第29話 「二分半の祈り」
数万人の観衆が息を呑む、巨大な有明アリーナ。
張り詰めた完全な静寂の中、フロアの中央で彫刻のように静止していた宮下ゆかりの耳に、ピアノの単音が一つ、冷たく澄んだ音色で響き渡った。
それを合図に、彼女の身体が、まるで魔法をかけられたようにしなやかに弾け飛んだ。
二分半の戦い。
ゆかりの魂をすべて燃やし尽くす、伝説の舞の幕開けだった。
ゆかりの右腕から放たれた真紅のリボンが、純白のマットの上に、鮮烈な赤い弧を描く。
アップテンポに切り替わったオーケストラの重厚な旋律に乗せて、ゆかりはフロアを縦横無尽に駆け抜けた。
つま先から指先、そして髪の毛一本に至るまで、すべての筋肉と神経が完璧な連動を見せ、重力という概念が存在しないかのように軽やかに宙を舞う。
グラン・ジュテ(大跳躍)。
力強く踏み切った足がフロアから離れた瞬間、アリーナを埋め尽くす観衆から、一斉に「あっ」という感嘆のどよめきが漏れた。
信じられないほど高く滞空時間の長い跳躍だった。
空中でピタリと静止したかのような完璧な180度以上の開脚。
その頂点で、手首をわずかに返すだけで、数メートルの真紅のリボンがゆかりの身体の周りに幾重にも重なる美しい螺旋を描き出した。
それは単なる採点競技の演技ではなかった。
彼女の動きには、喜びと悲しみ、そして途方もない覚悟が感じられた。
思わず息をのむような、神秘的な光景だった。
手具の操作はミリ単位の狂いもなかった。
手首から放たれるリボンは、まるで意思を持った生き物のようにゆかりの身体に寄り添い、時には鋭い刃のように空気を切り裂いていく。
ターンを連続で決めるたびに、ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げ、背骨がキシキシと軋む。
しかし、苦しくない。
痛くもない。
極度の疲労で息が苦しくなっても、ゆかりの顔には、不思議なほど美しい笑みが浮かんでいた。
私のリボンの先には、遥がいる。
私の足元には、洋平がいる。
彼らが流した血の涙と無残に砕け散った彼らの青春。
私を光の当たる場所へ押し上げるために犠牲にしてくれた彼らの人生のすべてが、今、私をこの純白の空のさらに高い場所へと押し上げてくれている。
ステップを踏むたびに、指先に塗り込んだ柑橘系のハンドクリームの香りがふわりと舞い上がり、焦りや恐怖の芽を優しく包み込んで消し去っていった。
リボンの端にある「解かない結び目」が空を切るたびに、洋平の泥まみれで温かい手が、自分の背中を強く押してくれているのを感じる。
『俺のために踊れ』
雨の斎場で、彼が血を吐くように叫んだその声が、オーケストラの音楽と重なり合ってゆかりの鼓膜を震わせた。
演技は終盤に入った。
曲調が最高潮のクレッシェンドへと向かう。
ゆかりはフロアの端から助走をつけ、渾身の力でリボンのスティックを空高く、アリーナの遥か高い天井に向かって放り投げた。
真紅の軌跡が、水銀灯の眩い光の中に吸い込まれるように高く高く上がっていく。
極限の集中力の中で、周囲の時間がスローモーションのようにゆっくりと流れていく。
連続のバック転(後方倒立回転)を決め、リボンの落下地点へと視線を向けた。
落ちてくる真紅のスティック。
床に背中を向けたまま、後ろ手でそれを完璧にキャッチした。
ピタリと、オーケストラの音楽が終わった。
片膝をつき、天に向かって真紅のリボンを力強く掲げる最後のポージングで静止した。
一秒、二秒。
数万人が息を止め、完全な静寂がアリーナに満ちた。
次の瞬間・・。
ワァァァァァァァァァッ!!
