第5話 「夏の予選、マウンドの孤独」
太陽が、県営球場の真上にあった。
気温は三十五度を優に超えている。
風一つないすり鉢状の球場内は、まるで巨大なオーブンの中のように熱気がこもっていた。
グラウンドの黒土からは陽炎が立ち上り、外野フェンスに並んだ企業の看板が歪んで見える。
夏の県大会、準決勝。
ブラスバンドが奏でる重低音、メガホンを叩き合わせる一定のリズム.
観客席から押し寄せる大歓声。
それらの音が塊となって、スタジアム全体を包み込んでいる。
しかし、マウンドの中心に立つ洋平には不思議なほど静かな場所だった。
大歓声も、どこか遠くの世界の出来事のようにしか聞こえない。
マウンドという小さな円の中で、ピッチャーはいつも一人だ。
たった一人ですべてを背負わなければならない。
その圧倒的な孤独が、周囲の音を遠ざけていた。
八回裏、相手チームの攻撃だった。
ツーアウト、ランナー二、三塁。
一打出れば逆転を許す絶体絶命のピンチだった。
洋平はふうっと長く息を吐いた。
顔の汗を泥だらけになったユニフォームの袖で乱暴に拭った。
全身から止めどなく汗が噴き出し、スパイクは鉛のように重い。
疲労はとっくに限界を超えていた。
投げるたびに、右肩から背中にかけて鈍い痛みが走る。
だが、今の洋平にとって最大の問題はそこではなかった。
洋平は右手の指先を、グラブの中でそっと開いた。
人差し指と中指の腹。
潰れては固まっていた分厚いタコが、前のイニングで完全に裂けていた。
むき出しになった赤い肉に、ロジンバッグの粉とマウンドの黒土が混ざり合い指先を汚している。
ボールの縫い目に指をかけるだけで指先に鋭い痛みが走る。
キャッチャーの浩一がタイムをかけてマウンドに駆け寄ってきた。
マスクをずらして洋平の手を覗き込んだ。
「・・おい、血が出てるぞ。もう限界だろ」
浩一の声は、歓声にかき消されそうなくらい低く震えていた。
「平気だ。まだ投げられる」
洋平は表情を変えず、血のついた指先をズボンに強く擦り付け、ロジンバッグを何度も叩いた。
真っ白な粉が舞い上がり、血の赤を覆い隠す。
「バカ言え。そんな指じゃ、スピンがかからない。さっきから球が浮いてる。ストレートがシュート回転して、ど真ん中に入ってきてるぞ」
「交代はしない」
洋平は浩一の真っ直ぐな目を見た。
「俺がマウンドを降りる時は、夏が終わる時だ。親父にも、お前らにも、甲子園に連れて行くって約束したんだ。・・最後まで投げさせてくれ」
浩一は、数秒間洋平の目を見つめ、小さく息を吐いて深く頷いた。
「・・わかった。全部低めに集めろ。ワンバウンドしても、どれだけ荒れても、俺が絶対止める。だから、思い切り腕を振れ」
浩一はマスクを被り直し、キャッチャーボックスへと戻っていった。
バックネット裏のスタンド。
焼け焦げるような太陽の下で、ゆかりは両手を固く握りしめていた。
水筒を膝に置いたまま一口も飲んでいない。
握りしめた両手の関節は血の気を失って真っ白になっていた。
綺麗に切りそろえられた爪が手のひらに深く食い込んでいた。
洋平の投球フォームが、イニングを追うごとに少しずつ崩れてきているのが分かった。
腕を振り下ろす瞬間、ほんの一瞬だけ顔が歪む。
あの雨の水道場で、ハンドクリームを塗った大きくてゴツゴツとした手。
新体操のリボンを解いてくれた、無骨だけれど優しい指先。
その手が今、どれほどの痛みに耐えてボールを握っているのか。
直接見えなくても、ゆかりには痛いほどに分かった。
「頑張って・・」
ゆかりは小さな声で呟き、祈るようにマウンド上の背中を見つめた。
バッターボックスには相手チームの四番打者が立っていた。
前の打席で、洋平のストレートをフェンス際まで運ばれていた。
小手先の変化球や、コースをごまかすようなピッチングは通用しない。
サインは、インコース高めのストレート。
一番危険で一番勇気のいる球。
浩一は、ミットを打者の胸元の厳しいコースに構えた。
洋平は深く息を吸い込み、ロジンで白く染まったボールを強く握り直した。
縫い目に人差し指と中指をかけた。
激痛が走った。
痛みをねじ伏せ、プレートを踏んで、左足を上げる。
体をひねりながら、体重を前方へと移動する。
指先の感覚がすべてだ。
少しでも迷いがあったり痛みをかばったりすれば、ボールの回転が鈍り、絶好の餌食になる。
迷いはない。
ただ、肉体の限界がそこにあった。
右腕をしならせ、指先の皮が裂けるのを覚悟で最後の力をすべて振り絞り、ボールに強烈なスピンをかけた。
指先からボールが離れる瞬間、血と汗が飛沫を上げた。
ボールは、浩一の構えたインコース高めへと向かった。
完璧な軌道だった。
振り遅れたと思った。
だが、指先の裂けた皮の分、ほんのわずかだけ引っ掛かる力が弱かった。
ボールがわずかに回転を失い、甘いコースへと滑るように落ちた。
カキィィンッ・・。
金属バットがボールを真芯で捉え、鋭い音が球場に響き渡った。
洋平は打球の行方を追わなかった。
マウンドから一歩も動けず空を見上げた。
青空に高く上がった打球は美しい放物線を描きながら、レフトスタンドの芝生席へと吸い込まれていった。
逆転のスリーランホームラン。
