第7話 「鉄工所の火花と志穂の視線」
瀬戸内海から吹く初夏の風は、坂口鉄工所の分厚いトタン屋根の下までは届かなかった。
薄暗い工場の中には、外とは違う空気がこもっていた。
むせ返るような熱気と、鉄が焦げる匂い。
長年染みついた機械油の匂いも鼻につく。
壁の換気扇が大きな音を立てて回っているが、工場の空気を入れ替えるには足りなかった。
「洋平! そっちのH鋼、もう十ミリ送れ! 行き過ぎるなよ!」
「おうっ! わかった!」
旋盤の音と、ハンマーで金属を叩く甲高い音の中を、父・健一の太い声が飛んだ。
洋平は額に浮かんだ汗を拭う暇もなく大声で応えた。
ガシャン、と大きな金属音が響いた。
天井近くを走る黄色いクレーンが唸り、数トンもある鉄骨がゆっくりと動いていく。
洋平は分厚い革手袋越しに伝わってくる尋常ではない鉄の重さと、削り出されたばかりの熱に耐えながら慎重にミリ単位で位置を調整した。
高校を卒業し、この鉄工所に就職して数ヶ月。
マウンドでボールの縫い目を感じ取っていた洋平の両手は、今ではまったく違う感覚を覚え込んでいた。
足の裏から内臓まで揺さぶるような旋盤の振動、グラインダーが削り出す数千度の火花の温度、アーク溶接機が放つ、直視すれば目を焼かれる青白い閃光。
バチバチという激しい音とともに火花が散るたび、プラスチックの保護メガネの下で、洋平の目は少しずつ、職人のそれへと変わりつつあった。
同級生たちは、真新しいスーツを着て冷暖房の効いたオフィスで働いたり、大学で学生生活を送っている。
洋平の毎日は、汗と泥と油にまみれていた。
朝から晩まで鉄粉を吸い込み、家に帰る頃には作業着は真っ黒に汚れ、身体の節々が悲鳴を上げる。
それでも、洋平に卑屈さや後悔はなかった。
少し痩せ、病気がちになった父を支え、この工場を守る。
その覚悟が、まだ十代の洋平を実際の年齢より大人びて見せていた。
正午。
昼休憩を知らせるサイレンが鳴った。
工場内の機械の電源が次々と落とされた。
さっきまでの轟音が嘘のように耳鳴りがするほどの不自然な静寂が、埃っぽい工場にゆっくりと降りてくる。
「ふぅ・・」
洋平は安全靴のつま先で床をコンコンと叩き、蒸れたヘルメットを脱いだ。
作業着の袖で顔の汗を乱暴に拭う。
首に巻いたタオルは、汗と鉄粉、真っ黒な機械油をたっぷりと吸い込み、ゴワゴワになっている。
革手袋を外すと、そこには、かつてピッチャーの勲章だったマメとは違う、硬くなった掌があった。
指の関節には、鉄の切り粉でできた細かな傷がいくつもある。
短い爪の奥まで、真っ黒な機械油が入り込んでいる。
仕事終わり、業務用の粉石鹸と硬いナイロンブラシで強くこすっても指紋の深いシワの奥に入り込んだ汚れは落ちることはなかった。
洋平は、自分の両手をじっと見つめた。
あの雨上がりの水道場で、ゆかりが優しくハンドクリームを塗ってくれた。
あの頃の繊細な手は、もうどこにもなかった。
指は太く硬くなっていた。ボールとは違う鉄の冷たさと重さを、洋平は毎日の仕事で知った。
広島の短大へスポーツ推薦で進学したゆかりの顔が浮かんだ。
白く細い、手入れの行き届いた彼女の指先と、自分の黒ずんだ傷だらけの掌。
秋の深まる海辺のフェリー乗り場で交わした「ずっと離さない」という約束は、今も洋平の心の支えとなっている。
それでも、毎日仕事に追われ、自分がどんどんこの世界に染まっていくことに、寂しさと不安を感じていた。
こんな汚れた手で、いつかまた彼女の手に触れてもいいのだろうか。
そんな洋平の姿を、事務所のすりガラス越しにじっと見つめている視線があった。
早坂志穂。
彼女は、高校卒業後からこの鉄工所で事務と経理を担当していた。
春先から、洋平の働きぶりを誰より近くで見ていた。
志穂は控えめで、自分から前に出るより、裏方で支えるほうが向いていた。
地味でコツコツと数字と向き合う経理の仕事は彼女の性に合っているし、何より、無骨だが温かみのあるこの鉄工所の雰囲気が好きだった。
いつの頃からか、志穂は書類から顔を上げると、窓の外に洋平の姿を探すようになっていた。
入社前、志穂は洋平が甲子園を目指す有望な選手だと聞いていた。
正直なところ、志穂は洋平にどこか「社長の息子」という甘えがあるのではないかと思っていた。
どうせすぐに音を上げて辞めるか、ふてくされて仕事を投げ出すのではないかと。
だが、その予想はすぐに外れた。
