう二度とないだろう。
それでも、この結び目が、洋平の不器用で優しすぎる魂をゆかりに強く結びつけてくれている。
怖いものなど何もない。
『次は、宮下ゆかり選手。出番です』
大会スタッフの事務的な声が、張りつめた待機エリアに響いた。
ゆかりは立ち上がり、大きく深呼吸をした。
右手には、本番用の真紅のリボン。
スティックを握る指先に、もう震えはなかった。
通路の暗がりを抜け、眩い光が溢れるアリーナへのゲートをくぐった。
視界が開けた瞬間、数万人のどよめきと拍手が一気に押し寄せ、息が詰まるほどの重みでのしかかってきた。
「・・!」
かつてのゆかりなら、圧倒的な都会のスケールと無数の視線の暴力に耐えきれず、足をすくませていただろう。
たった一人でこの広大な空間の真ん中に立たされる恐怖に、押しつぶされていたかもしれない。
けれど今の彼女の足取りは、驚くほど力強くしなやかだった。
裸足の裏には、純白のマットのひやりとした感触がじかに伝わってくる。
ゆかりは胸を張り、アリーナの中央へ向かってゆっくりと歩みを進めた。
スポットライトの光が、彼女の純白のレオタードと、手の中の真紅のリボンを鮮やかに照らし出した。
フロアの定位置についた瞬間、会場のざわめきが潮が引くように水を打って静まり返った。
数万人の観客の視線が、そして審査員たちの冷徹な眼差しが、ただ一人の少女の挙手一投足に釘付けになった。
静寂。
耳の奥で、自分の心臓の鼓動だけが、ドクン、ドクンと規則正しく鳴り響いている。
極限の集中力の中、ゆかりの視界から、周囲の観客の顔や広大なアリーナの風景がゆっくりと消え去っていった。
巨大なアリーナが、真っ白な真空の世界へと変わる。
私は、一人ぼっちじゃない。
ゆっくりと顔を上げ、眩しいスポットライトの向こう、アリーナの一番高いドームの天井のあたりを見つめた。
そこに、病室のベッドの上で生涯を終えた遥の無邪気な笑顔が見えた気がした。
『お姉ちゃんのリボンは、いつもキラキラしてて、かっこいいから』
『一番前の席で見たいな』
スケッチブックに、細く震えるペン先で残してくれたあの手紙。
遥、見てて。
お姉ちゃん、今、世界で一番高い場所で一番前の席を用意したよ。
目を閉じ、遠く西の空、潮の匂いがする尾道の暗い海へと意識を飛ばした。
泥水の中、ひび割れた手で重い鉄骨を担ぎ、自分の夢も青春も誇りもすべて捨ててでも私をこの光の当たる場所へ押し上げてくれた洋平。
『遥が見れないなら、俺が見る。お前が世界で一番綺麗なリボンを投げるのを、俺が一番前で、一生見ててやる』
雨の斎場で、彼が血を吐くように叫んだ愛の言葉。
私のために、あえて残酷な嘘をつき、自ら泥沼の底に沈むことを選んでくれたからこそ、私は今、この純白の空を自由に飛ぶことができる。
ここで私がプレッシャーに負け、萎縮し中途半端な演技で終わってしまったら?
命を燃やして私を応援してくれた遥の祈りは無駄になる。
自分の人生を犠牲にして私を手放してくれた洋平は、ただの「すべてを失った哀れな男」になってしまう。
そんなことは絶対に許されない。
絶対に、負けられない。
彼らのために、彼らの生きた証をこの世界に永遠に刻み込むために、この純白のフロアで誰よりも高く、美しく鮮やかに輝かなければならない。
ゆかりは、右手に握った真紅のリボンのスティックを、指先で静かに、折れそうなほど強く握りしめた。
柑橘系の香りが鼻腔をふわりと抜けた。
全身が熱くなる一方で頭の中は不思議なほど冷静だった。
その二つが、彼女の中で静かにひとつになっていった。
恐怖はない。
迷いもない。
自分を愛し、自分を手放してくれた者たちへの祈りにも似た決意だけだった。
フロアの中央で最初のポージングをとった。
純白のレオタード、床に長く描かれた真紅のリボンの鮮烈なコントラスト。
張り詰めた空気を切り開くように、二分半の戦いの始まりを告げる旋律が、巨大なアリーナに静かに響いた。
ゆかりの目が鋭く見開かれた。
張りつめた視線の先で、彼女は今、伝説の舞を始めようとしていた。