相手チームのスタンドが歓喜に包まれた。
ブラスバンドが勝利の曲を高らかに奏で始めた。
浩一がマスクを外し、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。
彼の顔は、信じられないものを見たかのように呆然としている。
終わった。
小学校からずっと続けてきた、青春のすべてを懸けた野球が終わりを告げた。
試合終了の整列。
泥だらけのユニフォームで並んだ洋平の横顔には涙はなかった。
すべてを出し尽くし、燃え尽きたような深い虚無感だけが漂っていた。
サイレンの音が遠く聞こえた。
スタンドで見ていたゆかりの目から、涙がぽろぽろとこぼれた。
我がことのように打ちのめされ、両手で顔を覆って泣き崩れた。
その日の夜。
昼間の熱狂が嘘のように、尾道の街は静まり返っていた。
千光寺公園の展望台。
昼間は観光客で賑わうこの場所も、夜になれば人影はまばらになり、静けさが支配する。
眼下には、尾道水道の黒く沈んだ水面が横たわり、対岸の造船所の巨大なクレーンが、オレンジ色のライトに無機質に照らされていた。
洋平は、展望台の隅にあるベンチに一人で座っていた。
Tシャツを着ているが、シャワーを浴びたにもかかわらず、身体からはまだグラウンドの土の匂いが抜け切っていないような気がした。
洋平は前屈みになり、自分の右手を見つめていた。
指先には厚くガーゼが巻かれ、テーピングで固定されている。
試合後、病院で処置を受けた。
「傷が深い。当分は絶対にボールを握るな」と医者に言われた。
ボールを握る機会はもうどこにもないというのに。
あの最後の一球。
指先が裂けなければ。
あとほんの少しだけ、痛みに耐えてボールを押し込むことができていれば。
心の奥底で後悔が渦巻いていた。
嘘がつけないはずのこの手が、最後に自分を裏切った。
その現実が、鉛のように重く洋平の心にのしかかる。
「・・やっぱり、ここにいた」
背後から、声がした。
洋平が振り返ると、暗闇の中からゆかりが歩み寄ってくるのが見えた。
カーディガンを羽織り、肩で息をしている。
長い急な坂道と何百段もある石段を駆け上がってきたのだろう。
「お前・・なんで」
「家に行ったら、お父さんが『出かけていった』って。ここなら誰もいないと思って」
ゆかりは、洋平の隣に少しだけ間を空けて座った。
夜風に乗って、柑橘系の香りが漂ってきた。
あの雨の水道場で嗅い、優しくて清潔な匂い。
「お疲れ様でした」
ゆかりは、眼下の夜景を見つめたまま、静かに言った。
「・・ああ。応援、来てくれてたんだろ」
洋平は明るい声を出そうとしたが、喉の奥がかすれてひび割れたような声になった。
「すごかったです。本当に」
「打たれた。最後の最後で」
洋平は自嘲気味に笑い、包帯が巻かれた右手で太ももを軽く叩いた。
「指が、限界だった。あと一ミリ指先が引っかかっていれば、あの球は絶対に打たれなかった。俺の手が・・」
洋平の声が小刻みに震え始めた。
ずっと我慢していたものが、胸の奥で決壊しそうになっていた。
「俺の手が弱かったから・・浩一たちを、甲子園に連れてってやれなかった・・」
洋平は顔を伏せ、両手で頭を深く抱え込んだ。
暗い展望台に、洋平の嗚咽が響いた。
ずっとチームを引っ張ってきた大きな背中が、今は小さくひどく震えていた。
ゆかりは無言のまま、洋平にそっと身体を寄せた。
そして、洋平の太ももの上にあった、包帯だらけの痛々しい右手を、自分の両手で優しく包み込んだ。
「・・」
洋平が驚いたように肩を震わせた。
ゆかりの手は、新体操のテーピングとタコだらけで、夜風に冷やされて少しひんやりとしていた。
その両手からじんわりと伝わってくる柔らかな体温が、洋平の崩れそうな感情を優しく受け止めてくれるように感じた。
「弱くなんかない」
ゆかりは、洋平の右手を自分の胸に引き寄せ、両手で強く握りしめた。
「ボロボロになるまで、血を流してまで、ボールを投げ続けたでしょう。誰よりも強かったから、最後まで一人でマウンドに立てたんだよ」
ゆかりの声も、涙で震えていた。
顔を上げたゆかりの瞳が、眼下の街の光を反射して輝いている。
「あんなに痛かったのに・・逃げないで、真っ向から勝負した。私、ずっと見てた。あなたの投げた球、すごく、かっこよかったよ」
その言葉は、洋平の傷ついた部分にまっすぐに届いた。
洋平の手の痛みを知り、その痛みに寄り添ってくれる彼女の言葉だった。
洋平は顔を上げ、ゆかりの目を見た。
二人の距離は、お互いの息がかかるほど近かった。
柑橘系の香りが、ゆかりの涙の匂いと混ざり合っている。
「・・ゆかり」
初めて、名前で呼んだ。
ゆかりは一瞬目を瞬かせ、涙をこぼしながら優しく微笑んだ。
洋平は、ゆかりの両手に包まれている自分の右手を、ゆっくりと、痛まないように握り返した。
包帯の下の激痛は、不思議と和らいでいた。
ゆかりのぬくもりが、重ねた手からじわりと身体の奥へ広がっていく気がした。
夏の終わりの夜風が、展望台をそっと吹き抜けていく。
遠くで、夜の海を渡るフェリーの低い汽笛が鳴った。
二人は暗闇の中、手のひらを重ねたまま、ただ寄り添っていた。