洋平は毎朝、誰よりも早く出社して工場の床を掃き、誰より先に泥まみれになって働いた。
口数は少ない。
それでも、重い資材の運搬から、誰もが嫌がる機械の油落とし、トイレ掃除まで、文句ひとつ言わずにこなした。
失敗しても言い訳せずに頭を下げ、職人たちに厳しく叱られても黙って耐えた。
少しでも早く仕事を覚えようと、必死についていった。
そんな洋平を見ているうちに、志穂の中には、同僚や社長の息子というだけではない、特別な気持ちが芽生え始めていた。
「休憩、入りました?」
事務所の重い鉄のドアが開き、志穂の澄んだ声が、静まり返った工場に響いた。
洋平が振り返ると、薄青い事務服を着た志穂が小さなお盆を持って立っていた。
お盆には、冷蔵庫から出したばかりの、水滴がびっしりとついた麦茶のグラスと、真っ白でふかふかのおしぼりが乗せられている。
「あ、早坂さん。いつもありがとう、いただきます」
洋平は麦茶のグラスに手を伸ばそうとし、自分の真っ黒な手に気づき動きを止めた。
「いや、先に手ぇ洗ってくるわ。この手で触ったら、グラスまで真っ黒になっちまう」
洋平は照れ隠しのように頭を掻き、苦笑いした。
「いいですよ。あとで私が洗いますから。ほら、氷が溶けないうちにどうぞ」
志穂は微笑みながら、作業台の空いているスペースにグラスを置いた。
そして、お盆に乗せていた白いおしぼりを、そっと差し出した。
「ほら、まずは汗拭いてください」
「えっ、でも・・こんなきれいなタオル、一発で真っ黒になっちまうよ。もったいないから、俺のタオルでいいって」
洋平は、首に巻いていた、灰色に変色し油の染みが取れなくなったタオルを抜いた。
「だめです。そんな油や鉄粉のついたタオルで顔を拭いたら、肌を傷めますよ。汚れたって洗えばいいんですから。遠慮しないで、これ使ってください」
志穂の目は真っ直ぐだった。
少しだけ強引でもあった。
「そうか・・ありがとう、早坂さん」
洋平はためらいがちに、黒く汚れた手で純白のタオルを受け取った。
そのとき、二人の指先がほんの少し触れた。
志穂は胸がどきりとして、頬が熱くなるのを感じた。
洋平は冷たいおしぼりで顔と首筋の汗を拭った。
白いおしぼりに、機械油と鉄粉の黒い汚れが広がった。
その黒い汚れが、志穂には不潔なものには見えなかった。
それは、洋平の誠実さと汗水流して働くひたむきさの証のように見えた。
指先にこびりついた、落ちない油汚れ。
あちこちに絆創膏が貼られた、ごつごつした指。
それは、彼がこの鉄工所のために、そして家族のために必死に戦っている証拠だ。
志穂は、冷たい麦茶を飲む洋平の横顔を見つめながら、自分の中に芽生えた気持ちを確かめていた。
「ぷはっ! 早坂さんの麦茶、いつもキンキンに冷えてて最高だ。生き返った。午後も頑張れそうだ」
「ふふ。冷蔵庫の奥、一番冷えるところに入れてるんです。午後も、怪我しないように気をつけてくださいね」
「おうっ! まかせて!」
洋平は白い歯を見せて笑った。
その笑顔には、高校球児だった頃の面影が残っていた。
洋平は空になったグラスをお盆に返し、改めて自分の汚れた手を見つめ直した。
ふと、ゆかりの細い指先を思い出した。
こんな油まみれの手で、彼女の手に触れていいのだろうか。
海辺で誓い合ったあの日から、二人の暮らしは少しずつ違う方向へ進み始めていた。
洋平は不安を振り払うように、両手で頬をパンと叩いた。
「よし、午後も気合い入れてやるか!」
洋平は黄色いヘルメットを被り、巨大な機械が並ぶ工場の奥へと歩き出した。
ガアァァァン、という地響きのような轟音とともに、工場が再び動き出した。
グラインダーが激しい音を立てて鉄を削り、無数のオレンジ色の火花が薄暗い空間に飛び散った。
志穂は事務所に戻り、洋平の指の跡が残る汚れたグラスと、黒く染まったタオルを給湯室のシンクに置いた。
蛇口をひねり、冷たい水でおしぼりを丁寧にもみ洗いする。
ふと、先ほど指先が触れ合った瞬間に感じた、タコだらけのザラザラとした皮膚の感触を思い出した。
粉石鹸を泡立て、黒い油汚れをごしごしと洗い落とす。
この汚れは、彼が毎日頑張っている証だ。
この汚れをきれいに洗い流して、明日また白くて冷たいおしぼりを彼に渡す。
それが、今の自分にできる一番の応援だった。
冷たい水とは反対に、志穂の胸の中では、誰にも気づかれない気持ちが静かに大きくなっていた。




