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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第5章 最終章 純白の空と泥の海

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第30話 「エピローグ〜交わらない平行線の先にあるもの〜」

 有明アリーナでの伝説的な二分半の演技。

 それから、五年という歳月が流れた。

 季節は巡り、まわりの人も景色も移り変わっていった。


 フランス・パリ。

 世界選手権の舞台となった巨大なアリーナの控室で、ゆかりは鏡の前に座っている。

 二十二歳になっていた。

 いまや日本新体操界の絶対的なエースとして、メディアから注目を浴びる存在になっていた。

 あどけなかった少女の面影は消えていた。

 その横顔には、数々の修羅場をくぐり抜けてきたトップアスリート特有の、研ぎ澄まされた刃のような美しさと凄みが宿っている。

 先ほど行われた決勝戦で、ゆかりは表彰台の頂点に立ち、その首に金色のメダルをかけていた。


 無数のフラッシュを浴び、各国の記者から浴びせられたインタビューの中で、ある海外の記者が彼女にこう尋ねた。

『ミヤシタ。あなたのその信じられないほどの精神力と、演技から伝わってくる強烈な哀愁は、一体どこから来ているのですか?』

 その質問に対し、ゆかりは通訳を介さず、静かに微笑んでこう答えた。

『私の心の中には、絶対に解かないと誓った小さな結び目があるんです。そして、私に空を飛ぶための翼を譲って、自分は暗い泥水の中に残ることを選んでくれた、世界で一番不器用な人がいる。・・私の強さは、すべて彼からもらったものです』

 記者はその回答の意味を測りかね首を傾げたが、ゆかりはそれ以上語らなかった。


 控室に戻ったゆかりは、スポーツバッグを開け、小さなジュエリーボックスを取り出した。

 中に入っているのは、高価な宝石などではない。

 高校時代に使っていた、端が擦り切れ色褪せた赤い練習用リボン。

 ゆかりは、その赤いリボンの端にある「結び目」にそっと触れた。

 五年前、東京の高層ホテルできつく締めた結び目は今もここにある。

 ゆかりは目を閉じた。

 そして、中身が空っぽになり、乾燥してひび割れたハンドクリームのチューブ。

 このチューブの匂いを嗅ぐと、あの雨の日の水道場で自分の手を包み込んでくれた、泥だらけの温かい掌の感触が昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。


