第6話 「海辺の夕暮れと約束」
尾道水道を吹き抜ける風が、かすかな潮の匂いとともに冷たい秋の空気を運んできた。
夏の間、グラウンドを支配していた息苦しいほどの熱気はすっかり消え、空は淡い水色に澄み渡っている。
浮かぶ雲の輪郭ははっきりと高く、季節が確かな歩みを進めていることを告げていた。
海沿いの道からは観光客の姿もまばらになり、穏やかで静かな日常がこの港町に戻ってきている。
高校の制服は半袖のシャツから冬服へと変わった。
放課後のチャイムが鳴る頃には、夕陽は急ぎ足で向島の山の向こうへと隠れていく。
三年生にとって、この秋の深まりは、学生生活の終わりの足音そのものだった。
洋平は、すでに野球部を引退していた。
マウンドで流した血と泥は洗い流され、ボールとの摩擦でできた右手のタコは少しずつ柔らかくなり、元の皮膚の感触を取り戻しつつある。
だが、完全に元の綺麗な手に戻ったわけではない。
放課後、病気がちになった父の鉄工所を手伝うようになった洋平の手には、今度はロジンの粉の代わりに、鋭利な鉄の切り粉と重い機械油の匂いが染み付いていた。
旋盤の冷たいハンドルを一日中回し、グラインダーを握りしめる。
爪の奥や皮膚のシワの間に入り込んだ真っ黒な油汚れは、仕事終わりにブラシでいくら強く擦っても、決して落ちることはない。
ボールにスピンをかける繊細な感覚だった手から、無骨に鉄を削り、油にまみれる労働者の手へ。
その変化を受け入れることは簡単ではなかったが、それが彼に用意された現実だった。
一方のゆかりは、秋の国体を最後に新体操部を退き、広島市内にある短期大学への進学を決めていた。
推薦入学が決まり、今は残された高校生活を静かに送っている。
尾道から広島までは、電車で一時間半。
二度と会えない距離ではない。
週末になれば帰ってくることもできる。
だが、これまでのように、急な雨に降られて水道場で雨宿りをしたり、誰もいない放課後の音楽室でふいに顔を合わせたりするような偶然は、もう起こらなくなる。
生活の拠点が変わり、毎朝見える景色が変わる。
その事実が、二人の間に微かな距離を作り出そうとしていた。
放課後の海岸通りを、二人は並んで歩いていた。
向島へ渡るフェリー乗り場までの、十数分の道のり。
夏の夜、千光寺の展望台であんなに近い距離で涙を流し、手を取り合ったというのに、今の二人の間には不自然なほどの隙間が空いている。
歩調を合わせてゆっくりと歩いているのに、お互いの肩や鞄が触れ合うことは一度もない。
並んで歩く二人の間には、見えない壁があるようだった。
何を話せばいいのか、お互いに分からなかった。
卒業後の進路が決まり、全く違う世界へ足を踏み入れるという現実が、他愛のない会話をどこか白々しく感じさせてしまう。
昨日見たテレビ番組の話も、学校の先生の愚痴も、今の二人には少し遠いものに思えた。
「・・風、急に冷たくなったな」
耐えきれないほどの沈黙を破るように、洋平が海を見つめたままぽつりと口にした。 「うん。もうすぐ、本格的な冬だね」
ゆかりが、カーディガンの襟元を少し引き上げながら短く答える。
会話はそこで途切れてしまう。
海岸沿いの石畳に長く伸びた二つの影は、決して交わることなく距離を保ったまま揺れていた。
時折、すれ違う自転車を避けるためにゆかりが洋平の方へ寄り、スクールバッグが微かに触れ合ってカサッと音を立てるたびに、洋平の心臓は不自然なリズムを刻んだ。
フェリー乗り場には、帰宅を急ぐ高校生や、自転車に乗った地元の人々が待っていた。
料金箱に小銭を落とし、浮き桟橋を渡って船に乗り込む。
客室の暖かいベンチには座らず、二人はいつも通り、風の吹き抜ける甲板の手すりに並んだ。
古いエンジンの低い振動が、鉄の床を伝って足の裏から響いてくる。
ブォォン、という低い音とともに、フェリーがゆっくりと岸壁を離れ始めた。
スクリューが海水を掻き回し、白い泡を立てる。
黒く波打つ海面が、沈みかけた夕陽を反射して黄金色に光っている。
冷たい潮風が、ゆかりの黒い髪を大きく揺らした。
「・・広島に行ったら、寮に入るんだろ?」
洋平が、対岸の造船所のクレーンを見つめたまま聞いた。
「うん。スポーツ推薦の人は寮生活だから。最初は四人部屋なんだって。ちょっと緊張するな」
「そっか。大変だな、いきなり親元離れて。ホームシックとかにならないか?」
「大丈夫。厳しい環境になるのは分かってたし、新体操続けるって決めたのは私だから。・・洋平くんこそ、もう工場手伝ってるんでしょう? 朝、すごく早いんじゃない?」
「親父は六時半には機械回してるからな。俺もそれに合わせてる。ただ、油の匂いがどうしても落ちなくて参ってるよ。何回洗っても、指のシワの中に残ってるみたいでさ」
お互い、少し背伸びをして大人びた会話をしようとしていた。
未来の話。
やがて交わることのなくなる、別々の日常の話。
「俺は平気だ」
「私も大丈夫だよ」