ドームの屋根を吹き飛ばすかのような大歓声と、嵐のような拍手が沸き起こった。
総立ちになった数万人の観衆が涙を流しながら彼女の名前を呼んでいた。
コートサイドで見守っていた堂島が両手で顔を覆って震えながら天を仰いでいた。
ゆかりは、激しく乱れる呼吸を整えながら、ゆっくりと立ち上がった。
汗に濡れた前髪の隙間から天井を見上げた。
水銀灯の光が、どこまでも優しく温かく見えた。
遥が、一番前の席で拍手をしてくれているのを感じた。
その頃。
東京の狂騒から何百キロも離れた、尾道の街。
海風が吹き抜ける国道沿いにある小さな大衆食堂。
油とタバコのヤニで黄ばんだ換気扇がガラガラと鈍い音を立てて回っている。
厨房からはラードを焦がす匂いと豚肉を炒める音が響いている。
昼休憩の作業着姿の男たちが無言でカツ丼やラーメンをかき込んでいる。
店内の隅の壁の上、古いブラウン管テレビが全国大会の生中継を映し出していた。
洋平は、泥とコンクリートの粉にまみれた作業着のままパイプ椅子の端に座っていた。
割り箸を持った手を止め、小さな画面を食い入るように見つめていた。
ハンマーを振り、指の皮が破れて血が滲んだ手。
分厚いマメとタコがこびりついたその手が、テーブルの上でかすかに震えている。
小さな画面越しでも、彼女の美しさは圧倒的だった。
純白のレオタードを着て、真っ赤なリボンを自在に操るその姿。
市民体育館の暗い隅っこで、リボンの結び目が解けずに泣きそうになっていた少女とはまるで別人だった。
テレビのスピーカーから実況アナウンサーの興奮した声が響いた。
『完璧です!宮下ゆかり、プレッシャーを跳ね除け、ノーミス、圧巻の演技!!』
画面の中で、ゆかりが最後に空高くリボンを投げ上げる。
洋平は息を止めた。
あの高く上がった真紅のリボンが、まるで自分たちを縛り付けていた過去のすべての苦しみや理不尽な運命を真っ二つに断ち切るかのように思えた。
ゆかりが後ろ手でスティックを見事にキャッチし、完璧なポーズで静止した瞬間。
食堂にいた作業員たちが、「おおっ!」「すげえな今の!」「こりゃ優勝だろ!」と口々に歓声を上げた。
彼らは、画面の中の美しい純白の妖精と、隣でカツ丼を食べている泥まみれの無口な青年との間にどんな過去があったかなど、知る由もなかった。
洋平は、気づかれないように深く長く息を吐き出した。
テーブルに置いた右手を、ゆっくりと握りしめた。
防波堤で「お前が重い」と残酷な嘘をついて突き放したあの日。
彼女は俺の足元で、絶望して泣き崩れていた。
俺は彼女の心を粉々に砕き、一生恨まれる覚悟で泥沼に沈んだ。
お前、本当にやったな・・。
俺のついた残酷な嘘も、泥水の中で生きていくという俺の決意も。
俺の失われた野球の夢すらも。
すべてを、お前は最高の形で意味のあるものにしてくれた。
高校時代にマウンドで浩一のサインに頷いた時と同じ笑みが浮かんだ。
目頭が熱くなった。
泥で汚れた頬を涙がぽろぽろと流れ落ちた。
画面の中で、ゆかりが大歓声の中で四方に向かって深々と一礼していた。
首元には、光る汗がダイヤモンドのように輝いていた。
東京の華やかな純白のフロアと、尾道の油臭い大衆食堂。
二人が生きる世界は、残酷なまでに完全に分断されていた。
彼らの人生の線が再び交差することは、おそらく二度とないだろう。
洋平は尾道の泥水の中でハンマーを振るいながら借金を返し、ゆかりは世界を舞台にさらなる光の高みへと登っていく。
それでも。
アリーナの中央で荒い息を吐くゆかりの右手と、食堂の片隅で静かに涙を流す洋平の右手は、目には見えない何かで固く結ばれていた。
たとえ、その手を離しても、その結び目だけはこれから先も決して消えることはない。
画面の中で、ゆかりが一瞬だけ、東の空ではなく、西の空・・尾道がある方向に向かって、ふっと柔らかく微笑んだ。
誰にも気づかれない、一人の青年へ向けた彼女なりの勝利の報告だった。
洋平は、食堂の麦茶の入ったプラスチックのコップを手に取ると、画面の彼女に向かって小さく掲げ、ゆっくりと飲み干した。
あの坂道で重ねた不器用な掌の記憶は二人の胸の中で永遠の星となった。
その光は、交わらない平行線を歩む彼らの未来を静かに照らし続けていた。