 あれから五年間、二人は一度も連絡を取っていない。

 電話の声も聞いていない。

 手紙のやり取りもない。

 お互いが今、どこで誰と笑いどんな景色を見ているのか全く知らない。

 世間一般からすれば、それは完全に終わった関係であり「他人」の関係なのかもしれない。

 けれど、ゆかりにとって、洋平は今でも世界で一番近い場所にいる。

 新しい技の練習で骨が軋むほどの痛みに耐えている時も。

 プレッシャーに押しつぶされそうになってホテルのベッドで震えている時も。

 彼が、あの結び目を通して「俺が見てるぞ、前だけを見ろ」と励ましてくれる。

 物理的な距離は関係なかった。

 この結び目がある限り、二人の魂は永遠に繋がっている。

 空っぽのチューブにそっと唇を押し当て、静かに目を開けた。

 私が飛び続ける限り、彼の生きる意味もまた輝き続けるのだから。


 一方、日本。

 瀬戸内海の穏やかな波が光を反射する、海と坂の町、尾道。

 海沿いにある大規模な解体現場。

 真夏の焼け付くような太陽の下で、洋平はヘルメットを被り泥と汗にまみれながら重機を誘導していた。

 二十三歳になった身体は過酷な肉体労働によって一回りも二回りも大きくなり、鋼のように分厚い筋肉に覆われている。

 手のひらのマメは岩のように硬くひび割れ、指先には無数の小さな傷跡が刻み込まれていた。


 父親が残した莫大な借金は、五年間にわたって死に物狂いで働き続けた結果、ようやく終わりが見えるところまで減っていた。

 今では現場監督を任されるようになった。

 荒くれ者の年上の職人たちからも「高宮の若頭」と呼ばれ深く信頼されている。


 昼休憩を告げるサイレンが鳴った。

 洋平はヘルメットを脱いでタオルで顔の汗を乱暴に拭った。

 冷たいスポーツドリンクを喉に流し込んでいると、現場のフェンスの向こう側から、スーツ姿の男が手を振ってきた。

 地元の信用金庫に就職した、浩一だった。


「よお、洋平。相変わらず真っ黒に日焼けしてんな」

「浩一か。お前こそ、クーラーの効いた部屋でぬくぬくしやがって、腹が出てきたんじゃないか?」

 洋平が笑いながらフェンス越しに歩み寄ると、浩一は苦笑いしながら缶コーヒーを差し出した。

「やかましいわ。なあ、見たか? 昨日の夜のニュース」

「ああ」

 洋平は缶コーヒーを受け取り、プルタブを開けずに遠くの海を見つめた。

「金メダルだぞ。パリの世界選手権で」

「そうか」


 洋平の反応は、驚くほど淡白だった。

 浩一は、そんな親友の横顔を少しだけ複雑な表情で見つめた。

「お前、本当にも連絡してねえのか? あいつが世界一になったんだぞ。借金だってあと少しで終わるんだろ。もう、会いに行ってもいいんじゃないか?」

 浩一の言葉に、洋平は静かに首を振った。

「会わねえよ。一生な」

「なんでだよ。お前ら、あんなにお互いのこと・・」

「だからだよ、浩一」

 洋平は、岩のように硬くなった自分の右手を太陽の光にかざした。

「俺があいつに会って、言葉を交わして、この手であいつに触れちまったら・・俺たちの間にある『結び目』が解けちまうんだ」

「結び目?」

「ああ。俺は泥水の中で、あいつは純白の空で、絶対に交わらない平行線を生きていく。そうやって、お互いが別の道を歩くことでしか証明できないもんがあるんだよ」


 洋平は、あの日、防波堤で泣き崩れるゆかりを突き放した時のことを思い出した。

「お前が重いんだよ」

 あれは、人生でいちばん残酷な嘘だった。

 あの嘘を嘘のまま終わらせないためには、もう二度とあいつの純白の世界に踏み込んじゃいけない。

 俺があいつを手放したからこそあいつは世界一になれた。

 もし再会してしまったら、あいつが抱えてきた悲しみも、俺が捨てた夢も、全部メロドラマのハッピーエンドになってしまう気がした。

 愛しているからこそ、もう触れない。

 そう思い込むことでしか洋平は自分を支えられなかった。


「お前には、一生わかんねえだろうな」

 洋平が笑って言うと、浩一は呆れたように大きなため息をついた。

「ああ、わかんねえよ。お前らはどっちもイカれてるよ。本当に・・世界一、不器用でイカれたバカ野郎だ」

 浩一の目には、微かに涙が滲んでいた。

 彼は親友の背中を力強く叩き、背を向けて歩き出した。


 夕暮れ。

 過酷な仕事を終えた洋平は、あの長い坂道を歩いて登っていた。

 空は燃えるような茜色に染まり、瀬戸内海の波がキラキラと黄金色に輝いている。

 坂の途中の、小さな交差点。

 高校時代、汗とチョークの粉の匂いを漂わせながらゆかりとすれ違った場所。

 洋平はそこで足を止め、ゆっくりと空を見上げた。

 東の空に、一番星が静かに瞬き始めている。

 パリにいるゆかりも今、同じ空の下、あの赤いリボンを振っているだろうか。


 彼女のリボンが描く真紅の軌跡と、俺が振り下ろすハンマーの軌跡は、決して交わることはない。

 俺たちはこれからも、遠く離れた別々の世界で、孤独に戦い続けるだろう。

 けれど、洋平の心の中には、確かな温もりがあった。

 彼女が世界で輝くたびに、俺の心の中にある「結び目」が強く締まるのを感じる。

 俺の流した汗が彼女の純白の翼の一部になっているという誇り。

 誰も知らなくていい。

 誰にも理解されなくていい。

 俺とあいつの魂だけが、お互いの存在を世界の誰よりも深く感じ合っている。

 それだけで、俺の人生はこれ以上ないほど幸せだ。


 洋平は、茜色の空に向かって、自分の右手をゆっくりと重ね合わせるように伸ばした。

 パリの空の下、ゆかりが赤いリボンの結び目をそっと握りしめ同じ瞬間に。

 遠く離れた二人の気持ちは、あの雨の日の水道場と同じように、静かに、でもたしかに重なっていた。

 尾道の坂道を吹き抜ける海風が、柑橘系の香りを微かに運んだような気がした。


 洋平は、ゆっくりと歩き出した。

 交わらない平行線の先にある、それぞれが選んだ道に向かって。

 あの坂道で重ねた不器用な掌の記憶は、永遠に解けない結び目となって二人の胸の中でいつまでも静かに輝き続けている。


(完)

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