そうやって強がって言葉を交わせば交わすほど、胸の奥がチクチクと痛んだ。
同じ空の下で、同じ雨の冷たさを感じた日々は、もう戻ってこない。
洋平は、冷たい鉄の手すりに置かれた自分の右手を見た。
ピッチャーの潰れたマメが治りかけ、その代わりに小さな切り傷と、黒い油の染みが無数にこびりついた、労働者の手。
そのすぐ横に、ゆかりの小さな両手が置かれている。
彼女の手も、毎日の激しい練習から解放され、以前よりも少しだけ白く滑らかになっているように見えた。
それでも、関節にはまだ硬いタコが残り、彼女がこれまでに流してきた汗と涙を静かに物語っている。
あの雨の夕立の水道場で、躊躇いなくクリームを塗ってくれた手。
展望台の暗闇の中で、絶望する自分を包み込むように握りしめてくれた手。
もう一度、あの温もりに触れたい。
洋平の頭の中で、そんな感情が渦巻いていた。
手を伸ばせば、わずか数センチだ。
だが、その数センチが途方もなく遠く感じられた。
もし今、自分のこの油まみれの黒い手で彼女の白い手に触れてしまえば、卒業という現実が二人の間に作り出そうとしている薄い膜を、乱暴に破ってしまう気がしたから。
触れたら、戸惑われるかもしれない。
哀れみだと思われるかもしれない。
その恐怖が、洋平の指先を固く縛り付けていた。
フェリーが尾道水道の中間地点を過ぎた。
向島の造船所の巨大なクレーン群が、オレンジ色の夕陽を背にして、黒く大きなシルエットとなって迫ってくる。
あと一分で、船は対岸に着いてしまう。
そうすれば、ゆかりは駐輪場の自転車置き場へ向かい、洋平は一人で家へと続く急な坂道を上る。
今日の二人の時間はそこで終わる。
そんなもどかしい日々を積み重ねるうちに、いつか彼女は遠い広島へと旅立ってしまうのだ。
エンジンの振動が、接岸に向けて少しだけ大きくなった。
海面を渡る冷たい風が、ゆかりの髪を激しく揺らし、あの雨の日に水道場で嗅いだ柑橘系の香りを運んできた。
その瞬間、洋平の中で何かが音を立てて弾けた。
理屈ではない。
グラウンドで、キャッチャーミットに向かって無我夢中でボールを投げ込んだ時と同じ、頭で考えるよりも身体が先に動く反射的な動き。
洋平は、手すりの上のゆかりの右手に、自分の右手を無言で重ねた。
「・・」
ゆかりの肩が、小さく跳ねた。
驚いたように、洋平の横顔を見上げる気配がする。
洋平は彼女の顔を見ることができず、茜色に染まる海を見たまま、奥歯を強く噛み締めていた。
ゆかりの手は、秋の冷たい潮風に吹かれて芯まで冷え切っていた。
洋平の分厚く温かい手のひらが、その冷たさをすっぽりと覆い隠す。
微かな機械油の匂いと、爽やかな柑橘系の香り。
傷だらけの無骨な手のひらと、しなやかで小さな指先。
ほんの数秒間、ゆかりの手はピクリとも動かなかった。
洋平の胸の奥で、心臓が痛いほどの音を立てている。
ダメだったか。
嫌がられたのか。
油で汚れた手が不快だったのか。
そう思って、絶望とともに手を引こうとした時だった。
手すりの上のゆかりの手が、くるりと表裏を返した。
そして、冷え切ったゆかりの滑らかな指先が、洋平の無骨な指の間へと、ゆっくりと、ためらうことなく滑り込んできた。
洋平は息を呑んだ。
ゆかりは何も言わず、洋平の指の間に自分の指を深く、根元まで絡ませ、ぎゅっと強い力で握りしめた。
慰めでも同情でもない。
お互いを必要としているという、確かな繋がりの証明だった。
展望台の夜よりも、ずっと強く、ダイレクトにお互いの体温が伝わってくる。
血が巡り、冷え切っていたゆかりの指先が、洋平の熱を吸い取ってどんどん熱を帯びていくのがわかった。
洋平も、無言のままその小さな手を力強く握り返した。
「・・広島に行っても」
洋平の声は、海風にかき消されそうなほど震えていた。
「離れても。俺、この手はずっと離さないから」
気の利いた言葉ではなかった。
不器用で、マウンドで決して嘘がつけなかった手と同じ、飾り気のない、むき出しの言葉だった。
ゆかりは、固く繋いだ手を見つめたまま、小さく何度も頷いた。
「・・うん」
ゆかりの声は微かに震え、鼻声になっていた。
「私も・・絶対に離さない。離れたくない」
繋いだ手から伝わってくる強烈な熱が、秋の冷たい海風を完全に忘れさせてくれた。
フェリーが重い音を立てて、向島の岸壁にドン、と接岸する。
係員のホイッスルが鳴り、降りる準備をする人々の慌ただしい足音が聞こえ始めた。
だが二人は、その手を解こうとはしなかった。
深く絡め合った指先だけが、この不確かな未来へと向かう海の上で、唯一の確かな錨のようだった。
夕陽は完全に山の向こうへと沈み、海は深い群青色へと染まり、街にはオレンジ色の街灯がポツポツと灯り始めている。
高校生活という季節が完全に終わりを告げ、大人という新しい季節へと足を踏み入れた瞬間だった。
絡め合った手のひらの間の熱だけが、これから訪れる冷たく厳しい現実から二人を守る、絶対の約束のようだった。




